私と落語を

@morokoromo

第1話 私と落語を

 ショッピングモールに設えられた会場に三味線・太鼓・笛の音色が響き渡る。

 観客の万来の拍手が鳴る。鼠色の着物の上から黒い羽織を纏った落語家は、仮設された高座に上がり紫色の座布団に腰を据える。それから三つ指をついて頭を下げる。一寸沈みかけていた拍手の音が次第にまた大きくなっていき、ついには会場全体を呑み込んだ。

 出囃子はいつの間にか止んでいる。


 ――えー、本日はお足元の悪い中お集まりくださいまして誠に御礼申し上げます


 『待ってたよ!』と何処から声援が飛んでくるが、落語家は意に介することなく噺を続ける。


 ――人には必ず好き嫌いというものが御座います。貴方には貴方なりの好きなもの嫌いなもの、アタシにはアタシなりの好きなもの嫌いなものが御座います


 落語家の『枕噺』が、独特のテンポをもって始まった。観客席からはときおり、短く笑い声が漏れている。決して大きな会場ではないが、特設された観客席は全て埋まっており、立ち見している者すらいた。そしてそれら大勢の観客の目と耳は、高座の落語家の一挙手一投足に向けられている。


 ――鶏上戸なんてものもあるんだそうです。どういうのかと言いますとね


 言ってから途端に、落語家の佇まいが次の人物像へと移り変わる。


 ――あぁ、あっ、こりゃどうも、ええ、はい、あはは・・・・・・ってこぼれちゃいますって、こぼれちゃいますよっとっとっとトットットット、うぅ~ん、ケッコー!


 会場が笑い声に包まれる。腕を組み深く頷いている者もいた。皆が皆、自分なりの落語の受け方をしていた。

 小ネタをいくつか披露したのちに、『本題』に入る。江戸時代の町人同士のかけあいを、巧な所作とセリフでその場に再現させていく。扇子や手ぬぐいがキセルや財布に化けていく。


 ――ちょいとお前さん、起きとくれよ、商いに行っておくれよお前さん

 ――ンああ・・・・・・? あんだい、邪険な起こし方しやがんなぁ、ったくこんちくしょう


 それを見つめる一人の少女がいた。歳の頃なら十一、二。近くに少女の保護者と思える人影は無く、観客席の隅から呆然と落語を観ていた。その目は落語家を捉え、放すことはなかった。

 高座に上がってから三十分は過ぎた頃だろうか、落語家は『サゲ』のセリフを言い終え、始まりと同じように三つ指をついた。額からはかなりの量の汗が滴っていた。これもまた始めと同じように大勢の拍手に包まれながら、そそくさと高座を降りた。

 

 少女の目は、未だ高座の上に向いていた。


 ■

末広小唄すえひろこうた

 あたしが屋上でお昼ごはんを食べていると、出入り口の戸が開いて一人の少女が姿を現した。肩の上ほどで切り揃えられたミディアムヘアを揺らしながら、彼女はつかつかとこちらへ歩み寄った。

「思川さん」

 あたしの通う神鳥谷高校では屋上が開放されている――この事実を知っている者は教員を含め殆どいない。あたしがこの高校に進学してから一年が経ったが、昼休みに屋上を使用する人間はあたしのほかには、目の前にいる思川柳子おもいがわりゅうこさんくらいしかいない。

「日直の仕事はもう済んだの。遅くなるかと思っていたから、先にお昼をいただいていたわ」

 思川さんは何も言わずあたしの前にまで来ると、その場に座った――正座で。

「思川さん?」

「えー、私がこの栃木県の小山市に来てからもう一ヶ月が経つわけですが」

「・・・・・・」

 思川さんのその独特の喋り方で、あたしは彼女がこれから何をしようとしているのかが、おおよそ分かってしまった。

 そしてうんざりしてしまう。

 仕方なく、思川さんの喋りに黙って耳を傾ける。

「前は長野県の松本市というところに住んでおりまして、末広さんもご存知の通り沢山の山々に囲まれた自然豊かな大変に風光明媚なところでして」

「はあ」

 末広さん、と名前を出されてしまったので一応の相槌を打つ――どうせ彼女はこちらの反応など省みはしないのだけれど。

「小山市にきて驚きましたよぉ・・・・・・景色の向こう側に全く山が見えないんですもの。そこで私一つ気になったんです。小山市と松本市、この二箇所ってどれくらい標高に違いがあるんだろうって。そしたら驚きましたよ、なんと五〇〇メートル以上も差があるんですって! 道理でこっちに来てからずっと頭が痛いなって思ったんです。私、台風が来たときとか、低気圧にどうしても弱くって――」

「――標高が高い松本市の方が低気圧だと思うのだけれど」

「あっ」

 まさか指摘が飛んでくるとは思わなかったのか、短い悲鳴を上げて思川さんは黙り込んでしまう。

「えと・・・・・・圧が小さい方が宇宙に近くて、圧が高い方は標高が高くなくて・・・・・・」

 顎に手をやり思案顔で何やらぐつぐつと呟いている。

 頭を使って話を組み立てなさいよ・・・・・・。

 こっちの頭が痛くなって来たわ。

 しかし思川さんは、んんっと堰払いをしてから何事もなかったかのように『噺』を続ける。

「向こうで買ってから、いつか食べよう、いつか食べようと思っていたポテチをキッチンの戸棚から取り出して驚きましたよ。あのね、ポテチの袋がぺちゃんこになって、ドライフーズみたいになってたんです! もうポテチ一枚一枚の輪郭が分かるほどに!」

 嘘を言うな。

「それ見て私は、しくじった! て思いましたよ。私もこっちに来るときに口とか耳とか塞いでいれば、今頃モデルのような、憧れのスリムボディになっていた筈なんですから! ――ああ、勿体ないことをした・・・・・・そう思いながらその日はがっつりポテチを一袋食べたわけなんですが」

 スリムボディへの憧れはどうした。

「まあ、なんにせよ、人も物も、あまり大きな環境の変化についていくことは容易ではないようでして・・・・・・」

 気づけば彼女は制服の前ボタンを外しており、肩口をはだけさせてずり下げられたブレザーが、コンクリートの上にはらりと落ちた。

 これから本題に入るらしい。

「これは昨日、友人のミカちゃんとビデオ通話をしたときの話なんですが」


『柳子そっちはどう?』

『普通だよ。栃木県って聞いてたからすごい田舎を想像してたけど、生活するには困らないくらいには栄えているよ』

『また偉そうに・・・・・・うちだって合併前はド田舎だったじゃない』

『う! そんなことより、そういうミカちゃんは近頃どうなの?』

『こっちも普通だよ。しいて言うなら、騒々しい幼馴染が栃木に引っ越してから、毎日が静かだね』


 右を向いたり左を向いたり。

 あたしの前に座る思川さんは、二人の人物のセリフや動きを一つの身体で演じていく。


『それでね! こっちは辺りがずっと平野だから、空が広いんだよ。山なんて背が低いのしかなくて、もはや殆ど見えないほどだよ! 凄くない? 驚きじゃない?』

『うーん、驚きではないかな。それくらい見なくても分かることだよ』

『それは一体どういう根拠で?』

『だってほら、名前がそのまま・・・・・・小さい山で、小山じゃない』

『おや、まあ』


「――なんて馬鹿な噺もあったもので」

 彼女が一体どうして、こんな風に急に地元の友人との会話の応酬を再現したのかが、あたしには――やっぱり分かってしまう。

「とまあこんな風にね、落語を知っていれば、自分のエピソードトークを誰かにするときなんかもテンポ良く披露できるんだよ。ね、末広さん。素晴らしいと思わない? ね?」

「・・・・・・」

 思川さんは、沈黙するあたしに対してずいと身を乗り出してその目を輝かせる。こちらが頷くの持っているのだろうか、じれったそうに肩を揺らしていたかと思うと、『いつもの言葉』を口にする。

「だから末広さん! 私と落語を――」

「――しないわよ」

「ちぇー」

 これで何度目か分からないお断りの返事に、唇を尖らせながら思川さんは不満そうな表情を浮かべる。

『私と落語を』

 それが思川柳子の口癖ともいえる言葉だった。あたしと彼女が始めて知り合ったその日から、彼女がこの言葉を口にしなかった日は無い。

「バカなことしてないで、早くお弁当食べないとお昼休みが終わってしまうわよ」

「そうでした! 今日のお弁当の中身はなんだろうな~」

 正座を崩した彼女はそう言いながら、あたしの隣に腰掛ける。それから嬉しそうにお弁当箱を開けた思川さんの頬が、また一段と持ち上がった。

「おっ、春巻き入ってんじゃん!」

 裏表を感じさせない思川さんのその人当たりの良さが、多くの友人を生んでいるようだった。神鳥谷高校に転入してからまだ二週間足らずの彼女ではあるが、すでにあたしよりも友達の数は多い。

 というか、あたしには友達と呼べる存在が彼女の他にはいなかった。寂しい話にはなるが、あたしは今までの一年間で誰かとお昼ご飯を一緒にすることがなかったほどだ。

 だから、そんなあたしにも親しく接してくれる思川さんには感謝をしている。

「落語、面白いのになあ」

 思川さんのそんな呟きを、私はお弁当に集中するをフリをして聞き流す。

 思川柳子という女子はどうしてか、あたしにだけ執拗に落語の勧誘をしてくるのだ。あたしに初めてできた友人である彼女からのお誘いであれば、それがなんであれ乗りたいとは思うが――落語だけは、どうしてもダメだった。

「ごちそうさまでした!」

「もうお昼休みも終わるし、教室に戻りましょうか」

 お弁当を食べ終えた彼女と共に屋上を出る。降りる姿を誰かに見られないよう慎重に階段を下る。

 屋上が開放されているとはいえ、生徒の自由な出入りが認められているわけではない。あたしの予想では、たまたま厳粛に施錠がされていないというだけで、一部の生徒がお昼休みに毎日利用しているなどと学校側にばれてしまえば、きっとすぐに封鎖されてしまうだろう。

 前を歩く思川さんの後姿を見遣る。小柄な身体の動きに合わせてサラサラとしたミディアムヘアが揺れている。

 彼女との仲も、この学校の屋上と一緒だ。本当のあたしの実体を知ってしまえば、思川さんもあたしとの関係を見限ってしまうことだろう。まともな育ちをしていないあたしには、まともな交友関係を築いていける自信が無かった。

 思川柳子があたしの元を離れてしまう将来が、容易に想像できてしまい、私の胸の奥がぐっと重たくなる。

 けれど、それでも、あたしは彼女に誘われるがままに、落語をするわけにはいかなかった。

 ■

 どこか、ココではないどこかに行こうと思い、あたしは栃木県の高校に進学をした。場所が変われば何かが変わると思った。勉強しかすることのない中学生時代に蓄えた学力のおかげで、進学先には困らなかった。

 栃木県に通うに際して、両親からの許可は得なかった。グレていた訳ではない。現在も両親とは一つ屋根の下の寝食を共にしているし、母とは挨拶くらい交わしている。

 許可もされなければ、反対もされなかったのだ。

 子どもに無関心な父と、そんな男に黙って付き従う母は、あたしが都外の高校に進学することを告げたときも僅かに頷くだけで、喜びも、驚きもしなかった。

 新幹線が停まる街の高校を選んだので、登下校には不自由をしなかった。多少の早起きは必要だったが、聞けば部活の朝練をしている生徒の方が、あたしよりも早い時間に起きているそうだ。

 暗く寂しい『ココ』ではないどこかに行ければ、何かが変わる気がしていた。けれど、すでに入学した一日目で、結局あたしは浮き始めてしまっていた。

 片田舎の寂れた秘境かと思われていた栃木県小山市も思ったより寂れてはおらず、他のクラスメートたちも皆あたしと変わらない普通の高校生に見えた――その慢心がいけなかったのかもしれない。

 あたしが他の普通の高校生と同じな筈がないのだから。

 何といっても、入学式が終わって直ぐの、隣の席の生徒から声をかけられたときの、あのやりとりが重大な失態だった。


『あの、す、末広さん』

『はい』

『よかったらライン交換しない?』

『ライン? ああ、御免なさい。あたしスマホ持っていないのよ』

『え・・・・・・、そ、そうなんだ。ごめんなさい』


 それ以降、彼女があたしに声をかけてくることはなかった。

 さすがにヤバいと思ったあたしは、下校してすぐにガラケーからスマホに機種変更をした。幸いその程度のお金だったら余裕で工面ができた。

 後から知った話だが、ガラケーでもラインはできたらしい。

 そしてこれも後から知った話だが、高校生はおろか中学生でも未だにガラケーを使っている人は少し『変な人』らしい。

 ラインをインストールすると、スマホの連絡先と情報を同期したらしく、『友だち』の項目に数十人分のアカウントが表示された。驚くことにその中に未成年は一人もおらず、試しに計算をしてみたらあたしの『友だち』の平均年齢は五〇歳だった――これはマズい、そう思ったあたしは、一刻も早く同じクラスの彼女らと連絡先を交換しなければいけないと、やにわに焦りを覚えた。

 その焦りはのべ一年もの間、形をびたと変えることなく、ただの焦りのままだった。

 今どきの若い子にどう接すればいいのかが分からないあたしは、誰かに話しかけることができず、クラスメートたちもまた、そんなあたしの高校生としてのぎこちなさを感じ取ったのか、話しかけてくることはなかった。

 独りでのテスト勉強、独りでの学園祭、独りでの体育祭、独りでのお昼休み・・・・・・。

 蓋を開けてみればあたしの高校生活は、中学生時代のそれをそのままなぞっているかのような孤独で満ち満ちていた。

 あたしが二年生に進級する頃、ラインの『友だち』の平均年齢は、ものの見事に五一歳になっていた。

 そんな折に彼女は現れた。


 *


 四月六日。履き慣れたローファーをけたたましく打ち鳴らしながら、私は神鳥谷高校に向かって走っていた。校門に向かう道路の脇を、ソメイヨシノがその花弁をめいっぱいに咲き誇らせている。一年前この高校に入学したときには心打つ景色だと感動したものだが、息を切らし制服の内を汗で湿らせながらでは、この絶景もただ目にうるさいだけだった。

 本当についてない。

 何度も心の中で呟く。新学期早々、電車が遅延するだなんて本当についてない。新幹線を利用しているのはこの高校で私くらいのものだろうから、他の生徒らは皆定刻通りに席についているのだろう。

 腕時計を一瞥する。丁度ホームルームが始まる時刻――つまりは遅刻が確定した瞬間だった。電車の遅延だから、成績としての遅刻扱いにはならないだろうけれど、新学期の初めの授業を遅刻したとなれば、悪目立ちをすることは必須に思えた。

「申し訳ありません、電車の遅延で遅れてしまいました」

 教室に入り、開口一番に謝罪と説明をした。教室中の視線が皆私に集まる。注目を浴びることには慣れていたし、特別たじろぐことはない。後は落ち着いて自分の席に着くだけ――そう思っていたあたしは、教壇に立つ一人の女子生徒と一瞬目が合った。

 その女子生徒というのが、思川柳子だった。

「でさー」

「うそー、ウケる」

 思川さんは、転入した初日から即効でクラスに溶け込んでいた。他の生徒だってクラス替え直後でまだ周りと馴染めていないだろうに、思川さんはそれこそ青春ドラマの主人公のようにクラスの中心で場を回していた。

 思川さんは気さくで愛嬌があって、周りの子たちとのどんな話題にも乗っていける――一人ぼっちの毎日を送ってきたあたしの、それはまるで理想のような姿だった。

「末広さん、だよね? もし良かったら私にこの学校を案内してよ!」

 だから、思川さんからそのような申し出があったときには随分と驚いた。すでに沢山の友人が出来ている彼女が、どうしてクラスの日陰ものであるあたしなんかに、そう思いつつも、あたしは提案に乗った。

「別に構わないけれど」

「ほんとに? ありがとう!」

 思川さんはあたしの手を両手で握ると嬉しそうにぶんぶんと振った。唐突なスキンシップにあたしは面食らう。人と手を握るのなんて、一体いつ以来だろうか。

 いつまでも手を握られていては平静を保ち続けていられなさそうだったので、あたしはとっとと校内をアテンドすることにした。


「ここはどんな授業で使うの?」


「末広さんはどんな本が好き?」


「大きなプール!」


「うわっ、暗っ、熱っ、え!? ここはどこなの!?」


 こちらの紹介に合わせて、思川さんは一つ一つ多種多様な反応を見せてくれた。それは丁寧なコミュニケーションというよりは、どちらかというと思ったことを全て口に出しているかのような即興さを感じさせて、好感が持てた。

 段々と分かってきたことだが、彼女は何をするにしてもそこに自信が滲み出ていた。そのカラっとした雰囲気が、親しみやすさを生んでいるのだと思う。

 だから、自分に自信の持てないあたしとは正反対だと感じたのだ。

 思川さんと自分との明暗差を思い知り、沈み行く心境が彼女にバレてしまわないようにと、かけ足で校内施設を紹介していった。

「こんなところかしら」

「ありがとう末広さん。それにしてもボイラー室への入り方なんて、よく知ってたね・・・・・・」

 さすがに転校早々で色々なものを見させられたからか、思川さんはぐったりと疲弊していた。ボイラー室も校庭端のトイレも、あたしには用のないものばかりだが、あたしはそれぞれの位置やアクセス方法を熟知している。友達の少ないあたしの放課後の時間のつぶし方が、もっぱら校内散策だったからだ。勿論そんな事は彼女には言えないので、

「ボイラー室は、ほら、やっぱり高校生から人気のところだから・・・・・・」

 と誤魔化すことにした。校内散策が日課だなんて、我ながら悲しい生活習慣だと情けなくなる。しかし放課後すぐに帰宅をし、家の者から放課後誰とも遊んでいない子だと思われる訳にはいかなかった。

「末広さんってかっこいいよね」

 教室に戻る道すがら、彼女があたしをそう評した。

 かっこいい? あたしが?

「気を悪くしたらごめんね」

「いえ、そんなことはないけれど。あまり言われ慣れないことを言われたものだから、動揺してしまって」

「うそ。絶対みんな思ってるよ。今朝だって、あんなに堂々と遅刻してきて、その後も凛とした佇まいで席に着いたし。普通は新学期早々遅刻したのにあんなに落ち着いてはいられないよ。あまりに格好良かったから、私びっくりしちゃったもん!」

「・・・・・・」

 豪快に皮肉を切られているのではないかと彼女の顔を伺ってみたが、その目に嫌らしさは見受けられない。どうやら心の底からそう思っているらしい。思川さんは小さくため息を着いてから、続けて呟いた。

「本当にかっこいいよ・・・・・・」

「そ、そうかしら」

 うら若き女子高生である私としたら、可愛いという言葉の方こそいただきたいものだったが、彼女はなぜかこの言葉ばかりを繰り返した。

 褒めている・・・・・・のよね?

 こちらを見つめる思川さんの視線に微かな鋭さを感じ、背筋に冷たいものが走り――いや、気のせいだろう。

 久方ぶりの他者とのコミュニケーションに、あたしの脳が混乱しているだけに違いない。そう自分に言い聞かすあたしに、思川さんが尋ねた。

「そういえば末広さんって部活動には所属しているの?」

「あたし? あたしは帰宅部よ。そういう思川さんは入りたいと思う部活はあるの?」

「ふっふ~」

 気づけば校舎のどこかから吹奏楽部の吹く金管楽器の音色が聴こえていた。在校生にとって、始業日であろうが変わらず練習をするのだろう。

 私たちのクラスに戻ったところで、思川さんがそれまで保留にしていた私からの質問に答えた。

「あるけど、まだ秘密」

「秘密なの? あるのだったら是非とも教えて欲しいのだけれど」

「えー、どうしよっかなぁ?」

 後ろ手を組みながら身体を揺らす彼女は、意地悪そうな笑みを浮かべた。

「そうだ、末広さんこのあと暇? 帰宅部だっていうなら一緒に帰らない?」

 時機を見計らってこちらから切り出そうとしていたことを、向こうから言われてしまった。別に最終的な結果は変わらないのだが、あたしとしてはここらで一度主導権を握っておきたいという意地があった。

 そんな野心を悟られまいと、落ち着いた声音で彼女に言葉を返した。

「一緒に? 別に構わないけれど」

「やったー!」

 思川さんは大げさに両腕を挙げバンザイをし、ぴょんと飛び跳ねる。彼女なりの愛情表現なのだろうか、歩きながら私に対してぐいぐいと体重をかけてくる。

「ちょ、ちょっと、思川さんっ」

 激しいスキンシップに私は照れを隠せず、破顔してしまう。小柄な彼女が私の胸元で揺れるたびに、その艶やかな髪からは、サボンの爽やかな香りがした。

「結局、どの部活に入るのかは教えてもらえるのかしら」

 いつまでも彼女とじゃれているのも恥ずかしくなってきたので、私は堰払いをしてから、彼女に尋ねる。

「まだ秘密~」

「む」

 校門をくぐり、桜並木のアーチの下を二人並んで歩く。気づけば日も幾らか傾き始めていた。今朝に遅刻しながらここを全力で駆け抜けていたときには、一体どうなるものかと案じたものだが、いやはやこれはこれは中々充実した高校二年生の幕開けなのではないだろうか。

 ――やるじゃないかあたし!

「どうしたの? 末広さん、さっきからぶつぶつ言って」

「え、なんのこと? 貴方の空耳じゃないかしら」

「変なの。そういえば末広さんって電車通?」

「電車通学よ」

「おぉ~。じゃあ私と一緒だね! 駅まで一緒に行こ!」

 と言って彼女が笑う。あたしと帰路を共にすることを本当に喜んでいることが伝わってくる、素直で素敵な笑顔だった。

「うちの学校はどう? 馴染めそうかしら」

 学年こそ同じだが、神鳥谷高校の生徒としてのキャリアはあたしのほうが上なので、一応の先輩面をして、そう尋ねる。最も、あたしこそまだ馴染めてもいないのが笑えないところだが。

 思川さんははにかみながら、首を縦に振った。

「うん。末広さんも、クラスの他のみんなも良い人ばかりだし」

「それはよかった。けれど、一体どうしてあたしなんかに――」

「――でもやっぱり新生活一日目だったからもうヘトヘトだよ。ちょっと休憩しない? 喋りながら歩いてたから私もう喉カラカラ」

 彼女はこちらの質問を遮るようにして言った。もう一度聞きなおそうかと思ったが、もしかしたら特別な理由はないのかも知れないと思い、やめた。 

 あるいは、クラスで誰とも話さずに独りでいたあたしの事を気にかけて、それであのとき、わざわざ声をかけてくれたのかもしれなかった。

「それでは、あの公園で一服しましょうか」

 二人がけのベンチのほかには、小さなすべり台と猫の額ほどの砂場があるだけの、こぢんまりとした公園を指して提案する。思川さんはこくりと頷いた。

 入り口の脇の自販機でお茶を買ってから、ベンチに腰掛ける。思川さんはどの飲み物にするかを決めあぐねているらしく、腕を組みながら、うーんと唸っている。

 やがて、自分では答を出せなかったようで、自販機の前から声を張って私に尋ねてきた。

「末広さん何にしたのー?」

「お――」

 お茶よ、と答えようとしたが、今どきの女子高生らしくないチョイスだと思われるのは嫌だったので、嘘を教えることにした。オシャレな飲み物といえば・・・・・・。

「――紅茶よ」

「お紅茶ぁー? ははっ! 末広さんってもしかしてお嬢様なのおー?」

 嘘をついた上に、あらぬ誤解まで生んでしまったことに言い知れぬ罪悪感を覚えてしまう。あたしは未開封の緑茶を、カバンの中に静かにしまった。

「お待たせ~」

 無事に飲物を購入できた思川さんが、るんたったとスキップをしながらあたしの隣に腰を下ろす。

 ――同時に、彼女の柔らかな太ももが私の足に触れた。

「思川さん。ちょっと距離が近くないかしら」

「えっ、そうかな。嫌だった?」

「別に嫌というわけでは、ないけれど・・・・・・」

 と言われて満足したのか、彼女は頬を緩める。それからペットボトルに口をつけると、スカートから伸びた細い足をパタパタと振った。

「お紅茶もたまには良いですわね~!」

 あたしとお揃いにするためか、思川さんは結局紅茶を選んだらしい。喜んでくれているのなら、嘘をついた甲斐もあったものだ。

 不意に、思川さんが話を切り出した。

「――ところでさ、末広さん。・・・・・・さっきの話なんだけど」

「さっきの話?」

 聞き返すと、思川さんは上目遣いに私の顔を覗きこんだ。気づけばその綺麗な丸い瞳は、どこか怪しげな煌きを発していた。

「もう忘れちゃった? ふふ、末広さんて意外とすっとぼけたところあるよね」

「すっとぼけ」

 思川さんは、その可愛らしい顔に似合わない強烈な言葉で私を詰る。たじろぐあたしにゆっくりと顔を近づけて、彼女は不敵に目を細めた。

「ふふ、末広さん。そういえば・・・・・・私ひとつお願いがあるんだけれど、良かったら聞いてくれないかな?」

 彼女の甘い吐息が首元に当たり、くすぐったい。見れば彼女の頬は夕焼けとは別の色味で赤らんでいた。

「ちょ、ちょっと思川さん。なんだか呼吸が乱れているようだけれど具合は大丈夫かしら。あとやっぱり距離感がおかしくないかしら!」

「えー? おかしなことなんて、私たちの間には何一つないよ・・・・・・」

 あたしの言葉が届いているのか不安になる程の様子で、思川さんはどこか虚空に向けてそう呟く。その胡乱な眼差しは既にあたしを捉えてはいないようで、恐ろしくなった。

「それならいいのだけれど。それでその、お願いというのは?」

 あたしが尋ねると、思川さんはおもむろに、制服の袖に腕を引っ込めて手をしまいこむ。緩んだ襟口から、華奢な両肩が覗けた。

「これはね、真剣な話なの」  

 言って、息を荒くしながら彼女は――自らのブレザーを脱ぎ捨てる。

「ど、どうして服を脱いだのでしょうか!」

 思わず改まって敬語になってしまう。想定外の事態にパニックになるこちらとは対照的に、彼女は先ほどまでと変わらぬトーンで話を続けた。純白のブラウスに包まれた彼女の細腕が、私に向かって、つっと伸びてくる・・・・・・。

「大丈夫、大丈夫だよ末広さん。何も怖がることなんてないよ。私も最初は恥ずかしかったけど、始めちゃえば、後はもう――虜」

「~~~~っ!」

 思川さんと距離を取ろうとするあたしの肩を、目の前の少女は、くすくすと笑いながら強い力で押さえつけてくる。

 ――この小さな身体のどこにそんな力が!?

 思い返してみれば、彼女にはおかしなところがいくつもあった。

 やたらあたしのことをかっこいいと言ったり・・・・・・。

 あの激しいスキンシップだってそうだ。いくらなんでも初対面同士にしてはやたらに過剰だった。クラスのほかの子たちとは普通にお喋りをしていただけではなかったか。

 こんなあたしと仲良くしてくれるだなんて、裏が無くてはおかしいと、そう疑わなければいけなかったのだ。

 などとしっかりと反省をしつつも、しかし私の心の中には意外にも、鮮やかな諦念が滲んでいた。

 あたしが知らないというだけできっと、友情というものにも色々な形があるのだろう。ここはひとつ、授業料と思って彼女に全てを委ねよう――すでにそんな気持ちになっていた。

 思川さんの艶やかな唇が耳元で動くの感じる。紅茶によって湿り気を帯びたそれから吹かれた吐息が、あたしの産毛を柔らかに撫でる。

 緊張で全身を強張らせるあたしに、思川さんが優しく囁いた。

「末広さん、私と――しよ?」

「・・・・・・え?」

 その言葉を耳にして、あたしは我が身を縛り付ける呪いの存在を、確かに感じて、それから――恨んだ。

 やはり、逃げることなんてできないのか。

 心の中でそう唱えてから、あたしは自分の手のひらをそっと、彼女のブラウスの膨らみにあてがった。


 *


 改札をくぐる。少しだけ通路を進み、また改札をくぐる。目指すは四番線ホーム。

 ――大変な一日だった。それにしてもまさか思川さんにあんな変な趣味があるだなんて。

 まだ痛む首元をさすりながら階段を下りる。そこにタイミング良く列車が到着した。私はそこに乗り込み、客席のドアを開けて手ごろなシートに腰を下ろした。ここから二駅先の東京駅までは四十分ほどがかかる。

 慣れないことをした一日だったからか、重くなる瞼と格闘しながらこくりこくりと首を振っていたら、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。気づけば車窓の外は、都会の光に照らされていた。すわ、乗り過ごしたかと思ったが、一年間の登下校で染み付いたバイオリズムのおかげだろう、新幹線はちょうど東京駅に停車するところだった。

 在来線に乗り換えて一駅だけ進んでからJR新日本橋駅を出る。栃木県にある神鳥谷高校には、新幹線がなかったら到底通えていない。

 街には仕事終わりのサラリーマンや夕飯の買出しをしている主婦、友人らと楽しそうに歩いている学生などで賑わっていた。見慣れた光景を横目にしばらく歩いてから、私は足を止めた。

 目前には大きな四脚門があった。造られてから幾程の時間が経ったのかは知らないが、黒ずんだ木部は静かにその歴史を語っていた。傍には『末広』と書かれた改札がかかっている――私の家だ。

 門をくぐり邸内へ。敷き詰められた砂利に浮かぶ飛び石を踏みしめながら玄関に向かう。庭には黒塗りのセダンが停まっていた。どうやら父が帰ってきているらしい。顔を合わせないようにしよう、とそそくさと靴を脱いでいたところを、後ろから声をかけられた。

「小雛姉さん帰ってたんですか」

 姉さんと呼ばれ、あたしは後ろを振り返る。

「・・・・・・晴彦、来ていたの」

 あたしが問うと、「お邪魔しております」と男は短く刈りそろえた頭を丁寧に下げた。

 今年で二十五歳になる彼は、勿論私の弟ではないし、家族ですらない。また、幼馴染でもないこの男が邸内にいるのは、しかし当然のことであった。

「師匠、姉さんが戻りましたよ」

 晴彦が居間へ声を張り上げると、間を置いてから襖がつっと開き、鼠色の袴を着た男が廊下に姿を現す。

「・・・・・・」

 男は何も言わずに私を睥睨し、目を細めた。

「何よ」

 負けじとあたしも睨み返した。沈黙が薄暗い廊下を支配する。あたしたちの間の空気に耐えかねてか、晴彦は玄関を抜け出そうとした。

「そ、それじゃああっしはこれで」

「晴彦、明日は頼むぞ」

「へい! 暁闇師匠、本日も稽古ありがとうございました」

 扉が閉まるのを見届けてから、暁闇と呼ばれた男は居間に戻り襖を閉めた――まるであたしなどここに居ないかのように。

 月島亭暁闇。それが男の名である。

 日本落語界屈指の派閥である月島派――その本家である月島亭で最高位とされる名跡『暁闇』を持つ唯一人の男。芸に秀で、人格に優れ、伝統を背負うに相応しいとされた者のみが襲名を許される亭号の最高位を『止め名』と呼ぶが、『暁闇』は正にそれだ。止め名である月島亭暁闇を名乗ることができたのは、歴史上でも五人しかいない。またこの五代目月島亭闇暁は文部科学大臣により重要無形文化財の保持者として人間国宝に登録されたばかりか、内閣府からは旭日小受賞を与えられているほどの豪傑であり、そして――あたしの父である。


 *


 ――ねえ、あたしも噺家になりたい。

 あたしが月島亭に入門したのは僅か7歳の頃である。特別なきっかけがあったわけではないが、落語家として活躍する父・暁闇の存在や、そんな父に弟子入り志願をし、毎日のように末広家を出入りする落語家たちの姿を見ていく中で、自然と自分も落語家になるのだろうと感じながら生きていたのだと思う。

 落語は聞くのも好きだったし、父や兄弟子に稽古をつけてもらいながら新しい噺を習得していくのも楽しかった。異例の幼さで業界入りしたことは界隈では賛否両論だったらしいが、寄席に出るのは昼の部のみに限定したりと、条件をいくつか課されることで幼少のあたしは高座に上がることを許された。

 しかし幾ら子供とはいえ前座は前座。楽屋では子供扱いをされたことなど無く、師匠方の着付けやお茶汲み、演目の記帳や寄席太鼓などあらゆる仕事を熱心にこなした。

 落語家がデビューしたての『前座』から次の身分である『二ツ目』に昇進するのに大体三~五年ほどかかるが、あたしもその例に洩れることなく無事に二ツ目になった。若干十一歳――史上最年少二ツ目の誕生である。

 落語社会では『二ツ目に昇進して初めて人権を得られる』と言われている。楽屋での雑用業務から開放されたり、紋付の着物を着ることができたり、『落語会』と呼ばれる落語の上演会をワンマンで開くことも許されたりと、様々な束縛から解放され自由の身となるのだ。

 それまでは新宿や上野の寄席にしか出させてもらえていなかったあたしも、二ツ目になってからは他の落語家に同行して、地方の落語会でも高座に上がるようになった。

 慢心していなかった――といえば嘘になるだろう。小学校の若い先生と変わらぬ年齢の大人ですら、あたしのことは『姉さん』と呼び敬語を使う。あたしが高座に上がる際には着付けを手伝うし、高座から下がった後にはあたしの座っていた座布団を引っくり返す。しかしそれも当然の光景として捉えていた。

 なぜなら前座には人権は無いのだから。

 そしてあたしは何と言っても二ツ目。プロの落語家なのだから。

 あと半年も経たずに中学生になろうかという頃、父とあたしの二人で長野県の片田舎である波田町という町で地方公演を開いた。落語業界において、師匠とその弟子で開く公演を『親子会』と呼ぶが、この時のそれは二つの意味での親子会だった。

 そしてあたしにとって初めての親子会でもあった。

 当時かなり天狗になっていたあたしは、成長した自分を父に見せてやるのだと奮起して高座に上がった。

 かけた演目は『芝浜』。登場人物こそ少ないものの、様々な感情の表現を必要とされる非常に難易度の高い人情噺であり、江戸落語を代表する大ネタである。

 ――父は私に『芝浜』の稽古をつけたことなどない。当たり前だ。十人近くいる兄弟子たちにだって、こんな大ネタの稽古を父がつけることは無かった。それでもあたしが『芝浜』を高座にかけられたのは、父やその他の師匠連中のものを何度も何度も聞いて、練習してきたからだ。

 父はあたしの『芝浜』を聞いて、どんな風に褒めてくれるだろうか。まだ未熟なあたしではあるけれど、充分に上手く演じられるはずだ――そう思いながら高座に上がった。

 アウェイの土地ではあったものの、会場の規模はそれ程大きくなく、緊張せずにサゲまで持っていけた。三十分を超える大ネタを終えて、あたしは身体中からだくだくと汗を流しながら裏手に戻った。一噺終えたあとの興奮や達成感はしかし、あたしを見下ろす父と目が合い、一瞬にして雲散霧消した。


 ――無表情だった。

 

 そこに一切の感情は認められず、ただただ双眸があたしを捉えていることだけが見て取れた。月島亭を名乗ってからの五年間で、師匠である父に叱られることや呆れられることなど、数え切れないほどにしてきたが、あのような残酷な視線を向けられたのは初めてであった。正直に言って、実の娘を見る目ではなかった。

 その日から父はあたしに稽古をつけなくなった。

 始めの頃こそ二ツ目という身分にそぐわない大ネタを、師匠に黙って高座にかけたことを怒っているのだと思っていた。当たり前だ。今までは父に許されたネタ以外は練習することすら許されなかったのだから。

 それでもあたしは父に自分の持つポテンシャルを誇示してやりたかったし、あたしの『芝浜』が父にとって見るに耐えないお粗末なものであったとしても、未熟な点をいつもみたいに厳しく丁寧に指導してくれる筈だと考えていた。それにまだ自分は子供なのだから、未熟さゆえの勇み足を踏むことなど仕方の無いことだとかなんとか言って、その度胸を褒めつつまた稽古を付けてくれるだろうと思っていた。

『私はあの娘の育て方を間違えた』

 父の言葉だ。

 池袋の寄席に出る父が珍しく忘れ物をしたので、楽屋まで届けに行った際に、不意に立ち聞きしてしまった。直ぐに自分のことを言っているのだと悟った。父が『あの娘』と呼ぶ人間はこの世にたった一人――あたしだけだった。

 その時、何かが自分の中で崩れ始めるのを感じた。また、自分自身のこれまでの生き方に疑問が湧き始めた。


 あたしはどうして落語を始めたのだろうか? 

 落語家である父の影響なのか?

 父のように落語で人を感動させたかったから?

 でもあたしは、落語で人を感動させられていた?

 父にすら見放されるほどの落語しかできなていないのに?

 あたしの落語に――あたし自身にだって、価値なんてあったのかな?


 *


 しかしそんなことで落ち込んでいるままのあたしではなかった。

 思えば馬鹿馬鹿しい話だ。親と同じ職に就かなければならない法など、令和のこの時代にある筈がないのだ。あってたまるか。歌舞伎役者じゃあるまいし。

 あたしは年の頃なら十一、二のピッチピチの女児だぞ。義務教育も終えてない時分に落語なんて、語るのはおろか聞いたことがある者すら稀だろう。中学生になった暁には、あたしは普通の学生として青春を謳歌してやるのだと決心した――まではよかった。

 小学生の頃、平日は学校が終わると直ぐに寄席に向かっていた。周りの同級生たちがスマブラで遊んでいるとき、あたしは一番太鼓を叩いていた。周りの同級生たちがプロフィール帳をつけている中、あたしは寄席で演者同士のネタが被らないようにするための帳簿をつけていた。めくるめく青春どころか、『めくり』めくる青春を送ってきてしまったあたしが、友達をどうやって作ればいいのかなど、知るはずも無かった。


 ――末広さんて、『し』と『ひ』の区別ついてないよね。


 クラスのきゃぴきゃぴとしたおきゃんな女子にある日そう言われた。その日は帰ってから泣いた。それから必死に喋り方を矯正した。少し硬すぎる口調になってしまったが、江戸っ子口調でないだけ幾分かマシだった。


 ――末広さんて、芸能人とか全然詳しくないよね。


 むしろこちとらマジの芸能人に揉まれてきたんだぞ、と思いもしたが、彼女らにとって芸能人といえばアイドルや俳優のことであって、間違っても着物姿で客前に出て師匠と呼ばれるような存在のことではないのだ。


 ――末広さんて、タピオカ飲んだこと無いってマジ?


「ああああああああああああーーーっ! ・・・・・・はっ!? いけない、またあたしったら昔のトラウマを思い出してしまったわ。過去のことは忘れると決めたのに」

 湯船に顔を沈め肺の中の空気を吐き出す。直ぐに苦しくなって顔を出したが、幾らか気は落ち着いた。

 そうだ、昔のことなんていくら覚えていても、いいことなんて一つもない。蕎麦の啜り方を上達させるのにやっきだったあたしなんて今はもういない。ここにいるのは華の女子高生である末広小唄ただ一人。月島亭小雛なんて滑稽な女はどこかに消えた。

 脱衣場に出てから、雑念を振り払うかのように、濡れた髪をタオルでガシガシと拭く。高座に不似合いだからと短く切りそろえていた頭髪も、落語を辞めてからは伸ばしていた。手入れは手間だが、少しでもきちんとした女の子らしくなりたかった。

 床に着いて寝ようかと思ったところに、ピロリン、と何かの音が聴こえた。物書き机に置いていたスマホから発せられていた。

「何の音? 地震速報にしては随分とあっけない音ね」

 待ち受けを確認すると、ラインのメッセージが小さい四角に表示されていた。

「なるほど・・・・・・ラインの通知の着信音だったのね。道理で聴き慣れない音だと思ったわ。ははは」

 潤む眼を瞬きで乾かしながら画面の文字を読むと、メッセージの送信者名のところには【柳子】と表示されていた。今朝に私のクラスに転校してきた女子生徒である。そういえば校内案内をする途中で、彼女に促されてラインを交換したのだった。

『ライン教えてよ』

 あのスマートな誘い文句には惚れ惚れとした。あたしが一年間で一度も口に出来なかった魔法の呪文を、思川さんは予備動作なしで繰り出してきたのだ。(ちなみに友だち登録の方法が分からなかったので、操作は全て思川さんにしてもらった)

 届いたメッセージの本文にはこう書いてあった。

【今日はごめんなさい】

 既読をつけないように待ち受けを眺めていたら、続いてまたメッセージが送られてきた。

【明日、落ち着いて話すね】

 どう返事をすればいいのかをしばらく悩んだが、私の外交力の貧しさではまともな返事ができそうも無かったので『ごめん昨日寝ちゃってて返事できなかったわ』作戦を決行することにした。スマホをスリープモードにして、布団に潜り込む。

 さて余計なことは考えずに寝てしまおう、と思ったところで首がズキリと痛んだ。患部をさすると、この痛みの元凶――思川さんの事が頭に浮かんだ。


 *


 ――夕暮れに染まる小さな公園の小さなベンチの上で、彼女の唇があたしの耳元で囁く。

「末広さん、私と落語をしよ?」

 その言葉を聞いて、あたしは『落語』という呪縛が、またもこの身に纏わり付いてきていることを思い知った。お前は落語から逃げることなんてできないのだと、そう言われている気がした。

 それにしても――落語とは。

 どうしてそんな言葉が思川さんの口から出てきたのかが判らなかった。もしかしてあたしが二ツ目の落語家ということをどこかで知って、からかっているのだろうか?

 いや、わざわざ東京から離れた栃木県の高校にまで進学したのだ。あたしが月島亭の人間であることを知っているのは、一部の教員だけであって、そんな機密事項を、転校一日目のこの子が知っているとは思えない。

 ひとまず崩れていた体勢を立て直しつつ、彼女の胸を強く押しのけた。

「意味が分からないわ」

「あいたっ」

 すると小さく悲鳴を上げて、思川さんは体勢を崩す。

 それでも、あたしは彼女に頭は下げなかった。状況は未だに掴めていないが、このままこの子のペースに呑まれていてはならないと、あたしの勘が言っていた。

 思川さんは、あははと困った風に笑って、あたしに突かれた胸元をさすった。

「ごめんね、突然こんなこと言って。そりゃビックリするよね、急に落語しようだなんて言われたら」

「いえ、悪気ははないってことは、こちらにも伝わったわ。けれど、よければもう少し詳しく話を聞かせていただけるかしら」

「うん。まず落語というのは日本の伝統芸能の一つでね、そのルーツは豊臣秀吉に遣えた一人の御伽集だと言われていて――」

 などと見当違いな解説を始めた思川さんを、あたしは「ストップ」と言って制した。

「落語がどういったものなのかという事くらいは、まあ、知っているわ。あたしが尋ねたいのは、どうして思川さんがあたしにその、落語をさせたいのかということなのだけれど」

「ごめんごめん。私が末広さんを誘ったのはね、あなたのその堂々とした姿勢や、流れるような滑舌が、落語を演じるのにぴったりだと思ったからなんだ。ほら、末広さんってすごいかっこいいから」

「そ、そう・・・・・・そういうことだったの」

「うん!」

 と、元気に頷く思川さん。

 その素直そうな反応を見るに、どうやらあたしが月島亭小雛であるということは知らないらしい。そのことについては一安心したが、思川さんがあたしを見る目が普通と少し違っていた理由の方には肩を落とさざるを得ない。

 この身を蝕む落語の病は、完全に抜け切ってはいなかったらしく、見る人間によっては良くない方向に印象を持ってしまうようだった。

 落語にぴったりな人間だなんて、絶対に思われたくない――なんとか誤魔化さなければならない。

「あたしに落語だなんて無理よ。落語ってあれでしょう、長い話をいくつも暗記しなければいけないのでしょう」

「そこは大丈夫! 短い演目だって沢山あるし、それに末広さん、学校の設備の細かなところだって全部憶えてるくらいだし、記憶力は充分あると思うよ! 私と一緒に始めようよ『落語部』をさ!」

「ら、落語部!?」

 何だそれは――聴き慣れない日本語に、あたしの声が思わず裏返る。

 大学なんかでは『落語研究同好会』縮めて『オチケン』なんてものがあるそうだが、あたしたちの高校にはオチケンはおろか、落語部だなんて変な名前の部活動は無かった筈だ。

「そんな部活動はないと思うのだけれど」

「うん。だから作るの! 今日先生に聞いたんだけど、予算を必要としない部活動なら三人以上の部員が集められれば部活動として設立できるんでしょう? だからあと一人入ってくれる子を探せば、落語部の設立は待ったなしなんだよ!」

「確かに校則としてはそうだけれど・・・・・・というかあれ? もしかしてだけど、その勘定にもうあたしが入っていないかしら?」

「え? ここまで話を聞いてくれたということは、すでに入る気満々なんじゃ・・・・・・」

「馬鹿を言わないで頂戴! 落語だなんて今どき有り得ない。ナンセンスよ。というか思川さんは落語のことをきちんと理解していないでしょう!」

 つい大きな声を出してしまう――しかし間違ったことは言っていない筈だ。

 しあkし思川さんはそんなあたしの剣幕には動じることもなく、一度脱ぎおろしたブレザーをまた着直してから、あたしに向き直った。

「私がどうしてさっきあのタイミングでこの上着を脱いだか、末広さん分かる?」

「そ、それは・・・・・・あたしを誘惑しようと企てたのでしょう」

「誘惑? あははっ、違うよ。末広さんてほんとーに面白いね」

 こちらとしては真剣に回答したつもりだったが、思川さんは冗談として受け取ったらしい。微笑みながら彼女は話を続けた。

「あのね、落語を観たことない人が知らないのも無理はないことだけど、落語家の人ってね――『本題』に入るときには上着を脱ぐんだよ」

「・・・・・・」

「知らなかったでしょ~? 私は落語好きだから知ってるけど」

 ムフ~、とドヤ顔で胸を張る思川さんを見て、あたしは言葉を失った。

 落語でかける演目(ネタ)はおよそ三つのパートに分けられる。高座に上がってはじめに話すのが『枕』と呼ばれるパート。その日にかける演目に関わりのあることを含ませた話を観客に披露し、場を暖めると同時に寄席の雰囲気を纏め上げ、スムーズに『本題』に移ることが目的のものである。

 そしてこの『本題』というのが落語における肝心要の物語パートのことで、主に登場人物のセリフの掛け合いによって進行していき、落語を落語足らしめるオチであるところの『サゲ』まで持っていくことで、一つの落語が完結するということになっている。

 はじまりの『枕』

 それから続く『本題』

 終わりの『サゲ』

 この三つで落語が成り立っている中で、芸の見せ所となる『本題』に入る際には、落語家が着ている羽織を脱ぐことが多い。噺家が羽織の紐を緩め始めるだけで、多くのファンは喉を鳴らして本題の導入を見守る。

 どうやら彼女はこの落語家の身振りを意識して、『落語部への勧誘』という本題へと入ったらしかった。

 アホなのか?

 というかむしろ、アレに至るまでの全ては彼女にとっては、枕噺でしかなかったのか。

 気の良い友人ができるかもと浮かれていたあたしは、弄ばれてしまっていたことになる。なんならむしろこれから、(ある意味)枕が始まるのかと思った程だ・・・・・・。

 一流の噺家は『枕』で観客の心を掴むというが、それならこの子は随分大した噺家である。

 そんな『大した噺家』である少女に、私は訊ねた。

「貴方は落語が好きなのね」

「うん! 小さい頃にちょっと色々あって落語を観ることになってね。そのときの落語で凄い感動してから、すっかりハマっちゃって。だから学校の皆にも、そんな落語の素晴らしさを広めようと」

「感動――ね」

 満面の笑みで応えた彼女のその言葉を、しかしあたしは認めることができなかった。

「そう・・・・・・落語で感動。結構じゃない。でもそれが何? 感動したから落語を自分もやってみたくなったという訳?」

 言葉が、セリフが、すらすらと口から飛び出していく。あたしはどんどん強くなっていく語気を緩めることなく続けた。

「はっ、笑えない話ね。落語部だか何だか知らないけれど、そんなちろっと齧る程度の付け焼刃の落語を身に着けてどうしようっていうの?」

 キツい言い方にはなってしまうが、あたしはこれを言わずにはいられない。

 これを話さなくては、過去のあたしの――月島亭小雛の決意は報われない。

 見遣れば、思川さんは静かに俯いて、その手を微かに震わせていた。構うことなく、あたしはなおも言葉を紡いだ。

「あたしは貴方とお友達にだったらなってもいいわ。というかなりたい。でもね、その落語部とかいうおべんちゃらに付き合わされるのは真っ平御免被るわ! 『し』と『ひ』の区別がつかなくなるのはもう嫌なのよ! それに小さい頃に見た落語なんて『寿限無』とか『饅頭怖い』とかどうせその辺でしょう? どこの落語家が演じたのを聞いたのだか知らないけれど、今どきの若者が落語なんて聞いて素晴らしいだなんて思うわけがヴッ!?」

 ごっ、と。

 大弁舌を繰り広げる私の首に、思川さんの小さな握りこぶしがヒットした。

「けほっ、けほっ」

 不意に訪れた衝撃に思わず咳き込む。殴った当人はと言えば、眦に涙を浮かべながらこちらを睨んでいた。

「――うるせーーっ! 落語を馬鹿にするな! 末広さんは本当の落語を観たことも聞いたことも無いからそんなことが言えるんだ! このどてかぼちゃ! すっとこどっこい! あんにゃもんにゃ!」

「けほっ・・・・・・あ、あんにゃもんにゃって何よ」

「そんなの知らないよ! 馬鹿ぁ!」

 そう叫んで、彼女は走って公園を去っていった。ずんずんと小さくなっていくその後ろ姿を、私はいつまでも眺めていた。

 キラキラとした新学期がスタートするかもと思っていたのも束の間、蓋を開けてみればど突いたり殴られたりと、かなり過激なボディランゲージの応酬を繰り広げる一日となってしまった。

 時計を見ると短針は六つを僅かに過ぎていた。春の日はまだ短く、辺りはもう真っ暗だった。

 打たれた首元をさする。

 あの子、泣いていた。

 少し言い過ぎたかもしれない。

 しばらくこの痛みは、引きそうになかった。


 *


 あんなやりとりをしたあとに、学校でどんな顔をして彼女に会えばいいのかと悩んでいたあたしの不安は、しかし直ぐに吹き飛ぶことになった。

「末広さん! 昨日はごめんね!」

 翌朝、今度はきちんと時刻通りに登校をしたら、教室にはすでに思川さんの姿があった。彼女はあたしの入室に気がつくと、申し訳なさそうに両手を合わせ頭を下げた。

 事前にラインで謝罪を受けてるとはいえ、こうも素直な姿勢で来られるとは思っていなかった。毒を抜かれたというやつで、こちらも正直に謝った。

「こちらこそ、昨日は少し言い過ぎたわ」

「んーん。というかそれより、末広さん首大丈夫? まだ痛むんじゃない? ちょっと見せてよ」

「んっ」

「あら、痕になってる・・・・・・ほんとにごめんなさい・・・・・・」

「そんなに気にすることじゃ無いわよ。これくらい直ぐに治るわ。それに、思川さんの熱意は伝わってきたから。思川さんは遊びであんなこと言ったわけじゃないのよね」

 などと、あたしたちがお互いを慈しんでいると、ザワ・・・・・・と教室の空気が揺れた。もしや朝のHRが始まる時刻か、と焦り時計を見たが、まだ時間には幾らか余裕があった。

 では今この教室を包んでいる妙などよめきは何なのだろう――と、教室の雰囲気に違和感を覚えるあたしに、思川さんが元気に大きな口を開けた。

「わかってくれた!? なら私と――」

「でも落語はしないわ」

「ちぇー」

 一瞬、ぱあっと顔を輝かせた思川さんだったが、あたしの言葉を受けて直ぐにいじけたような態度を取る。コロコロと変わっていくその表情は、見ていて退屈をしなかった。

 しかしそれはそれ、これはこれである。

「何度も聞くようだけれど、どうしてあたしなのよ」

「それは昨日も言ったけど」

「かっこいいからってヤツ? 本当に理由はそれだけ?」

 私に問い詰められ、んー、と腕を組みながら悩む思川さん。

 あたしにはどうもかっこよさだけが理由で、思川さんがあんなにも強気に勧誘をしてくるとは思えなかった。

 身長が高いからバスケ部に誘ったり、足が速いから陸上部に誘ったりするというのなら分かるが、佇まいがかっこいいから落語をやらせようだなんて、少し理論が飛躍しすぎている。

 もっと何か、彼女にとって利となる理由があるに違いないと、あたしの観察眼は言っていた。そしてどうやらその勘は当たっていたようで、彼女は組んでいた腕を解いて私をじとっと見つめた。

「本当の、というか、一番の理由はね」

「はい」

「末広さんには、その・・・・・・、あの」 

 もじもじと辺りを見渡しながら、彼女は言葉を詰まらせる。なんだ? 何か言いづらい理由でもあるのか? 

 ――やっぱり私が落語家であるということを知っているのでは・・・・・・。

 やがて、覚悟を決めたようで、あたしを見据えながら彼女が口を開いた。


「末広さんって――友達が居なさそうだったから」


「ズゴーッ」 

「わ、わっ、末広さん大丈夫!?」

 思わずずっこけてしまった。

 今まで様々な古典落語を演じてきたあたしではあるけれど、こんな古典的なリアクション芸をするのは初めてであった。

 い、今なんて?

「失礼なこと言ってごめん! でもほら、新学期初日なのに末広さんってば誰とも連絡先交換してなかったし、休み時間もずっと机の中身を確認してばっかで、誰ともお喋りしてなかったから」

「よく見てるわね・・・・・・御見それしたわ。鋭い観察眼ね」

「そうかな? 多分みんな気づいていると思うけど」

「うっ」

 ズバズバとあたしのメンタルは傷つけられていった。昨日から少しずつ勘付いてはいたが、どうやらこの子はかなり歯に衣着せぬところがある。

 思ったことは何でも口に出しちゃうタイプの若者だった。

「嫌なこと言っちゃったかな・・・・・・。でも、隠し事はよくないから」

「そうね。友達がいないことは、まあ、認めるけれど、それと落語部にどう関係があるのかしら」

「うん。友達の居ない子だったら、ヘンテコな部活にも人目を気にせずにすんなり入ってくれるかなって」

 ――滅茶苦茶に舐められていた。

 しかし安心したのは、彼女が『落語部』がヘンテコな部活動であるという自覚があるだけでなく、人目を気にするあたしたち高校生にとって、変わった活動をするということがいかにハードルが高いかということを、きちんと弁えているということにだった。

 当然のことだ。もし高校生にとって落語を話すことが、サッカーやテニスをすることみたいに身近であったなら、あたしは今頃友達にも困っていないし、こんな田舎の高校になんて通ってなんかいない。

 相当強い動機がなくては、『落語部』に入ろうとする生徒なんていないだろう。

 あたしの渋い表情を見て、思川さんはしょんぼりと項垂れた。

「でもやっぱり、末広さんは落語に興味はないか」

「ごめんなさいね」

「残念だなあ・・・・・・」

 もしかしたら。

 もしかしたら彼女は、あたしが落語をしないとなったら、もう昨日までのように親しくはしてくれないのではないのかと、そんな不安が脳裏をよぎる。

 また――落語か。

 あたしは一体どれほど落語に苦しめられればいいのだろうか。

 本当に、勘弁してほしかった。

「じゃ、もうHR始まっちゃうから」

 いや、いつまでも落語のせいにしてはきっと、これから先もこれまでと同じ日々が続くだけだ。どこかで勇気をもって、他人に踏み込む必要があるのだ。

 こんな何の取り得もない、世間ズレした高校生であるあたしだ。いまこの瞬間を逃したら、これからも絶対に誰とも関係を築けないままに違いない。

 このままでは、高校二年生も三年生も、無為に過ごしてしまう気がした。

 だから、

「ちょっと待って!」

 あたしの元を離れようとする思川さんのその細い手首を掴んだ。何があったのかと目を丸くしている彼女に、あたしは勇気を振り絞って、踏み込んだ。

「もし良かったら今日のお昼、ご一緒にどうかしら・・・・・・い、いい場所を知っているのよ」

 言いながら、視界の端が暗く狭まる。呼吸が荒くなり、時間の進みがひどくゆっくりに感じられた。暑くもないのに、背中には汗が滲んでしまっている。ただ、クラスメートをお昼ご飯に誘うだけだというのに、なんてみっともない姿だろう。

 ふと、中学生の頃の記憶がフラッシュバックする。


『末広さんて、なんだかその、恐ろしくて』


 落語から足を洗って直ぐの頃、クラスの女の子がそのように言っているのを立ち聞きしてしまった。

 それがキッカケだろう。だんだんと、自分なんかでは普通の女の子になんてなれないのだと、分かってきてしまったのは。

 普通に休み時間にお喋りをして、普通に放課後には買い食いをしたり、普通に部活を一緒にやったり、普通に喧嘩をしたり、普通に仲直りをしたり。そういった人並みの営みを自分はすることができないのだろうと、心のどこかで悟ってしまうようになったのは、あの瞬間が最初だった。

 あの日からあたしは、何かが変わっただろうか。いや、きっと何も変わってはいない。でも、それではそんなあたしのことを、思川さんは受け入れてくれるのだろうか。そんな不安で、喉の奥がヒリつく。

 一瞬が一生のように感じられたが、やがて、目の前の少女は呆けていた表情をくしゃりと歪めて――大きく笑うのだった。

「ふふっ、何、その言い方。ナンパか! 分かったよ、お昼休みね!」

「え、良いの?」

 しかし、あたしはまた拒絶をされてしまうのではないかと身構えていたため、思川さんからのあっさりとしたOKに拍子抜けして、そんな風に尋ねてしまう。

 多くの友人に囲まれている思川さんが、あたしの誘いに乗ってくれるだなんて。実感が涌かず、指先がじんわりと痺れているのを感じた。

 そんなあたしを見て、思川さんは眉尻を下げた。不安そうな顔だった。

「良いのって、末広さんが誘ったんでしょ・・・・・・もしかして断った方がよかった?」

「ううん、そんなことないわ! それはダメよ。でも・・・・・・あたしは落語はしないのよ?」

「そんなこと? あははっ、別に気にしてないよ。それにさ」

「それに?」

「私は諦めが悪いんだよ」

 彼女は不敵に微笑み、肩をすくめながら片目を閉じた。ウインク。


 *


「というわけでね、末広さん、落語を知るということは即ち、自分自身の祖先へのリスペクトを捧げることと同義であってだね! つまり逆に言えば落語しないということは非常に罰当たりなことであるわけで、私の大切な友達であるところの末広さんを罰当たり者なんかにはしたくないと、私はそう考えているわけだ! だからね、末広さん、私と落語を――」

「――しないわ」

「シナイワ? スペイン語で『落語を始めます』って意味の慣用句かな?」

「スペインに落語があるわけないでしょう」

 こうして今日も、あたしは思川さんと一緒に屋上でお昼ご飯を食べて、澄んだ青空の下で彼女から落語の勧誘を受けている。

 諦めが悪いとは言っても、常識的なレベルがあるだろう・・・・・・。

 彼女をお昼に誘ったあの日から、あたしは毎日彼女からこの手の落語の勧誘を受け、そして毎日それをお断りしている。(最近では一度断っただけでは諦めてくれず、何かしらの横着を見せてラリーを継続させようとしてくるようになった)

「末広さんも諦めが悪いね」

「どの口が言うんだか・・・・・・」

 あたしの口から、大きなため息がこぼれる。

 落語から離れて、ようやくできた友人がまさか、こんな落語オタクだなんて、複雑な心境ではあった。けれど、思川さんは毎日こうしてお昼休みになると、屋上にやってくる。あたしから普通の青春を奪った落語の話を毎日されるのは面白くなかったが、それでも彼女はあたしにできた念願の友達だった。そのことは、単純に喜ばしかった。

「でも末広さん、段々と私の落語のプレゼンを聞くのが、毎日の楽しみになってるんじゃないかな?」

「そんなことあるわけないでしょう」

 ・・・・・・多分。

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