下
仕事はその後も、似たような単調な雑用ばかりだった。
保管庫を清掃して回り、ガラクタの埃をぬぐい、大きな破損が無いか調べ、思い出したように時々目録をチェックする。
どんな魔道具があるか知っておくのも仕事をする上で必要なこと、と言う男の思いつきのような提案で、俺は紙媒体のやたら場所を喰う割に使い勝手の悪い目録に一つ一つ目を通していると、目を引くものに出くわした。
『黒竜の血の杖』
目録には魔道具の名前と古ぼけた写真があるのみで、それがどんな魔道具なのかは一切説明が無かった。
写真にある杖の先端に施された竜の装飾は、先日薄暗い保管庫で見た棒状のものと形状が一致している。
「ああ、その魔道具は気にしなくてもいいですよ」
いつの間にか俺の後ろから目録を覗き込んでいた管理責任者が軽い口調で言う。
「目録にはあるし、この保管庫のどこかにあるのは確からしいのですが、どこにあるのやら、私はまだ見たことがありません」
訝しんだ目で俺が男を見ると、男はへらへらと笑って、たまにあるんですよ、こういう、いわくつきの魔道具が、と言い訳めいたことを口にした。
「道具が相手を選ぶ、というやつなんでしょうねえ。まあ、幸いにして私はお眼鏡にはかなわなかったようですよ」
「……」
管理責任者が道具を管理しきれていない現状に何の危機感も持っていないとは、とんだお役所仕事もあったもんだな。
俺は内心そう吐き捨てたが、そんなことよりも気になることがあった。
黒竜、というものを一度だけ見たことがある。
子どもの頃の話だ。
国の保護地区で管理されている幻獣の一匹が黒竜で、他の竜と比べてずる賢く気性の荒い黒竜は一般公開はされてはいなかったのだが、親父のコネで俺たち家族は特別に見学することができた。
夜の空よりも、なお濃く巨大な黒い体躯。夕日よりも、なお眩く光る赤い瞳。威厳と独善が具現化したような、存在自体が放つ禍々しくも惹きつけられる気迫。お袋は怯えていたが、俺は一瞬で虜になった。
黒竜を見たのはあれが最初で最後だったが、今でもはっきりと威風堂々としたあの黒竜の姿を思い出すことができる。
一人暮らし用の小さく粗末なアパートの一室で、俺は肌にしっとりと吸い付く手触りのいい杖を握った。
黒竜の血の杖だ。
管理責任者がまともに管理できていないのだ。保管庫にあっても俺の部屋にあっても、そう変わらないだろう。
手袋を忘れた日にこれを見て、何かを思い出しかけたが、それは黒竜のことだったのだ。
あの日見た本物の黒竜の百分の一にも満たない小さな作り物の黒竜が、杖の先端にしがみつき、俺を見つめている。
あの日、あの頃は幸せだった。黒竜を見学できるくらいに力のある自慢の親父に、いつだってきちんとしていて気品のあったお袋。俺たちは完璧な家族だった。
なのに、今は。
どこで歯車が狂ってしまったのか。
親父の借金か?
いや、違う。あの女だ。
我知らず、杖を握る手に力がこもる。
あんなに良くしてやったのに。あれを乗り越えることができれば、また前のような……いや、前以上に団結した、完璧で幸せな家族になれたはずだったのに。なのに、なにが嫁いびりだ。あんなの、ただの躾じゃないか。むしろ今までは自由にさせてもらえていたんだと、なぜ気が付かない。子どもまで勝手に連れ去りやがって。なにが慰謝料だ、なにが養育費だ、なにが“もうあなたとはやっていけない”だ。
あの女が自分勝手なことをしたせいだ。
杖の装飾品が歪んだ笑みを浮かべている。どうする? と問いかけられた気がした。お前はそれで、どうするのだ? と。
「わからせてやる。俺を裏切って、ただで済むと思うなよ」
小さな黒竜の目が、禍々しく光る。赤い二つの光を見つめていると、血が沸き立つように熱くなり、肉が軋みながら盛り上がるような高揚した気分になってくる。
そうだ、あいつもそうだ。
派遣で来た、高校時代にいじっていたあいつも。俺がまた仲良くしてやろうとしたのに、何が“もう、そういうの、止めませんか?”だよ。こっちがちょっといい顔していれば、つけあがりやがって。仕方ないから、高校時代のことを思い出させてやろうとしてやっただけなのに。
杖が脈打つ感触が、手のひらから伝わってくる。どうする? お前はそれで、どうするのだ?
「俺に盾突いた罰を与えてやる」
吐く息が熱い。
さっきから、メキメキと聞きなれない音がするが、なんだ。
装飾品の赤い目を見つめたせいか、視界がなんだか赤いような気がする。
黒竜の血の杖が生暖かく俺の手に吸い付く。
裏切りと反抗の報復か。それで? お前はそれで、どうするのだ?
「俺は……」
胸に渦巻く、この感情はなんだ。
赤い視界の先に、大きな爪が見える。軽く体を動かすと、鱗に覆われた黒く細いものがするりと床を滑る。
カーテンの隙間から覗く窓ガラスに、明かりのついた俺の部屋が映し出されていた。狭い部屋に簡素で少ない家具、ローテーブルに並ぶ酒。そして、こんな安アパートの一室にいるはずのない黒竜の姿。
「ぶっ壊してやる」
俺が喋るとガラスに映る人間サイズの黒竜も口を動かした。
黒竜の手には保管庫から持ち出した杖が握られている。
ガラスの黒竜は口元を歪めた。笑っているのだ、俺は。
こんなに愉快なことは無い。あの日見た、夜の空よりもなお濃い黒い体躯。夕日よりも、なお眩く光る赤い瞳。威厳と独善が具現化したような、存在自体が放つ禍々しくも惹きつけられる気迫。今の俺だ。俺は、今の俺なら、きっとなんだってできるに違いない。
「気に入らないものは壊し、欲しいものは力ずくで奪う」
ひび割れた声が出た。吐息にチロチロと小さな火の粉が混じっている。
お前がか? お前がそんなこと大それたことをできるとでも? たかがちっぽけな人間のくせに?
ガラスの中から杖の装飾品が嘲笑してきた。
俺は大きく炎の吐息を吐いて杖を威嚇した。
「なんだと? どう見ても俺は人間じゃないだろう。よく見ろ、俺は、偉大な黒竜だ!」
カーテンの隙間から覗く窓ガラスに、明かりのついた俺の部屋が映し出されていた。狭い部屋に簡素で少ない家具、ローテーブルに並ぶ酒。そして、胸から黒竜の血の杖を生やした俺の姿。
杖が脈打ち、脈に合わせて俺の血を吸い上げていく。
怪しく赤い目を光らせている装飾品の小さな黒竜と、ガラス越しに目が合った。
黒竜は、俺から血を吸い上げるたび生気を持ち、艶やかさを帯びていく。逆に俺は血を吸い上げられていくたびに肌つやを失い、体の体積も縮んでいくように感じる。
どこで歯車が狂ってしまったのか。
ガラスに映る俺と見つめ合いながら、納得のいく回答を得られないまま同じ問いを繰り返す。
黒竜の血の杖が最後に大きく脈打つと、全てを吸われた体が崩れ去った。
魔道保管庫の管理責任者が、来ませんねえとどこか諦めを滲ませたような声で呟いた。
返事を求められていないことを知っている事務員は特に何も言うことはしない。てきぱきと目録の整理に勤しんでいる。ひらりと、目録からメモが落ちた。
『黒竜の血の杖:媒体は竜の血。竜を退治することのみに有効な魔道具。時として杖が自ら竜退治をすることもあると伝え聞くが真否のほどは定かではない』
黒竜の血の杖 洞貝 渉 @horagai
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