2章 エピローグ

 戦争を控えているといっても、山の中に大きな変化はなかった。

 下層ではその準備が人知れず進んでいたが、あくまで関係者だけだ。箝口令かんこうれいが敷かれてはいないが、早くて十年も先のことを今から不安に思うほど余裕がある訳ではなかった。

 むしろこの厄介な雪が溶けるということは朗報でしかなかった。雪がなくなれば大地が見える。大地が見えればそこに芽生えるものがあるからだ。

 ただ浮ついた感情は隔壁によって隔てられていた。もともと下層と中層では滅多にやり取りがない。それは物だけでなく人や情報も同様だった。

 中層ではいつも通りの日々が過ぎていく。何も変わらない、いつも通りの日々が。




 その日以降、中層でとある少女の姿を見たものはいなくなっていた。




「うぅ……寒いっての」


 激しく雪が吹き付ける中、白いマントに身を包んだ少女が独りごちる。

 周囲には分厚く積もった柔らかな新雪だけがあった。音が吸い取られた世界では、吐息の音すら耳の中で残響を大きくする。

 それは突然の悪天候だった。つい三十分ほど前までは降雪はなく、穏やかな風が雪を舞いあげて陽の光を乱反射させる。ダイヤモンドダストが柱を作り、絶景に目が奪われる。それが一度、大きい風が吹いたと思えば、伸ばした手の先すら危うくなるほど吹雪くとは誰も予想出来ない。

 誰に届かずとも、愚痴のひとつでもこぼさなければやっていられない。斜面を掘り、雪洞の中に身を隠しているクローネは鼻から水を垂らしながら天候が回復するのを待っていた。


 クローネの住んでいる山、タールフルスから南へ千キロ以上。一昼夜かけて飛んだ先にヘリオスはあった。

 侵略者の先兵にして裏切り者、リリンの住む街は海中都市だった。潮力による発電を利用したコロニーは長い歴史の間にその機能が破損し、修復が出来ていなかった。資源は海底火山から得ていたが足りず、困窮にあえいでいた。




 何故クローネがそんなところにいるかと言えば、数日前に遡る。下層でグライダーの作成をしていたところ、ヒルダに呼ばれて着いたのは大きな部屋だった。岩をくり抜いた洞ではなく、建屋に調度品が置かれた部屋は中央に珍しい木のテーブルが置かれていた。

 その時点で嫌な予感を感じていた。それを口に出す前に、ヒルダがいやらしい笑みを浮かべて話し始める。


「君に潜入捜査を頼みたい」


「はぁ……」


 気持ちのこもらない声が鳴る。

 取り巻きもなく一対一。疑問より恐怖が勝っていた。

 そんなクローネに構うことなく、ヒルダは言葉を重ねる。


「今は良くとも備えておいて悪いことは無い。相手の出方が分かるだけでも取れる手は多いからな」


「いや、なんで私なんですか?」


 当然の疑問へ、ヒルダは椅子から立ち上がり、クローネの横へ並ぶ。

 ひんやりとした空気にたじろぐ。距離を開けるために出した一歩へ絡ませるようにヒルダの足が股の間に挟まれていた。


「私の手駒の中にリリンの一族と同じ位の背のものがいなくてね。明らかに外部のものとわかってしまっては潜入にならないだろ?」


「私は手駒じゃないんですけど……」


「気にするな。それとも私に飼われたいのかい?」


 どういう二択だよと、思いながら彼女を押しのける。豊満な胸に手が当たり、聞きたくない喜悦の声が耳に入る。

 他に誰もいないのだから押し切ることもできた。だがそれをしたら最後、彼女がどのような手段を取るかがわからない。味方の多いということは、意見を押し通す術も持ち得ているということだ。

 のこのことついてきてしまった時点で詰みだったのだ。いやもっと前、名を知られた時からこうなることが確定していたのだろう。ならば残された道は提示されたものしかない。

 諦めが濃く出た表情でクローネは答える。


「潜入ね。わかりましたやりますよ」


 その言葉を聞いて、ヒルダはわかっていたというように軽い笑い声をあげる。いつか目にもの見せてやると誓うが、それすらも楽しみそうなところに、恐怖する。


「そうか、残念だ」


 どの口が。

 出かかった言葉を急いで飲み込む。これ以上彼女を楽しませるつもりはなかった。




 ヒルダが手配した技術者達に混じり急ピッチでグライダーの新造を終え、直ぐにクローネはタールフルスをたった。

 目的地まではソクラティスとその他幾人かが随伴していたが、彼らは潜入しない。無線から定時報告を受けてヒルダの元へ届ける役目だからだ。

 古くに廃棄された、近くのコロニーに仮拠点を作り、そこからはクローネただ一人。雪の中、下は分厚い氷の張った海上を行く。

 ゆっくりと、無理はしない。心細くはないが、行く手を阻むものは多い。孤独の行軍は一昼夜続いていた。

 目的地まではあと少し。数ある出入口の中から、ヘリオスの未来を憂う反乱軍レジスタンスの集まりに最も近い入口へと向かっていた。

 霜焼けした赤い鼻を擦り外を眺める。日が落ち始め、より一層寒さが厳しさを増していたが、雪は落ち着いてきていた。

 そろそろ進もう。懐から取り出したカロリーバーを口に含んで立ち上がる。刺すような強い塩味が今は心地よい。

 クローネは歩き出す。踏み込んだ足跡は翌日には消えてしまうだろう。何も無い白銀の世界で少女が一人雪に溶けていった。

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【完結・スチームパンク・フロストパンク】彼女は蒸気と雪の街で空を越えるようです @jin511

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