ずっと二人きりだったら

じゅげむ

ずっと二人きりだったら

 新年を告げる、金剛石の輝きを思わせるあの光に触れることが出来たなら。私はようやく生まれ変われるだろうか。

「いま、新年の幕開けです。見えますでしょうか、山頂から煌々と輝く日の出が」

 うんたらかんたら。ぱりっと乾いた洗濯物のような声の青年が、テレビ画面の中で吼える。あれは炬燵の中で見るには贅沢な光景だった。一度も登ったことのない日本一の山から見る日の出。

 確かに存在しているのに、掴みどころのない事象だ。有難いことなのに、心の芯には響かない。

「貴女はそんなんだから、友だちが少ないのよ」

 聞き慣れた声がして振り返るが、背後には居間の黄色い壁しかない。目の前にいる母は、怪訝そうに私の顔を見ている。母が神妙な面持ちで私の手を、そっと握った。

「新年から碌な事しないでよ」

 頼むから、と念押しした母の手の温もりを思い出しながら、私はトレッキングポールのグリップを握り締めた。

 ここは温かい家の中でも、ヌクヌクの炬燵の中でもない。家から一時間ほど電車を乗り継いで訪れた、山の中。

 肺から息を吐きだして吸い込んでも、山道の瑞々しさなど一切感じない。乾いた空気が残酷に喉を通っていき、前かがみになってオエッと咳をした。前方から優雅な笑い声が聞こえてきたので、渋々顔を上げる。

「なにがそんなに面白いのかしら」

 ふふ、と優雅に口元を抑えながら淑女は笑う。

「普段から運動していないのに無理するから、こんなことになるのよ」

「だって」

「だってもヘチマもありますか。ほら、日の出ってやつを見たいんでしょう。そんな足取りでは日の出を見ることは愚か、一生山頂には辿り着けないわ」

 彼女の言葉には一理ある。私は腹の虫を収め、黙って足を動かした。友人は私の前を足音も立てずに優雅に進む。この坂道で大汗を掻いて進んでいるのは、私だけだった。頭上を仰ぎ見て、最初に彼女の背中が見えるのは大変悔しい。

「あんた、なんでそんなに、はあ、早いのよっ」

「貴女こそなんでそんなに遅いの。亀なのかしら。ここは富士山の山道でもない。ただの山、ただのハイキングコースよ」

 振り返る顔は余裕の笑みを讃えている。彼女は私の友人であり、悪友だ。女学校時代からの付き合いで、性格も男の趣味も全く違うのに、私の思いつきにのってくれる。数少ない気の合う奴。

 久しぶりにトレッキングシューズに足を通したからか、足首が上手く曲がらず痛みを感じ始めた。しかし、今ここで弱音を吐く訳にはいかない。一言でも言おうものなら、百の嫌味を言われるに決まっている。

「貴女、一人で寂しくないの」

 初めて会った時、教室の隅で読書をする彼女にそう言ったのを覚えている。悪意のない無遠慮な言葉だったと、今では後悔していた。私の取り巻きが侮蔑の笑みを浮かべているのにも関わらず、彼女は白百合の様に微笑んだのだ。

「品がないのね。猿山の大将ってそんなに夢中になれるものなのかしら」

 中学一年生の夏。あの凍り付いた教室は今思い出しても笑える。

 にやけながらも、私は懸命に足を動かした。腿が段々と重くなる。日が昇る気配があるようなないような、そんな暗い山道が私を陰鬱な気分にさせるのだ。

「あんただって私と同じで、友だち少ないくせに」

「あら、そんなこと言うの。私がついて来なかったら、貴女一人でこの道を登るしかないのよ」

 貴女にそんなこと耐えれるの、なんて微笑みながら私に言う。私は女学生時代からこの悪友が気に食わなかった。彼女は私の欲しい慰めをひとつもくれないのだ。いつも辛辣で、冷酷で、生意気で。

「お前たちは仲が良いのか悪いのか、分からんな。古川は家猫で、荒田は野良犬の大将って感じなのにな。アハハ」

 女学生時代は教師によく比較された。所属している陸上部の顧問に言われるぐらいには、私たちの関係は周囲には奇妙に映っていたのだ。和を重んじる女子の輪に似つかわしくない、よくぶつかりよく競い合う犬猿の仲。だが、大体いつも私が負ける。

 女の良さは、品行方正。粛々と学生生活をこなす彼女は、女の園のマドンナだった。そんな彼女が、私の前では少し違う。

「学生を動物に例えるなんて、先生は随分立派なご身分ですこと」

 白百合の癖に棘があるなんて、実に愉快だ。あれは中学二年生だったか。私が顔を真っ青にして職員室を飛び出した後、二人して笑いあった。普段は自信満々の教師の顔が、さっと引きつった顔は学生には大変面白い。

 大雑把な私の中にある繊細さ。優雅な彼女の中にある豪胆さ。どこがどうかみ合って、何十年経った今も共に山を登る羽目になったのか。皆目見当もつかない。

「ごめんね」

 息が上がって脳に酸素が届かない。肩で息をしながら、私の口を突いて出た言葉は彼女を不快にさせた。夜明け前の冷たい空気からも十分伝わる、彼女の存在と感情の波。

 気づけば、私は平地にいた。登るのに夢中で、全身にはまだ登頂の達成感はない。それ以前に、一月三日の山頂付近には誰の気配もなかった。微かに山小屋から人の気配はする。あるのかないのかも分からない不明瞭な気配に、私自身消えてしまいそうな心細さを覚えた。

「なにそれ。普通はありがとう、でしょ」

「そうだけど」

 息を吐くと白い霧が目の前に広がって、僅かな時間もなく消える。私は焦った。目の前で手を振って、視界を曇らせてはいけないと。いま、彼女を視界から外してはいけない。そんな私のことなど、彼女は何とも思っていないように笑った。

「おかしい。貴女は昔からおかしいんだから」

「あんたには言われたくないわ」

 彼女の笑い声は、明るくなり始めた白い空に響く。山河を見下ろそうと、二人は崖に設置された柵に近づいた。光はまだ差していなくとも、澄んだ空気のお陰でよく見える。葉が落ちた木々の先、見たこともないような小さな黒い野鳥、絶えず流れる川の揺らめき。

 じっとその景色を見下ろして、顔を上げた。あと少しで夜が明ける。

「でも、ちゃんと登れて良かったじゃない。正直、日の出に間に合うなんて思ってもみなかったけど。ああ、明日の新聞の見出しに載ったらどうしようかと」

 彼女は静寂を打ち破っても尚、まだ笑い続ける。私は少し呆れた。

「どういう意味よ」

 彼女はニヤリと意地悪く笑う。

「『中年女性、山道で力尽きる』、なんて見出し。新年早々縁起でもない。貴女、親孝行も出来ないまま死ぬところだったのよ」

「馬鹿、話を大袈裟にしないで。それに、いくらなんでも私が倒れたら貴女が助けてくれるでしょ」

 私も釣られて笑った。笑ったはずなのに、少し頬が引きつっているのが自分でもわかる。私が自覚できるということは、腐れ縁である彼女にはもっと嘘くさく感じるだろう。

 柔和な彼女の顔から笑みが消えると、空気が張り詰める。

「私、貴女を助けないわよ」

「あんたはいつもそうね」

 テスト勉強で困ったときも、忘れ物をした時も、彼女は私に手を貸すことはしなかった。ただ、一緒に居てくれた。誰かの悪口を言っても賛同しない、誰かとの喧嘩に加勢もしてくれない。ただ、傍に居てくれた。

 微笑む彼女に、胸が引き裂かれそうになる。

「貴女は一人で十分やれる人でしょ」

「出来ないわよ」

 声が震えていたが、すぐに言葉は出た。言ってしまうと私は耐えきれず、しゃがみ込んでしまう。彼女が動揺して手を伸ばしてくるのがわかった。

「荒田」

 手を振り払う。そこに人らしい感触がなかったことを、今は考えなかった。

「あんたが居なくなるなんて、私、聞いてないわよ。あんたはいつもいつも、突拍子もないの、どうにかしなさいよっ。勝手に人に噛みついて、勝手に無茶して、勝手に、勝手に」

 言葉が続かない。触れられた彼女の手には温もりなど無い筈なのに、私には何よりも安心できた。これが真実でも事実でもないのなら、この世に信じられるものはない。腹の底から憎らしい。

 なぜ最初に、私が彼女を助けることが出来なかったのだろう。

 貴女の隣に私の居場所がなくなったのは、いつから。

「もういいの。もういいのよ。どうしようもないことなんて、世の中たくさんあるじゃない。貴女だって、もういい歳だからわかるでしょ」

「いい歳っていくつからよ。なによ、世の中の匙加減に毒されてっ。型に嵌って大人ぶっちゃって。そういうの、あんたが一番嫌いでしょうが」

 貴女の結婚式場で、友人代表として祝辞を送った私の惨めな気持ちが今更ながら沸き上がる。虚しさに胸が締め付けられて、私は一週間も仕事を休んだ。本当よ。

 そんなこと、今の貴女に言ったってしょうがないけど。

「それは言わないでよ」

 一通り泣き終わって、私は満足したのか大きく息を吐いた。恥ずかしいものだ、大の大人が新年早々一人で泣き喚いて。泣き終わったら、満足して。ただ折り合いがつかなかっただけなのに、わざわざ老齢の母を置いて一人、山に登って。

「あんたは私の妄想なんでしょ」

 急死した付き合いの長い友人の影を、私は頭の中で勝手に作ったのだ。古い記憶に縋った私を、あの世の彼女はきっと呆れた顔で見ているだろう。世の中が新しい年を迎えたというのに、未練がましい女だと。

 彼女の体を光の線が差す。よそ見をしている間に、とっくに日は昇っていた。

 倉庫から引っ張り出した登山靴や装備を携えて、やっと山頂まで辿り着いたというのに。私は、彼女から目を離すことが出来ない。この時を逃したら、もう二度と彼女を見つめる事など出来ない。柵を持つ手が震えた。

「私の頼みをひとつ聞いて」

 苦笑が漏れた。私の妄想の癖に白々しいものだ。しかし私に断ることなど出来ない。

「いいわ」

「私の部屋の引き出しに遺書があるから。埃まみれの茶封筒。それ、頼んだわよ」

 私の妄想にしては不躾で、どこまでも私が描く彼女らしくて、怒りがこみ上げて顔を背けてしまった。目に日の出の鋭い光が襲ってくるので、さっと顔を俯かせる。

 顔を上げたら、彼女はもういなかった。

 頬を風が撫でるが、心は沈んだままだった。

「変われるかしら、私」

 吐く息が白い。私は、どこまでも愚かな私だった。

 服を変えても、山を登っても、友人の残像から決別しても、そこには私しか居ない。私しかいないのだ。

 ざわめく胸中も知らぬまま、下山する彼女に日の光は当たり続ける。ただその足元に、まるで親友の様に寄り添う影が追従するだけだった。

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