第5話 らくだ

「というわけでね、落語を始めると歴史にも詳しくなれるし、人前でも緊張せずにハキハキとした喋り方ができるようになるってわけ! だからさ、末広さんも落語を――」

「――しないわ。歴史を知りたいのなら普通に勉強をした方が効率が良いし、別にあたしは人前でも緊張とかしないもの」

 早いもので、今週いっぱいで四月が終わろうとしている。高校二年生の十二分の一が終了しかけていることに一抹の寂しさは感じるものの、この一ヶ月間は今までにないほどに充実した毎日を遅れていることには、確かな幸福感があった。

 抱えきれないほどに持て余していた日常への焦りも、二年生になってからはとんと感じなくなっていた。

「まあ、実は私は普通に歴史が苦手なんだけどね」

「とうとう嘘をついてまで勧誘を・・・・・・」

「みんながみんな当てはまるだなんて、一言も言ってないもん」

 それも全て、目の前にいる少女――思川柳子さんのおかげだろう。

 毎日お昼ごはんを一緒に食べる相手がいる、それだけのことがあたしの灰色だった高校生活に彩りを添えてくれていた。

 本当に、彼女には感謝をしている。感謝はしているのだけれど。

「はあ。こうも落語をやろうとしてくれないなんて、計算外デス」

「とても計算をしてやっているとは思えない行動や発言ばかりだと思うのだけど・・・・・・」

 ただ一つ――あたしに落語をさせようと働きかけ、果てには落語をする部活動『落語部』の創設を目論んでいる事だけが、珠に瑕だった。

 まったく、落語なんて今更やるわけがないのに。そもそも落語をやる女子高生が一体どこに、と考えていたところで、一つの疑惑が私の中に浮上した。

「・・・・・・そういえば、まだ貴方の落語を聞かせてもらっていないわね」

「おっ! いいところに気がついちゃったね」

「むしろこうも毎日落語のことを紹介している思川さんが、今まで一度も落語をあたしに聞かせていないことにぞっとしたわよ。もしかして貴方・・・・・・」

「で、出来るよ!? なに、そんな目で見ないでよっ。 第一、自分で落語もできないのに落語部なんて作ろうとするわけないじゃん!」

 あたしの眼差しの思うところが伝わったのか、思川さんは顔の前で大きく手のひらを振った。

「もちろん素人芸にはなっちゃうけどね。前の学校では、一応落語クラブの活動をしていたんだから」

「はあ、まあそりゃ――え!? 落語クラブ?」

 そんな集団を抱えた高校があるの!?

「あれ、言ってなかったけ? ・・・・・・非公認だったけど・・・・・・私一人しかいなかったけど」

「ん? 最後の方がよく聴き取れなかったのだけれど」

「なんでもないよっ! そうだ、じゃあ折角だし今日は私が思川さんに落語を聞かせてあげましょう。なんとなく急に落語をされても引いちゃうかなと思って、今まで控えていたんだよね」

「それなら心配はいらないわ。もう引けるところまで引き切っているもの」

「ははは。またまた~、そんなこと言っちゃって。私から落語の紹介を聞くために、末広さんは毎日学校に来ているってこと、私はすでにお見通しだぞ?」

「先に教室に戻っているわ」

「まって! たんまたんまっ! ごめんなさいって! 謝るからせめて、私の話を聞いて! 五分だけでもいいから!」

 どこかの歌の歌詞みたいなセリフを叫びながら、思川さんがあたしの手首を力強く掴んでくる。その力が意外にも強く、彼女の必死さが哀れに思えたので、結局一席付き合ってあげることになった。

 あたしも大概、押しに弱いなと情けなくなる。

「一番練習してるのが一つだけあるんだけど、昨日聞いた落語で面白いのがあったから、今日はそれをかけてみようかと思います」

「へえ・・・・・・」

 昨日聞いた、か。たったそれだけの落語を聞かせようだなんて、あたしも落語も舐められたものだ。深い理解無くして、まともな落語なんて出来やしないというのに・・・・・・。

 彼女はスカートに皺のつかないように手で押さえながら、屋上のコンクリートの上に正座をする。

 ゆっくりとしたその動作を見ながらあたしは、一ついいアイディアが浮かんだ。

 彼女がゆっくりと、口を開く。

 

『えー、屋上で落語なんてぇものをするのは初めてなんですが、こうして話してみると、これがまた意外にも落語にぴったりな場所だなって思いますよ。なんせこの高さですから落語と一緒なんです。オチたら最後――なんつって』

 

 『枕』からやるのか・・・・・・。


 *


「おいなんだ、寝てやがんのかって、あらぁ・・・・・・死んでやがる。コチンコチンだ。誰かに殺されるようなタマじゃねえんだがな・・・・・・ってああ思い出した。夕べに野郎ぉ日本橋で見たときに酔っ払ってやがって、そんで手にキラリと光るものがあって、よく見たらフグだった。あぁ、成る程な。それ食って死んじまったのか。素人が捌ける魚じゃねぇのに、馬鹿なヤツだねぇ』


「この噺、舞台はどこなのかしら」


 *


「え?」

「話の腰を折るようで申し訳ないのだけれど、この物語の舞台って一体どの辺りなのかしら」

「そんなのどこだっていいって!」

「ごめんなさい。あたし落語には不慣れだから、リアリズムが無いとお話に集中できないのよ。はじめは架空の場所なのかなと思っていたのだけれど、日本橋っていう地名が出てきたものだから、気になってしまって」

「そ、そうなんだ・・・・・・そういうこと気にする人もいるんだね」

 思川さんは顎に手をやりながら小さく頷いている。フランクに始まった彼女の落語が、大ネタ中の大ネタである『らくだ』であったことには驚いたが、あたしのやることは変わらない。

 彼女がきちんと頭を使いながら落語をしているのかどうかを試すのだ。

 特別意味のある行いではないが、日ごろ彼女の落語トークに困らされているこちらとしては――たまには彼女に落語で仕返しをしてやりたいと思っただけだ。(さすがに素人並のおぼつかない落語ではあったけれど、今更そこに焦点は当てないことにした)

 暫く思案していた思川さんは答が決まったのか、こちらに向き直った。

「えと・・・・・・品川、かな?」

 酔っ払いにめちゃくちゃ歩かせるな。


 *


 それから、拙いながらも恥ずかしがることなく真面目に落語をしている思川さんに、あたしは次々と質問をぶつけていった。


「らくだは自分で捌いたフグを食べて死んだのでしょう。刃こぼれの酷い包丁しかないのに、魚を捌けるのかしら?」

「あー、それは・・・・・・」


「成る程、そういうことだったのね。でもそうなるともう一つ気になることがあるのだけれど――欠損のある食器ばかりのその家で、どうやってお酒を飲もうというのかしら?」

「えっとぉ・・・・・・」


「待って。どうやって死人が踊るというのかしら?」

「・・・・・・」


「おさらいになるのだけれど、らくだはフグの毒で死んだのよね? これっておかしくないかしら? フグの毒――トトロドトキシンは消化管からの吸収が早く、基本的に四時間以内には中毒者を死に至らしめる。早ければ一時間半ほどで死亡する例もあるみたいだけれど、らくだは大柄というわけだから、直ぐには死ななかったでしょうけれど、分かるかしら? フグの毒を摂取してから死後硬直が発生するまで、半日近くかかるのよ」

「・・・・・・・・・」


「つまりね、丁目の半次が朝早くにらくだの死体を見たときすでに死体は死後硬直を始めていた――この事がすでにおかしいのよ。日本橋から品川までは、舗装された今であっても大人の足で歩いて二時間半はかかるわ。半次が日本橋でらくだをみかけたのが午後六時だとして、らくだが長屋に到着するのは午後九時、そこから家の中にある割れた食器やらなんやらを駆使してヒレ酒をこしらえるのに三十分はかかるでしょうし、ヒレ酒から致死量を摂取するまでに短くても三十分はかかるとして、らくだの体が死後硬直してカチンコチンになるのは朝の九時前後ってところかしら」

「・・・・・・・・・・・・」

 

「ねえ、貴方はどう思うかしら」

 ここらで区切りをつけるかと、水を向けてみるも、目の前の少女は俯くばかりで言葉を返してくれない。

 暫く、沈黙が続いた。

 やがて、そろそろ教室に戻らなくてはいけない時間になったので、思川さんの肩に手を置いて帰還を促す。すると、彼女のその小さな身体が僅かに震えていることが肩越しに伝わってきた。

 ――もしかして、言い過ぎてしまっただろうか。

 思川さんの人格を否定するようなことはしたつもりは無いが、しかし事実上あたしは彼女を言い負かしてしまっている。そのことが彼女にショックを与えてしまったのだとしたら・・・・・・あたしがしたことは――ただの意地悪だ。

 いけない・・・・・・急いで思川さんに謝らないと!

 そう決意し、彼女の顔を覗き込んだあたしは、彼女の口がパクパクと動いているのを目に捉えた――何かを喋っている?

 微かなその声を聞き取ろうと、彼女の口元に耳を近づけた。

「う」

「う?」

「うるっせぇええええええええ!!!!」

 正座をする彼女の口元に、丁度身を屈めて首を近づけてしまっただけに、その絶叫はあたしの耳を突き刺すかのようだった。のけぞるあたしに食って掛かるように、思川さんは勢いよく立ち上がってこちらを睨みつけた。

「日本橋から品川まで二時間? 誰が歩いて帰ったて言ったの!? らくだはねぇ、オートバイで家まで帰ったんだけど!」

「おーとばい!? 江戸時代じゃなかったの!? それに急にオートバイだなんて」

「誰も江戸時代が舞台だなんて言ってないですぅ~! それに急じゃないから! ちゃんと落語の中にバイク出てきてたから! 大家さんの回想シーンのところで――」


『そんであいつが何を持ってきたと思う? どこで盗んできたんだか分からないけど、立派な刀を持ってきやがったんだよ! そしたららくだの野郎、なにも言わずにその刀であたしの顔の直ぐ横をビュンってやったんだ』


「――ってほら!」

「ど、どこにオートバイが出てるのよ!」

「なぁー!? 物分りが悪いね! 刀でしょ!? 刀、カタナといったら、スズキの人気バイク・GSX1100Sカタナでしょうが!」

「GSX1100Sカタナ!?」

 なんだそれは!

「らくだは大家の顔の横をカタナでビュンと走り抜けたり、日本橋から品川まで走って帰ったの! あとフグだって、持ってたのは前日の夜かもしれないけど、その時すでに別のフグを食べてたかもしんないじゃん! たまたま死体の横にフグが転がっていたってだけでさあ!」

「それはそうだけれど」

「そもそもさあ、講談や推理小説じゃないんだから、落語の登場人物が本当のことばかり言うわけないじゃん! みんな庶民で、人間なんだから、嘘も言うし他人を傷つけるよ! でもそこが落語の魅力なんじゃん――人間なんて不完全なところが素敵なんじゃん!」


 ドキリ、と。


 彼女のその言葉に、あたしの胸のどこかが切り付けられ、そして軽くなるのを感じた。

 しかし、思川さんは未だにこちらを強く睨みつけている。ずっと叫び続けていたからか、肩は大きく上下し、その顔は見て分かるほどに赤らんでいた。

「思川さん・・・・・・」

 今のは、間違いなく彼女の本心からの言葉だ。

 不完全さの肯定――それは今のあたしが最も欲してやまないものだった。

 落語に全てを捧げ、そして挫折をしたことにより全てを手放して、哀れな空っぽの人間になってしまったあたしのことを認めてくれる存在――そんなものは無いのだと思ってきた。

 もしかしたら、彼女にだったら、あたしも自分を――。

「思川さん、あの、あたし――」


 いや、ダメだ。


 もしかしたら、本当に彼女は今の、本当のあたしのことを受け入れてくれるかもしれない。

 けれど、そうしたら過去のあたし――月島亭小雛はどうなる?

 世間知らずで、人付き合いも苦手な末広小唄が認められてしまうのでは、それではまるで、月島亭小雛は、あたしの不完全性のためだけに、落語に全てを尽くしていたことになってしまう。

 そんなのはあんまりじゃないか。

 挫折したおかげで人から愛されるだなんて――必死に挫折をした人間が救われないじゃないか。

「――ちょっと、イジワルなことを言いすぎたわ。からかうつもりはなかったの。本当にごめんなさい」

「・・・・・・いや、私の方こそ急に怒鳴ったりしてごめんね。それじゃ、先に教室戻ってるから」

 いつものような明朗さはなく、消え入るようなか細い声で思川さんはそう言って、屋上を後にした。あたしも彼女に続こうかと思ったが、胸中にわだかまるもやが重たくて、足が動かせなかった。


 つまりはおよそ、あたしはかつての自分を認めずして、前に進むことは出来ないのだ。誰も感動させられず、父にも認められない。そんな落語しかできなかった過去の自分を、けれどあたしは手放しに認めることはできない。

 誰の心にも響かせられず、父の心にも響かなかった、でもそんな未熟さも愛おしいじゃないかなんて――あたしは絶対に思わない。絶対にあたしだけはそう思ってはいけない。月島亭小雛のためにも。


 彼女の「らくだ」よりも、よっぽど今のあたしの方が、矛盾だらけでおぼつかなかった。

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