クロノグラス

洞貝 渉

クロノグラス

 捨ててくださいね。

 妻が笑顔でよく言っていた。

 そんなもの、持っていても仕方がないのですから。

 私はそのたびに狼狽してしまい、なぜそんなことを言うんだと尋ねたが、妻は変わらず笑顔のまま。

 だって、必要ないでしょう? 私とあなたの思い出は、ちゃんとあなたの胸の中にあるのだから。

 違いますか? と、問うように、妙に気迫のある眼差しを向けてくるものだから、私はいつも最後には黙り込むしかなかった。


 肺炎、とはいえほぼ老衰だった。

 妻は昔から体がそんなに強くはなかったが、いつも朗らかで、穏やかな人だったと思う。

 彼女がいつ、どんな経緯でクロノグラスなどという高価なものを手に入れたのかはわからない。いつも肌身離さず持っていたから、きっと大切なものなのだろうとは思っていた。

 捨ててくださいね、私が死んだら。

 いつもと変わらない笑顔でそんなことを言われ、私はどう返せばいいのかわからなかった。

 縁起でもないことを言うな、と怒れば、彼女はカラカラと笑うのであった。

 人間、いつかは死ぬものですし、こんなことお願いできるのは、あなたしかいないんですよ。

 だから、と彼女はじっと私の目を見て言うのだ。

 だから、捨ててくださいね、絶対に。


 結論から言うと、私はクロノグラスを捨てることができなかった。

 やっとの思いで迷いを断ち切り、妻の棺に入れようとしたが止められ、苦渋の決断で燃えるゴミに出そうとして咎められ、骨董品屋に持って行ったがプライバシーだの売買には資格が要るだのと言って受け取れないと断られ……。

 捨ててくださいね。

 遺影の中の彼女が、笑顔で私を急かしているような気がしてならない。

 

 クロノグラスは持ち主の記憶を遡りその者に関わる過去を見ることができるものらしい。

 しかし、使い方がわからない。高価な砂時計に見えるが、どれだけひっくり返しても砂は微動だにせず、妻の過去も見えない。

 いつだったか、好奇心に負けて妻に頼んだことがある。

 クロノグラスであなたの過去を見てみたい、と。

 妻は真剣に悩んでいたようだったが、結局見せてはくれなかった。

 これを使えば、確かに私の過去は見られるでしょうけれど、私があなたに見てほしいのは過去の私ではなく今の私なんですよ。

 もしや、彼女が私にくぎを刺しているのではないだろうか。

 あなた、まさかとは思いますけど、勝手に盗み見なんてしませんよね?


 処分できない、かといって手元にあると気になってしまい仕方がない。

 そこで私は、いっそのこと庭にでも埋めて忘れてしまおうと思った。

 小さな園芸用のスコップで、妻が大好きだった沈丁花の根元にせっせと穴を掘る。梅雨入りで連日雨が降り続いていたためか、地面はぬかるんでいて、あっという間に手が泥だらけになった。

 妻が呆れている、ような気がする。

 仕方ないではないか、他に思いつかないのだから。

 穴がそこそこ深くなったところで、クロノグラスを中に入れる。妻の大切な遺品の一つだ。ためらいもあったが、こうするほかないのだと自分に言い聞かせ、土をかぶせる。

 すっかり穴を埋めた後、情けないことに少し泣いてしまった。

 これで、よかったんだよな。

 笑顔の彼女に向かって問いかけるが、もちろん彼女は笑顔のまま何も答えはしない。


 手を清潔にして茶をすすっていると、どこからか甘い香りが漂ってくる。

 知っている香りだ。これは、確か妻が好きだった香り……。

 私は慌てて庭に出る。

 見れば、季節外れに沈丁花の花が咲いていた。

 なぜ突然、こんな時期に。

 呆然と眺めていると、ふと、沈丁花の根元がうすぼんやりと光っているのに気が付いた。先ほど掘り返し、クロノグラスを埋めたところだ。

 はっとする。

 まさか、沈丁花が彼女の過去を見ているのか?


 そんなことがあるものなのか、という疑念は、猛烈に湧いて出てきた嫉妬の感情に押し流される。

 ずるいではないか。いくら彼女のお気に入りだったからといって、あんな木だけが過去を見せてもらえるなんて。

 私が心の中で妻に抗議すると、私の心の中にいる彼女がカラカラと笑うのであった。

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