第11話
楽しみにしていたスキー合宿が実力テストに変換され、げんなりしたものの、学年末試験には好影響になる橋渡しには安堵となるが、とはいってもそれでも「楽しみ」には及ばない。
けれども、そのせいか、そのおかげかはおいておき、十二月までとはいささか異なるクラスメートとの交流に、それを「楽しみ」と呼んでいいのか、どうかは由亀にも未果にも思いつきもしないのだろうが、少なくとも「心地よさ」があるのは、二人が感じていることであった。
それは実力テストが終わったというのに、勉強のことで教えあったり、本の貸し借りをしたり、またしても街中で遭遇したりなどが相次いでは当たり前と言えば当たり前だろう。
そんなこんなの日々の中、その「心地よさ」を揺り動かすことが起きた。
弁当の少なさのせいか、午後にあった体育の授業でバスケットボールのゲームを三つこなしたせいか、珍しく柳戸のバイト先にでも行って小腹を満たそうかと、通学路を歩いている時のことである。由亀を遠くから呼び止める声があった。
振り返ると、川岸が片手を上げながら名を呼んでおり、もう片方の手で、未果の腕をつかんで引っ張っていた。その力が強引であることは、未果がやっとこさついて来て、鞄がずり落ちるのを何度も持ち直していることから容易に察せられる。
テンシやアクマならまだしも、悪鬼が追いかけて来るわけでもないので、立ち止まってもよかろう。
「瓜生、暇? 茶、行く?」
助詞などがなく、ほぼ単語しか言ってないが、文意は十分伝わる。バッドタイミングというわけではないので、了承の即答をする由亀。
空き地に部下を引き連れていくガキ大将のように先陣を切る川岸についていくしかない。一方通行の割に交通量の多い通りを歩いて行く。一〇センチあるかないかの積雪に、さすがにママチャリは滑走してはいないが、買い物帰りの歩行者が何人かすれ違った。
「ごめんね」
空いた手を顔の前に立てて、陳謝の意を示す未果に、
「大丈夫」
はにかんで答える。
「さあ、どこいくかねー。カフェにすっか、ファミレスにすっか、ハンバーガーにすっかなあ」
続々と提示されるガキ大将の選択肢。今の由亀の空腹バロメーターにしてみれば、第二または第三候補の方が好ましい。
「柳戸がバイトしてるとこに行こうと思ってたんだ」
さりげなく川岸の選択肢を狭める。
「なら、ハンバーガーだな」
どう思考したらハンバーガーになるかちょっと検討しなければならないはずが、それどころではなかった。
川岸が振り向いた瞬間、由亀の表情が一変し、それを未果は見逃さなかった。
「どうしたの?」
聞き方が恐る恐るのそれになる。
「いや。気のせい……だった……ら、良かったんだが」
険しさから困惑の色に表情を変えた由亀の言葉が止まる。
「あれ? めぐみ?」
未果は先を行く友人が、千鳥足が氷上で滑っているような感じになっていた。
「ねえ、どこに行くの?」
並んで肩に手を乗せる。顔を覗き込むと、その目がうつろになっていた。
「めぐみ!」
大きくなった声で、由亀も並ぶ。
「!」
絶句の後に、ようやく出てきたのは、
「糸、じゃない?」
疑問だった。川岸の胸部中央から、由亀がこれまで見たこともないものが伸び出していた。その速度はロケット発射の勢いで、瞬く間にうねうねと曲がりくねり、宙を漂うそれは、糸というよりも細い蔦に見え、発端がどこなのか目視できなくなっていた。
放心状態でたどたどしく歩き続ける川岸の身体を止めようとしても、そのおぼつかない足取りとは思えないほどの力で由亀も未果も、大横綱によって土俵際まで寄り切られる新人関取のように、なす術がない。
自動車の往来が皆無で、歩行者もおらず、閑散とした通りになっているのが幸いである。
「瓜生君。めぐみは……」
「見たことがない糸状というしかない。こないだどす黒いのがあったように、赤い糸にも種類がある。たぶん、これもそうだと思う。それが川岸の胸から出てて。できるかどうかしれないけど」
直感がこの状況はマズいと告げていた。単なる赤い糸というわけではなさそうだ。
赤い糸を結ぶテンシ、赤い糸を切るアクマから結切自在ミディウムと呼称される瓜生由亀。その力を使わなければならない。由亀個人の思想や、切るべきか切らざるべきかなどと言っている場合ではない。クラスメートが、おそらく糸が原因で平常ではなくなっている。通常の紅い糸でこのような状態にはならないからである。それならば、解決するには、解決できる力が己にあるならば、迷いなく行使しなければならない。
「少しでいい。燦空さん、川岸を羽交い絞めにして」
言われて、一瞬止まった。友人の異常。それを打開しなければならない。これまでの経緯から由亀が嘘を吐いたり、悪事を働いたりすることはない。けれど、未果には川岸から出ているという蔦になっている赤い糸は見えない。百聞は一見にしかず。テンシやアクマは目の前に現れていた。けれど今は彼らが結んだり切ったりする赤い糸は見えない。常識なら救急車を呼ぶ選択をする。
それでも未果はありったけの力で川岸をフルネルソンに固めた。非常識な選択の方を、未果はとった。
その胸元へ、クラスメートの男子の手が伸びる。はたから見れば完全な破廉恥行為である。緑子が見たら、一喝が幾数施されることになるだろう。
「う、瓜生君。さすがに……」
友人を身体拘束して、クラスメート男子のセクハラに加担する。糸が見えない分、行為自体をいよいよになってためらいが生じないわけではない。せめて、赤い糸が胸元からではなく、他の個所から出ていればと、わずかながらの愚痴を思う。
川岸の背部から覗けば、由亀の指先がまさにその胸部に触れそうになっている。
「やっぱり、ダメー」
そのまま投げ技を繰り出さんかという勢いで持ち上げてしまった。
「ナイス。燦空さん」
雨降って地固まる、不幸中の幸い、とまではいかないまでも、未果が友人を守ろうとした行為は、由亀にとって有益だったようだ。
由亀の言葉の意味が分からず、友人を持ち上げたまま見やれば、彼の手が蔦のようなもの握り、その元は友人の胸部中央から伸び出ているのが見えた。
「赤い、糸? 蔦になった……」
絞り出された確認。由亀の言っていた通りだった。糸ではなく、どこか植物的な形状。
「そのままにしていてね」
由亀には聞こえていなかったようだが、現状維持を促す言葉がむしろその裏付けになり、正気というか、しゃんとした心持にさせた。
「それ切っちゃったら、めぐみがおかしくなったりしないの?」
すでにそれが出ている時点で、尋常ではない状態になっているのだが、今まで見えなかったものが見えれば、そんな疑問も無理はない。なにせ、川岸から伸びている蔦を握る由亀の手の甲には血管が浮き出て、明らかに引きちぎらんばかりである。今未果に見えているのは、この由亀の力があればこそであろう。
「大丈夫。切ってもすぐに元通りになる」
由亀は自信ありげに、ぐっと蔦を引き寄せる。必然、川岸と彼女を羽交い絞めにしているその力任せに従って、前のめりになる。
「はず……赤い糸なら」
自信の断定には、不安定な続きがあった。
「え?」
そんなミディウムの急変に未果は戸惑う以外になく、それが脱力に変わり、なおさらにえらい勢いで引っ張られることになる。となれば、川岸を由亀と二人でサンドウィッチにしてしまう。
「あった」
由亀が蔦の一点を握った。
「それ……」
蔦なのに結び目があった。蝶結びのような結び目。由亀は今まで掴んでいた手を離し、両手でその結び目を摘み、指を巧みに動かした。
プチッ。鳴ったか鳴ってないかかすかな音が聞こえるように結び目は弾けた。未果にそれは聞こえなかったが、由亀は安堵しているように見えた。
次の瞬間。
「へ?」
未果の目の前から蔦が消えた。縮んだとか、燃焼したとかではない。あったものがなくなったのだ。マジックかイリュージョンかでしか見ないような現象が、目の前で起きた。
とはいえ、女子高生が前方に突っ込んでいく慣性がゼロになったわけではなく、
「痛ってえー」
男子高校生の尻餅の結果になった。クラス女子を両脇に抱いた格好で。かといってラッキースケベ的接触がまるで起きていない。
「大丈夫?」
慌てて起き上がった未果が自身のそこかしこのチェックよりも彼に確認をすることにも表れている。
「俺より川岸のこと」
由亀は空になった片手でもう片方の腕の中でまだぐったりしている川岸を座った姿勢にして支える。
「めぐみ? ちょっと」
ペシぺシと頬を軽く叩く。口の近くに耳を近づけてみると、呼吸は聞こえる。胸部は心拍を止めていない活動を続けている。
「気を失っているみたい」
「任せていい?」
さすがに女子を抱えたままというのは、ふさわしくない。他にもう一人女子がいるのだから。
「しかし、あれはなんだったんだ?」
川岸を抱える未果の後ろに回って、思わず頭を掻きながらつぶやいてしまう。
川岸の胸から伸びていた蔦は、これまで見た赤い糸とは違う。が、由亀が結び目を見つけ、処置した結果、消滅した。ということは赤い糸のはず。ただ感触が良くなかった。チクチクするというか、ヒリヒリするというか、ねっとりするというか。とにかく触り心地が愉快でなかった。
「別種の糸、ってことなんだよな……」
「そうなの?」
川岸を抱え、まだ座ったままで未果が尋ねる。由亀はまったく歯切れが悪い。色や形状の相違、糸の太さなどは精神とリンクしいて、例えば先日の担任ストーカーのようなことは幾度となく見てきている。ただこの場合の川岸のような状態は見たことがなかった。だから、
「いや、断定できない」
専門家が不確定なことしか言えない。由亀にはそうした座学が足りない。ならば、家に帰ってからでも占い師や霊能力者とか除霊とかで活躍している身内にいる専門家に訊いておかなければならないだろう、などと思っていると、
「ほほう。さっきのが結切自在ミディウム瓜生由亀の力か」
カランカランと足元を鳴らしながら、近づく気配が唐突に現れた。
さほどなく、目の前に一人の女性が立った。
その姿に由亀は眉尻をピクリと動かし、未果は、
「寒くないんですか?」
純朴に尋ねてしまった。
何せ、小袖なのだが、その帯の部分がごっそり空いており、若干色黒な地肌があらわになっている。着物の上半身と下半身がどう締められているのかが謎だが、はだけてはいない。少し動くと、腰骨が顕わになる。その臍の下には、どう見てもアルファベットの「Ⅰ」がデフォルメされているとしか見えない図象が顕わになっている。背の高さは、未果よりも低く一五五センチくらいか。目は大きく、爛々と輝いている。一歩踏み出した足元は、鼻緒の鮮やかな草履に真新しい真っ白な足袋。そしてそんな風体をかっこに入れてしまうくらいに、一言がまとめとしてできる豊満さ。もしナイスバディという言葉が人体化したらこのような体になるだろうというボディラインである。よくそんな格好でと不思議がるくらいにスムースな足取り。
「こいつ、群類の奴だ。どっちかは知れないけど」
ならば、未果の問いの答えは明快で、腹が冷えることはないだろう。カツやタテが気温に左右されないのと同じだ。
結切自在のミディウムは、屈んだままの女子高生二人の前に立ち、未知な群類の使者と対峙する。
「そいつ、そこの寝ている女から出ていたな。見ていたぞ」
これまで会ったことのない群類の者。結ぶか切るか、いずれにせよ。気を失っている川岸をターゲットにしている様子。
――もう出ていないのに……。あの糸、狙ってんのか?
川岸から出ていた、由亀がまだ知らない糸らしきものは、まだこの群類の者が標的にしているようだ。
「まだ後始末されておらんから、私がしてやろう」
言って、女は腕を水平に横に出し、手を開いた。
すると、
「おいおい」
「!」
カツのショットガンやタテの和鋏に相当する武器。女が手にしているものを見て、由亀がげんなりして、未果が絶句するのも無理はない。
「槍……じゃないか?」
ようやく絞り出した名称だったが、その形状はこれまで未果が見たことのあるそれとは異なっていた。
「巨大な銛。って認識した方がいいみたい」
由亀が言う通りに、女の身長の一.五倍はありそうな、ぶっとい銛だった。どんだけドでかいカジキマグロを仕留めるつもりだろう。
だから、余計に
「あれで結の
ためらいがちに由亀が、女の所属を類推する困難さを如実に浮かび上がらせていた。
「その女の糸、手出しされたくなかったら、私の相手になれ。ゆ~き」
艶めかしげな口調になりつつ、切っ先を由亀の顔に向ける。ショットガンの銃口、巨大化した和鋏を向けられてもびくともしなかった由亀の顔色がわずかに変わるのを、未果は見逃さなかった。
「いきなりなんなんですか! 瓜生君にそんな軽い呼び方しないでください」
かといって、武器を持たず、攻撃力もなく、ましてや今は意識を失っている友人にこれ以上魔の手なのか天使の手なのかが迫ることを良しとしない未果は反撃などできるはずはなく、できたのは、この女が親しくなったクラスメート男子の名を軽々に告げたことを非難するくらいであった。
「お前では相手にならんだろ」
切っ先が顔の前に向けられ、しかも、その言い方が明らかにどすの利いた怖い感じになって、未果は黙り込んでしまう。
「それはこっちだろ」
銛の柄を握り、自身に向けさせる由亀。
「人間風情がいい度胸だ」
笑止とも言わんばかりに、見下した感で、
「なら、楽しませてくれ。せいぜいな」
言い終わるが早いか、銛を突き出した。眼前に切っ先を向けていた由亀は柄から瞬時に手を離すと、そのままバック転で突きを避けた。
女は銛を振り下ろすと、そのまま地面すれすれで凪いだ。着地したての由亀の足を払い、倒そうというのか。が、由亀も一瞬顔を渋くさせながらも、間一髪でジャンプし、銛が宙に振りあがっていく。
南中化した銛の先を、垂直に振り下ろす女。由亀のがら空きの頭上を面打ちに狙う。再び着地した直後のため、今度は由亀に暇がわずかにもない。コートを脱いでからませて防ぐことも、白羽取りすることも、できない。
――仕方ねえ
由亀は飛んだ。前方に。
銛を避ける代わりに、目の前の女にタックルをかまそうというのだ。
女も、この行動は予想外だったようだ。目を丸くした。
「瓜生君!」
この交戦の様子を間近で見ていた未果からすれば、巨大な銛への反撃手段として、由亀が捨て身で相手の懐に潜り込み、近接戦へ持っていこうという図式に見えなくもない。巨大になっているとはいえ、タテの例があるくらいだ。大きくできるということは、小さくもできるかもしれない。ましてやテンシやアクマの冠がつく存在。ならば、由亀の反撃にも瞬く間に銛を縮小化させ、突っ込んでくる由亀を刺す、ということも考えられなくはない。
などという冷静な思考があってもなくても、未果は友人のために戦っているクラスメート男子を案じて、その名を叫んでしまう。
由亀、群類の使者と肉弾戦。
文字通りの結果になった。由亀は女に体当たりし、その勢いのまま倒れてしまった。レスリングのような緊迫感や格闘技感はそこにはなかった。簡単に言えば、地べたに抱き合っているようにしか見えない。
しかし、その捨身の攻撃のおかげか、女の手からは巨大な銛が離れていた。
「そうか、そうか。お前がその気ならそっちでもいいぞ。ゆ~き」
反撃されて、転倒した痛みがあるだろうに、女は男子高校生とくんずほぐれずな絡み合い姿勢に、まんざらでもない笑み。その職務を放棄しても構わないくらいの発言をする。ましてや、銛を持ち直して再攻撃などをせず、空いた手で由亀の頭を抱き、胸元に寄せる。由亀が顔に感じるその柔らかさときたら、まさにテンシの誘惑か、アクマの懐柔か。
由亀にしてみれば激突の痛みから、別の意味で衝撃が走ることになり、高揚感が湧きあがりそうになるのを堪えて、
「何すんだ」
何とかして、群類の女から離れようと試みる。
「良いではないか~」
などと、時代劇あるあるにでも出そうなセリフを女が言い、
「私もどちらかといえば、こういう相手の方が好みなのだ」
続けて死闘台無しにすることをのたまう。
「ウリュウクン!」
先ほどの案じる声色とはまるで違う、怒気を孕んだ声が降り注ぐ。女の腕を強引に振りほどいて、見上げれば、これまでの群類のいかなる者にも感じることのなかった背筋凍るほどのオーラを纏った未果が、落ちていた銛を握った上に、地面に突き立てていた。まさに仁王立ち。
「……すいません……」
テンシやアクマと呼称される存在の級友への襲撃を阻もうとした結果、未果が武器を片手に見下ろす状況になり、由亀も言葉少なくなる。
「なんだあ~? 羨ましいのか?」
妖艶な声色で、未果へ口撃、もとい攻撃。銛の突進よりも破壊力があったのか、
「そ、そ、そんなことあるわけないでしょ! あ、あ、あ、あなたは一体、な、な、なんなんですか!」
顔を、季節真逆な真夏の太陽級に真っ赤にしている。
とはいえ、銛先を女に向けないあたり、平和を重んじる姿勢が貫かれている。
「まあ、よい」
まさにひょいという感じで、由亀を片腕に抱えたまま、すんなりと立ち上がる女。それを見て、仁王がホッと安堵の息をつく。
「楽しみは今度。今は」
由亀を手放すと、ツカツカと歩き出す。
「おい!」
未果によって地面に寝かされた川岸の傍らに屈みこむ。
武器はいまだ未果の手にあるが、何をしでかすかしれない。
由亀が女の肩に手をかける。
「ウ、ウン!」
実にわざとらしく、強調された咳ばらいが、未果によってなされる。瞬時、女の肩から手を離し、手持無沙汰に手をこすってみるものの、
「何しようってんだ?」
くらいしか声の整えようがない。
「この女、正気に戻したいんだろ」
「変なことしたら、許……」
友人が、またしても使者から関与されようとして、握っていた銛を突き立てようとしたが、まったくもってピクリとも動かなかった。先ほど、由亀と女が組み合ったのを目撃し、地面に落ちていた銛を持ち上げた時にはまるで重さなど感じなかったが、今は電信柱を動かそうとしているほどに重い。突き立てた銛を引き抜こうとして、今度は顔を赤くすることになっている。
女は未果の様子に、わずかばかり口角を上げてから、銛を手元に瞬間移動させてから、川岸の側に突き立て、川岸の胸元へ手をかざした。
「おい、何しようって」
テンシとアクマに対峙し、巨大な銛にもひるまなかった男子でさえも、さすがに同じ言葉を反復するしか、この使者にできることがない。
「ん、ん……」
呼吸数回分を経て、川岸の意識が回復する兆候を示す。
「めぐみ!」
銛と、別の意味で戦っていた未果は、友人の傍らに戻る。
「ほら、言ったとおりだろ」
言って、女は銛を引っこ抜くと、その巨大な様相を消してしまった。
「その女はすぐに良くなる」
言いながら、由亀に近づき、その顎に指先を滑らせる。
「今日はこれくらいで帰るが、またすぐに会いに来るからな。ゆ~き」
「何してんですか!」
女の指の感触が不愉快だったからか、未果の詰問が強烈だったからか、由亀はピンと背筋を伸ばし、
「ド、どういうつもりなんだ、お前」
努めて深刻そうに、女の意図を探る。
女はまるで悪びれず、そのまま立ち去ろうとしていく。
「お前、名前は?」
その背中に、由亀は問う。せめてそれくらいの情報は仕入れておかなければならない。巨大な銛を手にしたテンシともアクマともつかない相手と対峙した時の勇ましさで。しかし今回はかなり作りこんだ言い方になっているが。
「え~と、そうだな。あふろでぃ~て。で、いいや」
女はケタケタと笑いながら歩き、二歩三歩で姿をかすませて、そして消えた。
「そんな和装なギリシャ神話、ねえよ」
皮肉も空疎だった。
途端に車道を流れていく時速四〇キロの群れ。
「あれ? 何してんの?」
背伸びをして、目を開くと、川岸は昏倒したことなどまるで記憶になかったように、起き上がった。
「てか、何してたんだっけ?」
「えっと、めぐみが瓜生君誘ってどっかでって」
友人の後に、立ち上がった未果にはそれくれいしか言い訳が思いつかない。
「そうそう。ほら、二人ともバーガー食べに行こうぜ」
知らない者は幸いである。ツカツカと惜しみなく進む川岸にならって、二人が続く。
「瓜生君」
氷のように張り詰めた未果の呼びかけに、
「は……い」
何もやましいことは一つもないと自負したい由亀であるが、なぜか返答がたどたどしい。
「あの人、結局どっちだったの?」
いつもと変わらなくなった未果の口調に、
「分からない」
由亀も普段通りの心構えと口調に戻る。どこかほっとして、
「けど、アフロディーテって名前は嘘くさいな。あの格好であの名前はないだろ」
豊満な身体と、セパレートになった着物という妖艶な出で立ち。そこにいきなりギリシャ神話の美の女神の名を出されてもと、由亀は普通の反応を示したつもりが、
「ン、ン!」
またしても力強い咳払いによって、背筋を伸ばす始末。
「でも、なんだったんだろう。結果として、めぐみを昏倒から救ってくれたことになるよね?」
「あの糸、と呼んでいいのかわからないけど、あれ絡みでって考えるしかない。少し調べてみる」
「めぐみがなんともないといいけど」
「大丈夫っぽくは見えるな」
二人の前を、まさに闊歩している川岸の背中からは先ほどまでぶっつぶれていたとはまるで思えない健康体そのものである。
由亀は身内に訊くばかりでなく、カツやタテ辺りから本格的に聞き出す必要のある事案なのかもしれない。
「歩くの遅い!」
バーガーを目指す健康体女子は、ちんたらと二人だけで小声で話すクラスメート達にわざと嫌味っぽく言う。さらに続けて、
「二人とも服汚れてるじゃん。なんかしてたんでしょ?」
言いつつ、聞き出そうともせず歩き進む。確かに雪の上に倒れていた濡れた感じは背中にはない。
この友人を、敵(と思っていた相手)から防ごうとして七転八倒した結果、汚れたとも言えない。
それよりも二人が気にしていたのは、川岸の後半のセリフであった。
「あ? 何二人して赤い顔してんの?」
寒さを理由にできない。それが原因なら川岸の頬もリンゴ飴ほどになってないといけない。
二人が思っていたのは、由亀があふろでぃ~てと名乗る女と絡み合っている場面ではなく、川岸を間に挟んでサンドウィッチ間際まで行っていたときのことであった。まさに「なんかしてた」ことになり、そのせいで二人の頬が寒さを原因とせずに変色をきたしていた。
そんなことをつゆとも知らないクラスメートを、二人は無言になってついて行った。
もう二月になるという冷たいはずの風が、頬をなでる感触がやたらにしとやかであった。
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