露の命

柴原逸

露の命


 藤原定家ふじわらのていかは思案に暮れていた。

 まだ桜の咲くには早い、春の宵のことであった。

 年老いていよいよ父である俊成しゅんぜいに似てきた彼は、父同様耳まで烏帽子を深く被り、瞑想を続けていた。辺りはすっかり暗くなり、広げ散らかした数々の巻子本も判然としなくなっていた。

彼は今まさに、後に『新勅撰和歌集しんちょくせんわかしゅう』と呼ばれることになる、新たな勅撰集の選出を行っていたのである。

 後鳥羽院の下で編纂された新古今集とは異なり、今回選者に任じられていたのは定家一人であった。これは歌人として最上の名誉に違いなく、時代が彼を随一の歌作りだと認めたようなものであった。

 にもかかわらず、彼は鬱屈として楽しまず、肝心の編纂作業も興が乗らない有り様なのだった。

 真に集中出来ている時ならば、これまでに見聞きした歌の数々が、星座の如く光を結んで見えてくるものなのだが、今回はどうしてもそこまで至ることが出来ない。

 じりじりとした焦りを覚えながら、それでも定家は頑なに張り詰めた姿勢を崩そうとはしなかった。

 気の散じる理由は分かっていた。先日藤原家隆ふじわらのいえたかが訪ねてくるという出来事があった。それ以来、そぞろに落ち着かず、詩境に入りあぐねているのだった。

 家隆は俊成に歌の手ほどきを受け、和歌所では定家と双璧を為すとまで言われた歌人である。新古今の切り継ぎ作業の際には、共に夜を徹し、時には後鳥羽院の召しに応じて他の同僚を交えて水無瀬離宮での宴に同席したこともある。いわば定家にとって兄弟弟子であり、戦友でもあった。

 無論、自分の作歌以外に関心をほとんど向けてこなかった定家に、どれほどの仲間意識があったかは定かではない。件の宴の際であっても、定家は内心、浮かれ遊んでいる暇があるのなら、漢籍の一つでも覚えたいものだと、傲岸な仏頂面を隠そうともしなかったのだから。

 とはいえ、訪ねてきた者を無下に追い返すほど無情でもなかった彼は、久々に家隆と対面したのである。

 承久の乱という未曽有の戦乱の後にあって、彼ら二人ほど対照的な身の振り方をした人物もいなかった。一文官として後鳥羽院に忠誠を誓っていた家隆は、隠岐へ配流された院を慕ってしばしば手紙のやり取りをしていた。

 その手紙上で歌合せを行ったものが現在『遠島歌合えんとううたあわせ』として知られている。

 院にとって家隆からの手紙は少なからず慰めになったものだろう。しかし、かつては錚々たる歌人団を従えて歌合せにふけった彼らである。机上の遊びにわびしい思いを感じなかったとは考えられない。家隆は後に出家すると、天王寺界隈に庵を結び、海に沈む夕陽を眺め暮らしたのである。その際、遥か遠くの、隠岐の落日に思いをはせていたかどうかは本人しか知る由もないことであるが。

 一方で定家は、乱後すぐに自宅に引きこもり、院方の人間との一切の連絡を絶ったのである。元々彼と院との関係は乱の結果を待つまでもなく、断絶していた。その原因も、院の審美眼を節穴呼ばわりしたからとか、院を暗に揶揄する歌を詠んで逆鱗に触れたからなどと言い伝えられている辺り、彼の狷介さが偲ばれる。

 勿論、個人的な感情は抜きにして、定家の主家にあたる九条家が親鎌倉派であった関係上、下手に院と関わるわけにはいかなかったという事情がある。

 とはいえ、家隆と比較するならば、薄情な男との風聞を彼がほしいままにしたのも道理であった。

 ただし、勘違いしてはならないのは、定家は余人からの評判を気に病んで、集中力を切らしていたわけではないということだ。地に足のつかない達磨歌だのと、認められるまでは散々にこき下ろされてきた彼である。今更何と言われようと、一々気に留めるようなお人よしではなかった。

 むしろ、戦争などという即物的な手段に訴えた院を定家は内心軽蔑していた。それ故に迎えた結末も自業自得にしか思えず、憐れむ気にもならなかったのだ。

 紅旗征戎吾ガ事ニ非ズこうきせいじゅうわがことにあらず

 十九歳にして青白い月にそう誓ってみせた彼である。芸術が、そしてそれを通じて現れる美だけが唯一至上の価値であった。対する後鳥羽院はあくまで帝王たることに人生を賭け、その一環として和歌に向き合っていた。両者の反りが合わなくなるのも当然であった。

 では、何が彼の心を乱していたのか。

 それは家隆の持参した、あるものが影響していた。


 家隆はそもそも、定家に院を見舞うよう説得をしに来たのであった。

 お互い顔も見たくないと言い張っていても、後鳥羽院を和歌へ目覚めさせたのは定家の清新な表現であった。院が歌人として最も認めているのは他でもない定家である。もはや生きて都へ戻る望みすら危うい院にとって、その定家から書状だけでも届けば、どんなに慰めとなることだろう。と、いうなればお節介を焼きに来たのである。

 そこで一計を案じて持参したのが、院から送られてきた百首歌の草稿であった。後に『遠島百首』として完成される、この一連の和歌は院の生涯の総決算ともいうべき、文学上の一つの達成である。和歌を至上命題として他を省みない定家に対し、これ以上の手土産はないと言えた。

 ところが、実のところ定家は、その草稿の前半部分に目を通してなお、院に同情する気にはなれなかったのである。

 確かに院独特の壮大な言葉と身に染みる悲しみの融合は優れた達成と言えた。

 しかし、そのどれもが『王』が詠んだという背景を抜きにしては成立しえないものだと思われた。

 定家は常々、歌とは不朽の美であるべきだと考えていた。たとえ詠み人知らずとなっても、歌だけは古びることがない。それは決して腐敗することのない黄金のような美である。

 その理想に照らして考えれば、いかに独自の歌境であれ、詠み手の顔が見えなければ伝わらない歌など何の意味もないことになるのだった。

 例えば院の代表歌である、

 我こそは 新島守よ おきの海の あらきなみかぜ 心してふけ

 がある。

 傷ついた誇りを激しい波と対立させる、表現の大きさは、院のみに許された言葉だと言えよう。

 されど、承久の敗帝を知らない人間にしてみれば、徒に気負った大風呂敷ともとられかねない歌だ。他には、

 とにかくに 人のこころも みえはてぬ うきや野守の 鏡なるらむ

 といった、不幸があると他人の対応の変化でその心の程が分かると嘆いた歌があたかも定家のことを指しているようで少し面白かったが、それ以上はさして見るべき歌は見当たらない。流罪になっても相変わらず『王』の演技を続けている男がいるばかりだ。

 これを見せるためだけに家隆はわざわざ訪ねてきたのかと思うと、その呆れた忠犬ぶりにため息が漏れた。結局は家隆も一廷臣であることに甘んじているのだ。

 定家は次第に苛立ちが高じてきて、後半はぱらぱらと斜め読みのままに終わらせようした。ところが、その中の一首に目が留まると、彼の顔はすっと青ざめたのである。

 定家の顔色が変わったのを見て、家隆は自らの図が当たったのだと勘違いをした。

 ところが、その後の定家の反応は、家隆の全く予期しないものだったのだ。

 草稿をいきなり突き返したかと思いきや、帰れと一言告げて、屋敷の奥へと引っ込んでしまった。後に残された家隆が唖然として途方に暮れたのは言うまでもない。

 ただ、それだけ強い影響を定家に及ぼしたということでもある。その後、定家は何をするにつけても、あの時目にした一首が気にかかり、落ち着かない日々を過ごしてきたのだった。

 その一首とは、

 なかなかに 生けるもうれし 露の命あらば あふ世を待つとなけれど

 という。

 もう一度浮かぶ世があるとは思えないけれども、それでも生きるのはうれしい、という一読して意味の明瞭な歌である。定家たちが研鑽を続けてきた超絶技巧には及びもつかない。

 されど、定家は戦慄を禁じえなかった。

 院は全てを失ったのである。もはや生きている自分が残るばかりといった状況で、まだ喜びの言葉が出てくる。そこに定家の知る院の姿はなく、それどころか一個人の感慨を超えた、根源からの囁きが響いてくるように思われたのだ。

 その衝撃は、初めて源実朝みなもとのさねともの歌に触れた時の敗北感にも似ていた。田舎者の手習いと侮っていた実朝の歌に、透き通るばかりの孤独が込められていたことに、定家は圧倒されたのであった。気位の高い彼が、サラニカナフベクモ侍ラヌ風骨ナリと評した辺り、驚きは相当のものだったのだろう。

 更に言えば、その感覚は、彼が初めて西行さいぎょうという人物を知った時の憧憬にも繋がっていた。

 少年期の彼は、歌の家に生まれ、漫然と自分も跡を継ぐのだろうと思ってはいたものの、未だその魅力を知らなかった。

 そんな彼の目を、西行の歌が開いたのだった。

 独自のリアリティと哀感、それを全く新しい言葉で表現してみせるセンス。同時代において規格外の西行を、人々は天性の歌詠みと仰ぎ見る他なかった。

 それは定家も同様であった。どうしようもなく憧れながらも、自分には詠めないと諦めたのだ。だからこそ、別の道を進んだ。已むに已まれぬ心の動きを詠う歌詠みではなく、何はなくとも美を拵えだす歌作りとなる道を選んだのである。

 どれだけ上手く拵えようとも、詩人の天性には遠く及ばない。そんなことは定家が一番承知していた。

 それでもなお、いつか最後には、たどり着く場所は一つなのではないかと、もがき続けてきたのが彼の人生であった。

 その信念を、後鳥羽院の一首は容易に破壊しかねない危険性を秘めていたのである。

 定家は院を、自分と同じ、歌作りにしかなれない男だと思ってきた。天性の詩人というのは、西行や実朝といった、宮中の外の、特別な人間のみが成れるものであり、自分たちは歌をいかに上手くこねくりだせるかを競う他ないのだと。

 その道で定家は他人に後れを取る気はなかった。事実、勅撰集編纂を一任されていることが何よりの証拠である。

 にもかかわらず、あの一首だけで、落ちぶれたはずの院に遥か遠くへ追い抜かれた感覚を抱いたのだった。

 同じ穴の狢である院までもが歌詠みとなれるのならば、彼の出発点たるあの諦念はどうなる。これまで必死に考え、作り出してきた歌たちも、その価値を根底から失いかねなかった。

 そんな煩悶を抱えていては、集中出来るものも出来なくなる。自ずから彼の思考は勅撰集を離れ、隠岐に住まう院のことへと流れていった。住処が、あの院を変えたのであろうか。であれば、隠岐とは一体どんなところであろうか。乏しい知識をかき集めても、小野篁おののたかむらが流罪となった場所という漠然とした印象しか浮かんでこない。

 そもそも、彼は海になじみがないのだ。院の熊野詣に同行した際に、遠くに眺める機会はあった。されど体調不良で海どころではなく、これといった感慨もなかった。つまり、彼にとって海とは、常に心の中で想像するものだったという訳である。そして、かつて「つらき心の奥の海よ」と詠んでみせた彼には、海自体が一つの心象でもあった。

 それ故に、音もない夜の瞑想の内に、ふと海辺に佇む自分を発見したとしても、何も不思議ではないのである。

 彼は気が付くと、茫漠たる砂浜に立っていた。

 空は暗鬱とした雲に覆われ、しかも海水は全て干上がっている。見渡す限り、果てのない砂地が続いているだけだった。

 それでもなお海だと分かったのは、藻類特有の臭気が漂い、骨にも見える刺々しい貝殻がそこら中に転がっていたからだった。

 定家はそれを見て少し落胆した。海を見ることさえ出来れば、彼もまた新しい詩境へと入ることが叶うかとも思われたのに。こんな荒涼とした景色では、余計に憂鬱になるばかりである。

 途方に暮れる彼に、何者かが呼びかけてきたのは、丁度そんな時であった。

 振り返ると、黒い烏帽子に黒い束帯という、整った身形の男が悠然と近づいてくるところであった。顔は何故か影がかかったかのように判然としないのであったが、その声にはどこか聞き覚えがあった。

 ――こんな所でどうされたのです

 その口ぶりがやけに打ち解けたものだったために、定家もつられて、気付いたらここにいたのだと答えていた。

 ――それは不用心ですねぇ。あなたはいつもこういった場所は意識的に避けてきたはずではありませんか

 男が何のことを言っているのかは分からなかったが、言われてみるとその通りであったような気がした。

 しかし、今は手ぶらで帰るわけにもいかなかった。新しい詩境を探しに来た旨を告げると、男は呵呵大笑した。

 ――これまたらしくもない。いつだってあなたは、全てを頭の中から作り出してきたではありませんか。実地検分なんて、あなたにしてみれば血が逆流するようなものでしょう

 図星を突かれて定家は如実に不機嫌になる。それを取りなすように男は猫撫で声で言い添えた。

 ――分かっておりますよ。あなたも見たいのでしょう。隠岐島を

 驚く定家に頷き返すと、男は水平線を指さした。

 ――あの先に隠岐島がございます。幸い水も引いていることですし、歩いても渡れるでしょう

 途端、雲の向こうからつんざくような何かの声が降ってきて、定家は思わず身構えた。 そんな素振りを男は笑う。

 ――相変わらず臆病な人ですねぇ。ただの雁ですよ。そんな様では島へたどり着いたとしても新しい詩境になどとても至ることはできないでしょう。……良いことを教えて差し上げましょうか

 そして男は耳に息がかかるくらい定家に顔を近づけると、次の如くささやくのだった。

 ――島など見てもあなたには何にもなりませんよ。あの島は院様の運命の場所であって、あなたのものではありません。誰しもそれぞれの行先があり、そこへたどり着いた時、自然と歌は口をついて出るのです

 ――だが、あなたは恐れている。不朽の美などとうそぶいても、結局は滅びるのが怖いだけだ。安全な場所で、安全に歌おうだなんて、なんという物ぐさでしょう。いずれ来る決定的な破局から目をそらして、永遠の夢の浮橋で遊ぶのは良い心地でしたか? ですが、そこにいるかぎり、あなたは決して院様には及ばない

 流石にその決めつけるような口ぶりは我慢がならなかった。苛立たし気に定家は、そう言うお前は何者なのだと問うた。

 すると男はこの時を待ちわびていたように身を翻し、

 ――いずれあなたをお迎えに上がる者です

 と言ってみせた。その瞬間、定家は息をするのも忘れていた。何故なら、途端に露わとなった男の顔が、白骨と化した自分だと、不思議と直感出来たからだ。

 かたん、

 という音とともに、定家ははっと目を覚ました。

 文机に広げていた巻子本の軸が転げ落ちた音だったのだろう。いつの間にか夜も開けて、白々とした曙光が室内を照らしている。定家は先ほどまでのことが全て夢であったのだと悟り、ため息を一つ吐いた。

 しかし、耳に残る禍々しいささやきは消え遣らず、定家はじっと座っていた。

 部屋中に広げられた書物の中心で身じろぎもしない彼はあたかも、荒波に辛うじて耐えている、一本の朽ちた杭のようでもあった。

 その後、彼は『新勅撰和歌集』を完成させる。しかし、そこには後鳥羽院や順徳じゅんとく院といった承久の乱に関わった皇族の歌は全くとられず、宇治川集、すなわち武士におもねった集として揶揄されることになるのである。

 また、余談だが、「なかなかに生けるもうれし」の歌には異同がある。

 をきわびぬ きえなばきえね 露の命 あらばあふ世を 待つとなけれど

 というのがそれで、「置き」と「隠岐」をかけたり、「玉の緒よ絶えなば絶えね」のリズムを採用したりと一見手が込んでいる。

 しかし、どちらが本当の意味で、人間の呼吸を伝えているかを考えるならば、比べるまでもないであろう。

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露の命 柴原逸 @itu-sibahara

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