第8話 末広小唄

【末広小唄】

 四月二十七日。今日は部活動紹介の実施日だった。開催、という程の大仰なものではなかったが、何かの部活動に所属している生徒たちにとって、最も自分たちの部活をアピールできる貴重な機会には違いないだろう。会場である体育館の中は、集められた新入生たちで賑わっていた。

 帰宅部の二年生であるあたしには本来無縁のイベントではあるが、とある約束を交わした友人の大舞台を見守るために出席をしていた。

 約束の相手である、はた迷惑な彼女のことが頭に浮かぶ。

『できらあ!』

 あの日小山駅で、思川柳子に部活動に入る条件を突きつけてから今日で一週間。一応毎日早く帰って稽古をしていたようだけれど、まあ絶対無理だろう。

 あたしが彼女に、落語部に入部する条件として出したのが、この部活動勧誘会の場で彼女が落語を一席披露し、それで新入生を二人入部させる、というものだった。素人の芸で観客の心を掴むなんて、到底無理だとは思っているけれど・・・・・・。

「観客がこれでは、結果は目に見えているわね」

 並べられたパイプ椅子に、一年生たちが座らせられていた。座席の指定はされてないらしく、所々空席を作りながら、仲の良い者同士で固まってお喋りに興じているようだった。勧誘のオリエンテーションはまだ始まってないとはいえ、その雑多な賑わいは、およそ落語をできるような雰囲気ではなかった。

 それも当然だ。彼女たちは年の頃なら十五、六。ついこの間まで中学生だったような年齢で、四月の入学からまだ日も浅い。箸が転んで笑うような、と言えばそれもそうだが、きゃぴきゃぴとした彼女たちが噺に集中できるような環境でなければ、思川さんの発表に最後まで耳を貸してくれるかどうかも分からない。

「入るトコ決めたー?」

「どこにしよっかなあ」

 ・・・・・・。

 楽しそうに部活動紹介のパンフレットを読んでいる彼女たちを見て、一人で体育館に来ている自分の寂しさが際立つ。

 しかし観客席を見れば、知り合いの発表を冷やかすためか、二年生や三年生の生徒の姿もちらほらと見受けられた。どちらにせよ二、三年生の彼女らも仲間内で参加しているので、新入生でもないのに独りでこの場にいるのは、およそあたしだけだった。

 気まずく思い、あたしは観客席には座らず、壁際に持たれかかって見学をすることにした。

 唯一の立見席だった。

「これより、部活動紹介を、始めたいと思います」

 進行を務める生徒会役員の声がスピーカーから発せられ、会場の明かりが落とされる。騒がしかった場内が一斉に静まり返った。暗幕の閉じられた暗い体育館の中で、照明の当てられたスタンドマイクだけがよく見える。その場にいた者の視線が、全てそこに向けられていた。

 生徒会役員の一人がステージ脇のめくりをハラリと捲ると、そこには『サッカー部』と書かれていた。「サッカー部の皆さんお願いします」という声を受けて、ステージの上にユニフォームを着た生徒達が数人登場した。

「新入生の皆さんこんにちは! 私たちはサッカー部です!」

 部長らしき中央の人物がそう言って、脇にいた他の部員達が踊りを始めた。一人の部員だけ、大きなサッカーボールの形をした着ぐるみから顔だけを出しているのが印象的だった。

「私たちサッカー部は、基本的に月曜日から金曜日の放課後と、土日のどちらかで活動をしています。経験者だけでなく、初心者も大歓迎です!」

 仁王立ちをする部長が真面目な紹介をしている中、他の部員たちは終始奇妙な踊りを続けていた。

 なんだアレは・・・・・・。

 サッカーと全然関係ないじゃないか。

「ふふふっ」

「何あれウケる~」

 呆然とするあたしとは違い、観客である新入生たちには結構ウケていた。

 あれでいいのか? 

 これが今の子の感性ではウケる~なのか?

 案外、思川さんの相手――私の味方は頼りないのかもしれないと、不安に思っていると、サッカー部の方々が舞台袖に捌けていった。どうやら彼女らの発表は終了したらしい。思えば、サッカー部はそもそも人気クラブであるので、そこまで本気にアピールをしなくても部員は集まるのだろう。

「陸上部の皆さんお願いします」

「はい!」

 次は陸上部の番らしかった。生徒会役員の声の後に、すぐに快活な返事を上げて一人の生徒が舞台に登場する。サッカー部とは違い、一人で部活の紹介を始める様子だった。彼女はステージ中央に置かれたスタンドマイクに向かって、大きく息を吸い込むと、

「皆さん! 痩せたいですか!?」

 と声を張り上げた。突然の大声に、新入生たちが萎縮する――と思いきや、意外にも客席からすぐに返しの言葉が飛んできた。

「痩せたいです!」

 見れば、一人の女子生徒が席を立っていた。唖然とする観客席の中で、彼女の周りの生徒たちだけがクスクスと笑っていた。立っていた女子生徒は、皆の注目を一斉に浴びながらも言葉を続けた。

「高城先輩! 陸上部に入れば、痩せられるんですか!」

 何が起きているのか、ようやく意味の理解できたほかの生徒たちも、目を輝かせながら陸上部の発表を見ていた。その殆どが、口を大きく開けて笑っていた。

「ああ、痩せられるとも! うちに入部すればちょろいぞ! リバウンドもしない!」

「先輩!」

「椎名!」

 いつまでこの茶番が続くのかと思って見守っていると、客席からマイクも無しに声を張り上げていた少女が、素早い動きでステージに登壇した。普通にお互いの名前を呼び合っていたし、ステージに上がった少女のただならない俊敏さから、椎名と呼ばれたその生徒が陸上部だということは瞭然だった。

 サクラか・・・・・・手の込んだことをする部活もあったものだ。

「私! 陸上部に入ります」

「ありがとう! さあ新入生の皆! 彼女は痩せる道を選んだ・・・・・・君達は、どうする?」

 椎名さんを腕に抱きながら、高城さんがキメ顔でそう言い放ったところで、ステージの幕が音も無く降りた。

 そんなギミックも使えるの!?

 最後まで抜かりの無い芸を続けた陸上部に対して、パチパチパチと、盛大な拍手が送られていた。サッカー部のおかげで場が暖まっていたのもあるだろうが、それ以上に陸上部の人達のパフォーマンスが、観客の心を掴んでいたことが分かった。

 確かに、部活そのものの紹介だけでなく、部員たちの雰囲気を新入生に伝えるのも有効な手ではある。最も、彼女たちの活き活きとした名演には、ただ自分達が目立ちたいだけのような意図も見受けられたが・・・・・。

 あたしも一年前は部活動紹介を、あそこに座る一年生たちと同じように観ていたけれど、あんなヘンテコな発表なんてあっただろうか・・・・・・?

「次は、吹奏楽部の皆さんお願いします」

 ステージのめくりが捲られる。次は吹奏楽部のようだった。丁度陸上部によって幕が降りていたことで、カチャカチャとした音をしばらく鳴らした後に幕が上がると、そこには各自の楽器を携えた吹奏楽部の姿が見える――上手い繋ぎ方だった。

 きっと部活側と生徒会で、事前にきちんと打ち合わせをしてから、この場をセッティングしたのだろう。陸上部のような騒々しさはなく、吹奏楽部の人達は真面目に演奏を披露した後に、吹奏楽部の主な活動内容の紹介をしてからステージを降りた。

 しかし、まるで寄席を見ているかのようだった。

 落語を最も手軽に聞ける場所で有名な寄席だが、実は一日の中で落語以外のプラグラムも多分に含まれている。テレビでも見かける漫才や講談もそうだが、曲芸や楽器を使用した漫談など、数々の演芸に寄席では触れることができる。観客も演者も寄席のそれとはまるで違っていたが、沢山の演者がステージに上がり、それを見て盛り上がる観客の一体感は、寄席で感じられるような愉快さがあった。

「懐かしいなあ、寄席・・・・・・」

 いくつもの部活動が、あの手この手で新入生に自分達の部活を紹介していく様子を、あたしはしばらく眺めていた。さすがにあの陸上部ほど目立つパフォーマンスは無かったが、どこの部活も真剣に、新入生に自分たちの部活の魅力を訴えていた。

 やがて、めくりがはらりと捲られ、そこに非常に見知った文字列を見つける。

 『思川柳子』と書いてあった。

 しっかりとした寄席文字だった。

「確かに寄席では芸名が載るけれど!」

 思わず、声に出して突っ込んでしまう。

 ただでさえ知名度の無い部活動であるのに、わざわざ芸の凝ったことをする必要がどこにあるんだ。他の部活動みたいに『落語部』と書いておくのが普通だろう・・・・・・。

 呆れる私に構うことなく、景気の良い音楽がステージの裾から鳴り出す。どこかで聴いたことのある曲だったが、後に続く合唱の声で、何の曲だったかを思い出した。

「「「「LOVE LOVE LOVE~♪」」」

 斬新な出囃子だった。

 しかもステージの裏手から響いていることから、生歌・生演奏であることが明らかだった。

 あの子・・・・・・吹奏楽部と合唱部を味方に着けたわね・・・・・・。

 友人の抜け目の無さに思わず舌を巻く。どうやら、無策でこの場を迎えたわけではないらしい。しかし何が起きているのかを、驚きながらも理解できている私とは違い、観客席に座る新入生たちは、自分達が何を見させらているのかを理解できない様子だった。

「なに・・・・・・?」

「なんでビートルズ?」

 困惑している彼女らの前に、座布団を脇に抱えた少女が姿を現す。普段の彼女の姿とは大きく違っていて、初めは誰が舞台に上がっているのかが分からなかった。

 彼女は目も眩むほどの真っ赤な着物を着ていた。

 豪華絢爛なそのいでたちは、池を泳ぐ立派で大振りな錦鯉のようで人の目を良く引くことだろう。袂と裾のところに大小様々な牡丹の花がカラフルにあしらわれたその装いは、紛うことなき――振袖だった。

「・・・・・・」

 馬鹿か。

 普通の着物は無かったのか。

「なにあれー!」

「超綺麗~」

 絶句することしかできないあたしとは違い、観客席からはかなりの黄色い声が飛んできていた。確かに思川さんの振袖姿は、よく似合って可愛かったけれど、そんなソロ成人式みたいな格好で落語をするやつがあるか――、

「――まあ、別に本当の噺家では無いのだし、ああいうのもアリか」

 制服やジャージで落語をするよりは、まだ様になるかと、あたしは自分に言い聞かせる。吹奏楽部と合唱部によるコラボレーションが鳴りを潜めるのに合わせて、正座をした思川さんが頭を下げる。いつの間にか高さの調整されていたマイクが、彼女の前方に据えられていた。

『えー、本日は私の落語を聞きにいらっしゃいまして、誠にありがとう存じ上げますが』

 よく通る声が、拡声器を通して体育館中に響き渡る。

『あ、吹奏楽部の皆さんと合唱部の皆さんも、素晴らしいご演奏ありがとうございました。それと書道部の部長さんも、あそこのめくりの字を書いてくださいまして、ありがとうございます』

 ざわざわと、彼女の言葉を受けて客席が揺れうごめく。盛大な出囃子(?)と共に晴れ着を着た派手な女が出たかと思えば、すごすごとお礼の挨拶を続けるシュールさが、一部の生徒にはウケたのだろう。彼女は客席の方々に視線を回しながら『枕』を続けた。

『陸上部の方たちの発表、凄かったですね~』

『痩せられるらしいですよ? ねえ? いいですよね! いいなあ』

『・・・・・・私も陸上部入ろうかな?』

 くすくすと、どこかから忍び笑いが聴こえた。

『ダイエット、私もしなくちゃ!  って思うですけど、中々これがまた続かなくて・・・・・・』

『――おう! パンケーキ食い行こうぜ!』

 どうやら思川さんは落語や落語部の説明はせずに、枕を進めるらしく、すぐに小噺を始めた。声を低くし、江戸っ子の調子をつけて演じ始めた。

『ダメだ・・・・・・俺ぁパンケーキには行けねぇ・・・・・・』

『じゃあ、タピオカは?』

『タピオカも、無理だ』

『一体どうしたい! お前ぇさんあんなに甘党だったろぃ!』

『それがな、俺ぁダイエットするって決めちまったんだい』

『でぇえっとだあ!? 野暮なマネしやがんなぁ・・・・・・一体いつまでするんだい? 次の身体測定までかい?』

『いや、夏までだ』

『夏!? 待ちきれねぇよ! 知ってるだろ、俺はお前ぇしかスイーツ友達はいねぇんだよ』

『ダチ公・・・・・・俺ぁ水着が着てぇんだ・・・・・・可愛いビキニがよぉ』

「ふふっ」

「可愛い~」

 女子高生が、わざと低い声を出して一人二役をしているかと思ったら、実は普通に女の子を演じていたことがおかしかったのか、観客の子たちが笑っていた。

 実際、彼女のこの小噺は上手く演じられているな、と私も思った。落語では登場人物を演じ分ける際に、観客から見て舞台の右側である『上手』と左側である『下手』の二サイドに身を振りながら喋る必要がある。その名の通り、上手が上座で下手が下座を表している。例えば登場人物で身分の高いものは『上手』でしか演じてはいけない、といった制約が存在するのだ。

 そのような制約を知らないで見るにしても、さっきまで『上手』で喋っていたキャラクターが、いつの間にか『下手』で喋っていた、などとなっていては、観客の方でも落語に没入することが難しくなってしまう。落語の基礎中の基礎となる技術ではあるが、高座にいる彼女は、それをきちんと守れていた。

 なにより、登場人物のセリフのテンポが、きちんと落語になっていた。

 前に彼女に聞かせられたデタラメな『らくだ』を思い出す――この『枕』だけでも、そうとう練習してきたのだろう。

『じゃあよう、冬までダイエットを続けるってのはどうだぃ?』

『冬まで続けてどうすんだい』

『だからよ、冬までダイエットを続けて、代わりに一日おきに甘いもんを食えば良いじゃねぇか』

『なんて馬鹿な噺もあったもんで』

 どっと、客席が沸いた。セリフや身の動き一つ一つのユニークさに加えて、分かりやすいオチが来たことで、高校生である彼女らの好感を買ったのだろう。

 また、思川さん自身が、きちんと恥ずかしがらずに噺を続けていたことが、観客である彼女らにとって、笑いやすい環境を作ったのだ。何かのネタを人前でするときに、羞恥心が前面に出ていては、ウケるものもウケなくなってしまう。

 しかし、だからといってあたしは彼女の芸を認める気にはなれなかった。実際、話の構成自体は、落語家もよく使う酒の小噺を流用しただけのものだったからだ。彼女がしたのは、それの酒の箇所をスイーツに取り替えただけである。事前に噺を聞く客層が完璧に絞れている以上、それをターゲットにしたネタを高座にかければウケを取れるのは当然の話だ。

 もしかして『本題』も古典落語の何かを今風にアレンジして、創作落語にでも仕立て上げるつもりだろうか?

「もしそうだとしたら興冷めも良い所ね・・・・・・」

 別に古典落語を今風にアレンジすることを否定するつもりはない。実際、今の落語家が演じているどの演目も、多くの落語家の手によって形を変えられながら、今日まで継承されてきたものだ。オチとなるサゲが現代人にとって分かりづらい噺なんかは、落語家ごとに分かりやすく最後の一言を変えたりすることだってザラにある。

 しかし、落語家でもない思川さんが、古典落語の現代ナイズしたものを高座にかけて観客を沸かしたとしても、今回に限っては意味が無いだろう。彼女が観客に伝えるべきなのは落語の魅力であって、面白いサゲ話の魅力では無いのだから。

 『落語で人を感動させること』

 それがあたしと思川さんとの間で交わされた、私の入部条件だった。彼女の落語で二人以上の生徒を感動させて、部に入部させれば彼女の勝利となる。

 しかしながら、あたしとの勝負とは別に、思川さんが何らかの絡め手を使ってあと二人ほど部員を集めれば、落語部を設立するという彼女の念願は果たすことはできる――このように、あたしの入部条件と、落語部の設立条件が実はズレているので、落語部は結成されたけれど、末広小唄は入部しなかった、というようなことも起こり得る。

 もしそうなったら、思川さんは落語部ができて嬉しいし、あたしは落語をしないで済むから嬉しい、という風になる。誰も悲しまず、皆が喜ぶことになるその大団円の展開を想像すると、しかし、なぜだか胸の奥がちくりと痛んだ。

 どうしてだろうか。思川さんとは落語で一緒にならなくても、友達のままで一緒にいられるというのに。 

『出来立てを食べておくんだった』

 それから思川さんが披露した三つの小噺は、どれも新入生たちのお気に召したらしく、会場の雰囲気はそれなりの盛り上がりを見せていた。正直これで落語部の紹介を終わったとしても充分な出来とは言えたけれど、まさか『サゲ』まですることなく落語をしただなんて、彼女は言い出さないだろう。

『――まあなんにせよ、人間みんな色々なことを考えながら生活をしているようで』

 あたしのその予想は当たっていたようで、彼女は大きな帯をゆっくりと緩めはじめた。どういう着付けをしたのか、真っ赤な振袖は容易く彼女の身を離れ、その内の白い肌襦袢が露になる。腰下では、はだけた振袖がだらしなく彼女にまとわりついているが、落語の邪魔にはならなそうだった。

 これから『本題』に入るようだった。

 お手並み拝見といこうじゃないか――そう高みの見物の心持でいたあたしだったが、どうしてか言い知れぬ緊張感を身の内に覚えていた。

 どうしてだろう――あたしはただ彼女の噺を聞くだけの立場だというのに。戸惑う私をよそに、思川さんが口を開いた。


『――ちょいとお前さん、起きとくれよ、商いに行っておくれよお前さん』


 *


『お前さん。今日こそ商いに行っとくれよ』

『こっちは二週間も働いてねえんだ。半台だってにガタぁきてんだろ』

『良かったよ。お前さんそこまで腐っちゃいなかったね。昨日のうちから糸底に水張っておきましたから、これっぱかしも漏れやしないよ』

『包丁は? 錆びてんだろ』

『昨日今日の魚屋の女房じゃないよ。昨日の晩にちゃんと研いで、蕎麦殻の中に突っ込んでおきましたから、獲れたてのサンマみたいにピカピカしてるよ』

『わらじは?』

『出てます』

『何だい、どうも手が回ってやがんな・・・・・・』


 魚屋の勝公は仕事の腕は優れているものの、酒に溺れるその性質が災いし、二週間ものあいだ酒を飲んでばかりで働きに出なかった。元々裕福な家でもないことから、勝公の家ではとうとう食べるものもなくなってしまう。

 焦りを覚えた女房はどうにか勝公を説得し商いに行かせる。


『河岸行って喧嘩するんじゃあないよ!』

『んな事ぁしねえよ! ったくガキじゃあるめぇし』


 家を出た勝公は魚を仕入れに河岸に向かったが、どこの店も閉まっていることに気がつく。江戸の時代には時刻を知らせるのに時の鐘を用いているが、その音の数を聴くに、女房は一刻早く勝公を起こしてしまったらしい。


『かかぁ、刻ぃ間違えやがったな! 河岸も開いてねえ訳だ』

『仕方ねぇ、渚に下りて海の水で面でも洗って、煙草でも飲んでりゃじきに河岸ぃ開くだろ』


 高座の思川さんが扇子をキセルに見立ててタバコを吸うモノマネをする。握りこぶしを擦り合わせたりして、どうやらタバコに火はついたらしく、気持ちよさそうな顔で息を吐いた。まるで口から、本当に煙がでているかのようだった。

 勝公は海浜で、何かが波に攫われて上がっているのを見つける。


『んだこれぁ、汚ぇ財布だなぁオイ。ん? やけに重てぇな。砂でも入ってやがんのか?』

『・・・・・・!』

『おい! おっかあ開けろ! 俺だ、勝公だ! 開けてくれ!』

 

 思川さんは、畳んだ手ぬぐいを、拾った革の財布に見立ててその中身を覗き込む。表情と息の使い方だけで魚屋の驚きを表現した彼女は、すぐに横を振り向いて、見えない戸をノックする。そこに実際に壁があるわけではないので、戸を叩く音は畳んだ扇子を床に突く音で再現していた。


『お前ぇ見てみろ、この革の財布』

『なんだい。随分と汚い財布だね。それにこの重さ・・・・・・砂でも詰まってんのかい?』

『へへっ。俺も初めはそう思った。いいから、よぉ、中ぁ見てみろぃ』

『んぅ? なんだいもう仕方ないね。何が入って・・・・・・・・・・・・お前さんこれ・・・・・・金じゃないか!』

『そうだ』

『しかもこれ、銭なんて代物じゃあないよ・・・・・・金だ、二分金じゃあないか! いったいいくら入ってるんだい!』

『ははは。お、俺にも分からねぇ・・・・・・もう夢中で持って腹掛けの丼に入れて帰ぇってきたんだ。お前ぇちと数えてみろ』

『う、うん。いくよ・・・・・・ちゅう、ちゅう、たこ、かいな、と。ちゅう、ちゅう』

『なんて勘定の仕方してやがんだ。ほら貸せ! いいか? こういうのはな、ひとひとひとひとふたふたふたふたみちゅみちゅみちゅみちゅ』


「ふふっ」

 シリアスなやりとりが続く中で、唐突に現れる滑稽な銭の数え方に、観客のどこかから、忍び笑いが聴こえてくる。

 確かにこのシーンはこの噺の中でも必ずと言っていいほどに笑いの取れるところでもあるが、それは普段落語を聞くことのない今の高校生たちにとっても共通だったらしい。

 なんだ、今の子にも通じるところもあるんじゃないか――などと達観をしていられるほどの余裕は、しかし今のあたしにはなかった。


『いくら江戸広しと言えども、四十二両なんて大金持ってるヤツぁ他にいねぇぞ』

『四十二両・・・・・・お前さんこんなお足一体どうするんだい!』

『どうするもこうするもねぇやな。使うんだよ』

『でも、お前さん。こんなお足に手をだして・・・・・・いいもんかね?』

『馬鹿言え! 俺ぁ道で拾ったんじゃねえぞ。浜で拾ったんだ! 海で拾ったもんは魚屋のものに決まってるじゃあねえか!』

『でもねぇ、お前さん・・・・・・』

『これだけありゃ俺ぁ商いなんか行かなくてすむんだ! 好きな酒何升飲んだってびくともしねぇ! ここんところ、ずっと熊公やトメ公、それからなんだ、竹や八から借りっぱなしなんだ。あいつらも呼んでどんちゃんやろうじゃねぇか!』


 盛り上がる勝公だったが、女房から「朝早すぎてお酒や料理も用意できないから」と、昨晩の飲み残しの酒を勧められる。酒屋が開いてないんじゃ仕方ないと言って、勝公はその酒を飲んで気持ちよく寝てしまう。

 ――思川さんは今、何を演っている・・・・・・?


『お前さん、起きとくれよお前さん、ちょいとお前さん! 河岸に行っとくれよ』

『んぉ!? なんだ家事か!?』

『家事じゃないよ。はやく河岸に商いに行ってくれないと、釜の蓋が開かないって言ってるじゃないか』

『また始めやがった・・・・・・。そんなのは、あれだ、昨日のアレでよ、開けときゃいいじじゃあねえか』

『昨日のアレ? 何のことだい?』

『え? なんだよ・・・・・・・言わなくてもわかんだろ、ほらあのよ、昨日渡したアレだよ』

『何を渡したんだい?』

『ほら、俺が芝の浜で拾った。革の財布に四十二両』

『なんだい? その四十二両ってのは』

『おいよせよあぁい! お前ちょっと持ってく分には構わないけどよぉ。そっくりそのまま持ってこうてヤツがあるかよ!』

『お前さん、なに寝ぼけてんだい・・・・・・』

『寝ぼけてんのはお前ぇの方だろが! ほら昨日の朝早くにお前ぇが商いに行って来いって俺のこと起こして。それで俺が河岸行ったらどこも開いちゃいねえんだ。当たり前だ、お前ぇが刻ぃ一個間違えて起こしたんだからよ。しょうがねえかろよ? えぇ、お前。仕方ねえやってんで俺は芝の浜に下りてよ、沖の向こうの白帆眺めて煙草蒸かしてたんだ。二吹目の火球をポーンと叩いたら、その先になんだか揺れてる物がある。あれぁ何だ? 俺ぁそう思ってそいつ引っ張り出して持って帰ぇってきたんだ! 革の財布によ・・・・・・四十二両入ぇってただろうがよ。あれ出せってんだ』

『情けないねぇ』

『えぇ?』

『情けないねぇって言ったんだ、はぁ・・・・・・貧乏はしたくないねぇ。お前さん、貧乏するとそんな夢見るんかね!』

『ちょっとまてお前この野郎。何言ってやがるこの野郎!』


 自分がお金を拾ったことが夢だということが信じられずに、勝公は大きな声で女房を威嚇する。妻はそんな大きな声で怒られていることよりも、お金が無さ過ぎるあまりに、そんなにもみっともない夢を見てしまう、自分たちのこの現状を何よりも悲しんでいるようだった。切なそうな声を上げて、妻は財布を拾ったことが夢だったということを、勝公に説明していく。


『夢に違いないじゃないか・・・・・・だってそんなお足が一体どこにあるって言うんだい! そんなに広い家じゃないよ。そんなに言うんだったなら、天井から軒下まで探してごらんよ。それにね、そんなお足があったらね、アタシゃこの寒空の下、浴衣ぁ重ね着しちゃいないよ! どこにそんなお足があるんだい・・・・・・情けないねぃ・・・・・・貧乏するとそんな夢見るのかい・・・・・・!』

『ちょちょちょっと待てこの野郎。お前ぇ、じゃあ俺ぁいつ芝の浜に行ったんだ。お前ぇに刻ぃ間違えて起こされて、それで浜で煙草飲んで・・・・・・革の財布が、河岸で』

『いつ行ったんだよ! 朝声かけたら、お前さん起きてくれやしない・・・・・・何かぶつぶつぶつぶつ言って。また今日も商いに行かせられなかった、二週間も行ってなかったんだ、一日くらいまぁ良いやって、そう思ってたらお前さん昼過ぎになって突然むくっと起き出して、おいかかぁ湯ぅ行ってくるから手拭い取ってくれってそう言って・・・・・・お前さん帰ってきたら金さんだの熊さんだの皆呼んできて、何がおかしいんだか、おっかあ酒屋行って来い、鰻誂えて来いって・・・・・・どこにそんなお足があるんだい! でも仲間の手前お前さんに恥かかせる訳には行かないって、なんとか方々に頭下げて回って、その算段をつけたんだよ。お前さん、酒飲んでから言うに事欠いてなんて言ったぃ? おっかあ魚誂えて来い、って言ったんだ・・・・・・うちは魚屋だよ!? そんで皆が帰ってから、お前さん勘定はどうするんだいって聞いたら、大丈夫だ大丈夫だって言いながらお前さん寝ちまったんだろう!』

『ちょっと待て、じゃあ俺が河岸には・・・・・・』

『だからいつ行ったんだい! お前さん昨日起きたろ?』

『起きた』

『それから湯に行ったろ!?』

『湯に行った!』

『それで熊さんだ八さんだ呼んでどんちゃん騒ぎしたろ!?』

『どんちゃん騒ぎ、した!』

『そんで寝た!』

『寝た!』

『それで今起きた! ほら、一体いつ河岸に行ったんだい! いつ河岸に行けるんだい! 

『確かに、その通りだ・・・・・・。俺ぁ、河岸には行ってねぇ・・・・・・ってちょっと待ってくれおっかぁ。てことは何か? 俺が芝の浜に行って財布を拾ったのが夢でぇ、仲間呼んでどんちゃん騒ぎしたのが本当ってことかぁ!?』


「あははははっ!!」

 体育館の中が、爆笑で包まれる。

 夢じゃないと思い込む勝公と、それは夢だったのだと言い聞かせる女房。その長いセリフの中で、色々な感情が表現されていく。さっきまでは夫の勢いだけが目立っていたそのやり取りも、妻のその剣幕が激しさを増していき、とうとう勝公は自分の考えを取り下げる。

 そこに至るまでの勢いの良さもそうだが、少し前まで夫婦喧嘩の緊張感で張り詰めていた空気が、勝公の最後のセリフで一気に緩むところが、この落語の上手いところだ。


『おっかあ、包丁出してくれ』

『お前さん! やっと商いに出てくれるんだね・・・・・・!』

『いや、死のう』

『馬鹿言ってんじゃあないよ――お前さんが本っ当に死ぬ気になって商いに出てくれりゃあね、あんなものはすぐに追っつくんだから。ね、仕事しておくれよ』

『仕事行きゃあ、なんとなんのか・・・・・・! おっかあ、悪ぃけど、お前ぇに恥ぃかかせるようだけど、この場ぁなんとか凌いでくれ・・・・・・!』


「っ・・・・・・!」

 自分が何を見させられているのか、理解が追いつかず、あたしは両手をつけて壁にもたれた。パニックに陥りながらも、しかし彼女の一挙手一投足から目を離さずにはいられなかった。


『酒がいけねぇんだ・・・・・・俺ぁ酒辞める・・・・・・! キッパリ辞める! 悪ぃ夢見たもんだ・・・・・・全部酒がいけねぇんだ。俺ぁ酒はもうひとっ滴たらしも飲まねぇ! だからここんところだけは何とか凌いでくれ! つっても・・・・・・仕事に出るつってもなあ、二週間も仕事休んでたんだ、半台にガタぁ、来てんだろう』

『糸底に水を張っておきましたから、これっぱかしも洩れやしないよ』

『包丁は』

『獲れたてのサンマみたいにピカピカしてるよ』

『わらじは』

『出てます』

『・・・・・・・・・・・・夢でもこんなとこがあった気がしやがんなぁ』


「ふふっ」

「ははは!」

 灯りの落とされた暗い体育館に、高らかな笑い声が響き渡る。舞台の上の思川さんは、額からたくさんの汗を流しながら、熱演を続けていた。


『魚屋の勝公これから了見をガラッと入れ替えまして商いに精を出し始めましたら何しろ腕の良い所にもってきて良い魚を買ってきて捌きますから評判は上がる一方でございます』

『なんだねぇい、やっぱり魚は勝公のところじゃなきゃダメだねぃ』

『同じ魚でもあいつが包丁を入れるんじゃあ随分と違うだよな、おっ噂をすれば影だ・・・・・・おぁーいかっつあん! えぇ!?! なんだよこないだの魚は、随分と旨かったねい!』

『やっぱりなんだな、魚は勝公のところに限るね。俺の知り合いにも良い魚屋を紹介して欲しいってヤツがいんだ、ほら、ここに所番地を書いておいたからよ、ちょいと顔出してくれよ、じゃ、頼むよ!』

『あっ、ありがとうございやす!』

『なんてこんな塩梅でどんどんどんどん評判になりますと得意先が増えていきます。「稼ぎ男に繰り女」男が一生懸命に働いて、女がやり繰りをする。それから丁度三年目の大晦日でございます』


 観客席を見遣る。数分前までは大きな口を空けて笑っていたような彼女らは、しかし口を一文字に結び真剣な表情で、舞台の上の思川さんのことを見ていた。

 目の前にて繰り広げられている落語部の催しを見守る彼女たちは、静謐につとめながらも、その眼差しはキラキラとした輝きをもって揺れていた。皆、これから物語がどう進むのかというワクワク感と、こちらをその世界へと引き込むあの少女へのリスペクトで、その胸を躍らせているのだと分かった。


『お前ぇ、火ぐらいくべておけよ。外から来る人は火が何よりのご馳走なんだ』

『外から誰か来るのかい』

『お前ぇ、誰か来るのかい、ってねぇ・・・・・・。年の瀬なんだから、借金取りが来るだろうがよ』

『こっちから取りにいくところは何件かあってもねぇ、それはまあ春になってからでもいいでしょうから。ほら、寒いんだからこっちにお上がりよ』

『借金が無ぇだあ? 本当かお前それ・・・・・・ははっ、そりゃいいね。こんな大晦日の晩に借金取りがこねえだなんてな。・・・・・・ん? なんだな、今日はうちがやけに明るくねぇか?』

『お前さんが湯へ行ってる間にね、畳をそっくり入れ替えといたんだよ』

『おぉそうか? いやあ道理でいい匂いがすると思ったんだ! いやあ、良い心持ちだなあ、ありがてえ。うん、やっぱ昔の人はよく言ったもんだな、畳の新しいのと・・・・・・・・・女房の古いのは良いって』

『変なお世辞は言わなくて良いよ』


 どうして。

 

『じゃあおっかあ。茶ぁ一杯ぇもらおうか』

『福茶があるよ。あ、今除夜の鐘が鳴り出したね』

『福茶? 何でもいいよ。あ、あと羊羹厚めに切ってくれ。ほら、前に貰ったのがあんだろ・・・・・・おお? 何だよおい、こりゃいけねぇな、雪が降ってきやがったか?』

『雪じゃないよ。ほら門松を立てたろう。風が出てきたもんで、笹が触れ合ってサラサラ音がするんだよ。私もさっき雪と間違ったんだよ』

『おぉ、そうか。どうもおかしいと思った。さっき湯から帰ぇってくるときにひょいと空を仰ぎ見たら降るような星空だったんだ』

『明日は正月だね・・・・・・』

『おっかぁ、明日は・・・・・・明日は良い天気になるぜ? ええ、おい。明日は晴れる。良い正月だろうなあ!』

『そうだね』

『いやあ、そんな良い天気の正月だもんなあ。えぇ? 飲むやつは楽しみだろうなあ・・・・・・』

『お前さん、飲みたいのかい』

『えぇ!? いやよせよおぁい! 俺は酒なんて飲みたかねぇ。いや、飲んでるときはやっぱし飲みてぇんだよ。ところが辞めてみるとな、やっぱり酒より、渋い茶や甘ぇ羊羹の方が旨ぇんだ。おう! そういやおっかあ、早く茶ぁ出してくれよ』

『お前さん・・・・・・今日は機嫌が良いみたいだからちょいと話があるよ・・・・・・実はね、見てもらいたいものや・・・・・・聞いてもらいたいことがあるの』


 どうして。


『なんだぁ? ああ分かった。春の着物だろ? いいんだいいんだ。男の俺に女の着物のことなんて分からねぇんだからよ。お前が良いと思うもん買って着ゃあいいんだよ』

『着物じゃないんだよ――それでね、アタシが話をするんだけどもね、その前にお前さんに約束をしてもらいたいの』

『何でぇ? 約束ってのは』


 どうして。


『私の話が済むまではどんな事があっても手荒な事をしない。最後まで話をちゃんと聞くって、そう約束してくれるかい?』

『何だ? まあお前がそう言うんだってぇなら分かったけどよ。あんだい、その話ってぇのは』

『実はお前さん・・・・・・これなんだけどもね』

『何だぁ? これ・・・・・・』


 どうして!


『汚ねぇ財布だなぁオイ』


 ――どうしてあの女はあたしの『芝浜』を演っている!?


 高座に上がる少女の口から出る一言一句のその全てが、かつて小学生だったときのあたしが、あの日地方の親子寄席で高座にかけた『芝浜』と一致していた。

 セリフだけじゃない――、

 身の振り方が。

 小道具の扱いが。

 掛け合いの間が。

 声の調子が。

 一切合財余すところ無くそっくりそのまま纏めて全部――月島亭小雛の落語だった。

 全身が酷く粟立つのが分かった。痺れる身体とは反対に、耳や目は鋭く研ぎ澄まされて、彼女の落語から目が離せなくなっていた。あたしの『芝浜』をかけるあの少女の落語から――。


『あっ、分かったよ! ヘソクリだな? いやあ女ってのは大ぇしたもんだよ。こんな汚ぇ財布に銭ぃ入ってるなんて誰も思いやしねえもんな。いやいやいいんだよ。しまってくれ。お前がやり繰りして作った金だろ? えぇ? ヘソクリなんてどこのカミさんだってみんなやってんだからよ』

『中を見とくれ』

『良いよぅ・・・・・亭主が女房のヘソクリ覗くような野暮な真似ぇしねぇ方がいいんだよ。引っ込めなよ・・・・・・んぅ? 仕方ねぇな、分かったよ。見るよ・・・・・・おっ・・・・・・何だぁオイ・・・・・・? 随分重てぇなオイ・・・・・・ってお前! なんだこれ、二分金じゃねぇか! 一体いくらあるんだよ』

『数えてごらんよ』

『えぇ? ・・・・・・ひとひとひとひとふたふたふたふたみちゅみちゅみちゅみちゅ・・・・・・四十二両だ・・・・・・! お前ぇ! こんなにヘソクリ溜め込んでやがったのか!? ああ、女ってのはつくづく恐ろしいねぇ』


 引退後は勿論、現役時代だって、あたしは一度しか『芝浜』を人前では演っていない。

 忘れもしない、あれは今から五年前の、長野県は波田町のショッピングモールで開いた地方公演だった。幼い頃のあたしは、二ツ目の自分の成長した姿を父に見せてやりたくて、師匠でもある父に断りもいれずに、大ネタである『芝浜』を高座にかけたのだ。

 その結果、あたしは父に見放され、落語から足を洗うこととなったのだが・・・・・・。

 彼女が前に住んでいたのは同じ長野県でも松本市だったはず。まさか違う町からわざわざ買い物に出かけるような規模のショッピングモールではなかったと想うが・・・・・。

 ――瞬間、彼女がかつてあたしに披露した、地元の友人とのやりとりを再現した落語のことを思い出す。


『柳子そっちはどう?』

『普通だよ。栃木県って聞いてたからすごい田舎を想像してたけど、生活するには困らないくらいには栄えているよ』

『また偉そうに・・・・・・うちだって合併前はド田舎だったじゃない』


 そう、合併だ。調べなければ確かな事は言えないが、きっと波田町は現在では松本市の一部になっているのだ――もしそうだとしたら、親子連れの多く散見されたあのショッピングモールで、当時の思川さんがあたしの落語を聞いていたとしても不思議ではない。

「どちらにせよ、認めざるを得ない・・・・・・」

 彼女のあの『芝浜』は、あの日あたしが父に見限られるきっかけとなったあの『芝浜』だ。動きを見れば分かる。いや、動きを見なくても分かった――認めざるを得なかった。

 思川さんのあの『芝浜』の向こうには、あの日のあたしが透けて見えていたのだから。


『お前さん、その革の財布に四十二両、見覚えがないかい?』

『お? んー・・・・・・あるよ、うん。そう言われてみると、三年ばかし前ぇだったかな。嫌な夢ぇ見たな・・・・・・俺は芝の浜でもって革の財布に四十二両を拾ってきた夢ぇ見た事があったな』

『お前さん、あれは夢じゃなかったんだよ』

『コンチクショウ! 手前ぇあんとき夢!』


 ドンッ、と、大きな音がマイクを通して会場に短く響いた。客席が息を呑む様子が伝わってくる。

 彼女が全身をばねにして反動をつけて床を叩き、片膝を立てて凄む。女房に対して怒りを露にする勝公の衝動を体現しているのだ。当時身体の小さかったあたしが、なんとか魚屋の亭主の迫力を表現するために考えた身の動かし方だった。

 小柄な身であるとはいえ、充分成熟している思川さんがわざわざ使わなくてもいい技術ではあった。しかし、彼女はきっと、あの『芝浜』しか知らないのだろう。

 普通、セリフ一つ、目線一つ取ってしても、噺家の動きを真似することは容易いことではない。それを彼女は、こんなにも長丁場の大ネタで、見事なまでの模倣を続けている。

 この一週間では絶対に習得できない凄みを、彼女の落語は見せていた。あれ程の動きを出来るようになるまでに、一体どれほどの稽古を詰んだというのだろう・・・・・・。

 息を吸う、口を開く、声を出す。

 腕を挙げる、肩を下げる、上手を向く。

 ――一つ一つの動作を、思川さんは集中して繋げていく。その真剣な表情を見て、あたしは気づいてしまう。

 きっと、これまでのずっとなのだ。

 彼女の中であの『芝浜』が生きていた時間は。


『話は終いまで聞く約束だったね』

『・・・・・・おう、聞こう』

『このお金を見せられたときアタシだって喉から手が出るほど欲しいと思ったよ・・・・・・アンタがどんちゃん騒ぎして寝てる間に湯へ行ったらね、帰りがけに大家さんに会ったんだ。お前んところは随分な騒ぎだけど何があったんだ、そう聞かれてね、アタシゃつい喋っちゃったんだよ。そしたら大家さんが血相変えてね・・・・・・』

『なんてことをしたんだ! そんなお足に一文でも手を出してみろ! 財布が落ちてたということは財布を落とした人がいるということなんだ、それも四十二両なんて大金、落とした人は血眼になって探してるぞ! これがお上に知られてみろ、十両盗めば首が飛ぶんだ、働いてないうちのところがそんなに金の周りがいい筈が無い、ってんで怪しまれて、御用風でも喰らってみろ! そしたらお前の亭主の身体は満足じゃいられねぇぞ!』 

『じゃあどうしたらいいのでございましょう! ってアタシ聞いたんだ・・・・・・そしたら』

『俺がお上に届ける、お前は勝公のこと何とかしとけ』

『でもなんとかって、どうしたらいいんでしょうって聞いたら』

『夢だ夢だ、って押し切っちまえ』

『って言うから、そんな大家さん! いくらなんでもそれは無理でございますって、そしたら』

『お前、勝公の身体が満足でなくていいのか!』

『って・・・・・・仕方なしにアタシは起きたあんたに夢だ夢だって言ったらお前さんは本当に人が良いもんだから、私の言うこと本当にしてあれだけ好きだったお酒をぴたっと辞めて商いに精を出してくれた・・・・・・実はね、このお足も、とうに落とし主が現れないってんでお上からお下げ渡しになって来たんだけども、そんな事は滅多に無いんだって。正直を愛で此度は下げ遣わす、ということでね。それから大家さんの方に預かってもらってたの・・・・・・』


 『芝浜』はここから、三年前の大家との回想を挟みつつも徐々に女房だけの演技となる。

 ――ここが一番難しいんだ。

 亭主の身を心配するが故に、女房は嘘をついて彼を騙した。了見を入れ替えた勝公の働きっぷりで、どんどんと生活が豊かになっていくに従って、反対に彼女の胸に罪悪感が積っていく。

 勝公が酒を断ったあの日から、どれだけ自分の中の罪の意識に苛まれてきたことか――その三年間の重さや苦しみを、長い長いセリフの中で表現していく。ここの女房の感情を観客に訴えるココこそが、『芝浜』という人情噺の本領の見せ所だ。

 ここが一番、難しい。

 

『いつ出そういつ出そうって思ってたんだけどもね、いつ話をして喜んでもらおうって・・・・・・でも、お前さんが、売り貯めがこんだけある! 今日はお得意さんが何件増えた! 帰ってくるたんびにそんな話をしてくれてたら、こんなものを見て前の仕事に行かないあんたに戻られたんじゃあって、心を鬼にして黙ってたんだよ。お前さん・・・・・・本当にごめんよ・・・・・・嘘をついてごめんよ・・・・・・! 本当に悪かったと思ってる・・・・・・でもね、お前さん。嘘っていうのはね、つかれる方もそうだけど、つく方だって同じくらい辛いんだよ・・・・・・! 雪の降る日なんぞにね、お前さんが、おうおっかあ行って来るよ、なんて言って、誰も起きちゃいないような朝早い時分にうちを出るときなんて、何度その後姿拝んだかわからないよ・・・・・・・ごめんね、腹が立つだろう。連れ添う女房に嘘を付かれてさ・・・・・・でもね、アタシだって辛かったんだよう・・・・・・腹が立ったろう? 腹が立ったらね・・・・・・打つなど、蹴るなど・・・・・・好きなようにしておくれ・・・・・・お前さん・・・・・・嘘をついてて、ごめんなさい・・・・・・』


 鼻をすする音が聞こえた。

 震える喉から嘆息が漏れる音も聞こえた。

 それも十や二十ではなく、もっと多くの数だ。客席が、彼女の落語に呑みこまれているのが分かった。それは、彼女がその全霊をもって、落語を高座にかけているが故に起こせた一体感だった。会場内に高座・客席の隔てなく、その場にいる者全てが彼女の『芝浜』を感じていた。

 どんなに立派な古典落語であっても、ただ台本を暗記して読み上げるだけでは、それは朗読であって落語にはなってくれない。どんなに淀みなく、また感情を込めてセリフを声に出しても、人の心を動かすことはできない。落語を落語足らしめるのは、噺家の魂と、その落語に対する深い愛情だ。

 彼女の落語からは、本当に心の底から、落語を愛している様子が伝わった。

 だからこんなにも、聞く者の心を揺さぶるのだろう。


『手ぇ、あげてくれ。よせ。打ったりするどころじゃねぇ。お前ぇみたいな女房打った暁にゃぁ、打ったこっちの腕が折れちまうよ。お前ぇ偉いよ。本当にその通りだ、偉い。今お前ぇに言われて俺ぁハッと気が付いた。こんな金見た時にゃあ商いにいくどころじゃあねぇ。朝から晩まで酒飲んで仲間呼んで旨ぇもん食わせて飲んで、そんな事をしてりゃあこれっぱかしの銭は瞬く間になくなっちまう。元の木阿弥だ。それだけじゃあねぇ、これがお上に知られた日にゃあ、俺の首は繋っちゃいねえ。良くて遠島、ごくお情けを頂いても佃の寄場送りだ・・・・・・お前ぇを打ったり殴ったりするどころじゃあねぇ。おっかあ、俺ぁお前ぇさんに礼を言うよ・・・・・・ありがとう・・・・・・』

『じゃあお前さん! アタシのことを堪忍してくれるかい?』

『堪忍するもしねぇもねぇ。俺ぁお前ぇに礼を言ってるんだぜ』

『よかった・・・・・・! アタシゃお前さんにウンと怒られると思ってね、今日はもう何だよ・・・・・・気分直しに一杯飲んでもらおうと思って一本つけといたんだよ・・・・・・ほらね、お燗もついてるんだよ』

『え!? おいおっかぁ、何だ!? 酒があんのか! へぇ~酒かい! はぁ~、どうもさっきから良い匂いがしやがると思ってたんだ。畳みの匂いばかりじゃねえと思ったんだよ! そうかい、じゃあ貰おうかねぇ。おう、その湯呑みでいいや、おう、へへっありがてぇなあおぁい』

『それにお前さんの好きなものも拵えといたんだけど、どうだい?』

『おぉ! でかした! はぁ、こりゃあ良いや。俺の好きなもん覚えていてくれたのか・・・・・・いや、しかしなんだな。本当に女房は古くなくちゃいけねぇなあ?』


「んふふふ、ぐすっ・・・・・・ふふっ」

 一部の観客は泣き笑いをしていた。それも無理も無い話だった。

 本来落語とは『緊張』と『緩和』のバランスが肝とされる芸能だ。緊張だけ続いていても客は付いてきてはくれないし、緩和ばかりでも落語に締まりが無くなる。演者としても、その緩急をどう巧くつけて観客に噺を届けるかが腕の見せ所とも言える訳だが、彼女はそこの調整が非常に上手だった。

 この『芝浜』という大ネタを自分のものにしている。そう思えた。だから観客も、彼女の落語に心地よく振り回されてしまう。

 そして何よりも――。


『変なお世辞はいいんだよ・・・・・ほら』

『おっとっとっと、やけな注ぎ方しやがんなオイ! つってもなんだな、亭主に酒注ぐのが上手い女房ってのもあんまし良いもんじゃあねえか・・・・・・へへっ』


 彼女は客席の誰よりも楽しそうに、落語をしていた。

 実際、彼女のこの『芝浜』は、本物の落語家に比べると、言うまでもなく多くの点で遅れを取る。それは身体の使い方や、セリフの間合い、声の出し方から小道具の使い方まで、およそ全ての点でだ。落語を聞いた事のない他の観客はともかく、散々芸能人に揉まれてきたあたしの目で見れば、現役を退いた身としても、手直しをしたい箇所が山ほどあった。

 しかし彼女の『芝浜』は、不足する技能を落語への情愛で補っており、眩いほどの純粋な輝きで満ち溢れていた。稚拙な純情を隠そうともせず落語を演じるその姿は、まるであどけない少女かの様だった――思わず、高座に座る思川さんの姿に、在りし日の自分の影が重なる。

 技術や経験はまだまだ未熟だったけれど、それでも落語をすることが、他のどんなことよりも楽しかったあの頃の少女の姿が、そこにはあった。

「ははっ・・・・・・何よ・・・・・・んっ・・・・・・昔のあたしってば、ははっ・・・・・・あんなにも落語を楽しんでいたんじゃない・・・・・・」

 彼女が転校してきたあの日、あたしが始めて彼女と感情を触れ合わせた、夕暮れに染まるあの公園でのことを思い出す。


『――うるせーーっ! 落語を馬鹿にするな! 末広さんは本当の落語を観たことも聞いたことも無いからそんなことが言えるんだ!』


 泣きながらそう言ってあたしのことを思い切り打った彼女の姿が、鮮明に思い浮かんだ。

 あたしは首元を静かにさする。あの日殴られた首の痛みは既に引いていたけれど、今は何より、彼女の落語で締め付けられるこの胸が、なによりも痛かった。

「うっ・・・・・・ううっ・・・・・・何よう・・・・・・ほんと」

 ボロボロと涙が溢れて止まらない。あんなにも鍛えられていた筈の喉は、えずいてしまって言うことを聞かない。雫が頬を伝い、顔の輪郭をなぞって落下する――今度は、私の方が泣いてしまう番だった。

 こんなにも胸が辛くて、苦しいのに、心が軽くなっていくのが不思議だった。

 私は高座を見上げる。思川さんは、汗にまみれて頬を上気させながら声を張っていた。

 何よりも楽しそうに落語をする彼女のこの姿を、私はきっとこの先忘れることはないだろう。

 

 ――どうして落語を始めたのか。

 ――落語で人を感動させられていたのか。

 ――あたしの落語に――あたし自身に、価値なんてあったのか。

 思い悩む幼き頃の私に――月島亭小雛に、教えてやりたかった。


『やっぱり酒は良いな、匂いを嗅いだだけでも千両の値打ちがあるってもんだ。へへっ、よぉ、久しぶりだな、達者でいたか? はははっ、どうも、しばらく。おいおっかぁ、俺ぁ断っとくけどよぉ、俺が飲むって言い出したんじゃあねえぞ? おめぇが飲めっていうから飲むんだぞ? いいのかい、飲んでも? おう、いいのかい・・・・・・ありがてぇな・・・・・・どうも・・・・・・・・・・・・いや、よそう――』


 貴方の落語で、感動してくれた人はちゃんといたのだと。


『――また、夢になるといけねぇ』

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