第6話 だくだく
ぎぃと音を立てながら、屋上の扉が開く。今の空と同じような鈍い灰色をしたコンクリートの上に、一人の少女が踏み入る。サラサラとしたミディアムヘアを揺らしながら、彼女はあたしの元へと歩みを進めた。
「昨日は、本当にごめんね」
思川柳子さんはいつもの場所に腰を降ろしながら、こちらの様子を窺うようにそう呟く。それに対してあたしは、
「いえ、こちらこそ・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
空気が、重たかった。
今までに友人ができたことが無かったほどのあたしは、当然ながら友人と揉めたことも――そこから何ということもなく元通りの関係になった経験もなかった。
思川さんにはかつて、パンケーキを食べたことがないことなどを『経験貧乏』と揶揄されたことがあった。それでいうなら、あたしになによりも欠乏している経験は、交友経験で間違いないだろう。
今までどうやってこの子と話していたんだっけ・・・・・。
そんなあたしの悩みを破るように、思川さんは口を開いた。
「私が前住んでいたところは結構田舎でさ、そのせいかは分からないけど、散歩をしている人を見ることが多いんだよ。中にはペットの散歩をしている人もいるわけなんだけど、私の住んでいたお家の近くをよく通るおじいちゃんがいてさ」
長い話になるのだろうか、思川さんはそこで一旦言葉を区切り、水筒に口をつけて喉を湿らせた。
小山市に引っ越してくるまでは長野県の松本市に住んでいたという思川さんが、過去の話をあたしにすることは稀だった。一体思川さんはこれから、あたしに何を伝えようとするのだろうか。静かに固唾を呑んで、彼女の続きの言を待った。
「そのおじいちゃんは、散歩をさせているワンちゃんのリードは握らず、ただ一緒に歩いているだけなんだよ。小さい身体で腰を大きく曲げながら、頼りない足取りでふらふらと歩いてるものだから、これがまた見ていて頼りないおじいちゃんでさ。ある日私が家の前を歩いていたら、丁度前からそのおじいちゃんとワンちゃんが歩いてきてね、ワンちゃんが私の靴に鼻をスンスンとしてきたわけ。それでおじいちゃんの方はおぼつかない足取りで、少し離れたところからこっちに向かって歩いていて、そこで私は一つの疑問が頭に浮かんだんだよ」
「疑問? 今のところはただ平和な情景があるだけのようだけれど」
「そう。まさにその平和を、壊したらどうなるんだろう・・・・・・って思ったんだよ」
「え、なんの話だったかしら」
「例えば――そのワンちゃんを私がその場でガバッと抱きかかえてダッって即攻で連れ去ったら、このお爺ちゃんはどうするんだろう、って」
「怖い怖い怖い!」
「歳のせいで霞む視界の向こう側で、自分の愛犬が見ず知らずの女子高生に連れ去られるんだよ。悲しむより、驚きの方が勝るのかな。いやそもそも、何が起きたのか信じられず、暫くは放心しちゃうのかな」
「やめて頂戴・・・・・・聞いているだけで胸が痛くなってきたわ」
「なんてね。ふふっ冗談だよ。そんなマジにならないでよ」
思川さんは屈託の無い笑みを浮かべながら、綺麗な色をした卵焼きを頬張った。前に自慢をしていた母親の手料理は今日も変わらず美味しかったのか、ご機嫌な様子で頷きながら、両足をぱたぱたと振った。
「そういえば末広さんって、動物だったら一番何が好き?」
「あんな話をされた後で、あなたに自分の好きな動物を教えるのはかなり憚られるわね・・・・・・」
「だから冗談だって! なんなら私は犬が一番好きだもん! ちょっと、その疑うような目をやめてよ!」
あたしの反応に、思川さんはかぶりを振って弁明する。
思川さんの日ごろの言動を見ていると、本当にそういったことをするのではないかという危うさを感じずにはいられないのよね・・・・・・。
こほん、と堰払いしてからあたしは答えた。
「そうね・・・・・・馬か、カピバラかしら」
「なにその微妙なチョイス・・・・・・」
胡乱気な瞳をこちらに向けながら思川さんは片目を歪めた。猫とか兎とか言っておけば良かったかと、自らの失言を省みながら、あたしは理由を告げた。
「だって、馬は速くて格好いいし、カピバラはのそのそとしていて可愛いじゃない」
「好きの基準が移動スピード!? しかも遅くても速くてもどっちでもいいんじゃん!」
「・・・・・・なんて冗談よ。本当は猫や兎が好きなの。あれらは小さくて愛らしいわ」
「ダウト」
「う」
暫く女子高生らしい(?)会話をしていると、昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴った。いつの間にか随分と時間が過ぎていたらしい。一口ばかり残っていたあんぱんを口に放ってから立ち上がる。
「教室戻ろっか」
と言ってからあたしの前を歩く思川さんの後姿を見遣る。先からずっと頭の隅に浮かんでいたもやもや感の正体に、あたしはやっと気がついた。
――今日の思川さんは、一度も落語の話をしていないのだ。
時々、いやでも考えてしまうことがあった。
あたしの身に深く突き刺さる『落語』という針は、むしろ思川さんとの関係を繋げる楔にもなっているのではにかと。あたしと彼女との関係は、落語の勧誘をする者と、それを断る者という立場のおかげで続いているのではないかと。
この関係が健全であるのかどうかを、今までのあたしには決めることが出来なかった。それを自分の中で明確に判断してしまうことで、取り返しのつかない結論が導かれてしまうことが怖かった。
けれど、今日の思川さんを見て、あたしは彼女のその姿を是とすることができなかった。
思川さんの素敵な、活き活きとした奔放さが薄らいで見えたのだ。
彼女自身、提供する話題やトークの進め方にセーブを掛けたのだろう。それ故に、今日の思川さんのふるまいがいつもと違って見えたのだ。
今のあたしなら断言することができる。
関係の膠着状態に依存したあたしたちの環境は歪で、不健全であると。
だから、あたしはもう一度彼女に踏み込まなければならないのだと思う。三週間前のあの日、彼女をお昼休みの食事へと誘った、あのときのように。
それでも、あの日と違うことがあるとすれば、関係を築くための一歩ではなく、関係を固めるための一歩を踏み出す必要があるということだ。
こちらに背を向けている彼女の背に語りかける。
「思川さん、今日は一緒に帰らない?」
今度は、すんなりと言えた。
*
普段は橋本さんや小林さんたちと下校をしている思川さんが、あたしと一緒に学校を出るのは、彼女が転入をしてきた日以来だった。
あの日とは違い、思川さんの横には通学用の自転車があり、彼女はそれを押して歩いていた。駅に向かう道すがら、ふと歩みを止めた彼女から声がかかった。
「あれ? どっち行くの?」
「どっちって、駅はこちらでしょう」
「ここ曲がったほうが近道だよ? うちの高校の人もみんな使ってるし」
「・・・・・・」
入学して一ヶ月目の転校生に、効率的な下校路を教わる在校生って・・・・・・。
確かにこの辺りから、やけに神鳥谷高校の生徒の姿を見かけないとは思ってはいたけれど。
「そういえば末広さんってチャリじゃないんだ」
「ええ。あたし自転車に乗れないかもしれないから」
小山駅から神鳥谷高校までは歩いて三十分ほどかかる。知ったときには最寄り駅からそんなにも距離の離れた高校があるのかと驚いたものだが、地方では結構よくあることらしい。それでも、この距離を自転車を使わずに通っている生徒は稀だった。
「ははっ、それウケる。・・・・・・え、マジのやつ? 『かもしれない』って・・・・・どういうこと?」
「あたし、今まで一度も自転車に乗ったことがないのよ。だから自分が自転車に乗れるのか乗れないのかも判断できないのよ」
「それ絶対乗れないに決まってるから! 自転車って練習無しじゃ絶対乗れないんだからね!?」
あたしがよっぽどおかしなことを言ってしまっているのか、思川さんは目を白黒とさせながら、そう叫ぶ。それに対して、私はうんうんと頷いた。
「やっぱりそうなのね。なら自転車を買わないで正解だったようね。『かもしれない運転』の意識を推奨している交通省には頭が上がらないわ」
「『かもしれない運転』ってそういうんじゃないから! え、というか乗ったことがないって、そんなことあるの・・・・・・?」
小学校・中学校と、移動手段は電車かバスであったために、自転車に乗ろうと思うことなんてなかったのだ。しかし、あたしが自転車に乗ったことがないという事実がそんなにも驚きだったのか、思川さんはしばらく「やっぱり本当にお嬢様なのかな・・・・・・」などとひとり言を漏らしていた。
やがて、あたしたちは小山駅の東口に到着する。
「末広さんって帰りは上り? 下り?」
「上りの列車よ」
「じゃあ私と一緒だね」
と言って、思川さんがにっこりと笑う。
そういえば、前回一緒に帰った際には駅に着く前に分かれてしまったので、お互いがどこから高校に通っているのかも知らないままだったのだ。
「私は間々田駅で降りるけど、末広さんは?」
改札を潜ってからコンコースを少し歩いたところで、思川さんがそう尋ねる。私が都内から通っていることは別に隠すつもりではないので、正直に答えることにした。
「新日本橋」
「へ?」
「だから一緒なのはここまで・・・・・・んがっ」
歩きながらそう言う私の背中を、思川さんが掴んだらしく、思わず前方に倒れそうになるのを、足に力を入れてぐっとこらえる。後ろを振り向くと、信じられないものを見るかのような表情の思川さんと目が合った。
「ちょ、ちょっと待って! なに、そういうギャグ?」
「こんな変な冗談言わないわよ」
「え、たんまたんま。どゆこと? なに? どうして?」
あたしが新幹線を利用して登校していることが驚きだったのか、彼女はあたふたとした表情で質問攻めをする。
――というか前から思っていたけれど、この子未だに『たんま』って使うのよね。
「在来線だと時間がかかりすぎるもの」
「や、どうして新幹線を使っているのかじゃなくて! 新日本橋ってなに、末広さんって東京都から通ってるの?」
「そうよ。そんなに驚くことかしら。乗り換えがあるとはいえ、たったの三駅よ」
「そう言っちゃえばそうだけど! うーん・・・・・・感覚のズレが否めないな・・・・・・」
「それはそうと思川さん、その、いい加減背中を放してほしいのだけれど」
「あ」
先ほどからずっと掴みっぱなしだったブレザーの裾を、彼女はゆっくりと解放した。さすがに気恥ずかしくなったのか、誤魔化すように「えへへ」と笑った。
それから少しずつ歩みを進めていると、今度こそ本当に、あたしと思川さんの帰路の分岐路に辿りつく。となれば、いよいよ本題に入らなければならない。
「思川さん」
あたしの声色が先ほどまでのそれとは赴きを異とすることが伝わったのか、あたしの呼びかけに対して、思川さんは真剣な眼差しを湛えて、こちらに向き直る。
綺麗な目だった。
あたしがこれから何を言ったとしても、思川さんは真摯にそれを受け止めてくれるだろう。この一ヶ月の付き合いで、彼女のほかの人間に対する素直さや実直さがよく分かった。だからあたしも、躊躇わずに切り出すことができた。
「思川さんは――どうしてあたしを落語部に誘うのかしら」
緊張しなかったといえば嘘になるだろう。けれど、今までのあたしとは違い、彼女の懐の深さを知っている今のあたしに、迷いはなかった。
「友達がいなさそうだから、というのは本当の理由ではないことくらい、なんとなく分かってきたわ。ええ、なんとなくだけど」
「絶対引きずってるじゃん! ごめんって! そ、それはあくまできっかけであって、友達がいないところに漬け込んで勧誘をしているわけではないよ。・・・・・・本当だよ?」
と言って、思川さんは気まずそうに目を伏せる。勿論そんなことは分かっているし、友達がいないのは事実なので、あたしも(ちょっとしか)傷付いてはいない。
それに、新学期そうそう悪目立ちをし、孤立していたあの日のあたしにも優しく接してくれた彼女の暖かさを、既に知っている身としては多少の毒舌も快く受け入れられた。
こほんと堰払いをしてから、彼女は仕切り直して言葉を紡いだ。
「前も話したと思うけど、末広さんの堂々とした佇まいや」
「滑舌の良さだったかしら」
「そうそう。あとはその記憶力もだね」
「記憶力? そんなことも言っていたかしら。全く記憶にないわ」
「そんな頭の回転の早さも」
もはや何を言っても全て肯定的に、落語の素養へと結び付けられてしまう。べた褒めではあるものの、こうして口説かれていて悪い気はしなかった――落語と紐付けさえされなければ。
「じゃあ、今度は逆に私から質問してもいいかな。どうして末広さんは落語をしたくないの?」
「・・・・・・落語なんて、今どき流行らないからよ。今どきの高校生がやるものなんかではないのよ」
ぴしゃりと断言する。もしも落語が今の子にウケる文化なのだとしたら、あたしはこんなにも学校で浮いてはこなかった――彼女にそんな事は勿論言えないが、そのことが何よりの証明だった。
しかしそんな風に胸を張ったあたしの言葉だったが、それを思川さんはさらりといなした。
「一理はあるね。でも、そういう末広さんだって、あまり流行モノとかに流されるタイプには見えないよ。学校でも、今みたいに帰り道でも、スマホを全く触らないし、スカートの丈だって膝の高さ。リップもヘアオイルも使ってないでしょ」
ぎくりとする。確かに思川さんの言うとおり、あたしは流行りだとか、今どきとかそういったものとは程遠いタイプだ。雑誌やテレビを見て勉強はしているのだが、センスの無さか育ちの違いか、年頃の女の子らしくない仕上がりになってしまっているのは否めない。そんな己自身を棚に上げて落語の欠点を挙げへつらっても、説得力に欠けるのは確かだろう。
ちなみに、リップやヘアオイルにもそろそろ手を出そうと思って、今で一年になる。
「そもそも・・・・・・落語なんて、ナンセンスだからよ」
「感じ方は人それぞれだけど、この間お昼休みに屋上で、私と一緒に聞いた落語は面白くなかった?」
「それは、その・・・・・・」
つまらなかった――そう言えれば、きっとこの会話に終止符を打つことができるのだろう。しかしどうしたってそんなことを言うことはできなかった。父の演じた『短命』は、非の打ち所のない名席であった。それは認めるしかない。
現状、押され気味になっているのは否めなかった。それ程までに、彼女があたしを真剣に落語部に入れようとしているのだと分かったが、それでもあたしは彼女の気持ちに応える気にはなれなかった。
「どうしてあたしを落語に誘うかではなくて――どうして貴方は落語に誘うのかを、あたしは未だ一度も聞いていないわ」
「うっ。それは・・・・・・そうだったね」
今まで緩むことの無かった思川さんの気勢が僅かに削がれたらしく、ここにきてようやく思川さんは言葉を詰まらせた。
実を言うと、非常に多弁な彼女が今まで一度も喋らずに、不自然なほどに避けてきたこの話題にこそ、思川柳子の隙があるのではというのが、あたしの推測だった。
問いただすあたしから目を逸らしながら、「あー」とか「うーん」とか声にならない唸りを上げていた思川さんだったが、やがて覚悟を決めたのか、小さく頷いた。
「うん。ちょっと重たいかなと思って末広さんには言ってこなかったけど、やっぱり隠し事は無しだから言うね」
前髪を手櫛で梳かしながら、思川さんは自分の中のリズムが整うのを待っているかのように目を瞑って、深呼吸を一つしてから、目を見開いた。
「落語はさ――私にとって『救い』だったんだよ」
「・・・・・・続けて」
抽象的な言い回しではあったけれど、思川さんの言葉には確かな重みと、確かな想いが感じられた。ならばこちらも、彼女の言葉を真剣に聞かねばなるまい。余計な口を挟まずに、あたしは彼女の続く言葉に耳を傾けた。
「前も少しだけ話したかもしれないけど、小さい頃に私結構参っちゃってるときがあってさ。疲れてたっていうか、限界だったっていうか、そんな感じだったんだけど。そんなときに一つの落語に出会って――そして私はその落語に救われたんだ」
「・・・・・・」
「落語がなかったら、今みたいに笑ってはいられなかったと思う。落語にはさ、そんな風に人を助ける魅力があると私は思ってる。もしも、私が落語で救われたみたいに、何かで困っている他の誰かも落語で救われたりしたら――こんなに素晴らしいことはないと考えてるんだ」
それが、あたしに落語の魅力を伝えるための方便ではなく、正真正銘の本心からくる言葉であることは間違いがなかった。射抜くような鋭さを持ってあたしを見つめる彼女の視線が、何よりの証拠だった。
ようやく、腑に落ちた。
今までの思川さんの、ある種異常とも取れる落語部への勧誘を支えている覚悟が一体何なのか。それが分からなかったあたしには、思川さんの本当の姿が見えていなかったのだ。
蒙が啓くようだった。あたしが落語をしたくないと思う気持ちと、彼女の落語を好きだと想う気持ちは、全く別の問題で、そのベクトルは間逆を向いてはいない――ならばどこかに、あたし達の考えを合わせる方法があるのではないだろうか。
あたしたちの思いはきっと、共存ができる。
「そうだったの。なら――」
「だから私はそんな落語の素晴らしさ――感動を色んな人に伝えるために、落語部を作るの」
優しく微笑む彼女の姿が、しかしあたしの視界の中でビタと固まる。それはまるで、時間が止まったかのような錯覚だった。
『感動』という言葉を聞いて、頭の隅に鋭い痛みを感じ、過去の自分の決意があたしの両肩に重く圧し掛かる――危なかった。
このまま彼女の言葉や熱意に押され続けてしまっていたら、何かの間違いで私は落語を再開してしまい、かつての私の覚悟を踏みにじってしまうところだった!
それだけはしてはならない。
あたしだけはそれをしてはならない。
落語で感動を生むこと。それがどれほどの高みにある栄光なのかを、あたしは嫌というほどに知ってしまっている。
だから、思川さんの言葉をそのまま認めることはできなかった。
「・・・・・・あたしは『本当の落語を観たことも聞いたこともないから』分からないけど、もし思川さんの言うとおり、落語が人の気持ちを動かせるというのなら、それを貴方が証明してくれるかしら?」
「証明って・・・・・・私が末広さんに落語のプレゼンをするとか?」
「貴方、この一ヶ月間あれだけのことをしていて、よくもそんな事が言えるわね・・・・・・そうね」
なにか良い案はないかと視線を彷徨わせていると、駅構内に掲示された大きなポスターが目に留まった。
『クレジットカード 春の入会キャンペーン』――これだ。
「――一週間後の月曜日に、新入生への部活動紹介のオリエンテーションが開催される。そこで貴方自身が落語を披露して、それを観た新入生が落語に心を打たれ『落語部』への入部を希望する――そうなれば貴方の勝ち。もし誰も入部を希望しなければ貴方の負け」
「勝ちとか負けとか、今日は随分と威勢がいいね」
こちらの気勢を削ぐためか、あたしの言葉をひらりと交わすように彼女は茶化すが、こちらは尚もブレずに言葉を続けた。
「なに? 自信がないの? ――ああ、勿論入部希望者は一人だけじゃだめよ。思川さんみたいに、はなから落語が好きな変わった子がいないとも限らないわ。最低でも二人は新入生を入部させることが条件。だって、このあたしが部活動設立の数合わせに使われるのは面白くないもの。それで――貴方は新入部員を集められるの? 集められないの?」
あたしはまくし立てるように思川さんに条件を突きつける。
静かに俯いていた思川さんは、やがて決心がついたのか、肩を小刻みに震わせたのちに、上気させた顔をこちらに向けて、大きく叫んだ。
「で、できらあ!」
通行人たちが、急に大声を上げた女子高生に驚いてこちらに目を向ける。しかし当人はそんな人々の視線などお構いなしに、ずいと私に向けて手を差し出す。
良い度胸だった。無論、その程度の度胸がなければ、高座に上がって落語をかけることなど、到底できやしないが。
「ん?」
彼女の差し出したその手をよく見ると、小指だけが伸ばされていた。
「じゃ、指きりげんまんだね」
「ゆびきり・・・・・・?」
「そ。約束破らないように。あと、勝負の結果がどうなっても、私たちは友達だからね・・・・・・」
「・・・・・・ふっ」
そんな死亡フラグみたいなことを言いながら、小指を立たせ続ける彼女の姿がおかしくて、思わず笑ってしまう。
あたしは落語がやりたいわけでも、思川さんに落語をやらせたくないわけでもない。
ただ、今までのような、落語を間に置くことで成り立っていた、彼女とのどっちつかずの関係を終わりにしたかったのだ。
なにより、あたしが落語を見限った以上、あたしが落語によりかかりながら友達を作ることはしたくなかった。それ故、落語抜きでの彼女との関係を築きたかったのだ。健全で、普通な、友達という・・・・・・。
だから、本当に――
「――良かった。貴方がそう言ってくれて。勿論、何があってもあたしたちの関係は変わらないわ」
「やった! それじゃ、はい、ゆ~びきりげんまん」
「嘘ついたら針千本呑~ます」
「「指きった」」
思えば指きりなど初めて交わしたかもしれない。あたしにも子供の時分はあったけれど、そうした子供らしいことをする時間は持ち合わせていなかった。
あたしの指きりはぎこちなくなかっただろうか? 不安に思い思川さんの方を見ると、優しい笑みをこちらに返してくる。
「あーあ、でもそうなるとこれからしばらくは末広さんと一緒にお昼ご飯は食べられないなあ」
「えっ、どうしてどうして。そんな寂しいことを言わないでよ」
「うわっ、くい気味すぎ。だってそうでしょ。これから一週間はお昼休みも放課後も落語の練習をしなくちゃだし」
「くっ、どこの誰よ、そんな面倒なことを貴方に強いるのは」
「どの口が言うんだか・・・・・・」
「冗談よ。それではもう新幹線が来る時間だからお別れね」
「うん。また明日」
互いに背を向けて、それぞれの帰路につく。あたしたち二人は向かう方角こそ同じだが、目的地と、そこに至るプロセスが違っていた。彼女は在来線に乗り、私は新幹線に乗った。
車窓の外には薄暗い田園風景が暫く続いたが、日が暮れていくのに合わせて徐々に都市部に近づいていく。気づけば窓の外では、都の明かりが世間を照らしている景色が広がっていた。変わっていく窓の風景とは反対に、頭の中には未だ、先に別れた友人とのやりとりが渦巻いていた。
落語で人を感動させる。
聞かせる相手はつい先ほどまで中学生だったような幼い学生。
もし一人だけ入部希望者が現れても落語部は設立できない。
落語の練習の猶予は一週間だけ。
だからお昼も放課後も落語の稽古――そりゃ賢明だ。
*
新日本橋駅を出て自宅に向かう間も、なおもずっと思川さんとの勝負のことを考えてしまっていた。
落語で人を感動させるなんて、素人には無理だ。
二ツ目の私にだって、できなかったのだから。
もう自分の中で、今後の見当がついているはずなのに、どうしてか彼女のことが頭から離れない。
素人の半端に齧った落語の真似事なんて、見ていて痛々しさこそあれど、人の心を打つことなんてできやしない。この間のお昼休みに彼女のかけた『らくだ』がいい例だ。さんざん前座や前座見習いの拙い落語を聞いてきたあたしだからこそ、特に意識することなく聞いていることができたようなものだ。
一般人では、そもそも噺のストーリーを理解することができるかも難しい。「あー」「えーと」などと言ったつなぎ言葉をフィラーと言うが、これが数回出てくるだけで、聞く者の集中力は大きく削がれてしまう。
それほどまでに、一人の人間がその身一つで噺を上演するということは、人並みの芸ではないのだ。
「あれ、姉さん。お帰りなさいませ。今日もまた随分と遅いお帰りで」
家に帰ると、弟弟子の晴彦の姿があった。着物姿のところを見ると、寄席の帰りに父のお付でそのまま我が家に上がったのだろう。晴彦は地元も日本橋であるから、住み込みでの入門はしていない。それでも二ツ目の身分であるから、稽古をするために足しげく師匠のもとへと通う必要があるのだ。
框に腰をかけて、ローファーを脱ぎながら晴彦に言った。
「栃木から帰ってくるんだもの。遅くもなるわ」
「そういやそうでした」
「今日はもう稽古は終わったの?」
「へい、それなんですが・・・・・・今日はテレビの取材が入っているらしく、師匠はうちに着くってえと、そのままあっしを置いて汐留の方に行っちまいまして。あっしもそのまま帰ぇろうかと思ったんですけどね、今日の寄席でかけた『だくだく』がいまいちウケなかったもんですから、どうにもこう落ち着かない心持ちっつうんすかね。そこでちょいと提案というか、お願いがあるんですがね、ちょいと雛小姉さんに稽古をつけていただきてぇんですが」
「よく喋る口ね・・・・・・って、あたしがあんたに稽古? よしとくれ、よしとくれ。こちとらもう落語からは足を洗って堅気の身分なんだ」
「姉さん、口調が戻ってますよ」
「いけない」
晴彦が随分と分かりやすい江戸っ子口調を使ってくるものだから、ついつられて口調が乱れてしまった。癖というのは中々直らないものだ。ことに悪癖となると尚更だ。
学校でボロが出ないように、これからも気をつけなくては――そう気を引き締める私とは反対に、目の前の晴彦はその頬を緩めていた。
「へへっ、やっぱり姉さんはそっちの方が似合いますよ」
「よして頂戴。貴方も仕事なのだから、うちに来るのは構わないけれど、別に兄弟子として貴方を迎え入れようとは思えないわよ」
「それじゃあ、一お客様として落語を聴くのなら構わないってことでしょう。ささっ! こちらに座って一席お付き合いの程お願い申し上げます」
晴彦はそう言ってあたしの下へ座布団を敷き、その向かい側に正座をする。
彼は年齢でいえば十近く年上の立派な大人なのだが、目を爛々と輝かせながら高校生であるあたしが腰を下ろすのを正座で待機している。そんな元弟弟子を無視することができないあたしはやっぱり、押しに弱い。
しかし、ほんとにまあ、どうしてあたしの周りにはこう落語好きが多いんだか。
「一席だけよ。本題からでいいから」
「へい」
言うが早いか、彼は途端に佇まいを変えて噺のスイッチを入れた。
『ごめんくださいやし、ごめんくださいやし』
『どうした、八っつぁんかい。お上がりよ』
まるで、目の前にあたしなど居ないかのように落語を演じていく。扇子を見えない筆に変え、見えない壁に見えない絵を描いていく。『ご隠居』と『八五郎』のまぬけなやり取りを、緻密なテンポで演じ分け、こちらを飽きさせることなく、ストーリーはどんどん進んでいく。
『――ここでこの長屋に入った泥棒。こいつがなんと超が付くほどのド近眼で、おまけに乱視。戸の隙間がすーっと開く・・・・・・』
演目は起承転結の『転』に入る。すでに晴彦の額には大粒の汗が浮かび、首の筋には大きな血管が浮かび上がる。しかしバテているという様子はまるで感じられず、むしろここからサゲまでの怒涛の展開を前に、芸能人としてのエンジンが大きく唸りを上げているかのようだった。
しかし。
随分と上手くなったものだ。
元々筋は良かった。あたしの方が二年早く入門したものだから、こうして兄弟子として接しているが、晴彦が二ツ目に上がるタイミングはあたしの一年後だった。きっとあたしがあのまま落語を続けていたところで、『二ツ目』の次の位である『真打』になるころには、彼の方が先に昇進を済ませてしまっていただろう。
「ふふっ」
特に彼には、江戸っ子の愛嬌を表現する腕があった。元々の彼の性質も手伝ってか、落語の多くを占める滑稽話においては、彼は前座の頃から既にその才能を現していた。今もこうして聞いていて、晴彦のひょうきんな喋りには、ついつい笑みが口からこぼれてしまう。
『そうか、ここの野郎はなんだな? 金が無ぇもんだから、壁に家具の絵ぇ描いて、物があるつもりになって暮らしてやがんだ! ちきしょうめ・・・・・・・! せめて物を盗るつもりにだけでもなってやるか』
『おいおい、粋な泥棒が入ぇったもんだなおい。こっちがつもりになって暮らしてたら、つもりになって盗んでやがらぁ。俺も盛り上げてやらねえと具合ぇが悪ぃや』
『今までかけていた絹の布団をパァーっと跳ね除けた、つもり! 脱ぎっぱなしの仙台平の袴を履いた、つもり。細紐を取ってタスキ十字に綾なした、つもり。後ろ鉢巻をして長押にかけていた槍! 鞘を払うってぇとびゅんと扱いて構えた、つもり!』
そうしてサゲまで一気に語り終えると、晴彦は畳に叩頭してから、あたしを見上げた。
「いかがでしたか」
「良いじゃないか。噺に呑まれずに、『だくだく』を自分のものにしているのが伝わったよ。これがウケなかったんじゃ、今日の客の方がシケてんだ」
率直な感想だった。身内贔屓など、現役の頃だってする方ではなかったが、落語から距離を置いた今だって、この『だくだく』がかなりの上出来だということは分かった。
「ありがとうございやす」
「特に金庫の下りのアレンジが傑作だね。若いやつが演じるんじゃ、ああいう小細工はやっぱりハマるね。今日の客はお年寄りばかりだったのかい? 通ぶる客ってのは二ツ目のアレンジを毛嫌いする輩も随分と多いからねぇ」
「それが、実はウケなかったてのは嘘なんです」
「何を?」
「実は、むしろ余りに上手くできたもんですから、このままの調子で姉さんに聞かせたくって」
誤魔化すように坊主頭を描きながら、晴彦はそう言った。
「なら最初からそう言ってくれ。ったく、わざわざ人を担ぐようなことして」
「へへ、すいやせん」
人のいい笑顔でペコペコと頭を下げる晴彦は、しかし一向に座布団から立ち上がる気配がなかった。ふと見ると、彼は何かを言いたそうに、且つ言いづらそうに辺りをきょろきょろと見渡している。その気配や表情には見覚えがあった。
この春に転校してきた一人の少女の姿が、そこに重なった。
「落語なら復帰しないわよ」
と言ってあたしが先手を打つと、晴彦は上体をのけ反らせて驚いた。
「ど、どうして言おうとしたことを・・・・・・!」
「予習済みだったからよ」
「予習?」
晴彦はきょとんとした顔で首を傾げる。あたしは「なんでもないわ」と言って会話を終えようとするが、晴彦は未だ満足をしていないのか、前のめりに話を続けた。
「でも姉さん、本当に勿体無ぇですよ! だって姉さんは落語の天才なのに」
「天才ね。史上最年少の落語家、それも女子小学生だというのだからメディアも囃し立てるわよ。おまけに人間国宝・月島亭暁闇の娘。目立ちもするわ。最も、協会も落語界復興のためのマスコットにでもする狙いもあったのかもしれないけれど」
「そ、そんなことありませんよ! 姉さんは本当に」
「うるさいよ! ――私の落語に、価値なんて無いのよ」
ついかっとなって声を張り上げてしまう。萎縮する晴彦をそのままに、あたしは腰を上げ、居間を後にした。
一日に何度も落語の勧誘を受けて平然としていられるほど、あたしは落語に対する寛容さを持ち合わせてはいない。
――私はあの娘の育て方を間違えた
今でもあの時の父のセリフと、その声色を思い出すときがある。あの日、池袋でこの言葉を聞いていなかったとしたら、あたしはそのまま落語を続けていたのだろうか――想像しただけでぞっとする。
私なんかがあのまま落語を続けていたところで高が知れている。
人間誰だって幼い時分には黒歴史の一つや二つは拵えるものだ。あたしにとってそれが落語であったというだけのこと。これからのあたしができることといえば、普通の女の子らしく高校生活を楽しむことだけだ。何度も自分に言い聞かせてきた言葉を、今日もまた心の中で繰り返す。
部屋に戻りスマホを確認する。充電は相変わらす殆ど減ってはおらず、ラインの通知は一つも着ていなかった。思川さんからだって、今夜は何もメッセージは来ないだろう。
大丈夫。あと一週間で彼女から部活動の勧誘を受けることも無くなる。落語部への入部希望者なんて、どうせ一人も来はしない。
落語で人を感動させるなんて、できやしないのだから。
この四年間、落語に漬かっていた生活から脱却しようともがいてきたが、おそらくあたしは未だに普通の女子高生には成りきれていない。周りと上手く馴染めていないのがその証拠だ。
人間そう簡単には変わらないのだ。
ましてや落語で人の気持ちなんて、変えられはしない。
あたしにだってできなかったことを、素人の彼女には出来る筈がない。
――落語で人は、変わらない。
それから一週間、やはり思川さんは屋上に姿を現さなかった。
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