夏の鼓動と肖像画

ミチル

夏の鼓動と肖像画

「『美人天才画家、音山桜かっこ、5年ぶりの新作発表。荒々しいタッチに』だって。そうなの? 桜さん」

「夏、黙って」

 冷たくあしらわれ、私は唇を尖らせた。

 その様すら気に入らないらしく、イーゼルに立てかけられたキャンバスの奥から舌打ちが聞こえる。

 雑誌に乗っている顔と全く同じ冷たい目線が私を貫く。美人と評されるのは納得の、整った顔立ち。

「雑誌を持てとは言ったけど、読めとは言ってない。特にそののところ」

「他にやることないんだもん。それに大丈夫だよ、桜さん全然30歳に見えないから」

「そういう問題じゃない。というか、写真撮ったんだからそれで良いって言ったでしょ。それでもモデルやりたいって言ったのは夏の方だよ」

「だって桜さんに――」

 言い訳しないでポーズ取りな。

 女性にしては少し低い声が鋭くささり、私は「はーい」と気の抜けた返事をする。ソファに深く腰掛けて、右手に雑誌を持ち、顔をそちらに向ける。

 視界の端で桜さんを見る。パレットに広げられた油絵の具を、絵筆が拾ってキャンバスへと色を落としていく。

 部屋に染み付いた油絵の具の匂いにはもう慣れた。空いた窓からときおり生ぬるい風が吹き込み、部屋の中に乱雑に積み重ねられた画用紙や書類をパタパタとはためかせる。

 夏だ。

 ひたいに汗がにじみ、体表を熱気が纏う。

 自分の名前と同じ存在だけれど、相変わらず親近感は湧かないしむしろ苛立ってばかりだ。

 薄手のワンピースを羽織っているとはいえ、夏日を超えるこんな日には暖簾に腕押し。まもなく夕方になろうというのに、まだまだ日はその勢いを弱めようとしない。

「桜さんエアコン!」

「世話になってる身で贅沢言うな」

 桜さんも、額の汗を拭う。

 ため息がこぼれた。

 高校3年生の夏休み。私はお父さんに許可をもらい、桜さんの家に泊まりに来ていた。桜さんは私の従姉妹だ。お母さん同士が姉妹で、昔はよく一緒に遊んだ。とはいえ、桜さんは私より10歳近くも上だから、遊んでもらっていたという方が正しい。だがそれも、私が中学に上がってすぐになくなってしまったけれど。

 宿泊は一週間ほどの予定の、今日はもう3日目。

 初日で下絵とそれを保護するための下塗りを済ませてしまった桜さんに文句を言いながら、昨日は別の油絵の仕事を眺めているだけだった。今日からようやくまたモデルの再開である。

 黙々とキャンバスに向かう桜さんの目が、ときおり私を捉える。切れ長の大きな瞳に見つめられると、胸の中心あたりで不愉快な熱が沸き立つ感覚を覚える。その正体を知りたいような、知りたくないような。

 それからときおり冗談を交わしながらも、1時間ほど経過しただろうか。

 桜さんは、「まあ良いか」とだけつぶやき、椅子から立ち上がって大きく伸びをした。女性にしては高い170センチの身長は、椅子に座る私からは更に高く見え、桜さんの瞳もより一層こちらを見下ろすようだった。その視線は非常に威圧的で、だけど嫌いじゃない。

「休憩しようか」


 お母さんの実家はとても広く、いわゆる豪邸に近いけれど、桜さんいわく無駄に広いだけ、らしい。部屋数も多く、その中の一室をアトリエに使用していた。

 私のお母さんはお父さんと結婚を機に近所に引っ越したため、この家には桜さんとご両親が住んでいるものの、そのご両親は旅行好きが講じてほとんど過ごすことはなく、実質桜さんの一人暮らしの城となっていた。

 律儀に台所の換気扇を回し、桜さんはその下でタバコに火をつけた。ニコチンとタールを肺に大きく吸い込んで、口から真っ白な煙を吐き出す。もわもわとタバコの煙は宙に霧散し、鼻の奥に粘りつくような匂いだけを残した。

「似合ってる、そのワンピース」

 私を見ずに桜さんは言う。私は胸を張った。

「当然じゃん」

「気に食わないなあ。感謝はどうした、感謝は」

「ありがとう、お母さんのワンピース着せてくれて」

「そっちかよ」

 鼻で笑う。

 小さな花柄が裾にあしらわれた、薄手の桃色のワンピースは、この家の押入れの奥から桜さんのお母さんが見つけたらしい。お母さんが子供の頃によく着用していたお気に入りの一着で、友達の家に遊びに行くときやお祭りなど、事あるごとに袖を通していたらしい。もちろん、私の生まれる前のことだから、全ては記録でしか知らない。よく見せてもらったお母さんの幼い頃の写真には、たしかにこの服がよく登場していた。

「お母さんみたいでしょ」

 子供の頃のお母さんそっくりだね。親戚の集まりに行けばその言葉を飽きるほど聞いた。平均より10センチほど低い身長も、目尻が垂れた瞳も富士額も、全部お母さん譲り。その頃はお母さんのことが大好きだったから、私は誇らしくなって満面の笑みで頷くのが常だった。

「全然違う。優子さんはそんな邪悪な笑顔はしてなかった」

「邪悪ってなにさ! 私なりに可愛く見せようと思ってるのに!」

 お母さんの話をするとき、桜さんは少しだけ優しい目つきをする。だから私もつられて笑顔になるのだ。

 桜さんがタバコを咥える。

「お母さんもタバコよく吸ってた。心臓悪いのに」

 服に臭いがつくからと、ベランダでタバコの煙を燻らすお母さんの後ろ姿を、私はよく覚えている。お父さんから苦言を呈されながらも、たまのご褒美だからと強情なお母さんに、私はよく呆れたものだ。さすがに入退院を繰り返すころにはやめていたと記憶している。

「やめた方がいいって何度も言ったんだけどな。自業自得だよ」

 桜さんは少し寂しそうに目を細めた。

「お母さんのこと、好き?」

「好きだったよ。良い人だったし。それに、私に画を教えてくれた先生だしね」

 お母さんは油絵を描くかたわら、絵画教室を開いていた。桜さんもよく家に遊びに来て、お母さんに画を教えてもらっていた。

 それがなくなったのは、今から5年前のことだ。

 私が中学に上がってすぐのころに、お母さんは死んだ。

 患っていた心臓が、とうとう限界を迎えたらしい。入退院を繰り返すことなんて日常的だったからその日もすぐに帰ってくるだろうと思っていたのに、私は初めて夜の深い時間に病院にお母さんを迎えに行くことになってしまった。

 お母さんがすでにいないことを知った私は泣きじゃくるだけで、葬式の記憶すらもほとんどなかった。

 記憶に残っているのは、初めて見たお父さんの涙と、桜さんの背中。

 優子さん、と嗚咽に塗れた声で名前を呼ぶその姿から、私は目を離すことができなかった。

 その日から、桜さんと会うことはほとんどなくなってしまっていた。


 去年になってようやく再会できた桜さんはすっかりやせ細り、タバコを吸うようになっていた。会う機会が増える中で今回のお泊りの話が出てきたのだ。

 お母さんが死んで5年も経てば、さすがに感情も揺さぶられることは少なくなる。

 寂しい、という感情はあるけれど、涙となって体表にこぼれ落ちる程ではない。

 だから、お母さんの話をすることも苦痛ではなくなった。

「私が似てるからって、もう泣かないでよ?」

「バカにしてる?」

 口の端で笑いながら、桜さんはタバコを灰皿に押し付ける。

「身近な人の死ぬ姿なんて、初めてだったからね。あんなに悲しむとは思わなかったけど」

 窓の外を見つめる。

 きっと今その脳裏には、お母さんのことが蘇っているんだろう。

 桜さんはお母さんによく懐いていた。私とお喋りをしていても、お母さんが来るとすぐに笑顔でそちらに駆け寄っていってしまう程だった。

「ワンピースとか着てきてごめんね。……あだっ!」

 額に鋭い痛み。桜さんの指がデコピンの形になっている。

「バカにすんなって。もうさすがに吹っ切れてるよ。次は夏が描くんでしょ。モデルやってやらないよ」

「ごめんなさい!」

 アトリエに戻り、今度は私がイーゼルの前に座る。イーゼル越しの桜さんは、ソファに王様のように深々と腰掛けて、少し目を伏せていた。

「手。止まってるよ」

「う……観察してたの」

 まさか見とれていたと言えるはずもなく、下手な言い訳が口から出る。

「もう3日も観察したはずだけど? まだ見るとこある?」

「黙ってて!」

 焦る私が面白いのか笑みを浮かべた後、桜さんはまたモデルへと戻っていく。私の右手の鉛筆が、画用紙に描かれた桜さんの続きを描いていく。

 桜さんとは違いまだまだ筆の遅い私は、昨日ようやく下絵を描き終えたばかりだった。今日一日を無駄にしないようにと、デッサンをすることにしたのだ。

 30分ほどが経過して、ほどほど納得のいく出来になったところで、桜さんを呼ぶ。

「どう?」

「遠近感が雑」

「うっ」

 痛いところをつかれた。

「デッサンも良いけど油絵描きたいよぉ」

「下絵が遅いのが悪い」

「うっ」

 痛いところをつかれすぎてお腹まで痛くなってきた。

「でもでも、やる気はあるんだよ!」

 カバンの中に忍び込ませてきた油絵の道具を引っ張り出す。絵の具にパレット、油壺にオイル。それから、数種類の絵筆。お母さんに習いながら少しずつ買い揃えたものがほとんどだ。

 その中のひとつに桜さんが反応を示した。

「その筆、優子さんの?」

「すごい! 良くわかったね」

 絵筆のいくつかは、お母さんの仕事部屋から拝借したものだった。

「そりゃわかるよ。ずっと見てきたから」

 桜さんは、まるで思い出の写真を見るみたいに、穂先がわずかに広がりかけている平筆を愛おしそうに眺めていた。

 確かに、使い込まれた雰囲気は出ている気がする。私には、他の絵筆とそう変わりなく見えるけれど。

 そうこうしているうちに日が傾き始め、空は薄紫色に染まりかけていた。

 絵画教室を切り上げ、お母さんの思い出話などしながら夕食のスパゲティを口にする。家にあったお母さんの画集を引っ張り出した桜さんにどれだけお母さんの絵画が素晴らしいかの演説を食らうなどしていると、もうすっかり夜も深くなっていた。

 まだまだ暑苦しい熱帯夜が続く。

 寝汗びっしょりで夜中に目覚めた私は、体の汗を拭くついでに、トイレを求めて部屋を出た。

 幼い頃に何度か来たことのある建物とはいえ、入ったことのない部屋ばかりである。

 ぼんやりした頭でなんとか記憶をたどる。電球の白い明かりを浴びた長い廊下は、その左右に扉がいくつも並んでいた。

 意を決して、一つの扉を開ける。

 部屋を見て、寝ぼけた頭が一気に冴えた。部屋の中心にある椅子まで、歩みを進める。

 部屋には、いくつもの肖像画が飾られていた。それも、一枚ではない。隅に置かれたテーブルの上にはもちろん、壁を埋め尽くす限りの、人間の顔。油彩画、水彩画、鉛筆画。あらゆる色彩と形をしたその絵画は、ただ一人の人間の顔を描いていた。

「お母さん……」

 無数のお母さんの顔、そのすべてが、こちらに微笑みを向けていた。よく知るお母さんの顔のはずなのに、その表情の奥に隠されているものを、私は知らない。というかそれは、画のタッチにあらわれているような……。

「見られたか」

 背後から突然かけられた声に私は驚いて飛び上がった。一瞬で全身が総毛立つ。体内に巻き起こった様々な恐怖とか怒りとかの感情の断片をどうにか一つのため息に変えて口から逃し、恐る恐る振り返る。

 まるで幽霊みたいだ。

 ぼーっと立つ桜さんが、私を見下していた。

「桜、さん……」

「気持ち悪いもの見せて、悪かった」

 冷たい声。悪かった、とは言いながらも、私の腕を掴む手のひらの力は凄まじく、私に反論する気持ちさえ抱かせなかった。部屋を追い出された私は、後ろ手にドアを締めた桜さんに、冷たい目で見下される。

「何も聞かないでくれると、嬉しい」

 それはお願いの形をしているけれど、私には命令にしか聞こえなかった。

 頭の中に山程浮かんでくる疑問と問いかけをどうにか追い払って、私はうなずいた。

「……わかった」

「ありがとう、夏」

 もうそれきりだと言わんばかりにすたすたと歩き去る桜さんの後ろを、私は黙って見送る。角を曲がり見えなくなってから、壁にもたれかかって、大きくため息をついた。そこで、呼吸を止めていたことに気づいた。

 腕に残った真っ赤な指の跡が彼岸花みたいに咲いている。


 部屋に戻って、布団にうつ伏せになる。

 あの部屋に残されたお母さんの絵画。確かにお母さんを練習相手に画を学んで来た人だから、最も描きやすいのはお母さんの顔なのかもしれない。より身近で強い興味のあるモチーフを描くことで、ディティールに意識を向けられ、絵画の技術の上達につながる。

 などという言い訳が頭の中に浮かぶけれど、さすがに無理だろうと思った。

 もうさすがに、桜さんのお母さんに向けられた感情を、恋や愛と名付けられるまではいかないとしても、その感情の強さを、認めざるを得なかった。

 私に出来ることはなんだろうと考える。


 翌日。

 居心地の悪さを感じながらも、私だけの絵画教室が始まる。

 それから私達は、一見何事もなかったように、軽口を叩き合いながら、ときには絵画の指導もしてもらって、充実した夏の日を過ごしていた。

 けれど私たちの間には、トレーシングペーパーのような薄くて決して目には見えない障壁が、確実に存在していた。核心はつかないようにと慎重にお互い言葉を選んでいるのはすぐにわかった。うっかり踏み外せば谷底まで堕ちて戻ってくることのできない吊り橋を渡るような緊張感。

 桜さんは何でも無いように笑ってみせるけれど、私が戻れなかったのだ。

 余計なことをしたのは私だ。踏み入れてはならない桜さんの心の奥底のスペースに足を踏み入れた。桜さんは足跡を見ないようにしてくれていたけれど、私の足に残る感触が心を蝕む。腕についた後はもう消えてしまっていたけれど、真っ赤な彼岸花は、まだ私の網膜にこびりついている。

「休憩しようか」

 アトリエを出る桜さんの背中を、黙って追う。

 換気扇の下で、桜さんはいつも通りタバコに火をつけた。真っ赤な火花が一瞬弾け、ライターのガスに点火する。のたうち回る真っ赤な蛇のように炎が立ち上ると、タバコの先端がジリジリと燃やされていく。

 私は、桜さんのタバコを奪い取って、口に咥えた。大きく吸い込んだ途端、喉に強烈な痛みが走り、ゲホゲホと大きくむせた。

「ちょっと、なにやってんの!」

 桜さんが私の指からタバコを奪い灰皿に捨てる。

 咳き込む私の背中に、手の感触。ゆっくりとさする動きはぎこちない。

「バカなの、あんた」

「これで、お母さんと一緒。でしょ」

 うつむいたままだったから、桜さんがどんな顔をしたのかはわからない。背中をさする手が止まる。

 そのまま、背中を軽く叩かれた。

「ふざけるのもいい加減にしなよ」

「私、お母さんに似てるでしょ? 背丈も、顔も、そっくりだよね」

 私は小さいころのお母さんにそっくりだった。それこそ、生き写しのように。

「代わりになってあげる」

「はあ?」

 桜さんの顔には、呆れた表情が浮かぶ。

「お母さんの代わりになるよ」

「あんたがなれるわけ――」

「一昨日の夜、見てたんだ。桜さんがあの部屋から出てくるの。桜さんの役に立ちたいの」

 お母さんのことが、本当は嫌いだった。

 桜さんは、お母さんのことが大好きだから。

 私は忘れない。

 お母さんの葬式で記憶に残っているのは、初めて見たお父さんの涙と、桜さんの背中。

 棺にすがりついて泣く、一人の大人の女性の背中。

 その時からずっと抱いていた疑惑は、一昨日の夜の桜さんの行動で確信に変わった。

 桜さんは、お母さんのことが好きなんだ。そしてそれをまだ引きずっている。

 5年間桜さんは画を描いていなかったわけではない。ずっとお母さんを描いていたのだ。おそらく、記憶の中にある、自分に微笑みかけてくれたお母さんを。

「バカなこと言うのやめな」

「バカなことじゃない」

「じゃあ私をバカにしてる?」

「本気だよ、私。だって桜さんに見られることが、私の幸せだから」

 心の奥に抱く熱を放出しなければ、誰にも気づかれることなく消えてしまうのだ。

 桜さんは目を伏せたまま、動かない。

 どれくらいそうしていただろう。換気扇が私達の周囲の空気を乱しても、取り巻く時間は固まったまま動かない。

 やがて、桜さんがぽつりとつぶやく。

「優子さんの代わりなんてどこにもいない」

 部屋に置かれた無数のお母さんの肖像画。そのどれもが、桜さんにとって唯一なのだ。

「夏……それで、良いの?」

 だから、その言葉に胸がざわめいた。

「良いよ」

 私は桜さんの頭を抱きしめ、胸に埋めた。髪は柔らかく私の指に絡みつき、梳かれていく。はじめは居心地悪そうに身じろぎしていた桜さんも、次第に受け入れ、私の背中に手を回してきた。今度は私が桜さんの背中をさする。

「こんなの……間違ってる」

 喉を振り絞るような声が、胸元にくぐもっていた。

 私の背中に回った手に力が込められる。

 桜さんの耳には、きっと私の心臓が全身に激しく血液を巡らせるドクドクドクという音が届いているだろう。

 窓から差し込んだ夕焼けが、部屋の中を真っ赤に染めていた。

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