狐に嫁入り
朏猫(ミカヅキネコ)
第1話
俺はなんの変哲もない、ごく普通の男子高校生だ。大勢のなかに入れば埋もれてしまうような普通の顔で、勉強はまぁまぁ、運動もまぁまぁ、ちょっとだけ口は悪いかもしれないが、とくに秀でたものもなく平々凡々な日々を送っている。
今日も取り立てて何の変化もない学校生活を終えて、家の近くにある稲荷神社の前を通りかかった。すると、すっかり見慣れた人影が視界に入り込んできた。
「タケル、おかえり!」
やけにキラキラした笑顔を浮かべながら両手を広げて待ち構えていた男は、俺の姿を見るなり足取りも軽く駆け寄ってくる。
「あ、タケル、待って……!」
抱きつこうとした体をひょいと避けて、そのまま境内へと続く階段前を通り過ぎる。
「タケル、待ってよ……!」
それでも抱きつこうと追いかけてくるので、くるりと振り返って頭にチョップをお見舞いしてやった。
「いっ、たぁ」
「やかましい。毎日毎日、待ち構えてんじゃねぇよ」
「えぇー。だって高校生になってから一緒にいる時間、ずーっと少ないままだから……」
額を押さえながら涙目で俺を見ている男は、やたら綺麗な顔をしていた。涙目もよくよく見れば青色の瞳孔は縦長だし、髪の毛はフワフワの銀色だ。しかも格好は巫女……いや、神主ってやつか? そういう和服姿で、足元は靴ではなく足袋に草履だったりする。
とにかく、和服姿と容姿との違和感が半端ない。それなのに妙に似合っているんだから不思議だ。
「ったく、いい加減にしろって」
少しだけ真面目な声で言えば、音もなく近づいてきた男が眉尻を下げながら目の前に立った。自分の背が低いと思ったことはないが、俺より頭一つ分大きい男の顔を見上げるたびに自分が小さくなったような気がしてならない。
「嫌だ。僕はタケルのお婿さんなんだから、いつだって一緒にいたい」
「っ……! 婿とか言ってんじゃねぇっ」
恥ずかしいことを真顔で言い放つ男の頭に、二度目のチョップをくれてやった。再び涙目で額を押さえている綺麗な顔をしたこの男の正体は、銀毛に青い瞳を持つ妖狐と呼ばれる
初めて妖狐を見たのは、俺がまだ五歳のときだった。
俺は小さいときから近所にある稲荷神社でよく遊んでいた。辺りが薄暗くなっても遊んでいたある日、青白くボウッと浮かび上がる狐火を見つけた。当時はそれが狐火だとわからなかったが、ゆらりと漂う見たことのない光はとても綺麗で、それに引き寄せられるように狐火のあとを追いかけた。
狐火は、小さい子どもが追いかけられるくらいゆっくりとした速度でどこかへ向かっていた。俺は誘われるままに追いかけ、そうしてたどり着いたところにいたのが神主姿の妖狐だった。
「……あれ、迷子?」
「ちがうよ。おにいちゃんは、だぁれ?」
「うーん、誰なのかなぁ」
「おなまえ、ないの?」
「…………そうだね、ないんだ」
そう答えた妖狐の顔がとても悲しそうに見えた俺は、どうしてか名前をつけてあげようと思った。
「あのね、じゃあね、ぼくがおなまえ、つけてあげる!」
「名前、つけてくれるの?」
「うん!」
ウンウン考えて、目の前の妖狐を見て、そうしたら一つの言葉が頭に浮かんだ。
「ぎん! おにいちゃん、ぎんいろできれいだから、ぎん!」
「銀。……綺麗な名前だね」
そう言って笑った顔がすごく綺麗で、子どもながらにドキドキしたのを覚えている。気がつけば「嬉しい」とつぶやいた妖狐にギュッと抱きしめられていた。
その日から俺は毎日神社に行っては銀と遊ぶようになった。小学生になってもそれは変わらず、毎日神社で銀と一緒に過ごした。銀も俺を待っていてくれて、神社の林で採れるどんぐりや松ぼっくり、それにおやつ代わりの果物なんかをくれるようになった。秋には銀杏を一緒に拾って、祖父母に喜んでもらったりもした。
俺はあっという間に銀が好きになった。銀は誰よりも優しくて、友達の誰と遊ぶよりも銀といる時間が楽しかった。
そんな銀の様子がおかしいと最初に思ったのは、十歳になった翌日だった。
「タケルは、もう十歳になったんだよね?」
「うん! 昨日、ケーキ食べたんだぜ!」
「それはよかったね。……十歳になったんだから、もう縁結びしてもいいよね」
「銀? どうかした?」
何かモゴモゴと喋ったような気がしたが、小さい声でよく聞こえなかった。どうしたんだろうと思って隣に座っている銀の顔を覗き込むと、綺麗な顔がほわりと笑った。つられるようにニコッと笑った俺は、そのとき銀が何をしようとしているのかまったく予想していなかった。
優しく笑った銀は、笑顔のままの綺麗な顔を近づけてきた。どうしたんだろうと不思議に思っていると、さらに顔が近づいてくる。そうして唇に柔らかいものがチュッと触れた。
それはあっという間の出来事だった。十歳になったばかりの俺は抗うことも怒ることもできず、しばらくその行為を受け入れるしかなかった。というより、自分が何をされているのかすぐにはわからなかったんだ。
「……いま思い出しても腹が立つ」
「いっ……、痛い、痛いよタケル! 暴力反対!」
「うっせぇ! おまえが悪い! 俺のファーストキスを奪いやがって……!」
そう、あれは俺にとって初めてのキスだったんだ。それを勝手に奪うなんてどういう了見だ。
しかも、あのキスはとんでもないものだった。銀が口にした「縁結び」というのは、人間で言うところの婚約みたいなものだったらしい。もちろん当時の俺は「婚約」という言葉自体知らなかったし、銀がそのことを教えてくれたのはそこそこ時間が経ってからだった。
(婚約なんて、まだ十歳の子どもだったんだぞ?)
事前に何も説明してくれなかった銀に腹が立った。それに婚約なんて、いくら
いまだってあのときのことを思い出したせいで、思わず目の前の頭に連続チョップを食らわせているくらいだ。
「ちょっ、タケル、落ち着いて! 僕がお婿さんとして不甲斐ないなら、がんばって直すから!」
「~~……! だから、婿とか言ってんじゃねぇよっ」
クルッと踵を返して向かった先は、家ではなく神社の境内だ。一度は通り過ぎた階段を黙々と上り、落ち葉を払って小さな拝殿の隅に腰かける。
いまの俺の顔は不機嫌なのに真っ赤になっているに違いない。そんな顔をしたまま祖父母が待つ家に帰ることなんてできない。変な顔やおかしな態度のまま帰れば、また心配をかけてしまう。
ファーストキスを奪われたとき、十歳の俺でもさすがにキスだとわかった。そんなことを急にしてきた銀のことが怖くなり、慌てて家に帰った。真っ赤な顔に涙目で帰宅した俺に祖父母はそれはもう驚いて何日も心配した。今度はそれが申し訳なくなって、俺は二度とおかしな顔をしたまま帰らないと固く誓ったものだ。
「ねぇタケル、僕のこと、嫌い?」
「……っ」
少し背中を丸めて座っていた俺の顔を覗き込んだ銀が答えづらいことを訊ねてくる。そんなことを聞かれても何て答えていいのかわからない。顔を真っ赤にしたまま、俺はさらに俯くしかなかった。
(……嫌いなんてこと、あるわけねぇじゃん)
嫌いだったら、いつまでも側にいたりしない。文句を言いながらも毎日神社の前を通ったりしない。そもそもキスをされたあと、それまでと同じように神社に通ったりなんか絶対にするわけがない。少し考えればわかるはずだ。
そう思っているのに、どうしても自分の気持ちを素直に言うことができなかった。もし「嫌いじゃない」と言えば「じゃあ好き?」と聞かれる。それを聞かれるほうがもっと答えづらい。
逆に「嫌いだ」なんて言ったら最後、妖狐の銀は俺の前から消えてしまうかもしれない。もし銀に二度と会えなくなったら……そう思うと胸がぎゅっと苦しくなった。
(俺だって、銀のこと……)
本当は、初めて見たときから目も心も奪われていた。そうじゃなかったら、いくら五歳児だったとしても得体の知れない男のところに毎日通うわけがない。
ピクピク動く頭の上の耳とフワフワした立派な尻尾を見て、幼いながらも目の前の男が人間でないことはすぐにわかった。それでも怖いとは思わなかった。綺麗な姿から目が離せなくて、優しく笑う顔にドキドキした。家に帰っても綺麗な妖狐のことが忘れられなくて、明日も絶対会いに行こうとすぐに思ったくらいだ。
(ああいうのを、一目惚れっていうんだろうな)
俺が銀に抱いている気持ちが恋だとわかったのは中学生になってからだ。周囲が好きな人の話で盛り上がっているのを聞いて、自分が銀に恋をしていることに気がついた。
もちろん戸惑ったし悩んだりもした。相手は男で、しかも人間ですらない。そんな相手を好きになるなんて、俺はどこかおかしいんじゃないかと本気で不安になった。
そんなふうにグルグル悩んでいた俺に、銀は縁結びよりもさらに上を行くことをしてきた。十三歳になったばかりの俺をつかまえて、結婚に当たる縁付きを仕掛けてきたのだ。
(しかも、また何も言わずにやりやがった)
縁付きで相手の首を噛むなんてことを、人間の俺が知るはずもない。中学生だった俺は、急に噛みついてきた銀に恐怖を覚えた。痛くて怖くて泣いて暴れたのに離してもらえず、いまも首筋には変な噛み痕が残っている。
ああやって首を噛むことが縁付きで、それが結婚を意味するのだと知ったのはやっぱり少し経ってからだった。縁結びも縁付きも、やってから話をするのが銀なんだ。
事前に何も説明せずに勝手にそんなことをやった銀に、俺は当然怒った。十三歳にしてはまぁまぁ体が大きかった俺は、力任せに思いきりぶん殴りもした。勝手にされたことにも腹が立ったが、何もかも一人で決めたことが無性に許せなかったんだ。だから遠慮も容赦もせずに何度も殴ったのに、銀は最後までニコニコと笑っていた。
(……あれはちょっとしたホラーだったな)
銀いわく、縁付きできたのが嬉しくて殴られる痛みなんて感じていなかったらしい。それはそれでどうなんだと思わなくもないが、当時の俺はとにかくムシャクシャして殴り続けた。
そのくらい怒っていたはずなのに、翌日にはやっぱり神社に行っていた。イライラしてムカムカしていたのに、気がついたら拝殿の隅に座っていた。一体何をやっているんだと自分でも呆れたが、どうしても足が向いてしまうんだ。
結局その後は銀といつもどおりに過ごした。俺のほうは若干ぎこちなかったが、銀はずっとニコニコして殴られたことなんて気にしていないように見えた。
そんな銀にやっぱりモヤモヤした俺は、それからしばらく鏡で首のあたりを見ることができなかった。変な噛み痕が目に入るたびに勝手に噛みついた銀にイライラするし、説明を聞いたら聞いたでモヤモヤしてしょうがなかった。
それなのに、最近は鏡を見るたびに噛み痕に目が向いてしまう。もう痛みを感じることもないのに、そこに触るだけで体が熱くなるような気までした。
「僕がお婿さんなの、そんなに嫌?」
隣に座りながら、銀がそんなことを聞いてきた。
「……っ、そもそも、なんで婿なんだよ」
「だって、僕は半妖だけど完全な人間にはなれないし、タケルをお迎えする側だからお婿さんかなって」
「それを言うなら俺だって人間だし、その、なんだ、……嫁入りみたいなのは、無理だろ」
「そんなことないよ? 僕と契りを交わせば半妖みたいになれる。そうすれば、ずっと一緒にいられるよ?」
「はんよう?」
「うん。純粋な半妖じゃないから妖力はないし寿命が延びるだけだけど、昔から妖狐と契りを交わした人間は寿命が伸びるって言われているんだ。そうしたら、ずっと、ずーっと一緒にいられるでしょ?」
「それに半妖の僕には、それくらいの力しかないから」と笑った顔は、初めて会ったときと同じくらい寂しそうに見えた。
(まだ気にしてんのか)
銀は、自分が
それがどういうことなのか、人間である俺にはわからない。学校でのいじめみたいなものなんだろうかと想像することはできても、本当の意味で理解することはできないだろう。そもそも、ただの人間の俺が妖狐である銀のことを理解しようなんて考えること自体に無理があるんだ。
それでも、寂しそうな顔をする銀を見るたびに思うことがあった。
(同じ
人間である俺の前でまで気にしなくていいのに。そう思ったら、怒っていたはずなのに銀の頭を撫でていた。
「タケル……?」
「ンな顔してんじゃねぇよ。半妖だって立派な
「……うん、そうだね」
行動にはちょっと、いや、そこそこ問題はあるが、こんなに綺麗で普段は優しい妖狐だ。ただ半妖というだけで
それに銀は、
「タケル、ありがとう……っ!」
「……っ、バカ、急に抱きつくんじゃねぇよっ」
そして、お約束のように抱きつかれるのも毎回のことだ。
こういった抱擁も、最初は恥ずかしくてしょうがなかった。誰かに見られるんじゃないかと思ってビクビクもした。それが最近じゃ嬉しい気持ちのほうが強くなっていて、そんなふうに感じている自分に戸惑っている。
(それに、クンクンされるのにも慣れてきたっていうか……)
銀は、俺に抱きつくと必ずと言っていいほどクンクン鼻を鳴らす。とくに噛み痕がある首筋に鼻を近づけては、やたらと匂いを嗅いでくるんだ。
いまだって熱心に匂いを嗅いでいる気配がして、本当は殴りたいくらい恥ずかしい。九月になったとはいえまだ暑いし、学校帰りだから絶対に汗をかいている。そんな体の匂いを嗅がれていい気持ちがするはずもない。
それなのにクンクンという鼻を鳴らす音を聞くと、なぜか嬉しい気がして何も言えなくなる。それに、こういう動物みたいな行動も妖狐の本能だって聞いてからは下手に怒ることもできなくなった。
そんなわけで仕方なく嗅がれ続けていたら、急に両肩を掴まれて体を引き離された。
「……タケル、十八歳になるの、いつ?」
「ンだよ、急に」
「十八歳の誕生日って、いつ?」
「十日後だけど」
何でそんなことを聞くんだと銀を見ると、青い目がギラッと光ったような気がした。縦長の瞳孔が一瞬ギュッと細くなったと思ったら、今度はぐわっと丸くなる。その目を見た瞬間、ゾクゾクとした悪寒が背中を駆け上った。
この悪寒を感じるということは、何かろくでもないことが起きる前兆に違いない。そう確信するのは、銀に縁付きをされた十三歳のときから何度か経験しているからだ。
(これも銀と結婚したからなのかもしれねぇけど)
寒気を感じるときは、大抵銀が何かしようとしているときだった。たとえばキスしようとしているだとか、あらぬところを触ろうとしているだとか、そういうときに感じることが多い。一番ひどかったのは、この拝殿の裏で爆睡していたときに制服を脱がされかけたときだ。あのときは氷水をぶっかけられたくらいの寒気を感じてすぐに目が覚めた。
どれも命に関わるようなピンチじゃないが、俺にとっては身に迫る危険と変わらない。
「銀、何もするなよ」
「…………まだ何も言ってないし、何もしてない」
「ってことは、何か言うかするつもりだったんだろ」
「……タケルは意地悪だ」
「俺は自分が可愛いし大事なんだよ」
「僕だって、タケルのことを可愛いと思ってるし大事にしてるよ?」
銀の言葉に喉がグッと詰まったような気がした。胸の奥がチクッとして、じわりと嫌な気持ちが広がっていく。
「……大事にしてるなら、なんで俺に何も言わずに……勝手にいろいろ決めんだよ」
思わず本音がポロリと出た。俺は銀が勝手に縁結びや縁付きをしたことがずっと引っかかっていた。本当に俺のことが好きなら、どうして先に話してくれなかったのかとモヤモヤした。
俺だって銀のことが好きだし、縁結びをするときにちゃんと話してくれれば自分の気持ちを告げていたと思う。それに婚約も結婚も大事なことで、そういうことは一緒に考えて納得してやりたかった。
(
そもそも
何も言わずに勝手に大事なことを進められて、これじゃまるで結婚詐欺みたいだなんてワイドショーを見ながら思ったりした。そんなことを考えてしまう自分が嫌で、ますますモヤモヤした。
そう、俺は相談もなく大事なことを勝手にやってしまう銀が許せないんだ。そう思っているのに何も言えずにいた。言ったら銀がいなくなるんじゃないかと思って言い出せなかった。
(でも、今日こそはきっちりと言ってやる)
いまも何かしようとしているに違いないし、もしかしたら縁付きみたいな大事なことかもしれない。それなのにまた何も言わないままなんだと思ったら、モヤモヤしてムカムカしてきた。
腹を立てながら見た銀は、形のいい眉毛を下げて困ったような顔をしていた。
「…………ごめん」
「謝んなよ。それじゃまるで」
まるで、本当に騙そうとしていたみたいに感じるじゃないか。
そう思った途端にどうしようもなく悲しくなってきた。そういえば狐や狸は人間を化かすって昔話にも書いてあったっけ、なんてことまで思い出してしまう。
(……もしかして、ホントに騙されてたとか?)
そう思ったら目頭が熱くなった。何かがこぼれ落ちそうな気がして、慌てて何度も瞬きをする。ついでにズズッと鼻をすすったら、銀があからさまにオロオロし始めた。
綺麗な顔は困った顔に完全に変わっている。何かしようとしているのか、両手を上げたり下ろしたりもしていた。そんなことをしていないで何か言えよと思わなくもないが、何か言えば俺が怒ると思っているのかもしれない。さっきから口も開いたり閉じたりをくり返してばかりだ。
せっかく綺麗な顔をしているのに、その姿があまりに情けなくて思わずブハッと吹き出してしまった。
「……よかったぁ」
「何がいいんだよ」
「タケルに泣かれたら、僕どうしていいのかわからないから」
「そこは慰めろよ」
「だって、何か言っても、きっと怒らせるだけだと思ったんだ」
また悲しそうな顔に戻る。もし妖狐の姿のままだったら、耳はペシャンコで尻尾も力なく垂れていたことだろう。そんな姿もちょっとだけ見たいかも、なんて思う俺も大概なのかもしれない。
恥ずかしいことやとんでもないことを言われたらつい怒ったり手が出たりするが、俺だって銀のことが好きなんだ。
「で、十八歳がなんなんだよ?」
改めて銀に訊ねると、一旦開いた口を何も言わずに閉じてしまった。眉が下がりっぱなしってことは、言えば俺が怒り出すと思っているんだろう。
内容によっては怒るかもしれないが、それよりも何も言わないことのほうが何倍もムカつく。ムカつくのと同じくらい悲しくなるってことを、いい加減この妖狐は気づくべきだ。
「銀、いいか、よぉく聞けよ? 俺は黙って勝手に何かされるのが嫌だ。怒るかもしれねぇけど、ちゃんと話してもらったほうが何も言われないより何倍も嬉しい。わかったか?」
銀の青い目が驚いたように見開いている。しばらくそんな顔をしていたが、見開いた目がゆっくりと優しく細くなった。綺麗な顔が儚げに微笑む様子に思わずドキッとしてしまった。
俺は最初から銀の顔が好きだった。ちょっとしょんぼりしているときも、いまみたいに微笑んでいる顔も大好きだ。少し気弱なところも、人間である俺に簡単に涙目にされてしまうところも、ずっとずっと好きだった。
それなのに、どうしても好きだと言えない。いつかちゃんと言おうと思っていたのに、銀が勝手にいろいろやるのが許せなくて素直になれなかった。「いつか言える日が来るのかな」と思いながら、「ほら、言えよ」と銀を促す。
「あ、のね……、十八歳になったら、その……ええと……」
言いかけたのに踏ん切りがつかないのか、視線をウロウロさせながらモゴモゴと口を動かしている。見れば膝の上で組んだ両手もモジモジしているし、やけに落ち着かない様子だ。
「なんだよ、ハッキリ言えって」
さらに促すと、ようやく決心がついたのか俺をしっかり見つめてきた。そうして何度か口を開閉し、最後にグッと唇を噛んでからスゥと息を吸ったのがわかった。
「十八歳になったら、僕と契ってください!」
言い切るのとほぼ同時に、俺の右手はパコーンと清々しいほどの音を立てて銀の頭を
契りなんていまじゃ使わない言葉だが、どういう意味かは俺にもわかる。つまり目の前で頭を押さえて俯いた妖狐は、人間である俺とソウイウコトをしたいと堂々と言いやがったってことだ。
「い……ったい! ひどいよ、タケルが言えって言ったから、がんばって言ったのに!」
「なんてこと言いやがるんだ! このエロ狐が!」
「だって十八歳は立派な大人でしょ!? もう縁付きも済ませてあるし、僕はタケルのお婿さんだよ!? そういうことしたいのは当然……」
「ちょっと黙れ、エロ狐!」
「……っ、これでも、随分と辛抱してきたのに……タケルが大人になるまではやらないって、ずっとずっと我慢してきたのに……」
なにやら物騒なことを口にしているが、聞かなかったことにしてやる。
俺は何も説明されないまま十歳で妖狐の婚約者になった。中学生になった途端に結婚していて、今度はその先をしたいと言われている。
俺が可愛い女の子だったらウェルカムだったに違いない。銀は妖狐だが見た目は抜群にいいから、むしろ女の子のほうから迫りそうなくらいだ。でも俺は男だ。そりゃあ銀のことは好きだが、そう簡単に「ハイわかりました」なんて答えられるはずがない。
(言えない、はずなのに……)
いまの自分は、さっきよりもっと真っ赤な顔をしているに違いない。あちこちがカァッと熱いってことは、耳も首も赤くなっていそうだ。そう思ったら、ますます体が熱くなった。
反射的に手が出てしまったが、言われた言葉に驚いただけで決して嫌なわけじゃない。そりゃあびっくりはしたけど、嫌だなんて一ミリも思わなかった。
むしろ、最初に感じたのは「嬉しい」って気持ちだった。好きな相手にそこまで求められているんだと思ったら、きゅんとした。求められるのはこんなに嬉しいことなんだと胸が熱くなった。
(捨てられた俺なんかをそこまで好きになってくれる奴がいるなんて、嬉しくないはずねぇだろ)
俺がまだ赤ちゃんだった頃に俺の両親は離婚した。父親も母親も俺のことはいらなかったらしく、そのとき引き取ってくれたのが祖父母だ。それから俺はずっと祖父母と一緒に暮らしている。両親に会ったことは一度もない。
祖父母のことは大好きだし本当の家族だと思っているが、小さい頃からどこか満たされないものを感じていた。それはたぶん、両親に捨てられたという事実があったからに違いない。
初めて両親のことを知ったのは、小学校に入ってすぐの頃だった。いずれはわかることだからと話してくれた祖父母は、ゆっくりと言葉を選びながら丁寧に教えてくれた。だから授業参観で祖父母が見に来ても変だとは思わなかったし、友達に何か言われても平気だった。
それでも両親が自分を捨てたという事実は胸に突き刺さったままで、その棘はいまも俺の胸に深く刺さっている。
そんな俺のことを、
「……ねぇタケル、やっぱり駄目? 僕はタケルのお婿さんにはなれない?」
顔を上げた銀が、おそるおそるといった感じで聞いていた。まるで縋りつくような青い目が捨て犬のように見えて、やけに可愛く思える。
(これで妖狐なんて笑うよな)
(そうだ、そんな銀のことが俺も大好きだ)
銀に負けないくらい、俺も銀のことが好きな自信がある。そう考えたら、人間だとか
(それに、言わないとわかんねぇだろうし)
何も言われなくて傷ついた俺と同じで、銀も傷ついているのかもしれない。そう思ったら、いま言わないと駄目だと思った。銀のことが好きで、銀と一緒にいたいんだと伝えなければ。
「んなこと、ねぇよ。その、なんつぅか……俺を、銀の、ぉ嫁さんにしてもらうのは、嫌じゃねぇっていうか……」
「……っ! タケル……!」
まるで飛び上がるように喜んだ銀が思い切り抱きついてきた。あまりの腕の強さに苦しくなったが、それ以上に幸せで目眩がしてくる。
(ようやく言えた)
本当はもっと前に言うつもりだった。ちゃんと俺も好きだと伝えて、銀に笑ってほしいと何度も思った。それなのに言えなかったのはムカついていたのもあったが、やっぱり照れくさかったからだ。
(……たまには素直になるのもいいもんだな)
こんなに喜んでくれるなら、もう少し好きだと言ってやろう。そう思いながら幸せを噛み締める。
(それはそれとしてだ)
ただ気持ちを伝えあって終わりってわけじゃない。さっき銀は俺と契りたいと言った。
「……で、契りって、その、ソウイウコト、なんだよな……?」
長い抱擁から解放された俺は、思い切って銀に訊ねることにした。間違っていないと思うが、
「そういうこと?」
「あー……、その、いわゆる、夫婦の営みっていうか」
「あぁ! うん、そうだよ。十八歳なら人間にとっても大人になる年だし、これで僕の精を受け入れても大丈夫でしょ?」
「せ、せいを、受け入れる?」
「そうそう。ええと、人間だとなんて言うんだったっけ……?」
綺麗な顎に指を添えて、銀が何か思い出そうとしている。何だか嫌な予感がしたが、止める前に銀の口が開いた。
「思い出した! セックスして、僕の子種をたくさん注ぎ込んであげる、だ!」
「……っ!?」
「あ、痛くしないから大丈夫だよ? 僕、これでもやり方だってちゃんとわかってるし、絶対気持ちよくしてあげるから!」
「な、……な……っ」
「そうだ、一回ですぐに寿命が延びるわけじゃないから、タケルの成長に合わせて回数を考えないとね。うーん、でも新婚さんだから、最初はいっぱいしたいしなぁ」
「~~~~!」
気がつけば、俺は右手で思い切り銀の頭を
こういうことは、いまのうちに教えておかなければと本気で心の底から思った。
「だから、痛いってば! 暴力反対!」
「うるせぇ!」
こうしてこの日はいつもどおりの様子で銀と過ごした。しかし十八歳の誕生日、結局俺は銀色の美しい妖狐に丸ごといただかれてしまうことになった。
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