最終話 貴方と落語を

 結局、落語部には二人の入部希望者が現れたらしい。

 部活動紹介を行った次の日の朝、教室で思川さんからそのことを聞かされた。その日のうちに思川さんの元に二人の一年生がやってきたらしい。あれほどの落語を聞かせたのだから、まさか一人も来ないはずは無いだろうとは思ったが、それでもやっぱり、落語に興味を持つ高校生が出てくるというのは、にわかには信じられなかった。

『どうよ! ねえ! 小唄ちゃん! ほら! 落語で人の気持ちは動くんだよ! ねえ、うふふ!』

 あのときの彼女の嬉しそうな表情といったらなかった。それと、いつの間にかあたしのことを下の名前で呼ぶようになっていた。

『約束は忘れてないでしょう? あははっ! 落語部は作れるし、小唄ちゃんも落語を始めてくれるし、良いことづくめだよ!』

 そう言っていた思川さんは、本当に嬉しそうで、楽しそうだった。まだあたしは彼女に入部届けを出してはいないが、彼女はあたしが落語部に入ることを信じてやまなかった。勿論あたしも約束を反故にする気などさらさら無いのだが、こうも信頼をされていると、くすぐったい。

 さっそく今日の放課後に、新入部員歓迎会をするのだと思川さんは言っていた。新入部員とは言っても全員新入部員じゃないか、と思ったが指摘をするのはやめた。

『小唄ちゃんも参加だからね! ちゃんと来ること!』

 お昼休み中も書類の手続きやら何やらでバタついていた思川さんは、放課後になるとすぐに一年生の教室へと向かった。あたしは日直の当番を終えてから合流することになっている。

「失礼しました」

 クラス名簿を職員室に預けてから学校を後にする。会場となるドーナツショップまで向かう道中にて、ソメイヨシノのアーチはその豪奢な成りを潜めて、小さな葉桜を揺らしていた。あたしは暖かな春の日差しを背中に受けながら、もう新学期は終わりつつあり、平凡な一学期が始まっていることを悟った。

 すでに歓迎会は盛り上がっているのだろうか。

 これからあたしが参加することとなる会合のことを頭に浮かべる。思川さんはともかく、私は入部志望者の二人のことを全く知らない。二人が年下であるということが精々分かるくらいで、どんな性格の子達なのかも聞かされていないのだ。

 同い年とのコミュニケーションすら満足にできないあたしが、後輩を相手にどう接すればいいのだろうか、と不安になる。弟弟子との接し方なら自身があるのだが・・・・・・。

 しかし何にしても、思川さんの落語を聞いて、どんな子が落語に興味を持ってくれたのかは純粋に興味があったから、会うのが少し楽しみではある。

 四時過ぎの店内には他に客はおらず、お盆の上に沢山のドーナツを山のように積んでいるその卓はよく目立っていた。

「おっ! 最後の部員が来たね!」

「お待たせしました」

 あたしが店内に入ると、直ぐに思川さんから声が掛かった。返事をしながら思川さんの隣に座ると、二つの視線を感じた。テーブルを挟んだ対面に、見慣れぬ顔が二つ並んでいる。思川さんがその二人に向かって手を差し出した。

「こっちの小ちゃい子が神乃ののちゃん」

「は、始めまして・・・・・・」

 小動物のように小柄な女の子がペコリと頭を下げた。ふんわりとしたその髪が小さく揺れてから、あたしと目が合った――と思ったら直ぐに目を逸らされてしまう。

 さっそく嫌われてしまったのかと思ったが、彼女はその後ももじもじとしながら、辺りを見渡していた。どうやら緊張をしているらしい。

 急に知らない先輩と同席することになったのだ。普通の高校一年生なら緊張するのも無理はないか。そう思いつつ、今度は二人目の入部希望者に目を向ける。

「こっちのモテそうな子が高尾久実ちゃん」

「始めまして! 高尾久実って言います。って柳子先輩、なんですか? その雑な紹介」

「・・・・・・」

 思川さんの言うように、確かにモテそうというか、華があるというか、明らかに人様から好かれそうな佇まいの女の子がそこには居た。

 消え入るようなか細い声で自己紹介をした神乃さんとは違って、こちらの高尾さんはかなりハキハキと名乗りを上げたばかりか、スムーズに思川さんとのコミュニケーションに移っていた。キラキラとしたその雰囲気が、日陰の道を歩んできた私には見ていて眩しいたらなかった。

 あと何だかとっても良い匂いがした。

 ――しかし、随分とキャラの違う二人が集まったものだな・・・・・・。

 一体どのような子が落語に興味を持つというのだろうかと、楽しみにしてはいたが、これでは全く判断がつかなかった。彼女たちは落語のどこに惹かれて、落語部になんて入ろうと思ったのだろうか・・・・・・。

 などと訝しんでいると、思川さんがあたしの紹介もしてくれた。

「それで、今来たこのピシッとした子が末広小唄ちゃん。私と一緒のクラスなの」

「始めまして」

「あ、先輩のこと私知ってますよ! 二年生で凄い格好いい人がいるなー、ってよく学校で見かけてました。まさか同じ部活になるだなんて、思ってませんでした。よろしくお願いします、小唄先輩!」

 どう自己紹介をしようかと思案していたら、一年生の高尾さんが小気味良いセリフを被せてくる。まるで初対面とは思えないほどの気さくさで、初対面の人に対する挨拶をしてきた。

 滅茶苦茶に明るいスマイルをぶつけてくる彼女は、あたしと思川さんのことを交互に見比べながら、言葉を続けた。

「その、先輩達って、結構長い関係なんですか?」

「? いえ、知り合ってから一ヶ月程度ね」

「久実ちゃん、どうかした?」

「へ? あ、いやなんでもないです! ・・・・・・公園でのあれは見間違えだったのか? ・・・・・・いや、でも・・・・・・」

 高尾さんは手を振って話を中断する。ぶつぶつと何かを言っていたが、独り言のようで聴き取れなかった。

 早くもこの場の中心となっていた彼女が静かになると、隣に座る神乃さんのことにようやく意識が向く。一人だけ手持ち無沙汰だったのか、彼女の前の小皿にだけ、食べかけのドーナツが置かれていた。

 高尾さんや思川さんのようなきゃいきゃいとした二人に囲まれて、さぞ心細かったろうと、あたしは彼女に憐憫の念を抱く。まるでクラスでの自分を見ているかのようで、助けてやりたくなった。

「神乃さん、だっけ?」

「ひゃ、ひゃい!」

 神乃さんは自分に声がかかるとは思わなかったのか、不意にかけられた声に、素っ頓狂な応えを上げた。手に持って口に運ぼうとしていたオールドファッションが、ポトリと子皿に落ちる。

 なるべく神乃さんを刺激しないようにと、あたしは柔らかな声音に努めて問うた。

「神乃さんと高尾さんって、クラスは一緒なの?」

「は、はい・・・・・・。一応」

「全然話したことありませんでしたけどね」

 呟くように喋る神乃さんに、高尾さんが補足を入れた。確かに二人は友達同士のように見えなかったが。

 仲良くないのかしら?

「仲悪いの?」

「ちょっ貴方・・・・・・!」

 あたしが思っただけで口には出さなかった事を、思川さんが間髪入れずに口にする。相変わらず歯に衣着せない物言いの少女だった。

 しかしそんな彼女の失礼な質問にも、高尾さんは微笑みながら返答をした。

「そんなことありませんよ。この間は一緒にカラオケにも行きましたし」

「ほへー。そうなんだ。でも二人で話したことはなかったんだ」

 思川さんのその言葉に、今度は神乃さんが小さな声で応答した。

「わたしは・・・・・・人気者の高尾さんとお喋りできるような身分じゃないですから」

「神乃さん、次そんなふざけた冗談言ったら私許さないから」

「ひぃっ!」

 神乃さんの自虐的な言動を、高尾さんが微笑みを崩さずに嗜める。小さく悲鳴を上げた神乃さんは、震えながら食べかけのドーナツを食べ始めた。天敵を前に最後の晩餐に集中する小動物のようだった。

 仲・・・・・・良いのかしら?

「何にしても、二人が落語部に入ってくれて本当に嬉しいよ!」

 仕切り直すかのように思川さんがそう言う。言われた二人は照れながらドーナツを食べていた。あたしもお盆の上から、適当なドーナツを一つ手に取る――フレンチクルーラーだった。

「あっ・・・・・・」

 小さな声が聴こえ、対角線に座る神乃さんと目が合った。泣きそうな顔であたしの顔とフレンチクルーラーを見比べていた。

 この反応は、もしかして。

「これ食べたかったの?」

「あっ、いえ、そんな全然! 大丈夫です、いやほんと!」

 そう言って手を振る彼女だったが、明らかに残念そうな顔をしていたので、それが嘘だという事はあたしにも分かった。おそらく、次に彼女が狙っていたのがこのドーナツだったのだろう。

「遠慮しないで良いわよ」と言って彼女の小皿にフレンチクルーラーを置いてあげた。

「い、いいんですか!」

「ふふっ。別に構わないわよ。今日は貴方たちの歓迎会なのだから」

 勿論あたしも新入部員であることに変わりなかったが、一年生達に主役を譲るほどの甲斐性はあった。

「末広先輩・・・・・・!」

 神乃さんがキラキラとした眼差しを向けてくる。ドーナツ一つで慕ってくれるのなら安いものだった。彼女は嬉しそうな顔でフレンチクルーラーに齧り付くと、とても美味しそうに頬をたるませた。

 怯えたり、泣きそうになったり、喜んだり、敬ったりと、コロコロと表情が変わる女の子だと思った。きっと、彼女も落語を楽しそうにやってくれるのだろう――と、そう思ったところで疑問が湧いてくる。

「二人はどうして落語部に入ろうと思ったの」

 私がそう聞くと、一年生達はきょとんとした顔をしたあと、二人で目を合わせた。やがて、神乃さんが先に口を開いた。

「あの・・・・・・落語を始めれば、思川先輩みたいに大きな声が出せるようになるのかなって・・・・・・」

「ん?」

 彼女の言っていることが良く分からなかった。落語で、大きな声? 一体どんな関係が? 貴方は何か知っているの、と思川さんに視線を投げかけた。

「ののちゃんはね、大きな声を出せるようになりたくって落語部に入部したんだよ!」

「何よそれ・・・・・・」

 神乃さんの方を見遣ると、うんうんと首を縦に振っていた。すると、「私は」と高尾さんが口を開いた。

「私はそのー、なんというか、可愛い振袖が着られるなら良いなーって思いまして」

「ん?」

 彼女の言っていることも良く分からなかった。落語で、振袖? 一体どんな関係が?

 貴方は何か知っているの、と思川さんに視線を投げかける。

「久実ちゃんはね、振袖を着てみたくって落語部に入部したんだよ!」

「何よそれ・・・・・・」

 高尾さんの方を見遣ると、あははー、と照れくさそうに頬をかいていた。

 百歩譲って、落語は大きな声でするものかもしれないが、振袖を着てするものではない。あたしはガッと立ち上がり、高尾さんの両肩を掴んで事実を伝える。

「高尾さん、貴方この子に騙されているのよ。いい? 振袖を着て落語をする日本人なんてこの世にはいないわ」

「そ、そうだったんですね」

 私の真剣な訴えが通じたのか、高尾さんはその整った顔をわずかに引き攣らせながら頷いた。

 それを見た思川さんは不満があったらしく、席を立つと唸りを上げた。

「私をあの世の人間にしたね!」

「いえ、外国人にしたのよ」

「選民意識!?」

「ぷふっ」

 あたしと思川さんのやり取りを聞いて、神乃さんが噴き出した。

「思川先輩たちって、面白いですね」

「貴方がふざけたことを言うから、神乃さんにあたしまでおかしな人だと思われてしまったじゃない」

「絶対私のせいじゃないよ!」

 しかし。

 まさか入部希望者が二人とも、良く分からないところに焦点を当てて落語部に入ったとは予想できなかった。

 思川さんが落語をして、新入生にそれを聞かせる。彼女の落語を見たことで入部を希望した一年生が二人以上いたので、私も落語部に入部することになった。そういう風に言えば何も問題はなかったが、しかし入部の動機が、大きな声に振袖姿って・・・・・・。

 今の若い子は沖縄の成人式にでも憧れているのだろうか?

 しかし、それでも思川さんに文句はなかった。

 落語を辞めて、友達のできずに困っていたあたしが、友達ができたことがきっかけで、落語を始めることになるだなんて、思ってもみなかった話だ。

 いやはや、面白いことも起きるものだ。


 その後は二次会など行うことなくお開きとなった。お家がこの辺りだという一年生二人とは別れて、あたしと思川さんの二人は小山駅に向かっていた。

「こうして二人でゆっくりお喋りするの久しぶりだね」

「そうね。貴方ってば、ここ最近はずっと一人で落語の稽古をしていたんですもの」

「本気だったからね」

 そう言った彼女の横顔を見る。彼女は、自分がどれほどの事をしたのかを分かっているのだろうか。初めて顔を合わせたときは、まさかこの少女に、こうも自分を変えられることになるとは思っていなかった。

 まさか、あたしが彼女の落語に――。

 そこで私の視線に気づいたのか、彼女はこちらを見るとにこりと笑った。その笑顔は、初めて教室で言葉を交わしたときの、あの笑顔と同じものだった。

 やがて駅に着き、私たちは並んで改札をくぐる。この場所で、一週間前に彼女と指きりを交わしたのが、まるで随分と昔のことのように感じられた。

 壁に貼られた大きなポスターには「栃木に行こう ディスティネーション栃木」と書かれていた。クレジットカードの入会キャンペーンはいつの間にか終了してしまったらしい。少し寂しいと思うと同時に、何事も変わらずにはいられないのだろうと、納得の気持ちもあった。

「では、又明日」

「うん! またね!」

 そう言って十二番線ホームに降りていく彼女の姿を見送ってから――すぐにあたしはその背中を追いかけた。

「わっ!? 小唄ちゃんどうしたの! 忘れ物?」

 タイミング良く電車が来ていたらしく、思川さんに追いついたのは、彼女がシートに座ってからだった。

「あれ!? というかこの電車乗っちゃってよかったの! もうドア閉まっちゃったし・・・・・・」

「良いのよ。定期の区間内なのだから」

 そう言って、思川さんの隣に腰を下ろす。彼女は依然、あたしに不思議そうな視線を向けてくる。

「今日は初めて、喧嘩をせずに貴方とお別れできそうだったから・・・・・・もう少し一緒にいようと思って」

「あ、そういうことね。ふふ、小唄ちゃんってそういうとこ、意外と可愛いよね」

「可愛いは余計よ」

「意外性だけ欲しいんだ!?」

「冗談よ。・・・・・・そういえば言い忘れていたけれど、おめでとう」

「おめでとう? 私の誕生日なら七月だけど・・・・・・」

 きょとんとして、あたしの顔を覗き込みながら思川さんが首を傾げる。あたしは「そうではなくて」と言って微笑みを浮かべた。

「落語部のことよ。無事に創設できてよかったじゃない。おめでとう」

「ああ、落語部のことね! うん、本当に良かったよ! それに私の落語でののちゃんや久実ちゃんが、落語に興味を持ってくれたことも凄い嬉しかった!」

 思川さんは満面の笑みで万歳をする。入部の動機としておかしなことを言っていた一年生たちではあったけれど、彼女らが思川さんに向ける尊敬の眼差しには、確かに彼女の落語へのリスペクトが含まれていた。大きな声だとか、振袖がどうだとか、きっとそんな事は彼女らなりの照れ隠しのようなもので、本当の心の奥底では、落語に関する関心が芽生えていることは、あたしにも分かった。

 本当に、この子は――。

 すると、思川さんが口を尖らせてあたしを睨んだ。

「小唄ちゃんも私の落語聞きにくればよかったのに」

「そうね。でも部活が始まれば、またいつでも聞けるじゃない」

 部活動紹介の当日、照明の落とされた体育館内において、観客席でなく壁際の位置で立ち見をしていたあたしの姿を、ステージの上の思川さんは見つけられなかったらしい。

 別に、正直に見ていたことを伝えても良かったが、感想を聞かれたりしたら、なんて返せばいいのか困ってしまうだろうから、誤解はそのままにしておくことにした。

「そうだけど~! でも同じ落語なんて一つとしてないんだから、やっぱり聞いてもらいたかったよ・・・・・・落語との出会いは一期一会なんだから」

 ぼしょりと彼女が言う。本当にその通りなのだろう。あたしは隣に座る少女を見遣る。五年前の波田町で開かれたあの親子寄席で、私が高座にかけた『芝浜』を彼女は聞いた。そのことが彼女にどんな影響を及ぼし――どう救いをもたらしたのかはあたしには分からないけれど、それが彼女にとって小さなものでないことは感じられた。

 落語のことを口にするときの彼女は、いつだって本当に楽しそうだったから。

 と、そんな感想を浮かべているあたしを不思議に思ったのか、思川さんから訝し気な視線を向けられた。

「そんなに私の顔ジロジロ見てどうしちゃったの? 顔に何かついてる?」

「目鼻口」

「へー、小唄ちゃんもたまには面白くない事も言うんだ」

「む」

 暫く、楽しい会話が続いた。ドーナツを食べ過ぎたからか、喉が渇いてきたので、カバンから水筒を取り出して口をつける。

「水筒の中身なに入れてるの?」

 思川さんがそう尋ねた。

「煎茶よ」

「ふうん。・・・・・・なんか小唄ちゃん。初めてあった日から少し変わったね」

「そうかもしれないわね。色々と、心境は変わったわ」

 気づけば、列車はすでに間々田駅に到着をしていて、この駅で降りる思川さんが立ち上がる。

 開いた列車のドアをくぐる彼女に、ずっと言えなかった言葉を告げる。

「思川さん、あたしね――貴方と落語をしたいわ」

 閉まったドアの向こうで、彼女が驚いた顔を浮かべていた。その表情が次にどう変わるのかを見る前に、列車は加速を始めた。

 それから、普段よりずっと長い時間を掛けてから、私は新日本橋駅の改札を出た。

 街には仕事終わりのサラリーマンや夕飯の買出しをしている主婦、友人らと楽しそうに歩いている学生などで賑わっていた。

「本当ですか! はい、はい! ありがとうございます!」

 スーツを着たサラリーマンの中には、未だ仕事中の者もいて、電話をかけたり手帳を眺めたりと、忙しそうに早歩きで往来していた。

「それでね、それでね、学校でケン君がね」

「うん、うん」

 買い物帰りの主婦は、子供と一緒に買出しをしていたのか、大きく膨らんだスーパーの買い物袋を自転車の荷カゴに乗せて、隣を歩く小さな子供の話に耳を傾けていた。楽しそうに話をする二人が通り過ぎたコンビニからは、二人の学生が出てきた。

「俺絶対明日やべぇよ」

「いや、やばいだろうな」

 何の話をしているのかあたしには想像もつかないが、なにやら良くない事態にあることは分かった。あたしには関係のない二人だが、彼らがそのやばい自体をどうにか無事に乗り越えてくれることを祈った。

 あたしが見慣れていると思った退屈な光景にも、多くの人たちの営みが溢れているのだな、と思った。今までの帰り道では、そんなことを思う余裕もなかったということだろう。栃木県での寂しい一日が終わり、帰りたくも無い家に帰る。そんな毎日だった。そんな毎日を彼女の落語が――。


「ただいま戻りました」

 玄関の戸を開ける。駐輪場には見慣れた黒いセダンが停まっていたが、構わずに帰宅の報せを上げる。

「あ、小雛姉さん。お帰りなさいませ。お邪魔しております」

 上がり框には帰り支度をしている晴彦の姿があった。彼は頭を下げるなり、居間の方に向けて首を向けたところで、どうしてか改めてあたしの方にもう一度顔を向けた。

「あれ、姉さん。今日はなんだか、いつもと違いますね」

「そうかもね」

 不思議そうな顔を浮かべる晴彦に、そう短く言葉を返すと、

「師匠、今戻りました」

 と――あたしは声を張り上げた。

 居間の方から、ガタンっと何かが落ちる音がしたかと思うと、つっと襖が開いて、鼠色の袴を着た男が姿を表した。

「師匠、話があります」

「・・・・・・」

 あたしの言葉とその態度に、胡乱げな表情をしながら、父は居間に戻る。襖を閉めなかったところを見ると、入って来いということらしい。何が起きているのかを信じられない様子で呆然とする晴彦をよそに、あたしは父の後を追い襖を閉めた。

「そこに座りなさい」

 父はそう言って、自分の目の前の座布団を薦める。あたしは大人しくそれに従い腰を下ろす。

 自然、父と差し向かいになった。

「・・・・・・」

 父はあたしの言葉を待っているようだった。彼と言葉を最後に交わしたのがいつだったかなんて忘れてしまったが、正座をする父のその威圧感には憶えがあった。まだ口を開いてもいない目の前の噺家の、その佇まいから発せられるプレッシャーに、あたしは悔しくも竦んでしまう。

 しかし、ここで引くわけにはいかなかった。言わなければならない言葉を、あたしは意を決して父に伝えた。

「暁闇師匠――またあたしに、稽古をつけてはくれないでしょうか」

 そう言って、叩頭する。慣れていたはずのこの動作も、父の前では緊張のあまり腕が震えてしまっている。ダラダラと嫌な汗が方々から湧き出た。

 また落語に向き合う。

 一度決めたはずのこの事を、しかし実際に行動に移してみると、恐怖と自己嫌悪にかられて、身悶えしそうだった。一度逃げたものに立ち向かうことが、こんなにも怖いことだなんて知らなかった。一体どれほど長いあいだ三つ指を付けてていただろうか、やがて頭の上から、

「ふっ」

 という声が漏れるようにして聞こえて、あたしは頭を上げる。あたしの前に座る父は相変わらず無表情だったけれど、どこかそれまでとは違い、柔らかな雰囲気があった。

「普通の女の子になるんじゃなかったのか」

「そ、それは」

 続けて発せられた言葉が、あたしへの挑発を含んだものであったため、思わず言葉を詰まらせてしまう。しかし直ぐに思考を切り替えて、父に訴えを続ける。

「私も、落語で人を楽しませたいんです」

 言って、あたしのクラスの少女の姿を思い浮かべる。

 それに、とあたしは言葉を紡いだ。

「何よりも自分で、また落語を楽しみたいんです」

 真剣な顔で、父の目を見つめる。

 落語を楽しみたい、その気持ちに偽りは無かった。そしてそのためには、私が落語を再開するには、父との折り合いを着けずには前に進めないと思った。

 体育館のステージで落語を楽しそうにする思川さんを見て、あたしは自分の原点を思い出すことができた。

 あたしは父のように落語で観客を楽しませて、父のように自身で落語を楽しみたかったのだ。

『ねえ、あたしも噺家になりたい』

 七歳のときのあたしは、父の姿を見て、落語に興味を持ったのだから。

 そして父の言葉で落語から離れたならば、父との決着をつけなければ、私はずっと父から逃げ続けながら落語と向き合うことになる。

 そんなのは絶対に嫌だ――だからあたしは、目の前のこの男と話をつけるのだと、覚悟を決めたのだ。あたしのそんな想いが伝わったのか、父はまた、ふっ、と鼻を鳴らすと、口を開いた。

「顔つきが変わったな・・・・・・うん、前よりもずっと良くなった」

「で、では!」

「――だが、稽古はつけん」

 どうして、と前のめりになる私を、父は片手を差し出して制する。

「私がどうして稽古をお前に付けなくなったか、分かるか」

「それは・・・・・・あたしが五年前のあの日、あまりに情けない『芝浜』を高座にかけてしまったからでしょう」

「逆だよ。小唄、あの日お前があまりに良く出来た『芝浜』をしたものだから、私の方こそ情けなくなってしまったんだ」

 逆だという、父のその言葉の意味が、あたしにはまったく理解ができなかった。

 出来がよかった? それでどうして師である父の方が情けなくなるんだ・・・・・・?

「その顔はまだ理解できていないようだな。まあ、無理も無いがな。あの日、お前が高座にかけた『芝浜』の完成度が、年端にそぐわぬ程の出来だったから、私はお前を芸人としてしか育てて来なかったことを思い知らされたんだ。私は私が恥ずかしくなったよ。親として、まったく情けないばかりだとな」

 だから稽古をやめたんだ、と父は続けて言った。言っている言葉の意味が少しずつだが理解できてきた。

『私はあの娘の育て方を間違えた』

 これまであたしを縛り付けていたあの言葉は、落語家である月島亭小雛にではなく、娘である末広小唄に当てられた言葉だったのだ。

 なんなんだ、それは・・・・・・。

 へなへなと、身体から力が抜けていく。あたしは今まで、ただの勘違いによって苦しめられてきたということか。なんと情けない・・・・・・。

 つくづく、言葉というのは、言っている本人の思ってもみないところで、他の誰かに影響を強く及ぼしているものだ・・・・・・。

「落語は人なり」

「はい?」

 呆然とするあたしに向けて、父が言った。

「落語というのは、するにしたって落語の腕だけではいかんのだ。自分自身の人間性を磨かずに芸に打ち込んでいては直ぐに限界がやってくる。だから、今のお前には稽古はつけん。まずは高校生活を思いっきり楽しみなさい」

 そういって、父は笑った。久しぶりにあたしに見せるその笑顔で、すっと心が軽くなる思いだった。

「何よ・・・・・・もう」

 それで、長い、長い反抗期が終わったような気がした。

「本当のことは言えんし、しかし破門にする訳にもいかなかったのだ」

 許せ、と言って父は困ったような顔をする。疎遠の時期があったとはいえ、長い付き合いだ。それが本心からの言葉なのだとは分かった。

 この親ときたら・・・・・・不器用にも程があるだろう。

「しかしお前がまた落語に興味を持ってくれて、私は嬉しいよ。お前に落語をやめてもらいたくはなかったからな」

 父はまた、微かに笑った。お互い、つまらない意地を張りすぎていたようだった。

「それならそうと、早く仰ってくださいよ・・・・・・。あの時、親子会の舞台裏で見たお父様の顔の恐ろしい事と言ったらありませんでした」

「すまない。自分の、人の親としての不甲斐なさに、余裕を失ってしまったのだ」

「そんなの、言葉にしてくれなくては、こちらには分かりませんよ。あのときのお父様の恐ろしい表情ときたら・・・・・・今でも忘れることが出来ません。あたしはてっきりあのまま勘当でもされてしまうのかと思いました」

「勘当だって? いつの時代だ、今は令和だぞ。そんな酷いことをお前にできるか」

「そうでしたか。なら私は友人に悪いことをしました」

「何をしたんだ」


「はい、酷く感動をしてしまいました」

                                    了

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