第7話 思川柳子
【思川柳子】
難しい条件を付けられてしまったな――と柳子は思った。クラスでひときわ落語の素養を感じさせた末広小唄に、いち早く接触を図ったまでは良かった。末広は、話していてどこかぎこちないところはあるものの、声は大きく滑舌も良く度胸もあった。彼女を上手く篭絡してしまえば、後は彼女の友人でも紹介してもらって部を設立しようという勘案だったが、そう上手く事は運ばなかった。
素行態度に反して実は色々とチョロい子だと思っていた末広は、なぜか落語に関してだけ、異様なまでの嫌悪感を露にした。半分冗談で毎日の勧誘を試みたが(勿論もう半分は本気だ)、どうアプローチをしても末広は上手く柳子からの勧誘をかわし続けた。
一ヶ月近くの粘りを見せたからか、今日の末広は珍しいことに、柳子を放課後に誘った。柳子の狙い通り、末広は落語に関する話題を持ちかけた。これは大チャンスだとばかりにイケイケドンドンの姿勢で、柳子は末広に攻め入った。
「あれがいけなかった・・・・・・」
勢いだけで話を進めすぎたからか、末広の返す刀で足を掬われてしまい、こちらに分の悪い賭けに乗らされてしまった。
新入生を二人入部させれば落語部に入るって。
結局私の負担変わってなくない?
むしろ新入生という制限が加わった今、逆に始めより課題が増えてるんじゃ――プラットホームで電車を待ちながら、柳子は頭を抱えた。
上手く彼女の口車に乗せられたわけだ。向こうの挑発に乗っているうちに、気づけば引くに引けないところに立たせられていた。やはり柳子の見立てどおり、末広は口も達者で勝負どころに強い少女だった。
熱海行の列車に乗り込み、一駅隣の間々田駅を目指す。部活動紹介の日まで残り一週間。短過ぎるということは無いが、学業の傍ら落語の練習をするには、余裕があるとも言えなかった。
(かける演目はアレしかないか。といっても、私が通しでできる落語なんて一つしかないんだけどね)
演目に悩まない分、残りの時間は全て落語の稽古に当てられる。ならばもう下手に今後のことは考えずに、実直に芸を磨いて高座に上がろう。すっきりとした心持ちで、柳子は間々田駅を出た。
(きっとこれは、部活動設立のための最大のチャンス。これを逃したらもう、落語部の創設は絶望的だよね。変わった部活なのは間違いないし)
より多くの人に落語の魅力を知ってもらうためには、どうにかしてこの新学期のうちに落語部を立ち上げなければならない。
柳子は両手で己の顔を叩き、発破をかけた。
*
「橋本さん、小林さん、また明日!」
またねー、と手を振る友人らに手を振り替えし、柳子は小走りで教室を後にする。末広とのマッチメイク及びフェイストゥフェイスを終えたあの日から五日間、彼女はその日の授業を終えると直ぐに家に帰っていた。転校生という身分にも拘らず、放課後に誰ともつるまないことに関して、柳子は全くといっていいほどに懸念はしていなかった。
(友達付き合いとか、そういうのは別に休み時間だけ使えば充分こなせるしね)
元より他人との距離を詰めることを得意としていた彼女は、すでにクラスの半数以上とは親しくやり取りをできるまでに至っていた。なんとも悲しいことに、この学校に一年以上通っている末広よりも、柳子の方がずっとクラスに馴染んでいた。
そりゃ、『あんな』人と仲良くしようだなんて普通思えないよね――今も教室で独り帰る支度をしているであろう頑固な友人のことを想う。
末広小唄という少女のその立ち居振る舞いには、どこか俗世とは一線を画すような、近寄りがたいものがあった。彼女の一挙手一投足にはその若さにはおよそ不釣合いな重々しさが感じられるのだ。
また、そういった近寄りがたいオーラが彼女からは常に放たれており、そうした重圧は時に、俗物を忌み嫌う指向性を持って周囲に発されていた。
柳子は今月頭の転校初日の朝のことを思い出していた。
それは、まるで役者のような登場だった。
あのとき遅れて教室に入ってきた彼女の凛とした佇まいには、教室中が固まってしまったほどだ。整った顔立ちも手伝って、彼女の隠れファンを名乗る生徒もいるということを、柳子はクラスメートらから聞いた。無理もない、と思う。他社とのコミュニケーション能力に幾らかの覚えのある彼女であっても、学校案内の名目なくしては、末広に声をかけるのは難しかったほどだ。
それほどまでに末広小唄という人物には、他者を寄せ付けない風格が有った。そんな末広のことを、どうしてか思川は意識せずには居られなかった。
――この人の落語する姿を見てみたい。
一目見たときにそう思った。理由は柳子にも分かっていない。ひとまず、末広の所作や態度を理由には挙げてはいるが、本人としては、それを理由として掲げても依然納得はできなかった。
何か、もっと違う何か他の理由があるはず。そうでもなければ、一目見ただけのあの子にこうもときめくことは無いのだから。その『他の理由』を探すためにも、本当はもっと末広と仲良くなりたかったが、勝負が終わるまでは気を緩めるわけにはいかないと、柳子は末広との接触を控えていた。
(でも、そんな自重も今週で終わりだ)
明日明後日と週末を挟んだ次の日は、待ちに待った部活動紹介の開催日だった。
さすがに本番が近づいてきたのに、集合住宅である自宅で落語の一人稽古をするのも憚られたので、柳子は駅前のカラオケショップを使うことにした。週末は混み合うだろうから、平日の夕方ならば、大きな宴会部屋も借りられるかもしれない。その目論見は正しかったようで、すんなりと一番大きな部屋を利用することができた。
「おお~。広い!」
別に大きな声を出すだけならば、小さな一人カラオケ用の部屋でもよかった。しかし、大きな箱の方が落語はしていて気持ちが良いというのが、彼女の考えだった。また、勧誘会の開催される体育館ほどではないにしても、広々とした空間を使って、通しでリハーサルをしておきたいとも思っていた。
二十人は入れるのではないかという大きな会場にポツンと座り、柳子はドリンクバーからくんできたお茶を飲む。
「一人で宴会部屋使うのって・・・・・・罪悪感ぱないな」
*
壁に備え付けられた受話器のけたたましいベルの音で、柳子の意識は現実へと引き戻された。時計を見ると、入室したときからすでに四時間が過ぎていた。つい没頭しすぎて、時間のことが頭から抜けてしまっていた。
両親には帰りが遅くなる旨を伝えてはいた。とはいえ、年頃の娘の帰りがここまで遅くなると、さすがに心配をかけるだろうと思い、柳子は急いで駅へと向かった。
思川家のライングループで、電車に乗ったことを連絡する。すぐに二つの既読がついて、父から『O』と書かれた札を持つウサギのスタンプが返ってきたかと思うと、すぐに母から『K』と書かれた札を持つクマのスタンプが送られてくる。今日も本当に仲の良い二人だ――そう思いながら柳子は間々田駅のホームに降り立った。
「だだいま~」
長時間の落語の練習がたたったのか、いつもよりしわがれた声で玄関に入る。
「柳子、今日も精が出るな。ははっ、声がガラガラだぞ」
リビングに入ると、そこには柳子の父である喬司と、母の俊子の姿があった。喬司は娘が無事に帰ってきた事に安堵して、読んでいた新聞を畳んでそう言った。
「柳子、お帰りなさい。すぐご飯にするからね」
エプロンをつけた俊子が、優しそうに柳子に声をかけて、キッチンに向かう。
「もう父さんお腹ペコペコだよ」
「えー!? 先に食べちゃってよかったのにー」
腹部をさすりながら笑う喬司に、柳子は驚きの声を上げる。普段の思川家ならば、とっくに夕飯は終えている時刻だった。
「そんな寂しいこと言うなよ。せっかくの母さんの美味しいご飯なんだ、家族みんなで食べた方がもっと美味しいに決まってるだろう。ね、母さん」
「そうね、あなた」
「はいはい」
年甲斐もなく仲むつまじく互いを呼び合う両親を横目に、柳子は脱いだ制服をハンガーにかけて胸元のリボンタイを緩める。どっかりとソファにもたれかかり、母の調理するフライパンが食材を焼く音を耳に聴く。
「柳子、新しい高校は・・・・・・どうだ?」
恐る恐るといった喬司の声からは、何かを言外に案じる様子が滲んでいた。
「んー、楽しいよ」
「そうか。・・・・・・でもやっぱり前の高校の友達と会えないのは寂しいだろう?」
またその話か、と辟易とする。転勤が決まったときに、散々家族で話し合ったことなのに、と柳子は呆れた。
「ごめんな・・・・・・父さんの転勤のせいで」
申し訳なさそうに喬司は項垂れる。自分の仕事の都合で家族を巻き込んでしまうことに、彼は強い負い目を感じていた。暗く沈んでいく彼に反して、柳子は明るく取り繕って言葉を返した。
「そのことは気にしてないよ。今どきネットでいつだって会話できるんだから! ここからなら都心の寄席にだって電車一本で行けちゃうし! それに、お父さんだけ単身赴任で違う家に住むほうが、やっぱり嫌だから」
柳子は続けて、「そうだよね、お母さん」と俊子にお鉢を回す。
「勿論そうよ! 家族はみんな一緒にいないと、ね! さ、ご飯が出来ましたよ~」
「お、今日はこっちのから揚げだ。美味しそ~!」
俊子がテーブルに熱々の鶏のから揚げを運び入れる。山賊焼き一筋だった思川家も、栃木県に引っ越してから早一ヶ月で、かぶと揚げに心移りし始めていた。
「二人とも、ありがとう・・・・・・うっうっ・・・・・・俺はなんて恵まれているんだろう」
「ちょっとお父さん!? なに泣いてるの! お母さん、お父さんが~!」
「あら、やっぱり山賊焼きの方が良かったかしら?」
三人を包む暖かな空気に、柳子はかけがえのない愛おしさを感じていた。それはきっと両親ともに同じで――だからこそ、この春の父の転勤にも、迷うことなく母と娘は同伴を決めたのだ。
――家族はみんな一緒にいないと。
俊子のその言葉が、柳子の中でこだました。
(本当にその通りだ)
この幸せを、もう二度と手放したくはない――彼女は心の中でそう唱えて、今のこの安穏な景色とはかけ離れた、暗く冷たい家庭の姿を思い返していた。
*
『今日は皆さんに作文を音読してもらいます』
その日は柳子のクラスの授業参観日だった。教室の後ろにはクラスメートの保護者たちが立っていた。黒板に顔を向ける柳子には、どれほどの大人たちが自分の後ろに集まっているのかは分からなかった。しかし、普段の教室には無いような化粧品の独特の匂いが、彼女に多くの大人たちの来訪を知らせていた。
(教室に皆のお父さんお母さんが来るのって。なんか変な感じだな)
普段なら賑やかな雰囲気に包まれる柳子の教室も、この日ばかりは静かな緊張感を伴って落ちついていた。五年生にもなると、授業参観で目立とうとする生徒もいないよね――柳子はそう思った。
『ねえねえ』
隣に座るミカが、小さな声で柳子に声をかける。ミカとは一年生の頃からの付き合いで、放課後にもよく遊ぶほどの関係だった。
(こんな時になんだろう)
他に喋っているような生徒はいないのを見て。目立ちたくなかった柳子は、視線だけでミカに続きを促した。
『今入ってきた綺麗な人、柳子ちゃんのママだよね?』
それを聞いて、思わず後ろを振り返ってしまう。教室の出入り口の傍には、母の俊子の姿があった。俊子は娘の視線を感じ取ったのか、小さく手を振った。
「そうだよ!」
友人に母を『綺麗な人』と褒めてもらえたこともそうだが、自分の母が今この教室にいるのだという高揚感で、柳子はつい大きな声を出してしまう。
『はいそこー、授業中は喋らないの』
教壇に立つ担任教師がそう言うと、教室中からクスクスと笑い声が洩れる。注意を受けた柳子は、恥ずかしさで耳まで真っ赤になってしまう。教室の後方では、俊子が他の参観者に「すみません、すみません」と頭を下げていた。
(お母さんごめん・・・・・・)
それまで教室を支配していた静寂が緩み、授業の雰囲気が柔らかなものになっていった。担任教師はゴホンと堰払いをしてから、授業を再開した。
柳子は母の事が大好きだった。優しくて、しっかりとしていて、綺麗な――そんな母親を尊敬していた。特に彼女は、俊子のサラサラとした美しい髪が好きだった。ツヤのあるその頭髪をアップスタイルで纏めた母の姿は、他のクラスメートのどのお母さんよりも素敵に見えた。
『出席番号順で読んでもらいます。一番は、青木くん』
『は、はい』
担任のその声を受けて、青木と呼ばれた男の子が立ち上がる。たどたどしい口調で、彼は手に持った作文用紙を読み上げていく。
『僕の夏休みの思い出は・・・・・・』
柳子たちが書いた作文のテーマは『夏休みの思い出』だった。夏休みの宿題として出されていた作文を、この授業参観の場で発表することになっていた。柳子は両親と共に行った市の花火大会のことを作文にしていた。大好きな父と母と、仲良く手を繋いで見て回った夜の出店のことを思い出す。来年の花火大会も楽しみだな――。
『では次は、思川さん』
「へ!? あ、はい!」
出席番号の若い柳子は、そんな事も忘れてつい物思いに耽ってしまっていた。不意を着くような担任教師からの指名に、素っ頓狂な声をあげて立ち上がる。
「私の夏休みの思い出は、父と母と花火大会を観に行ったことです。その日は朝から曇っていましたが、お昼すぎからは無事に晴れてきたので、私は安心しました。五時半に家を出て――」
柳子は夏休みに書いた作文をすらすらと読み上げていく。音読は彼女の得意分野だった。お母さんに自分の格好いい姿を見せてやるんだと、柳子は張り切っていた。遅すぎず、速すぎず。句点や読点の間をきちんと意識しながら、夏休みの光景を――両親との楽しかった思い出を音読する。無事に最後までつっかえることなく、少女は作文を読み終えた。
『今日の柳子ったら、カッコ良かったわ~』
夕飯を食べながら、俊子がそう言った。彼女がこの言葉を口にするのは、今日だけで三度目だった。
「もうお母さん。それは分かったって」
まんざらではない調子で柳子が言葉を返す。実際、あのときの発表は、自分でも中々の出来だったと思っていた。柳子は微笑みながら、スプーンを口に運んだ。今日の晩御飯は彼女の大好きなカレーライスだった。
『そんなに凄かったのか?』
『凄かったわ~。それに作文だってそう。お母さん、柳子があんなに立派な文章を書けるようになってただなんて知らなかったわ』
喬司の質問に、俊子は頬に手を当てながらそう言った。それを見る喬司は羨ましそうな顔を浮かべていた。わが子の晴れ姿を見られなかったことを、悔やんでいる様子だった。
「お父さんも観に来ればよかったのに」
『え? あ、ああ・・・・・・』
柳子は、自分の成長した姿を父に見せられなかったことを残念に思っていた。母がこれほど褒めてくれることを自分はしたのだ。もしも父もその場にいたら、どんなに喜ばせられていただろうか――そういじける柳子を、俊子が諌めた。
『柳子、そんなわがままを言っちゃダメよ。お父さんはお仕事で来られなかったんだから、仕方なかったの』
「はーい」
柳子は口を尖らせながら返事をした。それを見た喬司は、彼女を見て笑うと、
『そうか、柳子ももう五年生だもんな。大人になったんだな・・・・・・』
と、柔らかく呟いた。
大人になったと、父にそう言われて、柳子は自分が急に子供ではなくなったような気がした。そうか、大人か――父にそう認められたことが、母にどんなに褒められることよりも嬉しかった。
「うん。私ももう子供じゃないよ」
『でもね、聞いてあなた。この子ったら、ふふ。授業中に大きい声出して、先生に注意されてたのよ』
「お母さ~ん!? それは言わない約束だったじゃん!」
『ハハハ』
慌てる柳子を見て喬司が笑った。それを見て、俊子もお腹を押さえて笑った。楽しそうにしている両親の姿を見て、柳子はそんな二人のことがやっぱり大好きだと思った。
昔から三人で、いろんな所に行ったり、いろんな話をしてきた。そしてこれからも、沢山の思い出を家族で作っていくのだろうと確信していた。
今日の授業参観で発表した作文のことを思い出す。夏休みの楽しい思い出がありすぎて、何を書こうか悩んでいた彼女だったが、やはり一番の思い出は花火大会だった。来年の夏が来るのが、今からもう楽しみだった。
しかし一年後、少女は両親と花火大会に行くことはなかった。
*
思川柳子が異変に気がついたのは、十一歳の時だった。
「あれ、お父さん。今日はもうお仕事終わったの」
その日は学校が終わり、いつも通りランドセルを家に置いてから、ミカの家へ遊びに行く予定だった。いつも通りではないのは、普段なら夕方過ぎに帰ってくる喬司の姿がすでに家にあったことだ。
『ああ』
虚ろな呟きだった。彼は背を小さく丸めて、何かを考え込んでいた。普段の父からは想像も付かないぶっきらぼうな態度に、何か思うところのない柳子ではなかった。
大丈夫?
そう声をかけようとしたところで――止めた。私はもう小学五年生で、高学年なのだから、気遣いをしなければならないのだ。大人には大人の事情というやつがあるのだろう、柳子はそう考えて、大人しく友達であるミカの家へと向かった。
「お邪魔します」
柳子は挨拶をして、ミカの家に入る。框でスリッパに履き替えてから、自分の履いてきた靴の向きを揃える。その姿を見ていたミカの母親が柳子を褒めた。
『あら、柳子ちゃんは立派ね~』
前までは脱いだ靴をそのままにしていた柳子だったが、近頃ではきちんと揃えるようにしていた。褒められたくてした行いではなかったが、褒められるのはやっぱり嬉しかった。
柳子がミカの部屋に行くと、ミカが見慣れない装丁の雑誌を手に持っていた。
『柳子ちゃん、今日はこれ読まない?』
「わあ、オシャレな本! どうしたの?」
『お父さんに買ってもらったの』
「おお~」
その日二人は、ミカが父に買ってもらったのだというそのファッション雑誌を読んで遊んだ。漫画の載っていない雑誌を読んでいる自分を客観視して、やっぱり私も大人になったものだと柳子は思った。
夕方の鐘が鳴ってから、柳子はミカの家を出て帰宅した。
「あれお父さんは?」
そこに父の姿はなく、パートから帰ってきた母の俊子が、一人で柳子の戻りを待っていた。娘からの問いかけに、敏子はぼそりと呟くのみだった。
『・・・・・・さあ』
「?」
今日の両親は二人ともどうしたのだろうか。父がどこかに出かけたことも珍しいが、二人が素っ気無い態度を取ることに、柳子は違和感を覚えた。
それに、今日の母は雰囲気がいつもと違う――あ、分かった。
「お母さん、今日は髪を下ろしているんだね」
いつもはその綺麗な髪をアップスタイルにまとめている俊子だったが、その時の彼女は髪をほどいていた。いつもと違い、顔の輪郭が髪の毛で隠れていたので、印象が随分と変わるな、と柳子は思った。
『・・・・・・っ!』
柳子の指摘に、俊子は一瞬怯えたような表情を取るも、すぐに取り繕って言葉を返した。
『ええ、そうよ』
「良いじゃん。私もたまにはそうしよっかなー」
『・・・・・・』
柳子の声が届いていないのか、洗濯物を畳んでいた俊子は、喬司のワイシャツを手に取りながら、呆然としていた。
(変なの)
でもまあいいか――テレビでも見ようかなと思い、柳子は辺りを伺った。
「あ、リモコンお母さんの方だ。お母さーん、リモコン取っ――」
『それくらい自分で取りなさい!』
母から不意に発せられた怒声に、柳子は思わず身を萎縮させる。恐る恐る母の方を見ると、彼女もまた驚いた表情を浮かべて、柳子を見ていた。
『ご、めんね。お母さんちょっと疲れてたのかも・・・・・・。リモコンね・・・・・・はい、どうぞ』
苦しそうな表情と、それを隠すような口調だった。
「あ、うん。そういうときもあるよね、はは・・・・・・。洗濯物畳むの、私も手伝うよ?」
『ありがとう・・・・・・大丈夫よ。もう終わっちゃうから。でもお母さんやっぱり疲れちゃったから、ご飯の支度したらちょっと横になるね』
小学生である柳子ではあるが、母に何か大変なことがあった事が察せられた。それが何なのか、気にはなったけれど尋ねることはしなかった。
どこかのタイミングで聞けばいいや。
大人は直ぐに動くでのはなく、計画を立ててから行動するのだと、ミカちゃんの持っていたあの雑誌にも書かれていた。
『ごめんね。これ買ってきたやつだけど』
夕飯の時間に俊子がそう言って、プラスチックのトレーに入った惣菜を食卓に置いた。
「それは別にいいけど――今日お父さんは?」
柳子は向かいの席を指差してそう言った。そこはいつも夕飯時には喬司が座っている席だった。俊子の隣のその場所は、どうしてかその晩は空席となっていた。
『お父さんは・・・・・・急に仕事で会社に呼ばれちゃったんだって』
「そうなんだ。お仕事なら仕方ないね。いただきまーす」
普段は三人で食べる夕飯が、今日は自分と母の二人だけということや、大好きな母の手料理を食べられないことに、言い知れぬ寂しさを感じた柳子だったが、それを口に出すことはしなかった。
もう子供じゃないんだから、ああしたいこうしたいなどと、文句を垂れていては格好が悪いだろうとの考えだった。
また、その日の食卓の寂しさは、母のランチョンマットに置かれた料理の少なさも寄与していた。
(お母さん、食欲ないのかな・・・・・・?)
小さなお茶碗にひかえめによそわれたご飯のほかには二口、三口分のおかずが置かれているだけである。先ほども洗濯物を畳みながら疲労感を訴えていたことだし、今日はそっとしておいてあげよう、そう思って柳子は食事を進めた。
その日の夜中、柳子はトイレに行きたくなり目が覚めた。夜中に自室を出ることに、恐怖感を持っていないわけではなかったが、もうお化けだとか幽霊だとかは克服できていたので、躊躇無くベットから出た。
トイレから出ると、聴いた事の無い音鳴が柳子の耳に入った。二階には彼女の部屋とトイレの他には、喬司と俊子の寝室があるのみだった。
「お母さんたちのところからかな・・・・・・?」
音の正体が気になって、柳子は両親の部屋のドアを開けた。ギリギリギリと、規則的に聴こえていたその音が一際大きくなった。やはり音はこの部屋からだった。でも一体この中のどこからだろう、という疑問はしかし、すぐに解決することとなる。
部屋には喬司の姿が無く、音の発生に合わせて、俊子の顎が動いていたからである――歯軋りであった。
(お母さん、歯軋りなんてしてたっけ?)
暫く一緒に寝てなかったから知らなかった。そんなことよりお父さんはまだ帰ってないのだろうか――柳子が考えを巡らせていると、家の外から聞きなれた鍵束のぶつかり合う音と、ガチャリと玄関のドアの開く音が聴こえた。
(この音、お父さんだ!)
別に後ろめたいことをしていたわけではないが、喬司たちの寝室にいるところを見られて、何かを疑われるのも嫌だったので、少女は急いで自分の部屋に戻った。ベット脇の小さな置時計を見る。二時を過ぎた頃だった。お父さんはこんな時間まで会社にいたのだろうか――柳子は不思議に思ったが、重たくなる瞼がその思考に蓋をかけて、少女を眠りへと導いていった。
*
朝のごみ捨てをするのが、思川家での柳子の仕事だった。今日は火曜日だったので、ビン・缶・ペットボトルを捨てる日だった。
「行ってきまーす」
大きく膨らんだゴミ袋を二つ持って、柳子は家を出た。彼女の住むエリアのゴミ捨て場は、柳子の所属する登校班の集合場所にあった。
『りゅーこちゃんちの袋大きいね』
既に集合場所に来ていた三年生の男の子がそう言った。そうかな? 疑問に思い、ごみ袋を高く持ち上げる。確かに前まではこんなにゴミが出ていなかったような・・・・・・。訝しんで袋の中身を透かしてみると、銀色のアルミ缶がやけに多いことが見受けられた。
喬司が晩酌でいつも飲んでいる発泡酒の缶だった。言われてみれば、ここ最近のお父さんはよくお酒を飲んでいるなと、柳子は合点がいった。
マイブームってやつかな?
『じゃあ出発しまーす』
六年生の班長の呼びかけに、慌ててゴミ袋を収集所のコンテナの中に放る。空き缶なんてどんなに増えても重たくならないし、別に構わないか、と柳子はそれ以上のことを考えるのをやめた。
その日、柳子は友達と公園で遊んでから、いつも通り夕方の鐘を聴いてから帰宅した。
「ただいまー」
玄関には俊子の靴があったので、家には帰っているのだろうが、母からの応えは無かった。ベランダで洗濯物でも取り込んでいるのかな? そう思った柳子だったが、リビングに入って、そこに俊子の姿があるのを見て納得した。
母は椅子に座りながらテーブルに身を預け、眠っていたのだ。
「だらしないんだから・・・・・・。お母さん、そんなところで寝てると風邪引いちゃうよー。ねぇ、おか――」
思わず、絶句する。
俊子の肩を揺すって起こそうとした柳子の目に、母の衝撃的な姿が飛び込んできた。
(嘘・・・・・・!)
俊子のその乱れた頭髪のなかに、頭皮が剥きだしになっている箇所があった――円形脱毛症だった。
柳子もその症状についてはいつかのテレビで見て知ってはいたが、それを母の身体から見つけることになるとは思ってもみなかった。
母の綺麗な墨色の髪の毛の中で、異彩を放つその橙色が、柳子の目には酷く醜いものに映った。
――気持チ悪イ
口元を押さえてトイレに逃げ込む。胃からせり上がる不快感は、やがて実体を伴って柳子の喉元から逆流した。――どうして、お母さんが。
「はあ・・・・・・、はあ、・・・・・・うっ」
もう出すものが無くなったからか、吐き気は治まってきた。けれど依然喉はイガイガとするし、口の中は酸っぱかったし、目からは涙が出た。洗面所で口をよくすすいでから顔を洗う。不快感は僅かに残ったが、先ほどよりは幾らかマシになった。
柳子がリビングに戻ると、母はすでに目を覚ましていた。
『柳子帰ってたの。おかえりなさい』
「た、ただいま・・・・・・」
『――柳子! あなた顔色悪いわよ! 大丈夫!?』
娘の異変に気がついたのか、血相を変えて俊子が顔を覗き込む。柳子は数分前までトイレに篭って嘔吐していたのだ。大丈夫なはずも無かった。
(でも、そんなこと言えない)
柳子はとっさに、ありもしない話をでっち上げた。
「明日リコーダーのテストで、今から緊張しちゃって・・・・・・」
『なんだ・・・・・・そんなこと』
「そんなことって何!」
手のひらを返すように態度を改めた俊子に、柳子は児戯を演じてがなりたてる――良かった、ばれてない。
母は今、明らかに何かと戦っていた。その相手は、もしかしたら柳子の良く知る人かも知れないが、それ以上を考えるのはやめた。ひとまず柳子が気をつけるべきは、そんな母にこれ以上の負担をかけないようにすることだった。
――私は元気で無邪気な可愛い娘に徹さなくちゃ。
『ふふ、なんでもない。さ、手を洗ってきなさい。晩御飯作っちゃうから』
「はーい」
その日の夕餉は、父の帰りを待つことなく始まり――終わった。どうして父はいないのか、少女は聞かなかったし、母親も何も言わなかった。
夜のドラマを見終えてから歯を磨いて、俊子におやすみなさいをしてから、柳子は自分の部屋に戻った。学校の宿題は全て終えていたので、後は寝るだけだった。
が。
(あれ・・・・・・なんか眠れない)
いつもだったら、睡魔に身を任せてとっくにぐっすりとしている時間になってもなお、眠気を催さなかった。別に、目が冴えるというわけではなかったが、眠気が来ないのでは、柳子にはどうすることもできなかった。
(布団に入って目を閉じてれば、そのうち眠れるでしょ)
そう思って目を瞑るも、時計の秒針の動く音が気になって眠ることができない。どうしてだろう。いつもは気にならない小さな音が、柳子の頭に大きく響いた。明日リコーダーのテストがあるというのは、柳子の口からでた方便ではあった。とはいえ、テストが無くとも寝不足で学校に行くのは避けたかった。
それから何度も寝返りを打っていたが、一向に眠気が降りてこない。ホットミルクでも作ってそれを飲めば寝られるかな、そう考え一階へと降りた。ダイニングに繋がるドアに手をかけたところで、ドアの奥から誰かの話し声が聴こえた――俊子のものだった。
盗み聞きをするつもりはなかったが、中に入ってもいいのかが分からず、立ち止まってしまう。扉の向こうの母はよほど会話に集中しているのか、柳子が降りてきていることには気が付いていないようだった。
『お母さん――』
どうやら母は、その母、つまり柳子の祖母と電話をしているようだ。かなりの歳を召している祖母が、こんな時間に起きているということに、柳子はただならない緊張感を覚えた。
『あの人がリストラされて――』
『ううん、そんなことできない――』
『柳子だって未だ小さいんだし――』
「!」
自分の名前が出たことに、柳子の心臓はドキンと強く鼓動を打った。
『違うのそうじゃないの――』
『私が初めから支えて上げられなかったから――』
『ごめんなさい――』
『ごめんなさい――』
何度も謝る母のその声が、聞いていてあまりに辛くて、少女は目の前の扉を開けることができなかった。両目から溢れ出る涙を彼女は拭き取ることはせず、喉が痙攣して洩れる嗚咽を、どうにか母に聞かれないようにと、パジャマの袖を強く噛み締めて耐えた。
私は我慢しなくちゃ。本当に辛いのはお母さん自身なんだから・・・・・・。私のこの苦しみが両親に知られてしまえば、私はきっと彼らの重荷になってしまうから。
――だからこの思いは隠し通さなければいけない。
――だって私は大人なんだから。
柳子が六年生に上がる頃、彼女の両親は別居を始めた。
*
喬司に呼び出されて、柳子は彼の運転する車に揺られて隣町まで来ていた。夏の暑い日だった。行き先は告げられなかったが、柳子には父がどこに向かっているか、見当がついていた。
『さ、ついたぞ』
柳子の予想は的中し、父の車は柳子もよく見知る一軒の釣堀に到着した。
昔から父が大切な話をするときは、いつだってここの釣堀に連れてこられた。
自分が習い事をやめたいと言い出したときも、二人でお母さんの誕生日パーティーを企画したときも、ここで父と多くの言葉を交わしたことを、柳子は昨日のことのように覚えている。しかし今までのどんなときだって、こんなにも重たい気持ちでここに訪れたことはなかった。
年季の入った重たいガラス戸を開けて、二人は受付に足を運ぶ。いつ来ても他の釣り客を見かけないが、どうして経営を続けていられるのか、柳子には昔から不思議だった。
「大人一枚」
受付の老婆に喬司がそう言った。柳子は魚を触るのは勿論、練り餌に触れるのも嫌だったので、いつも父に付いて、隣で見ているだけだった。
釣堀の淵に上がると、強い日差しの当たる水面から、むっとした熱気が立ち昇っていた。独特なその臭気に、柳子は思わず顔をしかめる。
『ははっ、臭いかい』
「別に、もう慣れたし」
『本当かー? でもま、柳子がここに来るのも・・・・・・これが最後かもしれないな』
「・・・・・・」
喬司は『ここらにするか』と言って、逆さにされたビールケースに腰掛けた。その隣に柳子も座ると、父から麦藁帽子を頭に乗せられる。頭の小さな少女に対して、その帽子はサイズが大きすぎて、視界が塞がってしまう。フチを掴んで帽子をずらそうとするその手は、しかし喬司の言葉によって止められてしまった。
『父さんな、ずっと前からお仕事に行ってなかったんだ』
「・・・・・・うん」
喬司と俊子が別居を始めてから、柳子はその理由について説明を受けたことはなかったが、何が起きているのかは、凡そ理解していた。なにより、あの夜に電話で祖母と話していた母の言葉が、全てを物語っていた。
『そのことを柳子にもそうだけど、お母さんにもずっと隠してたんだ』
「うん」
『そのことがばれてから、俊子には随分と酷いことをしたし、悪いことも言った』
「うん」
『本当に情けない話だけど、あの頃の父さんは・・・・・・もうダメになってた』
父の声が、どんどん小さく、そして弱弱しくなっていくのを、柳子は大人しく聞いていた。
麦藁帽子で目隠しをされている彼女には、喬司がどのような顔をしてそんな話をしているのかを見ることはできなかった。けれど、今は父と顔を合わせないで済むことに、助けられてもいた。優しい声音で言葉を紡ぐ父の、悲哀に満ちたその懺悔を、面と向かって受け入れる勇気が柳子にはなかった。
『あれから独りになる時間を俊子に作ってもらって、俺も立ち直ることができた。そこでようやく俺は、彼女の愛に、いかに自分が助けられていたかが分かったよ』
「じゃあ――」
『――でも、今更お母さんに許してもらえるなんて思ってはいない。そんな望みを持つには、俺は俊子を傷付け過ぎた・・・・・・』
「え・・・・・・」
どんどんか細くなっていく喬司の言葉に、柳子は何も言えなくなってしまう。
――どうして?
――もうお父さんは大丈夫なんでしょう?
お母さんは確かに怒ると怖いけれど、お父さんを許さないなんてことはない。もしお父さんが一人で行くのが怖いのなら、私も一緒についていってあげるから!
そう言えたら、どんなに楽だったろうか。
柳子が黙っていると、喬司は佇まいを改めて、明るい調子で話を続けた。
『父さんな、ようやく次の仕事も見つかったんだ。そこで、一つお願いがあって、今日は柳子をここに呼んだんだ』
「お願い?」
前までの、自分が良く知る父親の弾んだ声に、ようやく柳子は言葉を返した。
『そう、お願いだ。さっきも言った通り、父さんはもう大丈夫だから、柳子にはお母さんの方を支えてあげてほしいんだ』
父の言っていることは理解できた、けれど、理解したくなかった。
『柳子も知ってる通り、母さんは一見平気な顔をしてその裏、見えないところで多くを抱え込んでしまう人だから、誰かが傍にいて支えてやらないと、一人ではやっていかれないんだ』
柳子は一年前の母の姿を思い浮かべていた。
『それくらい自分で取りなさい!!』
私の何気ない言葉に怒鳴りたてるときもあった。
『――柳子! あなた顔色悪いわよ! 大丈夫!?』
自分の身体に深刻な症状が現れるほどに追い詰められていながら、辛そうにする私のことを何より気にかけてくれた。
『ごめんなさい――』
『ごめんなさい――』
確かに父の言う通り、母さんはあの時、限界を迎えていた。でも、それなら支えるのは私じゃなくてお父さんだって良い筈じゃ――喉元まで出掛かった言葉は、しかし父の言葉によって遮られる。
『――柳子はしっかり者だから、大丈夫だよな』
ズキンと胸に鋭い痛みを感じた。柳子は頭に載せられた麦藁帽子を取り払うと、自分を見つめる父の視線を受け止める。その諦観にも似た安堵を滲ませた眼差しに、柳子は本音を言えなくなってしまう。
「うん――分かった。私なら大丈夫だから・・・・・・お母さんのことは任せて」
『良かった』
柳子の言葉を受けて、喬司はほっと息をついてその肩を撫で下ろす。
(そうだ、これでいい)
私は両親の重荷になるようなことがあってはいけないんだ。お父さんの言う通り、今は私がお母さんを支える時だ。私がそうすることをお父さんだって望んでいるじゃないか。
そうだ、これで良いんだ。私は大人なんだから――そう自分に言い聞かせてるうちに、胸の痛みが軽くなっていくのを柳子は感じた。
私の気持ちなんて、心のどこかに隠してしまおう。そうすればもう苦しまないで済むし、お父さんやお母さんだって助かるんだから。良いことづくめじゃないか。
こんな『気遣い』ができる私は、なんて親孝行者なのだろう。
*
それから一ヶ月後。家で留守番をしている柳子の元に、彼女の母方の祖父母――俊子の両親が訪れた。
母はパートに出ている時間だと伝える。
『柳子ちゃんに用があるんだよ』
いつもはにこやかな二人が、真剣な表情でいるところを見るに、きっと喬司と俊子に関することだと、柳子は感じ取った。リビングに二人を通すと、少女は用件を促した。
二人は互いの顔を見て一度頷くと、祖母の方から先に口端を切った。
『柳子ちゃんには辛い話かもしれないけど――』
柳子の予想通り、両親が別れることに関してだった。『離婚』だとか『親権』だとか、喬司と俊子が娘に対して使うの避けていた語句の数々を、何の躊躇もなく老夫婦は口に出して言った。きっとそれらは、娘の柳子が聞かなければならない言葉であると同時に、両親にとって娘の柳子には言いたくなかった言葉だったのだろう。
最後に老夫婦は、
『柳子ちゃんはお母さんとお父さん――どっちと一緒にいたい?』
と訊ねた。
恐る恐る柳子に聞くところを見るに、ひと月前に釣堀で父の喬司が柳子に伝えたことを、彼らは知らないようだった。
無論、だからといって少女の出す答は変わらなかった。
「私はお母さんに付いていくよ。私がお母さんを支えないといけないから」
『そうか、そうか』
と老夫婦は静かに頷く。続けて、『それがいいよ』と嬉しそうに付け加えた。
『柳子ちゃんは偉いね』
そう言って皺だらけの手で、祖母は柳子の頭を撫でる。撫でられた柳子はちっとも嬉しく思わなかったが、
『偉い柳子ちゃんにはお婆ちゃんたちからご褒美をあげないとね。一緒にショッピングモールに行こう』
という提案は魅力的だった。まだ小学生の身の上で、複雑な家庭環境を持つことになる柳子の心理的ダメージを、即物的に和らげようという老夫婦なりの優しさだった。前までの柳子であるならば、そのような分かりやすい子ども扱いには気を悪くしていた。しかしそんなことにムキになる心もどこかにしまいこんで、無邪気に祖父母の手を取ってショッピングモールに向かうことにした。
『お爺ちゃんとお婆ちゃんはもう疲れてしまったから少し休んでるよ。好きにお店の中を見て回ってきていいよ』
『でもあまり遠くに行ってはいけないよ』
という老夫婦の言葉を背に、柳子はショッピングモールの散策を続けた。初めて来る場所ではないが、一人で歩いた経験などなかった。適当に欲しいものを見繕って、すぐに祖父母の元に戻ろう、そう思っていた柳子であったが、
(ここ、どこ・・・・・・?)
自分がどこにいるのか、というよりは、祖父母たちがどこで待っているのかが、分からなくなってしまっていた。
エスカレーターを降りたり昇ったりしているうちに、自分が何階から来たのかすら忘れてしまった。これはまずいな――不安に思い、辺りを見渡していると、少女はとある異変に気が付く。
(なんだろう・・・・・・多くの人が、同じ方向に向かって歩き出したている)
どうせ何も手がかりは無いのだし、彼らについていくのも悪くないかと、半ば焼け鉢になりながら柳子は歩みを進める。
やがて、ショッピングモールの吹き抜けの底に位置する、開けたイベントスペースに辿りついた。
着ぐるみショーでもやるのかな? 彼女のその推測は――会場に響き渡る楽器の音色によって否定された。
三味線・太鼓・笛の三重奏は、これがショーの開幕ではないことを柳子に訴えかけてきた。ショーと同じなところといえば、観客の万来の拍手が、演者の登壇を迎え入れることくらいか。
(地味な服装をした人が出てきた・・・・・・なんで和服?)
彼女の疑問に答えることなく、演者は座布団に腰掛け、叩頭する。途端に拍手の音が先ほどのそれよりけたたましく、イベントスペースを包み込む。思わぬタイミングで拍手がぶり返したことに怯む柳子の後ろから、他の観客の声が聴こえてくる。
『落語やってるんだ』
『へー、珍しい』
(落語?)
どうやら今ステージの上に座っているあの人は落語家さんらしい――ということが、柳子はこのときにようやく分かった。
もっとも、落語家はテレビに出て大喜利に挑戦するお爺ちゃんたち、というイメージしかない彼女にとって、一人きりで高座に上がる噺家の姿は、非常に奇異なものとして目に写った。
――えー、本日はお足元の悪い中お集まりくださいまして誠に御礼申し上げます
出囃子と拍手の終えるのを待ってから、落語家がそう挨拶をした。
『待ってたよ!』
隣に立つ男性が、急に大声を張り上げてそう言ったものだから、柳子は驚きの余り尻餅をついてしまう。
(こ、コール&レスポンス!)
無論そんなものではなく、隣の男性が行ったのはただの野次飛ばしである。
しかし、落語はおろか、寄席を知らない彼女がそういった勘違いをするのも無理は無かった。それほどのライブ感を、この落語家は観客と共に作り出していた。
――人には必ず好き嫌いというものが御座います。貴方には貴方なりの好きなもの嫌いなもの、アタシにはアタシなりの好きなもの嫌いなものが御座います
――とりわけ『お酒』。これほど人の好き嫌いが別れるものは無いんじゃないかと思います
黒い羽織を着た噺家が、『酒』をテーマにした小噺を三つ紹介した。
――向こう二年の間、酒を断ってな、一日おきに酒を呑めばいいじゃねえか
一つ目の、『一年間の禁酒を神様に誓った男』の小噺では、客席からちらほらと忍び笑いが聴こえた。
――あぁ、あっ、こりゃどうも、ええ、はい、あはは・・・・・・ってこぼれちゃいますって、こぼれちゃいますよっとっとっとトットットット、うぅ~ん、ケッコー!
二つ目の、『色々な上戸』の噺では、半数以上の観客が笑い出した。
(何がそんなに面白いんだろう?)
柳子には、落語家のする話のどこにウケるポイントがあるのかが理解できなかった。さらに、これを聴いて楽しそうにしている周りの大人たちの気持ちも分からなかった。
テレビに出ているお笑い芸人のネタの方がよっぽど笑えるのに――そう思う彼女ではあったが、しかし、噺家の流暢な喋りに合わせて湧いていく観客たちを見て、少女の中には説明のできない胸の高鳴りが生まれていた。
(あの人の言葉で、皆が笑っていて・・・・・・それがなんだか、楽しく思える)
――ああ、冷で呑んどくんだった
「ぷはっ」
三つ目の、『男の家に酒を持った美女が尋ねてくる』噺では、とうとう柳子も失笑を漏らしてしまった。美女のミステリアスな静謐さと、それとは対照的な男の滑稽さのギャップが頂点に向かい、そこから一気にオチに向かう。遊園地のアトラクションに乗っているかのような心の振り回され方に、彼女は目の前にいるのがたった一人の人間のみであることに、強い関心を寄せた。
とてつもない技術だ。この技を身に着けるまでに、一体どれほどの稽古を積んできたのだろうか――落語家の一挙手一投足は、血の滲むほどの修練に裏打ちされたものであるのだと、素人の柳子にすら分かった。激しく立つ鳥肌で、身体中が痺れていた。
気づけば落語家は、黒い羽織の帯を緩め、それを脱ぎ去っていた。
『ちょいとお前さん、起きとくれよ、商いに行っておくれよお前さん』
『ンああ・・・・・・? あんだい、不精な起こし方しやがんなぁ、ったくこんちくしょう』
先までとは違い、何の解説もなく始まったその一人二役に、客席はしんと静まりかえる。――『本題』が始まったのだ。そのことを、落語を始めて目にする柳子ですら、肌で感じ取ることができた。
(なにこれ・・・・・・凄いよ!)
この時の三十分余りの体験が、思川柳子の人生を大きく変えることとなる。
*
『――また、夢になるといけねぇ』
汗だくの噺家が、高座を降りる。イベントスペースを包み込む万雷の拍手が鳴り止まない。
観客席の隅に立ち尽くす柳子の心には、それまでには無かった新しい感情が芽生え――否、
――常にそこにあった、確かな感情が、目を覚ましていた。
自分がしなければならないこと、言わなければならないことがあるのだと、少女は強く自覚した。胸がズキリと痛み、重たい靄がそこに圧し掛かる。身のうちに蟠るその憂鬱はしかし、本来彼女が向き合わなければならないものだった。
『こんなところにいたのか』
長く戻らない孫娘が心配になり探しに来た老夫婦は、柳子を見るなりそう言った。不安げな表情を浮かべていた。
『欲しいものは見つかったかい』
そう尋ねる祖父母に、柳子は物ではない要求を出した。
「なにも買ってもらわなくても良い。ただ――」
少女のその要求に、二人は困った顔をして見詰め合う。やがて、諦めたように頷いた。
『分かったよ』
祖父母に連れられ柳子が家に帰ると、そこには父と母の姿があった。それが彼女が老夫婦に要求した『ご褒美』だった。
老夫婦は不安そうに、柳子たち親子を見比べてから、すごすごと思川家を後にする。ドアの閉まる音が聞こえてから、喬司が言った。
『柳子、父さんは本当はもう、ここにいてはいけない人なんだ』
「・・・・・・」
父に対して沈黙を貫く少女に、俊子が優しく問いかける。
『柳子、どうしたの? 何かあった?』
正座をする柳子の顔を覗き込む母親の目元には深い窪みができており、頬は生気なく弛んでいた。暫く二人で過ごしていたのに、柳子はそんな母の変化にも気付いていなかった。
気付こうとしてこなかった。
「私、お父さんとお母さんに、見てもらいたいものや、聞いてもらいたいことがあるの」
ポツリと、少女が呟く。喬司と俊子は何があったのかと、二人で目配せをする。
『それは良いけど・・・・・・でも、今回だけだよ』
父のその言葉を受けて、柳子はこくりと頷き、そして――着ていた上着を脱ぎ去る。
「――ちょいとお前さん、起きとくれよ」
『?』
突如始まった娘の三文芝居に、喬司は首を傾げる。俊子もまた、柳子の真意が分からず狼狽えた。そんな二人に構うことなく、少女は演技を続ける
それは、先のショッピングモールで、柳子が見た『落語』だった。
そこで彼女が見たのは、人間の純真だった。
相手のことを想うが故に相手を傷つけていく。その事が何よりも自分に重たく圧し掛かってくる。それを隠しながら、生活をする者がいる。これは、そういう話だった。
「四十二両・・・・・・お前さんこんなお足一体どうするんだい!」
十分以上も一人で喋り続ける少女のその気迫に、両親は只ならぬものを感じ、固唾を飲んで見守る。まるで何度も反復をして身に着けたかのようなその喋りはしかし、柳子は先に一度聞いたばかりのものである。それをそのまま再現できるほどまでに、あの噺家の魅せた業は、彼女の脳裏とその網膜に焼きついた。
登場人物が若い夫婦であり、亭主が働かなかったことや、お酒に溺れていること。そういった演目上の設定が、彼女の身の回りにあった環境と重なったことが、柳子の心を動かした――訳では無かった。
「そんなお足があったらね、ハァ、アタシは、この寒空の下、浴衣重ね着しちゃ・・・・・・ハァ、いないよ」
何の訓練もしていない、小さな少女が、これほど長い間一人で喋り続けるのは、並大抵のことではない。それは喋る文量の多さもそうであるし、何よりペース配分を考えずに話し続けていては、やがて酸欠にもなる。ただでさえぎこちなかった柳子の語り口上は、益々そのたどたどしさを増していく。
それでも、彼女は口を止める訳には行かなかった。
言うべきことを、言わなければならなかった。
「しかし、こりゃ良いねぃ・・・・・・、こんな大晦日の、ハァ、晩に、借金取りが・・・・・・ハァ」
柳子の視界が白く明滅する。荒い呼吸は留まるところを知らず、舌の根が痺れてきていた。自分がどこまで話したのかも、だんだんと分からなくなってきた。
上手と下手が入り乱れながら登場人物を演じ分けているうちに、体勢を崩した少女は、その小さな身体を床に大きく打ち付けた。
『柳子!』
「・・・・・・っ!」
驚いて駆け寄ろうとする喬司を、柳子は空いた左手を前に差し出し制止する。
まだ、彼女の噺は終わっていなかった。鬼気迫る娘のその様に、俊子も喬司もその動きを止めてしまう。今まで一度だって、両親に見せることのなかった柳子のその情熱に、二人は何かを感じ取っていた。
――この子は今必死に、自分たちに何かを伝えようとしている。
――そしてそれを、自分たちは全力で受け止めなければならない。
二人は静かに、柳子の落語を聞き続ける覚悟を決めていた。
「・・・・うぅっ・・・・・手ぇ上げてっ・・・・・・ひぐっ、ああ・・・・・・!」
柳子が噺を始めてからすでに三十分が経ち、とうとう演目はクライマックスを迎えていた。気力のみで上演を続けていた柳子だったが、その目から溢れる大粒の涙で、シャツの袖は湿りきっていた。しゃっくりも止まらず、力み続けていた首はすでに筋肉痛になっていた。娘のその烈々たる有様に、夫婦は耐え切れず涙を落とす。自分たちが今までどれほど柳子を縛り上げ、苦しめていたのかを、二人は痛感した。俊子はそれを直視できず、口元を手で覆い、目を強く瞑った。
思川柳子があの時ショッピングモールで見たもの――それは人間が内に秘めている心を開放する『輝き』だった。
噺の中で、登場人物が自らの想いを全て相手に吐露し、二人はその仲を深めていく。その二人を全身で描く落語家の、なんと輝かしかったことか!
落語家が高座で見せていたものは、演目であると同時に、その演者の内にある魂そのものだった。噺家は江戸っ子でもなければ、その女房でもない。しかしそこには一分の嘘や偽りがなかった。
全てが落語家の『想い』だった。
日本の伝統芸能に乗せられたその眩い『想い』が、柳子の必死に隠していた両親への気持ちを鮮烈に暴き出した。
本当に想っている事や、伝えたい言葉を相手に届けなければ、人は前に進めない。
(私もお父さんやお母さんに、きちんと『私』を伝えなくちゃダメだ!)
噺家によって齎された三十分余りの黄金体験が、思川柳子をそう駆り立てた。
落語を聞いた彼女は――感動をしたのだ。
「また・・・・・・夢になるといけねぇ」
後半はもう、殆ど言葉にさえなっていなかった。登場人物の演じ分けもできていなかったし、呼吸が乱れて、発声が途切れていた。涙と洟で顔面は汚れきっていたし、汗まみれの頭髪は乱れていた。喉は擦り切れて、高熱を帯び腫れていた。
それでも、彼女は『サゲ』まで噺を続けた。
そしてようやく、彼女は彼女の『本題』に入る。もう、彼女の心は一糸纏わず――裸のままだった。
「お母さん・・・・・・うぅっ・・・・・・お父さん・・・・・・ひぐっ・・・・・・・お願い」
呼ばれた喬司と俊子は、泣きじゃくる娘の小さな身体を、強く抱きしめた。
「お願いだから、離れ離れにならないでよお!」
少女が声を上げて泣き続ける間、両親は優しい抱擁を続けた。
*
(あれからもう四年か・・・・・・)
柳子は長い回想を終え、目の前にある家族団らんに意識を向ける。あの日あの落語を聞けていなかったらどうなってただろうか――と彼女は思った。少なくとも、今のような暖かな家庭は存在しなかっただろう。私を救ってくれた落語の魅力を、落語部を通して多くの人に知ってもらいたいな、と彼女は改めて決意を固めた。
「柳子なにか言ったか?」
長く物思いにふけていた柳子に喬司が尋ねた。
「ううん、なんでもない」
柳子は目の前にあるから揚げを一つ口にする。感想を言うと、俊子が嬉しそうに微笑んだ。
「ん! お母さん、このから揚げも絶品だね!」
「本当? ふふ、なら良かったわ」
(家族揃って食べるご飯は、やっぱり美味しいな)
熱々のから揚げと、暖かな幸せをかみ締めながら、柳子は四年前のあのショッピングモールでのことを、再び思い返していた。あの日の思い出に関して、今でも柳子の気にかかることが一つだけあった。
あの日――
――あの『芝浜』をかけた、私と年端の変わらぬ少女は今頃どうしているのかな・・・・・・。
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