第3話 柳子レストラン


 あたしがレジ袋からお昼ごはんを取り出すと、それを見た思川柳子さんが眉をひそめて不満を露にした。

「末広さん、またパンとコーヒー?」

「またとは何よ。昨日はおにぎりと緑茶だったじゃない」

「そのまた昨日がパンとコーヒーだったでしょ~ 飽きたりしないの?」

 と言って、思川さんが眉をひそめる。

 私はぷいと顔をそむけた。

「別にいいじゃない。貴方が食べるわけでもないのだし」

「それはそうだけどさ~。毎日お昼を一緒にしている友達が、毎日殆ど同じものを食べているのは、なんというか、ねえ」

「もしかして変だったかしら」

「うーん。変というわけではないけど・・・・・・」

 煮え切らない様子の思川さんは、真っ赤なプチトマトを口に放り、何かを考えこんでいたが、やがて違うことが頭に浮かんだのか「そういえば」と私に尋ねた。

「まだ聞いていなかったけど、末広さんの好きな食べ物ってなに?」

「カレーライスとポテトサラダ」

「男の子か!」

「む。そういう思川さんの好きな食べ物はなによ」

「アサイーボウルとパンケーキ」

「女の子だ!」

 そうか、普通はそういう食べ物を挙げるのか。

 何も考えずに、夕飯に出てきて気分がアガる献立を列挙してしまった。

「別に男子だって好きだと思うけど・・・・・・。そうだ、末広さんって甘いものは好きだっけ?」

「甘いもの? 別に嫌いではないけれど、それが?」

「うん。実は今日の放課後に橋本さんとか小林さんとかとパンケーキ屋さんに行くんだけど、末広さんも良かったらどう?」

 橋本さんや小林さんといえば、いつも思川さんが一緒に下校をしている方々(いつメンというやつ?)だ。

 あたしと思川さんは、お昼休みではこうして毎日一緒にご飯を食べてはいるが、下校を一緒にしたのは、彼女が転入してきたあの初日だけだ。

 ――もっとも、その日も喧嘩別れをしたので、下校を一緒にできたのかどうかは、少し疑問が残るところではある。

 あたしが彼女と一緒に帰らないのは、彼女にそこまで踏み込む権利が自分にあるのかが不安だったことが理由の一つだった。お昼休みこそ、思い切って同伴することが出来ているが、あたし自身は、やはり今も他人と距離を詰めることが苦手なままでいる。

 それが例え、思川さんであっても、だ。

 そしてそんなコミュニケーション能力に難のあるあたしが、橋本さんや小林さんと仲良くなれる自信もなかったし、思川さんたちのいつメンを脅かす度胸なんて、持てそうにない。

「・・・・・・魅力的なお誘いだけど、辞退するわ。橋本さんや小林さんにも悪いし」

「そんなことないよ。末広さんが来てくれたら、二人とも絶対喜ぶよ」

「ふふ、お上手ね。でも大丈夫よ、そんな気を遣わなくて」

「本当だって! え・・・・・・もしかして本当に気がついてないのかな・・・・・・?」

 思川さんは顎に手をやり、ぐつぐつと何かを呟きだす。

 なにをそんなに考え込むことがあるのだろうか?

「さっきの話だけどさ」

 と言いながら、思川さんはお弁当から綺麗な焼き色をした卵焼きを摘み上げる。それをじっと凝視したかと思うと、そのまま小さな口の中へ運びこんで咀嚼をした。舌の上で味覚を堪能していることが見て分かるくらいに、彼女はうっとりとした表情を浮かべた。

「私は、お母さんの作ってくれる料理は、毎日同じものでも飽きないだろうな」

「素敵ね。思川さんのお母さんは、料理がお上手なのね」

「うん! 私も週末はお母さんに教わって色々作るんだけど、中々上達しなくて」

 たははー、と幸せそうに笑う彼女を見ていると、彼女が母親から教わりながら、包丁を持ったり鍋を振るったりする情景が目に浮かんだ。優しく、暖かな、そんな景色がそこにはあるのだろう。

「仲が良いのね」

「うん! 今はお父さんともお母さんともすっごい仲良しだよ! 末広さんは?」

「あたしは・・・・・・」

 我が家では、父は夕餉時には家にいない。

 あたしが落語家をしていた頃には、稽古をしにきたほかの兄弟子らとともに食卓を囲むこともあったが、今ではそんなことはしない。父が弟子の稽古をつけるときも、夕飯時になると弟子を連れて外に食べに行っているようで、基本的にはあたしと母の二人で夕餉を済ませることになる。母はもともと喋る方でもなく、食卓では会話などはなく、ただお互いに食事を黙々と済ませることになっていた。

 ――そんな風景を、友人に伝えられるはずがなかった。私は適当に取り繕って返事をした。

「あたしは、家では、まあ・・・・・・大人しくしているわ」

「・・・・・・そうなんだ」

「・・・・・・」

「・・・・・・」

 沈黙が続く。

 大人しくしている、ただそう言っただけだが、他人の家庭事情なだけに、思川さんも話を深堀りすることを躊躇ったのだろう。その家にはその家の事情がある。あたし達はそこに踏み込めるような関係でもないし、もしも思川さんがあたしの家の事情について尋ねるようなことがあったら、あたしは定めし困ってしまうだろう。

 過去に、そして現在にも瑕のあるあたしは、この手の話題に対して確かな苦手意識があった。中学生の頃も、こうした避けては通れない話題に対するあたしの脆弱さが、クラスメートたちを遠ざけでいったのだと、今だったら分かる。

「――そ、そうだ! 末広さんって、これ食べたいんだよなーってものある?」

「そうね・・・・・・」

「正直に言ってよね。隠し事は無しだよ」

 暗くなる雰囲気を打ち壊すためか、思川さんが明るく調子を弾ませて話題を振ってきた。元はといえばこちらのせいで重くなってしまった雰囲気なので、あたしもきちんと話に乗ることにした。

「実は・・・・・・それこそ、その・・・・・・パンケーキを食べたことがないわ」

「えー! 嘘! 可愛い~」

「そこでどうして、可愛いがでてくるのかしら」

「え、じゃあさじゃあさ、もしかして・・・・・・タピオカは?」

「勿論飲んだことあるわ」

「自信満々だ!」

 かつて、あたしの世間ズレをこれでもかとこき下ろした、中学生時代のクラスメートの姿が思い浮かんだ。タピオカミルクティーの名前くらいは聞いたことがあるが、奇妙な見た目をしていたものだから、気にも留めていなかった。。

 飲んでいないことを馬鹿にされたことが悔しくて悔しくて堪らなかったので、家の近所に出ていた出店を訪ね、その日のうちに飲んでやった思い出がある。

 あれ、意外に美味しくて、それはそれで悔しいのよね・・・・・・。

「はい、ではそんな経験貧乏な末広さんに、オススメしたいものがあります」

 経験貧乏って・・・・・。

 確かに豊富ではないが、酷い言われようだな、あたし。

「オススメ? 今日の放課後のことだったら、やっぱりご一緒はできないわよ」

「違います。末広さんにオススメしたいもの、それは――落語です!」

「・・・・・・」

 そんな切り口があるのか。

 もうだんだん思川さんが、『何の話をしていても無理やり落語の話に繋げるネタをする芸人』みたいになっている気がする今日この頃だ。

「一応聞いておくけど、その心は」

「落語というものは、落語家が身一つで様々な演目を上演する日本の伝統芸能ですが、そんな落語家にも使用を許されている道具の一つにこちら、扇子があるんです!」

 どこから取り出したのか分からないが、思川さんは白紙の貼られた扇子を取り出した。

「これを使うとどんなことができるかというとね」

 彼女は折りたたまれて棒状になった扇子の中央辺りを、鉛筆を持つように握り、それの先端を自らの口元でテンポ良く上げ下げした。

「ズズッ、ズズーッ、はあふっ、はふっ・・・・・くぅ~蕎麦は旨ぇなあ!」

 どうやら、蕎麦を食べるものまねを必死にしているらしかった。

「下っ手くそ・・・・・・」

「あれ!? 私が想像だにしなかった言葉が聞こえたような?」

「なんでもないわ。つまり貴方が言いたいことはこういうことね。落語ではその場にありもしない物を食べる技術が磨けるために、落語を身に着ければ、その場にないものを食べた気持ちになれるから、落語は素晴らしいと。だから私と落語を――しないわ、と」

「そうそう。末広さんもだんだん私の言いたいことが伝わってきたようだね。私は嬉しいよ、そうなんだよ。落語っていうのはこういった生活を豊かにするスキルが身につくからってあれあれ!? ちゃっかりオチまで言っちゃってなぁい!?」

 さすがに最近は彼女の思考回路(落語回路?)が読めてきている私だった。

 思えば、そろそろ四月も下旬に差し掛かっている。単純計算ですでに十回は、思川さんからこの手の話を聞いていることになる。友人と昼休みを共にする喜びは、今でも忘れずに持ってはいるけれど、もしかしたらその殆どが落語絡みの話になってしまっているということに、微かな恐怖を感じてしまう。

 熱意が凄すぎる。

 彼女はとんでもない落語バカなのかもしれない。

「そんな訳で、試しに末広さんがリクエストした食べ物を、私が身と口の動きだけで食べてみせるからさ、ジャンジャン注文しちゃってよ!」

 ・・・・・・彼女はとんでもないバカなのかもしれない。

「そうね、それじゃあ・・・・・・うどん」

「げっ、また麺類か・・・・・・うん、いいでしょうとも・・・・・・おやっさん、うどん一つ頼むよ! おっきたきた・・・・・・へへっこいつぁ良い匂いがしやがるぜ・・・・・・いただきます」

「注文するところからやるのね」

「ズズッ、ズズーッ、はあふっ、はふっ・・・・・くぅ~うどんは旨ぇなあ!」

「蕎麦とまるっきり同じじゃない!」

「あ~ん! 麺被りは無しじゃん普通に考えて!」

「普通に考えたらそもそもその場にないものを食べようとはしないわ」

「はいっ、じゃあ次!」

 意外にも彼女はやる気らしく、強気に次の料理の催促を始めた。

 メンタルが強すぎる。

「じゃあ、ハンバーグ」

「ありがとう! 優しいチョイスだね。では・・・・・いただきます!」

 高らかに言うと、彼女はフォークとナイフを使ってハンバーグを切り分ける動きを再現しだした。

 腕の動きがオーバーすぎて、バカがビリヤードの稽古をしているのかと思えるほどだったが。

「はぐっんっ、んっ、ごくっ・・・・・・うっま」

 やっぱり、ド下手だった。

「しかし、感想を口にするところだけ妙にリアルね・・・・・・じゃあ、次はいよいよ、パンケーキを」

「待ってました! や~早く食べたかったんだよね、実は。嬉しいね! それじゃ、いただきます!」

 思川さんはまるで本当にこれからパンケーキが食べられるかのように、バンザイをして喜びを露にした。

 やだこの子・・・・・・もしかして滅茶苦茶可愛い?

 今まで自分でも知ることのなかった心のどこかが、きゅんと軋んでしまう。

「パンケーキはこのキメ細やかな生地の表面に、ナイフを突き刺す背徳感が堪らないんだよね」

 またも彼女は、ビリヤードの練習をしているかのような動きで、見えないパンケーキを切り出した――この流れはもしかして・・・・・・。

「はぐっんっ、んっ、ごくっ・・・・・・うっっま」

「ハンバーグとまるっきり一緒じゃない!」

「そんなことないよっ。パンケーキのときの方が、私の幸福感が前面に出ていたでしょ? あと甘いものを食べるときの罪悪感も少しだけ滲み出てたと思うんだけど、どうかな」

「ふふっ、何よ、それ。あははっ」

 情緒の表現だけ細かすぎる。

 分かるようで分からないような、彼女のそんな身振りが、どこか変なツボに入ってしまったらしく、あたしは堪えきれずに口を大きく開けて笑ってしまった。

「あー、おかしい。笑いすぎてお腹が痛くなってきたわ。次は何を頼もうかしら」

「まだやらせるの!? 末広さんがかつてないほどにノリノリで、私はびっくりしてるよ・・・・・・」

 想像とはいえ、沢山のものを食べさせられたからか、彼女は見て分かるほどにぐったりとしていた。あたし自信も、まさか彼女のネタでここまで楽しくなるとは思っていなかったので、つい悪ノリがすぎてしまった。

 しかしそれほどまでに、彼女の食べるものまねが、滑稽で、いとおしかったのだ。動きや喉の鳴らし方こそ、素人そのものではあるが、そこにその食べ物が本当にあるかのような彼女の幸せそうな表情たちは、見ていて退屈をしなかった。

 「これでラストだから」と言って、あたしは思川さんにリクエストを出した。

「最後はじゃあ、お酒で」

「お酒!? お酒は、ほら、私まだ未成年だし」

「でもお酒だったら落語にも沢山登場するでしょう。それとも、未成年は落語をしてはいけないのかしら」

「ぐっ、痛いところを突くね・・・・・・普段ならむしろ私が言うタイプのセリフなのに。はい、いいでしょう、お酒ね。それじゃ、ん」

 暫く拘泥した思川さんだったが、やがて決心がついたのか、腹を括った様子で、あたしに向かって曲げた親指と人差し指を突き出す。どうやらそれはお猪口のつもりらしく、私に徳利から酒を注がせようとしているらしい。意外にも本格的なシチュエーションの想定には、感心ができた。

 思川さんは、あたしが思っているよりもちゃんと、落語のことを勉強しているのかもしれない。私は両手を添えて、思川さんの突き出した右手に、見えない徳利を傾けてあげた。

「思川さん、どうぞお呑みください」

「おっ、よくこのジェスチャーが伝わったね、末広さん、センスあるよ」

「・・・・・・そりゃどうも」

「それじゃあ――おっ、良い色だぁ・・・・・」


 え?


 いまなんと言った?

 いや、そこではない、彼女はいま――どんな言い方をした?

 どこかで聞いたような、そんな調子だったような・・・・・・。どこで聞いたものだったろうか・・・・・・なにか、切なさを同時に感じるような、これはそんな記憶であることは判るのだけれど・・・・・・。

 ――しかし、あたしのそんな回顧も、彼女の続きの動きによって妨げられてしまった。

「んぐっんぐっんぐっ、っぷはー! くっ~」

 思川さんは、持っていた見えないお酒を、ぐびぐびと喉元へと流し込んだのだった。

「それビールじゃない!」

「ビールもお酒でしょ! もうっ、さっきから注文と文句の多い客だね! なに、末広さんは柳子レストランのアンチなの!?」

 と、思川さんは叫ぶ――とうとうキレさせてしまった。自らのネタ郡を『柳子レストラン』と命名してしまうセンスについては置いておくとして、確かにあたしは先ほどから文句ばかり言っている。つい自分が楽しくなっていたから、色々な注文をつけてしまったが、もしかしたらあたしは嫌な奴になっていたかもしれない。

 反省をしなければいけないな、としょんぼりする私の背中を、思川さんがバシバシと叩いた。

「そんなに言うなら末広さんもやってみなよ! 自分もやってみれば、これがいかに難しいかがわかるよ!」

「そんなに難しいのなら、主旨が叶わなくなっちゃうんじゃ・・・・・・。でもまあ、そこまで言うなら、分かったわ」

 そこで、大きく息を吸ってから、ゆっくりと吐く。

 数年ぶりにするものだから腕はいくらか鈍っているだろうけれど、仕方ない。友人にここまでやらせておいて、自分だけ高みの見物というのも、確かに野暮が過ぎるだろう。

 彼女に見えないお猪口を突き出し、あたしは脳の回路を――落語のものへと切り替える。

「え・・・・・・もしかしてだけど私、末広さんに落語をやらせることに成功してたりする?」

「んぉあ? おい・・・・・・亭主が猪口を出してんだから、早く徳利を傾けねぇか!」

「ひぃいっ! は、はい、注ぎます!」

「おう、へへっ、わかりゃあいいんだよ・・・・・・っとっとっとっととととおいおい溢れさせんなよ? いいか? 勿体無ぇから畳には一っ滴たらしも吸わせるんじゃねえぞっとっととと」

「えっ、あれ!? 本当に出ちゃってた?」

 思川さんは透明の徳利をためつすがめつしていたが、あたしは彼女に構うことなく、目の前の酒を嚥下する。それは口の中を滑らかに回りながら、やがてするりと、食道を落ちていき、返すように甘い熱を伴った酒気が喉から口へと漏れ出す。

「すーっ・・・・・・んっ・・・・・・んっ、んっ、んっ、ふぅっ・・・・・・」

 と、一息つけたところで。

 あたしは、自分が取り返しの着かないことをしてしまったことに、ようやく頭が追いつく――つい、思川さんに無理強いをした罪悪感を和らげるために、妙なことをしてしまった。

 こんな日本酒を飲む動き、やれと言われてやるのも問題だが、やれと言われて出来てしまうことはもっと問題だろう。

 自分がどれほどのことをしでかしてしまったのかは、目の前にいる少女のその表情を見れば嫌でも分かった。彼女は両目を大きく見開き、驚きの余り塞がらない口を手で覆い隠しながら、何かに怯えるようで、そして何かに憤るかのように、ぽつりぽつりと呟いた。

「・・・・・・嘘でしょ・・・・・そんな、上手すぎる。末広さんって、もしかして――」

 なんとなくやってみたら出来ました――なんて言うにはあたしの芸は巧すぎることは自分でも良く分かっている。

 ましてや、かつての幼いあたしが血の滲むほどの努力の果てに身に着けたこの芸能に対して、『やってみたら出来ました』だなんて礼を失した物言いは、口が裂けてもできない。

 この局面を、一体どうやって乗り切ろうか――必死に頭を回転させるあたしを胡乱な眼差しで捉えながら、思川さんは言った。


「――おうちでお酒とか飲むタイプ?」

「・・・・・・クラスのみんなには内緒よ」

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