第4話 枕

「末広さんって小さいころの将来の夢って何だった?」

「将来の夢?」

「うん」

 茹でブロッコリーをもぐもぐしていた思川柳子さんが、こくんと頷いてあたしを見つめる。半熟煮玉子おにぎりを食べ終えたあたしは、ベーコン巻きおにぎりに手をかけつつ、自らの幼少期のことを振り返ってみた。

 将来の夢。

 落語家になること――ではないか。すでに高座には上がっていたわけだし、大人にとっては雀の涙ほどの出演料でも、あたしはそこらの小学生のお小遣いを遥かに上回る額を頂戴する身分ではあった。小学生と落語家――二足の草鞋でも、草鞋は草鞋だ。すでに落語家にはなっていたのは間違いない。

 それでは当時の幼き末広少女(今も少女だが)は将来の自分のことを、どこまで思い描いて生きていたのだろうか?

 毎日、何を考えながら日々を過ごしていたのだろうか。

「そんなに考えこんじゃう!?」

「あ、ごめんなさい・・・・・・なかなか思い出せなくて。そういう思川さんの将来の夢は何だったのかしら。貴方のことだから、落語家とか?」

「もちろんそう! と言いたいところだけど、落語を初めて聞いたのは小学校も高学年の頃だったからね。もっと小さいころは、普通にお花屋さんとか、ケーキ屋さんとかになりたかった気がするよ」

「あら、可愛いじゃない」

「あとは、手品師とかにも憧れたっけなあ。人を驚かせるのが好きだったから、あんまり器用な子供じゃなかったけど、よく練習してたっけ」

「ふうん」

 あたしは適当に相槌を打ちながら、小さな思川さんがトランプを切ったり、色とりどりのスカーフを操っている姿を想像してみた。

 ・・・・・・。

「失敗しまくってそうね」

「んなっ!? 失礼な! ちゃ、ちゃっちゃんとできてたもん!」

 ちゃんとすらちゃんとすらすら喋れていないところを見るに、図星っぽくはあったが、頬を膨らませている思川さんは何か思いついたのか、不満げな表情を一転させて怪しそうにほほ笑んだ。

「それじゃあ、証拠にひとつ、末広さんに私のスーパー手品を特別にお見せしようかな」

「準備が良いじゃない。どんなトリックを披露してくれるのかしら。というか、手品に使う道具なんて持ってきているの?」

「道具なんて要らないよ。私がこれからするのはね、相手の記憶を探る、という手品です」

 それは手品ではなくて超能力の部類だ!

 ――と、よっぽど突っ込んでやりたかったが、私は小さく深呼吸をすることで、自らの昂ぶりを抑えた。

 これから手品師を相手にするというのに、相手の発言に振り回されているようでは話にならない。タネも仕掛けもない、という文句が往々にして嘘である様に、手八丁だけではなく、口八丁にも気を付けなければ、易々と手品師の掌の上で踊らされることになる。

 落ち着いて、相対しなければいけない。

「ダウトね。そんな技が使えるなら、わざわざあたしに将来の夢を直接尋ねなくても、その技を使って調べればよかったんじゃないかしら」

「この子は頭の回転が速すぎるんよ・・・・・・でも、もちろん嘘ではないよ。私は嘘吐きではなく手品師だからね。この技で遡れるのは、相手が朝起きてからただ今までに限られるんだよ」

 思川さんが元・手品師志望からいつの間にか現・手品師になっていることは置いておくとして、『相手の記憶を探る』というその無茶な手品にも一応の制限があるらしい。

「騙されたと思って、頭の中で今日起きてからあったことを思い出してみてよ。私も思川さんと一緒に思考の深層心理にダイブして、プライバシーメモリーをサルベージしましょう」

「いよいよ怪しい勧誘みたいになってきたわね。まあいいわ」

 朝起きてからか・・・・・・今日は何かあったかしら。

 彼女の言っていることを信じるわけではないが、たとえ嘘であると分かっていても、ついつい思川さんの言われるがままに、朝からの己を振り返ってしまう。人の記憶なんて読み取れるわけがないのだから――どうせ嘘なのだから、回想したって問題ないだろう。

 今日は確か、いつも通りの時間に朝起きて・・・・・・いつも通りに支度をして・・・・・・いつも通りの時間に家を出て・・・・・・いつも通りの電車を乗り継いで・・・・・・いつも通り小山駅について・・・・・・いつも通りコンビニで朝ご飯を買って・・・・・・いつも通りの時間に教室について、いつも通り思川さんにおはようを言って・・・・・・。

 あれ、何も起きてなくない?

 あたしの半日、何もなさすぎ?

「末広さん!? 急に涙目になってるけど大丈夫!? 一体今日一日なにがあったの!」

「いえ、あたしの一日って、本当になにもない、空っぽなんだなって、悲しくなってしまって・・・・・・」

「マジのやつだ! で、でも大丈夫だよ、末広さん。私はあなたの記憶の中に、いつもとは違う風景があることをバッチリ読み取れたから!」

「ふふ、やさしいのね、思川さんは。嘘でもそう励ましてもらえたら、気が楽になった気がするわ。さすが手品師ね、嘘で人の気持ちを良くさせる。御見それしたわ。優しさの魔法、それが貴方の本当の能力というわけね」

「勝手にいい感じに纏めようとしないで! 勿体ぶろうと思ったけど、なんかそんな雰囲気でもなくなっちゃったから、きっぱりと言わせてもらうよ。末広さん、あなたは今朝、いつもとは違う風景を目にしました・・・・・・」

 崩れ落ちそうになるあたしの両肩を掴みながら、思川さんは鋭い眼光をこちらに向けた。

 ゴクリと、のどを鳴らす音が聞こえた。それがどちらの喉元から鳴った音なのかが分からないくらいに、あたしと彼女との距離は近かったし、また、あたしの心は弱弱しくも緊張していた。

 無理無理。人の頭の中を読み取るなんて芸当・・・・・・できるはずがない。そう思うあたしをよそに、思川さんは曇りなき瞳であたしを見つめ続ける。

「それは、末広さんが訪れたコンビニでの記憶から判明したことです。ここまで言えば、もしかしたらもうお分かり――いえ、思い出したのではないでしょうか?」

「今朝・・・・・・コンビニで・・・・・・はっ!?」

 確かにあった! そこには普段とは違う――非日常が!

 しかしそれを彼女が知るはずはないのに、どうして分かるというのか。あたしは驚きを隠せず、今一度彼女の顔に向き直る。あたしの表情から、あたしの思考がそこに到達したことを悟ったのか、思川さんはニヤリと口元をゆがませると、ゆっくりと『彼女が知るはずのない真実』を口にした。

「末広小唄さん。本日あなたが訪れたコンビニでは――おにぎり百円セールが実施されていましたねぇ!!」

 わー!!

「すごい! すごいわ思川さん! 本当にすごい! その通りよ!」

「えっへん。これで分かってくれたかな? あたしが昔手品師になろうとしていたことが」

「勿論よ。疑っていてすまなかったわ。手品師じゃなくて超能力者だろ、とは今でも思っているけれど、それにしたってすごいわ!」

 確かに彼女の言う通り、今朝あたしが利用していたコンビニでは、対象のおにぎりが全て百円になるセールを実施していた。昨日まではやっていなかったキャンペーンではあるので、登校時にコンビニを利用しない思川さんには、本当だったら分かりえない情報である。

 そう、あたしの記憶を読み解いたのではなければ分かりえないのだ!

「ふぅ。無事に成功してよかったよ。あ、もうこの技はしばらく使えないから、そこのところは分かってね。一度使ったら向こう一年、じゃなかった、えっと・・・・・・向こう四年はこの技は使えないんだよね。副作用がすごいから。あとこの能力のことは他の誰かに絶対話してはダメだからね。それから『どうして思川さんはあんなことが分かったのだろう』とか後から思い返したり、疑ったりするのもダメだからね。私の手品はそういうことになってるから」

 四年に一度だけの超能力なんて何かの漫画のキャラか、とか、副作用じゃなくて反動だろ、とか、とうとう自分でも能力って言っちゃったよ、とか、終わってからの念押しの多さが見苦しすぎる、とか色々言いたいことはあったけれど、それでも彼女の言う通り、もう疑うのはやめて、あたしは思川さんを信じることにしようと思った。

 それから、また四年後にも同じ手品を見させてもらえるような、そんな関係が彼女と続いている――そんな幸せな未来が待っていることを、何よりも信じていこうと思ったのだった。


 ■


「っていい感じに終わろうとしないでよっ!」

「わ、急にどうしたのよ」

「末広さんを騙し・・・・・・じゃなくて、手品を見せたくて、将来の夢の話題を振ったわけじゃないんだよっ!」

「違っていたの」

 いい具合にオチがついたから、今日はもうこれで終わりなのかと思ったが、どうやら違っていたらしい。

「仕切りなおすようだけど、末広さん。今の将来の夢は、いったい何かな?」

「今の将来の夢? うーん。高校生にもなって将来の夢、なんてきらきらとした言い方をしていいものかわからないけど、とりあえず就職ではなく進学をする予定だから、進路という意味では、現段階ではその程度にしか考えていないわね」

「私と同じだね。でもね、将来どんな職業に就くにしたって、避けては通れないものがあるんだけど、何かわかるかな?」

 避けては通れないものか。職業といっても色々あるから、そんな十把一絡げにした断定をできるようなものがあるとは到底思えないが・・・・・・。

「正解はね、『面接』です」

「職業には、自営業という選択肢もあるのだけれど」

「筆記試験とか、グループワークとか、採用試験には色々あるみたいなんだけど、絶対にどの会社でも面接だけはしてから人を採用するんだって。お父さんが昨日言ってたんだ」

「ねえ、思川さん。聞いて――」

「そこであたしは気づいたんだよね。落語の『枕』の技術を身に着ければ、どんな面接もお茶の子さいさいだってね」

 とうとうこちらの指摘を完全に無視してまで、自分の話をブレさせずに貫こうとするその潔さには甚だ脱帽の至りであったが、少しだけ面白そうな話題だと思わされるのも確かだった。

「末広さんには枕噺って言ったほうが聞き馴染みがあるかな? 落語界隈では縮めて『枕』って呼ぶことが殆どなんだけど。この枕っていうのはね、落語家がステージに上がってから、あいさつ程度に始める小話のことなんだけど、落語家はこの枕を話すことで、その日の会場のテンションの具合だとかを把握するんだよ」

「ふうん」

 落語家が高座で一番初めに話す『枕』にはいろいろな役割がある。

 例えばお金が『本題』の軸になる場合には、『枕』では当時のお金の数え方を客に聞かせることで、予備知識なしで『本題』を楽しんで貰おう、といった具合だ。

 ほかにも、落語の〆である『サゲ』で『頭がごま塩ですから』というセリフが登場する噺では、白髪交じりの黒髪のことを昔はごま塩と呼んでいたことなどを、滑稽な小話とともに紹介したりする。これが無くては、せっかくの伝統的なサゲにも、消化不良に終わってしまう客が出てきてしまう。

 寄席通にもなると、贔屓にしている落語家が『枕』を少し話しただけで、『本題』では何を上演するのかが分かってしまうくらいに、この『枕』というものは落語の中でも重要な位置を占めている。しかしながら、思川さんの言う通り、『本題』や『サゲ』を補足するためだけでなく、その日落語を聞かせる客の温まり具合を把握するためにも使われることがある。余談だが、これが一流の噺家ともなると『枕』だけで会場を沸かせまくることもある。(『枕』だけを高座に三十分かけて落語を終わらせる噺家も極稀にだがいるほどだ)

 思川さんが言うには、そんな『枕』が、就職活動の役に立つこともあるらしい。

「つまりね、面接の序盤で普通に質疑応答しつつも、面接官にはどんな自己PRが刺さるのかをがっちり把握しちゃえば、もう面接なんて何聞かれてもバッチ来いってわけだよ!」

「まあ、そういう風に言えば、確かにその通りかもしれないけれど。言うは易しってやつじゃないかしら。実際の面接では落語と違って『枕』を披露する時間が確保されているわけではないのだし、質疑応答をきちんとこなしながら、そう上手く事を運べるとは思えないわ」

「ふふん。そういうと思ったよ。ではこれから私は就活生になりきって自己紹介をしますので、末広さんには面接官になっていただき、私にいくつか質問をしてください。三つ四つ問答を終えましたら『どうして弊社を志望したのですか』と私に問いかけてください」

「・・・・・・」

 もはや落語じゃなくて大喜利になってしまったが、まだお昼休みは少し残っていたし、彼女の提案(お題?)に乗ってあげることにした。

「えー、それでは面接を始めます。まずは出身大学を教えてください・・・・・・みたいな感じでいいのかしら?」

 うんうん、と小さく頷いてから、思川さんは「はい!」と大きく返事をした。

「そうですね・・・・・・えーと、トーキョーイカシカ大学です」

 出身大学を聞かれて『そうですね・・・・・・』が出てくるのも斬新だろう。

「歯科医の面接だったのね」

「いや、動物病院」

「えっ? ・・・・・・・・・・・・あっ、東京イカ鹿大学!?」

 そんな大学がどこにあるんだ!

 しかもちょっと面白いし。

「そ、そうですか。珍しい大学ですね。それでは、大学時代に得た経験の中で、一番良かったと思えることは何ですか?」

 とりあえず、すべてが終わるまでは、腰を折らずに思川さんに付き合ってあげることにしようと、あたしは面接官の役を続けることにした。就活生役を続けていた彼女はまたも「はい!」と返事をしてから話を始めた。

「三年次から、学部の中でコース分けをされるのですが、当時の私は何も考えずに、なんとなくで鹿コースを選んでしまったのですが、実は後から『やっぱり自分にはイカコースの方が合っていたのではないか』と後悔することも多かったです」

「それは大変でしたね」

「はい。しかし、そのときにした大きな後悔のおかげで、これからはどんなに小さな選択であっても、しっかりと考えてから決断を下すべきなのだと教訓を得ることができました。ですので何も考えずに鹿コースに進んだという失敗こそが、私の大学時代の中で一番自分を成長させられた経験だと思っています」

「言い回しはちょっと変だけど、言っていることは案外まともね」

  登場する固有名詞こそ、まさにイカれているが。

「ありがとうございます。ところで面接官さんは、イカ料理ってお好きですか?」

「イカ料理? まあ、嫌いではないけれど特別好きでもないわね」

「ぐっ! ・・・・・・それでは、強いて一番お好きなイカ料理を挙げるとすれば何でしょうか?」

「一番? うーん、そうね。強いてって言うならお刺身かしら」

「そうですか! いいですよね、イカのお刺身!」

 あたしの回答に、何かを掴んだのか、思川さんは声を弾ませながら何度も首を頷いていた。

「では次の質問です・・・・・・えーっと、ご趣味はなんでしょうか?」

「趣味って」

「うるさいわね。面接官が何を聞いてくるかなんて、そんなの分からないのよ。はい、思川さん、貴方のご趣味はなんでしょうか」

「はい! ペットの鹿と遊ぶことです」

「鹿を飼っているのですか。珍しいですね」

「鹿が必須となる講義もありますので、まあ」

「そんなパソコンみたいな感覚で鹿が必要になる大学なのね」

 ・・・・・・今のところ無茶な設定が続いているが、イカ鹿大学だし、シカたないか。

「ところで面接官さんは、鹿ってお好きですか?」

「鹿? まあ、嫌いではないけれど特別好きでもないわね」

「・・・・・・そうですか」

 あたしの回答に満足いかなかったのか、思川さんはしゅんとうなだれた。それにしてもさっきから、突然こちらに振ってくる変な質問は何なのだろうか。

 まあ、なんでもいいだろう。あたしはここらでこの茶番を切り上げようと、彼女に最後の質問を与えることにした。

「それでは最後の質問です。思川さんはどうして弊院を志望したのでしょうか」

「はい!」

 びしりと、背筋を伸ばしながら、思川さんはあたしを見つめて、大きく息を吸った。これから彼女が何を話すかによって、先ほどまでのくだらない問答の意義が問われることになるが、果たして――。


「この病院で多くのイカの命を救うことで、たくさんの人に美味しいイカのお刺身を届けたいからです!」

「雑すぎるわぁぁっ!!!」

「ひぃっ!」

 助けるのか食べるのか分からないし!

 そもそもイカを動物病院で診察することがあるのか!

 というか今更だけど『イカ鹿大学』ってなに!?

「だってイカの話題にも鹿の話題にも末広さん沸いてくれないんだもん! 何かしらで末広さんが盛り上がってくれれば、それで最後の質問に挑む腹積もりだったのぉ~!」

「また無茶な思い付きを・・・・・・。あたしの好みを急に確認してくることに、面接官としては違和感を禁じえなかったわよ」

「うぅ~。良い思い付きだと思ったんだけどなあ」

「良かったのは返事の威勢だけだったわね」

「変な大学にしなければよかった・・・・・・始めからすでに駄目だったんだ・・・・・・」

 さすがの彼女もここまで失敗をした後では、いつものセリフでこちらに部活の勧誘をすることはしないらしい。珍しいこともあるものだ。

 その後も思川さんは、教室に戻る道中も頭を抱えながらぐつぐつと呟いていた。『枕』のさらに開幕で躓いているようでは、確かにお話にならないだろう。

 なんにせよ面接でも落語でも、イカと鹿で沸くような会場なんてこの世にはないだろうが。


 *


 新日本橋駅を降りてから自宅に向かう途中、国道沿いのコンビニの前で見知った顔を発見した。

「あら、晴彦じゃない」

「あ、姉さん! お疲れ様です!」

 あたしの父・月島亭暁闇の弟子である月島亭晴彦は、声を弾ませながらあたしに会釈をした。

「ちょっと、道の往来でそういうのはやめて頂戴。こっちは制服を着ているのよ。大人の貴方がそんな態度を取ったら、みんな変な目でこっちを見るじゃない」

「へへっ、すいやせん。姉さんに会えたから、つい嬉しくなっちまって」

 後頭部に手をやりながらぺこぺこと頭を下げつつも、なおも嬉しそうにお世辞を利く彼は、油断をするとついつい弟のように捉えてしまいそうだが、年の頃なら二十も半ばの立派な大人だ。

 ・・・・・・大人、か。

「そういえば貴方って、一応社会人なのよね」

「ええ、そうですね。二ツ目の落語家が社会人ってぇのも、なんだか変ですけどね」 

 今日のお昼休みにした、思川さんとのくだらないやりとりが頭に浮かんだ。

「貴方は就職活動とか、したことはあるの?」

「いえ。あっしはもうハナっから噺家になるって決めてやしたからね。高三の終わりごろに、演芸場の楽屋前で暁闇師匠を待ち伏せして弟子入り志願はしましたが、あれを就職活動なんて呼んでいいもんだか・・・・・へへっ、懐かしいや」

「へえ。それで、そのあとは順調にあの人の弟子になったってわけね」

「いやいや、順調なんて、そんなことありませんでしたよ。何度も楽屋前で待ち伏せして『ここは厳しい世界だ』『十年は食っていくのも一苦労だぞ』なんて、あの強面で何度も言われたもんす。そんで、ようやく面接をしてくれるってなっても『親後さんを同席させなさい』なんて言われて驚きやした。なんでも『大切なご子息をお預かりするのだから、きちんとこの業界のこと説明をする責任がある』とかなんとかで」

「ふうん・・・・・・」

 責任、ね。

 まあ――なんでもいいけど。

「それで、今貴方がこうしているということは、面接の方は上々だったってことかい」

「いやいや、とんでもねぇ!」

 思い出すだけでも恐ろしいことのように、晴彦は慌てた表情で手を振った。

「小癪な、と思うかもしれませんけど、これでも一応面接の指南書やらなんやら読んで、色々仕込みはしたんですけどね。これがいわゆる付け焼刃ってやつで、いざ当日暁闇師匠の前に座ったら、もうそれまで覚えてたこと全部ポカーンと飛んじまいまして」

「へぇ、トバしちまったのかい。それで、どうやってその場を潜り抜けたんだい」

「結局、もうどうにでもなれ――てんで、自分がどれだけ落語家になりたいか、暁闇師匠に憧れているのかを、ありのまま喋り散らしました。緊張のあまり、自分でも何を言ったのか覚えてないんすけどね。その場に居合わせたうちのオヤジとお袋が言うには、そういう小細工なしの誠実さが、暁闇師匠に認められたんだ、っていうことらしいんですけどね」

 小細工なしの誠実さ――か。

 どこかの少女に聞かせてやりたい話だ。

「それにしても姉さん、今日は一体どういう風の吹き回しですか。こんなこと聞いてきて。学校の方で何かありましたか?」

 普段であれば、もうあたしとは全くの無関係である晴彦と、こんな風に話をすることなんて稀だ。そのことに彼もおかしいと思ったのだろう。確かに思川さんとのあのやり取りがなければ、晴彦がかつてしたであろう面接について、思いを及ばせることもなかったはずだ。

「あ、あたしの話はいいのよ。それより晴彦、あんたの方こそ今日は随分とご機嫌じゃないか。そっちこそ、何かいいことでもあったのかい」

「へへっ、分かりやす?  あっしもまだ稼ぎの少ない身ですからね、情けない話にはなりますが、こういう小さな幸せが何よりも嬉しいんす」

 そういってほほ笑んだ彼は、手に持っていた白いビニール服を掲げた。それは、彼が出てきたコンビニで使われているものだった。中に何があるのかと覗き込むと、晴彦は袋の口を広げてその中身を見せてくれた。

 ――彼が持つそのビニール袋の中には、見覚えのある商品らがぎっしりと入っていた。


「実は今日からおにぎり百円セールが始まってるんすよ! 見てください、いつもだったら高くて手の出せないような、ベーコン巻きおにぎりとか、あらびきソーセージおにぎりとか、ほらほら半熟煮玉子おにぎりなんてのも――あ、姉さん!? どうしやした! そ、そんなおっかない顔して!」

「なんでも――なんでもないのよ、晴彦」

 イカりシカ沸かない感情なら、この世にもあるらしい。

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