彼の嘘
雪はいつの間にか雨に変わり、二つの傘をばらばらと滑り落ちる。
「本当に大丈夫? やっぱりおうちまでついてい……」
「美月ちゃん、心配しすぎだよ~ もうっ、バイバイ!」
「……おうちについたら連絡してちょうだい? 寄り道しないで帰るのよ!?」
「わかってるって」
ようやく解放されると、莉花は美月に手を振った。
向島の車から降りて二人きりになると、美月は妙に明るい口調でずっと話していた。莉花の手を強く握って、ずっと。ずっと。
はじめ、自分を気遣って明るい気分にさせようとしているのかと思ったが、美月自身が少し変だった。もともと過保護だが、いつも以上に神経質になっている気がした。
……まあ、普通の女の子なら不安に感じるものなんだよね。
河川敷の死に触れて、八年前の暖かな交流が幻想かもしれないと不安には感じた。しかしそれ以外に、莉花はなんら感じるところはなかった。
死んでしまったら、その死を悼んでも意味はない、と思うから。
けれど、普通はそれでも悲しいと、悔しいと嘆いて、身近な人を失ったらどうしようと不安に思うのだ。それが、普通だ。
我ながら感情が薄い。相変わらずのお人形さん。
そういう自分が何となく嫌で、普段は女の子らしく、女の子が好きなものを好きだというフリをしている。しかし、実際は空っぽ。
自分で選んで、強く欲しいと思ったものは何にもない。
ただ息をして死を待っている、人のふりをしたモノ。
『僕には、上段回し蹴りをしている莉花さんは、とても楽しそうに見えますよ』
ふいに、真一郎の言葉を思い出した。
……べつに、楽しいと思ってやっていたわけではないんだけど。
空手は美月の父の勧めではじめたものだった。渋い顔をする両親に、護身の意味でやらせてみてはと、やんわりと。しかし、有無を言わせぬ口調で押し切った倉科は、莉花に空手をやらせることで、自信をつけさせようとしていたのかもしれない。
誘拐された子供が、武器を持つことで一人でも歩けるように。
「うんっ。大丈夫!」
暗い夜道。街灯が足下をともすが、夜闇を追い払うことはできない。人の心の闇は、なおのこと。
しかし、莉花は住宅街の細い道を一人歩みながら、空を見上げる。
雲の多い夜空にオリオン座が凍えながら瞬いていた。周りの星々も懸命に輝いているな、と思った。
ぼんやりと。しばらくそうしていると、後ろからクラクションを鳴らされる。
顔をしかめながら後ろをちらりと見ると、高級そうなシルバーのセダン。
「よかった。見つけた~」
莉花の横をゆっくり並走するのは、向島の車だった。運転席の窓が降り、向島が話しかけてくる。
「…………」
「ごめんね、びっくりさせて。忘れ物があったから、追いかけてきたんだよ」
「……えー、なんで追いかけてこれるんですかぁ? 私の家って、教えましたっけ?」
莉花はコートのポケットに手を入れる。スマホの固い触感。真一郎が鞄につけた、ハート型の防犯ブザーが揺れているのを確認する。
「いやいや、知らないけど。適当にぐるぐる回ってたら、倉科さんか本宮さんにぶつからないかと思ってさ。ダメもとだったけど、やってみるもんだね」
「……ありがとうございます、わざわざ」
向島と別れたのは、十分ほど前だ。彼の言うとおりにすれば、偶然ぶつかることもあるかもしれない。
警戒しすぎか、と莉花はポケットから手を出す。
「おうちは近所? どうせだから、送っていこうか?」
「大丈夫です。車が入りにくい場所なので、歩いたほうが早いですし」
「でも、雨も降ってるし。車の中、あったかいよ?」
……ああ、防犯ブザー鳴らそうかな。
ありがた迷惑という言葉を、どなたか、これに教えてやってください。
「あ、ごめんっ。ちょっと困ってる感じだね。退散するよ」
「……いえ。それより忘れ物ってなんですか?」
「ハンカチなんだけど」
車が止まる。莉花も歩を止めた。
「確実に俺のものではない。本宮さんか、倉科さんのだよね」
そう言って、向島が窓ごしに女性もののハンカチを見せた。
ふわり、とジャスミンの匂いが、ハンカチから香ってくる。美月の匂いだ。
「ありがとうございます。それ、美月ちゃんのです。渡しておきます」
「うん、よろしくね」
そう、あっさりと。
彼は車に乗ったまま窓からハンカチを渡そうとする。
……やっぱり、自分は神経質になっていたらしい。
莉花は苦笑いをしながら、手を伸ばす。その手をふいに、向島に捕まれた。
と思った瞬間、ちくんと、手首になにか刺さる。
「っ……なにを!」
慌てて振り払い、手首を見ると赤い点。注射針かなにかで刺されたんだと理解した次の瞬間―
ぐらりと、足下が揺れた。
ぐるりぐるりと、天が回る。視界がぐらぐら、と。ぐらぐら、と。
「まず……」
人通りの少ない住宅街。大声を出そうにもかすれた息が漏れるのみで、体から力が抜けていく。
誰かっ、誰か呼ばなきゃ!
莉花は後ずさりながら、ハートの防犯ブザーを握りしめた。震える手で、なんとかキーホルダーからハートを抜く。
「…………っ」
『防犯ブザーです! ……なにかあったら引っ張ってください。たいていの人間なら腰を抜かすくらいの爆音が鳴り響きますから』
しかしそれは、沈黙していた。爆音というのは、彼の嘘だったらしい。
◇◆◇
ふと、誰かに呼ばれた気がして、真一郎は顔をあげた。
「……莉花さん?」
しん、としたダイニングキッチンでは、コンビニ弁当が湯気を立てている他は、動くものはない。妙にはっきりと莉花の声が聞こえた気がしたが……
まあ、莉花さんは誘ったところで、僕の家に来るわけもないか。
それを残念だと思う反面、心のどこかで望んでもいた。妹のことがあってから、自分は幸せになってはいけない、と真一郎は感じているから。
「今日は雪だったよ。今は雨になったけれど、寒く、ない?」
仏壇の前に座って、妹の遺影に話しかける。一日の終わりに妹と話すのは、真一郎の日課だった。
「お父さんの供養をしたんだ。お母さんには一か月ぶりに会ったけれど、相変わらず元気だったな」
へえ、そうなんだ。じゃあ、今日は好きな女の子と会えなかったんだね。
「明日からまたパトロールだよ。本当は、危ないことをしないでほしいんだけどね」
お兄ちゃんがやめてって言ったら、きっとやめてくれるよ!
「そんな甘い人じゃないんだよ。とても繊細だけど、とても強い人だから」
なさけなーい。お兄ちゃん、彼氏なんでしょう? 今日だって彼女は寂しがって、連絡してくれてるかもしれないよ?
空想の中で妹と会話をしながら、真一郎はふと、淡い期待を抱く。
……ないとは思うけど、一応、確認を。
いそいそと携帯を見るが、予想通り、莉花からは何もなかった。その代わりに母からメールがきていた。無事に飛行機に乗った、とのこと。
仕事がんばって、とだけ返した。
少ししたら、妹の遺影の隣に父の遺影が加わることになるのだろう。写真は母が選ぶと言っていたが、次に母が帰国するのは、一ヶ月後か二ヶ月後か。
「そうしたら、少し、寂しくなくなるね」
仏壇には妹が好きだったキャラクターグッズと、ハーメルンの笛吹男の絵本があった。
落ちていく、落ちていく。
落ちていくのは、どこのだれ。
哀れな男、笛吹男。
ハーメルンの笛吹男が落ちていく。
絵本のその一節を読むたびに、妹が涙ぐんだのを覚えている。
真一郎は寂しげに吐息をつき、気持ちを切り替えるように呟いた。
「さて、莉花さんは、明日、どんな冷たい言葉をかけてくれるかな」
それは救済。
僕を傷つける権利を持った、最愛のあの人。明日はどれだけ僕の心をボロボロにしてくれるのだろう。
そんなことを楽しみにしながら、パソコンを立ち上げる。ネットの天気予報では、明日は晴れるようだった。
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