第2話 短命

「私ってばもしかして、大きな過ちを犯していたのかも・・・・・・」

「過ち?」

 コンビニで買ってきたおにぎりの封を開けながら、思川柳子さんを見遣る。珍しく深刻そうな表情を浮かべて、彼女は制服のポケットに手を忍ばせた。

「私、どうして末広さんがこうも執拗に落語部に入ろうとしないのかが、分かっちゃったかもしれないんだ」

「執拗なのは貴方の勧誘の方よ」

 落ち着いて冷静な突っ込みを入れたあたしだったが、彼女の言っていることを聞いてからは、動揺を隠すのに精一杯だった。つっと汗が背中から流れる。

 ――もしかして、あたしの経歴を知ったのだろうか。

 いや、その可能性はあるまい。神鳥谷高校に進学するにあたって、自分のことがインターネット上にどれほど残っているかを調べたことがあった。結果として、月島亭小雛としての写真は幾つか見つかったが、それも、最年少二ツ目として、落語業界というニッチな界隈を賑わせたときのもののみだった。さらにその写真だって、十一歳の頃のものであるし、腰に届くほどの長髪である今のあたしとは、似ても似つかないほどのベリーショートであるので、疑ってかからなければ、あれがあたしだとは分からないはずだ。

 だからきっと、彼女が言っていることは、またいつもみたいに少しズレた話に違いないのだ。

 そうだ、そうに違いない・・・・・・落ち着け、落ち着くんだ、あたし。

 とりあえずお茶でも飲んで落ち着こう。

 あれ、おかしいな、この水筒、なんだか蓋が回しづらいわね、壊れちゃったのかしら。

「末広さん大丈夫? めちゃくちゃ手が震えて、なんだか水筒も開けられてないみたいだけど・・・・・・」

「・・・・・・喉が詰まってしまっただけよ」

「いや本当に大丈夫!? でも、それにしてはいつも通り素敵な発声ができているような?」

 思川さんが心配そうにこちらの顔を覗き込む。優しい手つきであたしの背中に手を置く彼女は、本心でこちらのことを案じてくれているのだと、罪悪感にかられる。

 直ぐに話題を切り替えることにした。

「そんなことより、一体何が分かったというのかしら」

「あっ、そうそうそのことなんだけど。もしかして末広さんって――今まで一度も落語を聞いたことがないんじゃないかなって」

「へっ!?」

「その反応! やっぱりそうなんでしょ!」

 あたしの反応を見て、思川さんは嬉しそうに頷く。

 落語家であることを疑われているのではないかと身構えていたところに、思わぬ推理がぶつけられたので、まともな反応ができなかっただけだったのだが、しかし。

 あたしは落語を聞いたことがなかった・・・・・・?

 とんでもない想定ではあるが、こちらが明確な返事をせずに、彼女の方で勝手に話を進めてもらえたのは、ある意味幸いだったのかもしれない。

 聞いたことがある、なんて言ってしまえば、そこから怒涛の質問攻めに遭うのは必須だったし、逆に聞いたことが一度もない、という嘘を彼女につくのも憚られた。

 すると、思川さんは手を制服のポケットに差し入れながら、ふっと短く息を吐いた。

「無理もない話だよ。私ってばカレーライスを食べたことない人にカレーライス部に入れって言ってたってことだもん」

「殆どの人間は、食べたことがあってもカレーライス部なんて入ろうとはしないわ」

「でも末広さんも末広さんだよね。初めからそうと言ってくれればよかったのに。知らないことは恥ずかしいことじゃないよ? 本当に恥ずかしいことはね――知ろうとしないこと」

「最後の間が腹立つわね」

「そこで、私は考えました!」

 こちらの反論をいつも通り無視しながら、思川さんがあたしの目前に腕を振りかぶった。

「きゃっ・・・・・・って、スマホ?」

 怯みつつも目を開けると、彼女の手には一台のスマートフォンが握られていた。

「今日は実際に、末広さんに落語を観てもらいます」

 とのことだった。

「ああ、そういうことね。貴方も段々と手口がそれらしくなってきたわね」

「でしょ」

 あたしの皮肉を褒め言葉として受け取ったのか、思川さんはドヤ顔を携えながらスマホを操作する。どうやら動画サイトで、あたしに聞かせる落語を探しているらしかった。

「おっ、これがいいかな。十五分くらいだし、お昼休み中に終わるね。途中のセリフを聞き漏らしちゃうとアレだから、これ使って」

 やがて目当ての動画が見つかった彼女は、あたしに対して小さな機械部品のようなものを手渡した。大きさは大体そら豆くらいだろうか、白色のそれは持ってみると、意外にも軽かった。

「これは一体・・・・・・。文脈から察するに、音量を操作するリモコン的なものかしら。随分と小さいのね」

「おっ、末広さんは相変わらずの機会音痴っぷりを見せているね。それはイヤホンだよ」

「イヤホン? それならあたしもさすがに知ってはいるけれど。これには紐がついていないわ」

「無線でスマホと繋がってるからね」

「へえ、無線。今はそんなものがあるのね。貴方、高校生のくせに随分な代物を持っているじゃない」

「クラスの半分くらいの子は持ってるんだけどな・・・・・・。ほら、付けてあげるよ」

「んっ」

 耳元を触られて、くすぐったさに吐息が漏れる。手に持ったときに僅かに感じたほどの軽さのイヤホンは、耳にはめても違和を感じなかった。

「もう片っぽで私も聞いちゃお。じゃあ末広さん良い? 観るよ?」

「お、お願いします」

 思川さんが画面下部の三角形のボタンを押すと動画が始まった。

 画面に収められた高座の意匠を見るに、新宿の寄席で撮影された動画らしかった。一体どんな演目を彼女は選んだのだろうか、固唾を呑んだあたしの右耳に、沢山の拍手の音と同時に、信じられない音色が入ってくる!

 こ、この出囃子は・・・・・・『大漁節』!?

 ということは、この落語家は――。

 落語家が高座、つまりはステージに上がるときには、三味線や和太鼓、笛などの和楽器によって登場曲が演奏される。落語家ごとに決められたそれを出囃子といい、寄席通にもなると、出囃子を聴いただけで、誰が高座に出てくるのかが分かってしまう。

 落語家であるあたしも、昔からいる噺家であれば、出囃子を聴けばそれがどの人のものなのかは分かるが、この出囃子はしかし――あたしがもしも落語をやっていなかったとしても誰のものだか分かっただろう。

 画面の中では、鼠色の袴を着た男が高座の中央に据えられた紫色の布団に腰を下ろし、叩頭した。客席からは再度大きな拍手が上がり、出囃子はいつの間にか止んでいた。男がゆっくりと面を上げると、そこには非常に見覚えのある顔があった。

 というかあたしの父だった。

「この落語家は声が渋くて良いんだよ。色っぽいっていうか」

 色っぽいとか言うな!

 自分の実の父親がクラスの友人からそう評されることも気分が悪かったし、クラスの友人があたしの父親を色っぽいと形容する声を聴くのも気持ちが悪かった。

 ――気まずいにも程がある!

「思川さん、少し口を閉じていてもらえるかしら・・・・・・」

「おっ、こいつは失礼・・・・・・ふふっ」

 あたしの言葉を、『落語に集中したいから黙ってろ』的なニュアンスで受け取ったのか、思川さんは微笑みながら沈黙をした。

 口の片端が僅かに上がったままなのが、絶妙にうざかった。


『男やもめに蛆が湧く、女やもめに花が咲きとは言いますが』


 画面の中で父が古いことわざを述べた。落語家の『枕』ではよく川柳だとかことわざなんかが引用される。世間話程度に受け取ればよいものから、古典落語の分かりづらい『サゲ』の補足のための布石として打たれることもあるため、『枕』に登場することわざや川柳は、意外にも落語の中で重要な位置を持っている。

 というか、父がこの『枕』を話すということは、もしかしてこれから流れる演目はアレなのではないだろうか・・・・・・いや、まてよ。『お化け長屋』とか、はたまた『持参金』という可能性も。

 そう勘ぐるあたしの頭に、先ほどの思川さんのセリフが甦る。


『これがいいかな。十五分くらいだし』


 落語の演目というのは、有名どころとなると基本的にはフルで演じて三十分ほどの長さになる。しかし寄席では噺家一人当たりの持ち時間というものが限られており、トリを演じるとき以外には、大抵が十から十五分程度の持ち時間しか与えられていない。そこで噺家は演目をその時に与えられた上演時間に合わせて尺を調整するのだ。

 あたしもよく前座のころには五分間の『初天神』を高座にかけたものだ。懐かしい記憶だ――しかし、こうしてあたしが思わず懐古して、現実から逃避してしまうのには、理由があった。

 父がこのことわざを『枕』で披露して、そして十五分の尺で高座にかける演目は、一つしかなかったからだ。


『伊勢屋の旦那がまた死んだんです』

『なんだい八っつぁん、出し抜けにお前は変な言葉を遣うね』


 『短命』という落語がある。

 庭師の八五郎が物知りなご隠居の家を訪ねるところから物語が始まる。

 八五郎が言うには、表通りに店を構える質屋の伊勢屋にはたいそう美しい娘がいるらしく、その娘と結婚した男は皆直ぐにお亡くなりになってしまうとのこと。

 一人目の男前の婿養子も、二人目のブリのアラのような丈夫一式の婿養子も、二年足らずでお亡くなり。三人目の婿養子にいたっては、一年も経たずしてあの世に逝ってしまったという。


『なんです? その短命っつーのは』

『短い命と書いて短命だ。長生きすれば長命だ』


 伊勢屋の庭に出入りしていた八五郎は、自分が仕事の最中に見ていたという、伊勢屋の娘とその亭主とのやりとりをご隠居に説明していく。

 伊勢屋の若夫婦は奥の離れで朝から晩まで二人きり。ご飯時には奥さん自らがお給仕をする。「あなた・・・・・・」と色っぽく囁かれながら、優しくご飯をよそった茶碗を手渡される。それを受け取る亭主の目の前には、振るいつきたくなるような良い女。辺りを見渡せば誰もいない。


『そりゃ・・・・・・短命だ』

『へい?』

『だから、そのー、湯気が立ってる暖かいご飯。白魚を五本並べたような手でそっと茶碗を差し出す。触れ合う手と手。目の前には振るいつきたくなるような美人。な? 短命だろ?』

『え? あっ分かりやした! 指から指へ毒が移って死ぬ?』

『そうじゃない! 分からないもんかね。いいかい? 想像をしてごらんなさい。ご飯をこう差し出される』

『へい。ちなみにご隠居さん、おかずは何でしょうか?』

『おかずなんてどうだっていいんだ! あぁ~、じゃあ鮭でも焼いておけ』

『へい』

『器量の良い女が、お前に茶碗を差し出す、触れ合う手と手、見つめ合う目と目、辺りを見渡せば誰もいない離れだ。お前さん、これでもまだ飯を食うのかいってんだ』

『へへ、それがねご隠居さん。あっしね、へへ、鮭は大好物なんですよ』

『終いにゃ怒るよ! もう、あれだ、ご飯は禁止! お前さんは食い意地が張って適わないよまったく。えっとね、昔からよく言うだろう「何よりも傍が毒だと医者がいい」』

『へぇ、それは知らなかった。あっしはどっちかつうと蕎麦は身体に良いもんだと思ってやした』

『だからご飯は禁止と言っただろう!』


 それからもご隠居は「その当座 昼も箪笥の かんが鳴り」「新婚は 夜することを 昼間する」などといった川柳を詠んでいき、八五郎に真相を遠まわしに伝えようとする。


『内職で夜更かしして?』


『二人で相撲を取って頭が箪笥にこう・・・・・・』


 何度も勘違いを重ねながら、ようやく鈍感な八五郎も、ご隠居の言わんとすることを理解する。


『もしかして、触れ合うのは指と指だけじゃなくて、その後にはこう、他にも方々触れてしまうやつ?』

『そう! そうだ! でかしたぞ!』

『はいはい、分かりやした分かりやした。あっしは勘が良いんだ』

『悪すぎるよ」


 その後、八五郎は自分の家に帰り、伊勢屋の娘とはまるで大違いの自分の女房を見て、己は長命だということを悟る――というサゲで終わるこの落語を自らの実の父が演じる様を友人と二人でイヤホンをシェアしながら高校の屋上で聞かせられている今の私の気持ちを答えよ。(配点:十五点)

「やっぱ月島亭暁闇のこの『短命』は面白いね・・・・・・っといけない。今は末広さんのために観てるんだった。ねぇ、末広さん、どう? 初めての落語は?」

「そうね・・・・・・まあ――いい体験にはなったわ、ある意味」

「そうでしょう、そうでしょう」

 あたしの反応に満足した様子でニコニコと笑う思川さん。

 まさかこんな下世話な噺を一発目から見させてくれるとは思わなかったが、これもあたしが以前に『寿限無』や『饅頭怖い』などを引き合いに出したものだから、少し大人向けの演目をチョイスしたのだと思うと、文句は言えなかった。

 まあ、遊郭が舞台となるような『郭噺』でなかっただけ、助かったと思うべきか――と胸をなでおろす私の肩に、思川さんが手をぽんと乗せた。

「じゃあ、こんな風に落語を実際にしてみたいと――」

「――思わないわ」

「ということは、私と一緒に落語を――」

「――しないわ」

「ん~か~ら~の~?」

「つまらないフリはよしなさい! というか、相も変わらずだけど、どうしてそこまであたしに落語をやらせたいのよ」

「前も言ったじゃん。末広さんのその威風堂々とした、自信に溢れた動きや喋り方が、絶対に落語には合うからだってさ!」

「じ――」

 自信なんてこれっぽっちもない――。

 出掛かった言葉をすんでのところで呑み込んだ。たとえそれが幻想であったとしても、思川さんがあたしに抱いているイメージを崩すのが怖かった。もしも彼女の中にあるあたしの印象が崩れてしまったら、今のこの関係が揺るがずにいられる気がしなかった。

「そうは言われても、落語なんてしないわよ。普通じゃない、変な人だと思われてしまうもの」

「そんなことない」

 またいつもみたいに、思川さんが賑やかに囃し立てて、あたしがそれを冷静にいなす応酬が続くと思っていただけに、彼女が唐突に冷たく反論をしてきたその声に、まともな返事をすることができなくなる。

 いや、それは冷たさというよりもむしろ――真剣さと呼ぶべきものかもしれない。思川さんの瞳の奥がすうっと細くなる。

「他の人からどんな風に思われてるかって、そんなに重要なことかな。末広さんはどう思う?」

「それは、その、重要ではない、とは思わないけれど」

「自分がどうしたいか、自分がどう思うか――そんな気持ちを押し殺してまで、他人からのイメージを気にするのは、私は絶対間違ってると思う」

 射抜くような彼女の視線に、あたしは耐え切れず目を逸らしてしまう。思川さんがあたしに何を伝えたいのかは分からなかったけれど、それでも彼女があたしに本心で語りかけていることは理解できた。

 自分がどうしたいか。自分がどう思うか。そんなことを自問自答できるほど、あたしは自分自身を尊重できない。

 だってあたしは・・・・・・。

 あたしの落語には価値が・・・・・・。

「――あっ、ごめんね末広さん! 別に私は末広さんが間違っているって言ってるんじゃないんだよ? ただ私は自分がやりたいと思うから落語をしているのであって、末広さんにもそんな風に、落語をやりたい! って思って貰えたらなって・・・・・そう、思うだけで」

「ええ。分かってるわ。あたしも、思川さんが普通じゃない、変な人だなんて思っていないわよ」

 気づかぬうちに、よほどあたしが酷い顔をしていたのか、思川さんが両手を大げさに振りながら補足を入れた。彼女のそういった優しさに触れてしまうと、ちょっとしたことで自己嫌悪に陥る自分の弱さが情けなくなってしまう。

「思川さんは本当に優しくて気遣いが出来る良い子で――」

「末広さん・・・・・・!」

「――ちょっとだけおかしな子よね」

「末広さん・・・・・・?」


 先の思川さんの言葉で一つだけ気に掛かるところがあった。

『私は自分がやりたいと思うから落語をしている』

 彼女があたしに落語をやらせようとする理由が、わたしの所作に所以しているとして。

 ――彼女自身が落語をする理由は一体何なのだろうか?

 お昼休みの終了を告げる予冷が鳴り、私たちは屋上を後にする。階段を下って教室を目指す道中、ふと思い出したように、思川さんが首を傾げた。

「でもさ、さっき聞いてもらった『短命』っていう落語だけど、私は一つだけ腑に落ちないところがあるんだよね」

「腑に落ちないところ?」

「――どうして伊勢屋の旦那はみんな長生きできなかったんだろうね」

「え?」

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