第5話
書店斜め前の老舗の喫茶店。テナントの二階にあるそこは昭和造りとでも呼べそうで、店内に流れるジャズがより一層ノスタルジックな感じを醸し出していた。
「お待たせ致しました」
バイトだろう。由亀や未果とそうたいして年齢に差があるとは見えない女子店員が注文の品を運んで来た。由亀の前にコーヒー、未果の前にココアを置く。
店員が去り、パテーションの向こうに姿が隠れてから、二人は置かれたカップそれらを交換した。確かに高校生男女の注文として、店員が差し出した予測は平均的であろう。しかし、残念ながら、由亀はブラックコーヒーが飲めなかった。正確に言うと、飲めなくなった、である。去年の春過ぎくらいからブラックコーヒーの苦みが痛みにしか感じられなくなった。それはちょうど、赤い糸が見えるようになった時期と微妙に前後する。瓜生家はそんな具合で、味覚が普通とズレてしまっている者がほとんどだ。ならば、カフェモカだの、ブレンドに砂糖をたっぷり加えればいいだろうが、クラス女子の前でわざわざそんなことをするのは、さすがに格好がつかないと思うのは、年頃の男子といったところだろう。
窓際の席に対面で座る二人からはアーケード通りが見下ろされる。コートやダウンジャケット姿が行き交っている。
先程、未果が買った新刊は鞄に仕舞われ、彼女の隣の席で息を殺している。彼女の関心は今は鞄の中ではない。
二人同時に一口啜る。ソーサーを静かに鳴らした後、コーヒーの熱さを吐き出したのとも、軽くため息をついたのともつかない未果に、
「やっぱり気になる?」
由亀は自分から切り出すのが良いだろうと判断した。
「いいの? 聞いて」
言葉にはためらいがちな確認の色が残っていたが、文末が心なしか弾んでいた。
「フっ、ハハ」
急に由亀が口を隠して笑い出すものだから、
「ちょ、なんで笑うの?」
大きくなりたい声を抑え、いささか不満そうだ。
「いや、ごめん。学校では分かんなかったけど、燦空さんて、好奇心旺盛だなって思って」
書店で由亀が感じた未果の個性を表す言葉。由亀のその理由に未果も言葉がない。書店での様子、今の状況から推察すれば、未果の性格を表す一言が出てもおかしくない。としても、これまでそのような形容をされた覚えはない。
「あんなおかしな連中に怖い目を合わされただろうに」
言い返しもできない。由亀の言う通りだった。強襲された日、由亀と別れバスに揺れる時間が彼女を冷静にさせ、興味本位と言われようが、気になって仕方なかったのだ。それは自宅に帰ってから一層に湧いて来て仕様がなかった。だから、週明けに登校した際には、どこで、どのようにして切り出そうかと何度となく思い巡らせていたのだが、その妙案が浮かばないまま、日付が進み祝日となったこの日、新刊を読んで気晴らしをしようかと来てみれば、情報屋がまさに目の前におり、クラスメートの挨拶にしては、やたらぎこちない所作になったのである。
「やっぱり聞かない方が良い?」
決して本心ではないが、あくまで関心は未果本人にあり、当事者の由亀にしてみれば、話せることの限界もあろう。それはそれで未果にも予想ができていた。だから、不本意ながらそう尋ねるしかなかった。
「まあ、できるなら忘れた方がいいんだけど。そうもいかないだろうしね。いや、なんていうかな」
スプーンをココアの上澄みで遊ばせながら、本当に由亀はつくべき言葉を探している様子だった。
「瓜生君が困らないで答えられる範囲で」
ジャズの代わりに未果を取り囲むであろう言葉の音楽に今は耳をそばだてるしかない。
「本当に限られた範囲になるけど、それでもいい」
未果は口を少し引き締めて、肯いた。由亀の言う範囲というのは、恐らく未果の身辺に事が及ばないという意味を含んでいるだろう。
「俺があの二人をテンシとアクマって呼んだのは覚えてる?」
静かに頷いた。
「天使と悪魔ではないから。えっとね、運命の赤い糸って」
知っているよね、の意味を込めての視線を未果はもちろんの首肯で返す。
「あれは小指と小指が生まれた時から糸で結ばれているんじゃなくて、あいつらが結んだり、切ったりしてるんだ。って、この時点であいつら人間じゃないのが分かると思うけど」
未果は目を見開いた。赤い糸が実在し、なおかつ切断可能だということに。
「縁と言った方がいいかな。ご縁があるとかの縁ね。赤い糸はその縁の一種で、神社とかお寺でもあるでしょ。縁結びと縁切りって。それの、そうだな。実行部隊みたいなものって例えれば、分かりやすいかな?」
驚いて声を出せない未果は、由亀の解説にただただ頷いて、話しを理解していることを示すしかできなかった。どこからともなく取り出したショットガンや旋回に伴って巨大化する和鋏。目の前で雪と同化したように姿が消えてしまうこと。それらを未果は思い出していた。
「群類って言うらしいんだけど、赤い糸なんかの縁を結ぶグループ、縁を切るグループがあって、結ぶ群類をテンシ、切る群類をアクマって言うらしい。で、こないだ燦空さんの前に現れたカツは結ぶ群類(テンシ)、タテは切る群類(アクマ)の所属。カツもタテも何度聞いてもあの和服にしている理由を答えない。
他にもメンバーいるけど、俺が会うのはあいつらが多くて。で、なんでこうも詳細に知っているかというと、話ししてくれるんだよね、あいつら。
テンシ、アクマって言っても、それぞれが地上とは世界を異にする天界と魔界に棲み分けしているわけじゃなくて、同一組織内の別動隊らしい。学校でいえば、部活動の違いみたいな感じかな。俺らは学校の一階にいて、あいつらは別棟にいるみたいな。そこを部室にしている化学部と生物部みたいな」
「あんな格好なのに、誰も気付かないのかな」
「さっきも言ったけど、気付いていることと人間関係が形成されることは違うよ。今の時代、変わった服装なら、そこいらにいるし。燦空さんはこの通りを歩くすべての人の顔や髪型、服、身長なんかを気にして、んで覚えている?」
「そういうことか」
「それに、テンシ様、アクマ様の冠がつくくらいだから、そう易々とは見えないよ、普通なら。燦空さんが見えたのは、あいつらに事情があったみたいで。人間風情がどうのこうのとか言ってるくせして、腹減ったからとか言ってそこいらで飯食ってんだよ。ほんと、迷惑な連中だよ」
一通り朗々と語った後、見れば未果は目を丸くさせていた。由亀の話しが終わったと、ふと気づいてから、まつ毛がハチドリの羽ばたきと同じ動きになっていた。そこまで瞬きさえ忘れて聞き入っていたのだろう。
カップに一口付けてから、姿勢を正し、フウと一つ息をついてから、
「質問いい?」
燦々と瞳が彩っていた。
その気に押されて、由亀は「どうぞ」という代わりに、手の平を未果に見せた。
「他にもどんな変な格好の人がいるの? 武器とか……あ、いや、人じゃないか。そのテ、て・ん・しとか、ア、あ・く・まとか」
あの風体の輩にテンシとかアクマと呼称するのはさすがに憚られるのだろう。
「あいつらショットガンとか和鋏とか持ってたでしょ。あれで、赤い糸を結んだり切ったりしてるんだけど、給食用の先割れスプーンを使うのもいた。ゴスロリの金髪女子でね、直前までケーキ食ってたらしく、スプーンにクリームとスポンジの一片が残ってた。それで赤い糸をどうこうしようとしてんだから、縁の扱いがぞんざいだよ。あとペーパーナイフ使う坊さんみたいなのもいたし、スタンガン使うのもいた。そうそう、出会った時にビビビって来たとか言う人がいるでしょ。実際スタンガン使われてんだから、そりゃビビビくるよね」
「え? てことは、もしかして、よく恋に落ちる瞬間の効果音ズッキューンていう銃声みたいなのって」
「発砲関係の武器を使うテンシの仕業だろうね。カツもショットガンぶっぱなしたことあるし」
まったくロマンチックでない裏話である。事実はフィクションよりも奇なり。
敵情報は入手できた。となれば、
「瓜生君は……?」
ようやくにして追加される疑問は、その解説役自身がなぜそれを知っているか、だった。
「俺ん家はちょっと変でさ。先祖が妖怪退治やら、陰陽師とか風水師みたいなことしてたり、今だと親や姉さんも占星術やらそっち系のことしてたりしててさ。
その遺伝なのか、一年くらい前に唐突に赤い糸が見えるようになって。それまでは全く見えたり聞こえたり感じたりもしなかったんだけど。だから家の人達――一風変わってるから、変な目でも見られなかったし、むしろようやくかよって感じで受け入れられて、いろいろ教えてくれて。それに、こう言っちゃ悪いんだけど、赤い糸が結ばれていく人、切れていく人の様子を見ていれば、何よりの証明になったし。
でも、何か俺が赤い糸結ぶとか切るとかって、そういう御身分でもないし。それと同じ時期にあいつらと遭遇するようになって、それで決めたんだ。俺は、あいつらの邪魔しようって」
「邪魔?」
「こないだみたいに。なんであんな連中に結ばれたり、切られたりしてないとならんかと、見えたおかげで思うに至りましてね。それで勝手なことしてんじゃねえと、ヒーロー気取りになって。かと言って、戦ってあいつら倒すこともできないし」
由亀が銃を打つ仕草を、それから和鋏を握る仕草をした。彼らには武器がある。けれど、由亀にはない。あれば、未果を助けに来た時に出していたはずだ。だから、
「倒せないから邪魔ってこと?」
未果は、銃口と切っ先を向けられても微塵も引かなかった由亀を思い出していた。半年ほど抗争しているとはいえ、あんなものを顔の間際に近づけられて身の危険を感じない者はいないだろう。けれど、由亀は決してひるまなかった。一クラスメートが別の存在意義を持った瞬間だった。
「そういうのの邪魔って、戦うこともあるんでしょ? 強いのとかいたんじゃないの?」
「そうだね。ただ邪魔して終わりじゃないから」
未果はそう聞いて思い出していた。このクラスメートが時折、遅刻したり、欠席したりした後にはどこかしら怪我をしていたことを。
「無言ですっこんだりするのもいたし、両方の群類にちと顔が知れるようになって、そりゃそうだよね、あいつらにしたら、業務妨害されてるんだから。指名手配ってかそんな対象に見られても仕方ないし、俺の顔見て変な声出して逃げてくのもいて、現在に至るというわけ。でもまあ、これまでのところはなんとか対応できてたかな。カツ曰く、俺はそこそこ強いらしいし。かなりふくよかなのもいて、そいつを止めるのはてこずったな。腹減ったとか言って帰ってくれて助かった。でも、やっぱり、手ごわいのはやっぱりカツとタテだね。あいつらも懲りて出てこなきゃいいのに」
その男子があの武器と抗して、どうやって邪魔をしてきたのか、未果には想像すらできなかった。それを感じさせないほどに、由亀はあっけらかんとして、赤い糸の使者に憎まれ口を叩いていた。それは決して陰口ではなく、きっと本当に彼らの前でも同じことを言うのだろう。実際、彼らのやり取りから遠慮なく、そうした言葉を交わしているのは容易に想像できた。
「俺が見る限り、カツ……あの野郎も言ってたように、燦空さんの赤い糸はまだ出てないよ。だから、あいつらがしゃしゃり出てきたらまた邪魔するから大丈夫。怖がらなくていいから、安心して。まったく、糸が出てないのに追いかけるなんて、あいつらも不況なのかね。傍迷惑この上ない」
クラスでも見たことのある穏やかな表情のおかげか、未果によぎったのは、あの後会ったハツラツお姐さんだった。
「緑子さんは知っているの?」
「うーん、詳細を話してないけど。友人とか知り合いにそういう力をもってるのが何人かいたとか言ってたかな、なんつうか霊感的な」
肩をすくませてあっさりと解説の終了を見せる由亀。男子高校生と、手作りショップの二十代後半のオーナーがどのような経緯で知り合いになり、気兼ねないやり取りができるようになったのか、未果には全く想像ができない。
未果にはあまりにも突飛な話しだった。
同じ教室で過ごした時間、自分の知らない所で、一人のクラスメートは、彼はその力を使って、人ならざる者と交戦していた。
頭では理解できたことも、どうにも気持ちが納得をしてくれなかった。彼が話したのはほんの一部のみだったのだろうが。
由亀の表情はもはや、学校で見知っているクラスメートのものだった。けれど、容姿はさておき、人ならざる者と戦うということに、それほどの余裕があるとも未果には思えなかった。これから由亀が学校に遅れて来た時、欠席した時、怪我をした時それを未果はテンシとアクマの業務の邪魔にした結果なのだと分かるようになってしまった。分かるのに、自分はこのクラスメートに何もしてあげられない。無力だ。だのに、聞いてしまった。
「ごめんなさい」
未果の目からは光沢が消えそうになっていた。
「なんか謝られる点あったかな。それは置いておいて、燦空さんが気に留めることはないよ。学校行ったってふざけて遊んでたら骨折してしまうこともあるし、部活していればそれこそ怪我は日常茶飯事でしょ。その一つ一つに燦空さんは我が事だとは思わないでしょ」
「そうだけど……」
「大丈夫。俺なんか……俺の力で実害出しちゃったことあるだから」
由亀の一言に好奇心が騒ぐ。舌の根も乾かないと言うのに、赤い糸を結ぶことも切ることもできるというこのクラスメートがやらかしたことを聞いてみたいと思うのである。
「郷のことだよ」
未果の心境を見透かしたように、話しづらいことだろうに、由亀はその名を出してくれた。それは、由亀と親しい男子・柳戸郷だった。彼も同じクラスで、実に元気溌剌な、クラスのムードメーカー的存在だった。確かに、一時彼女ができたかと思えば、すぐに別れたという話を聞いたことがある。
「あいつのおかげで力があるのを知ったんだ。あいつから出ていた赤い糸が気になって触れたら結ばれてしまったんだ。焦ったよ、どうしたらいいか分かんなくて。それであいつが付き合い出したとか言い出して。それでふとした時に、切ってしまったんだ。言うまでもなく、あいつから別れ話聞いて。カツからは『調子に乗ってからやらかすんだ、ヘタクソ』とおちょくられ、タテからは『縁切りの仕方一つも知らぬ分不相応な未熟者』とまるで説教みたいなこと言われた」
「でも、それは過失なんでしょ」
由亀をフォローする。その一方で、頭の中ではあのテンシとアクマならさも言いなんのイメージが浮かんでいた。
「それを言い訳にはできないよ。扱い方とかアプローチの仕方知らなかったってのは。かと言って俺は郷に力のことは言えてない。経緯だけ話したことはあるけど、まるで信じてなかったよ。俺の家のこと知ってるから、冗談とでも思ったんだろうな。姉さんの占いへの営業とでも思ったのか『どうせなら運気が上がるグッズで労ってくれてもよかろうに』って言われた。そりゃそうだよ。燦空さんみたいに群類とやりあっている現場にいたわけじゃないから。唐突に赤い糸結んだ、切ったと言われて郷じゃなくても信じられないだろうし」
「柳戸君て、その後またすぐ彼女できたんじゃなかったっけ?」
「そう。俺は全く関与してないから、その件は。そのおかげか、そのせいか、俺は無罪放免なんだろうけど、俺の心情的にはね」
文末を言わなくても、由亀が口を真一文字に力を込めてから、冷めたココアを啜る様子からすれば、彼が自分自身を許していないことなど、一目瞭然だった。
「無責任な意見だけど」
カップを置いた由亀に、未果はためらいがちに言い始めてから、はっきりと言い切った。
「柳戸君がそう言ってるんだから、瓜生君が話して信じる信じないは柳戸君次第なんだから、そんなに背負い込まなくてもいいと思う。さっきの瓜生君の理屈で言うなら、ど素人の一年生が部活に入って、試合でミスしても他のメンバーはそう気にしないのと同じだと思う」
「ありがとう。そう思うことにするよ」
柔らかな笑みで、そして瞳に少し影を残したまま謝辞を告げる由亀に、未果は思った。
――違う。きっと自分を許せないままだろう
けれど、未果にはそれ以上、慰める言葉も、フォローする言葉も、元気づける言葉も見つからなかった。見つけられなかった。
「他、何かある?」
これまでの話しから、納得してないことはほとんどなくなっていた。それは未果には予想外だった。由亀はお茶を濁すこともありうるというか、その可能性が強いと、未果は予想していた。
それどころか、由亀は自分の咎までも告白したのだ。クラスメートが担う重さ、それまで知らなかった彼の奥深い一面に、未果はそれ以上の興味本位は失礼だと思えた。
「あ」
それでも浮かぶ、先日の緊迫した均衡の状況。
一度由亀の目を見た。失礼だと思いつつもまだまだ知りたい欲求は無自覚に尽きないのだ。
「答えられる範囲で答えるよ」
由亀の柔和な表情に甘えないことはなかった。
「昨日、その、あの……カツさん? やタテさん? が言ってたミディウムって何?」
由亀はわずかに目が開いた。
「そこかー、疑問に思うの。いや、でもそりゃそうか。あんな格好してる連中がいきなりミディウムだもんね。どこのステーキ屋の店員だって話だよね」
それは肉の焼き方でしょ、とツッコむのも、どうもこの場に、というより自分と由亀との関係からためらった。こう込み入った話になっているとはいえ、昨日までは同じクラスとはいえほとんどかかわりのなかった二人である。そんな軽妙なやり取りをしてもいいのか、判断のつきかねる距離にまだある。
「それは肉の焼き方でしょって言ってくれるもんだと思ったんだけど」
どうやら小気味良い反応は許容されるようだ。
「俺のニックネームみたい」
「ニックネーム?」
「そう。連中、両方の群類からすれば、俺はお邪魔虫で、人間と群類の間でちょこまかと動き回っている。それにあいつらの話によれば、人間なのに赤い糸を結ぶことと切ることの両方ができるってのは、奇妙というか稀有というか、ありえないというか、タテ曰く『異常』らしい。だから要注意人物っつうことでつけられたんだって、
――何か、二つ名みたい
「何か、二つ名みたいでしょ」
「今、それ思った。茶化してるみたいで失礼かと思って言わなかったんだけど」
「失礼なのはあの連中だから。指名手配犯みたいな扱いすんなって言ってんだけどね」
二人のカップが空になっていた。
「どうする? まだ訊きたことあるならおかわりする?」
未果は訊きたいことというよりも、もう少しこの場所で由亀と話しをしていたい気分だった。自ら店員を呼んで追加注文をした。
空いたカップを下げた店員が、カップを持って来た。が、やはり由亀の前にダージリンティ、未果の前にハニーミルクラテを置いたので、店員がいなくなってから、交換した。
一杯飲み干しているというのに、一口をつけると、身体が渇いていたようで、熱が四肢に染み渡って行った。
「そう言えば、瓜生君て噂あるよね」
「噂?」
由亀の顔がそれまで明朗に表されていた表情ではなく、明らかに困惑していた。
「知らない? 瓜生君に噂があるの」
言われても合点がどこにも見つからない。
女子達の間では盛んではないものの、くすぶるように思い出したかのようにふと語られることがある。しかし、それは由亀には伝わってないらしい。
「瓜生君に頼むと、恋愛がうまくいくっていう噂」
由亀はただ眉をひそませるのみ。姉が在校中におそらくは占いを任せた生徒もいるだろうから、そこから何かしらの情報が漏れたとも考えられたからである。
「これは無理だろ、と思われていた仲がくっついた後、どうやらその人が瓜生君に手を合わせていたのを目撃していたっていう証言が出てきて。その人がいなくなった後、瓜生君が神社でラジオ体操みたいなことしてたのを見た人もいて、そういう情報が集まって、瓜生君はその人の恋が叶うよう祈祷したんじゃないかって」
未果の説明に由亀は腕組みをしながら、天井を見上げたり、身体を捩ったり、目を力いっぱい閉じたり開いたりを繰り返していた。そんな噂が事実なら、むしろ由亀に祈念しにくる生徒がいてもおかしくはないし、そうならばそれこそ由亀が知らないということはない。つまり、誰も由亀にそんな頼みごとをしに来た者はいないのだ。にもかかわらず、噂はあると言う。
「あ……」
由亀制止。どうやら思い至る点があったようだ。
「心当たりあるんだ?」
「あの人、中学の時の先輩で、中学の時のとある件で謝って来たんだよ。俺が同じ高校だとも知らなかったみたいで、夏休み明けくらいに知って、どうも気がかりだったらしく。そんな気にするようなことでもなかったのに。その帰りに、群類の一人を見つけて追いかけて、一戦交えてた、確か」
「神社で一人だったって。群類の人追い駆けてたのなら、何で一人?」
「上手いこと隠れて、距離取って攻撃するようなやつだったはず……」
思い出しながら、不本意そうに己の挙動を確認し、
「あー、それならRPGのマジックポイント減らす踊りと間違えられるかもな」
うんざりしたような投げやりな例えだった。確かにその後、その先輩が誰それと付き合い始めたと見えたことがあった。赤い糸が結ばれていたからである。
「でも、瓜生君の株は上げたと」
未果の即答に、今度は由亀が目を丸くして、それからケタケタと腹を抱えて笑い出した。
「なんか、変なこと言った?」
「いや」
頬を赤らめて慌てる未果に、過呼吸気味にして笑いを止めた。
「当意即妙だね、燦空さん。でも俺にとっては何も株上がったわけじゃないよ。噂が立っただけで」
しかも、その噂は尾鰭や背鰭がついているどころか、事情を知った今の未果からすれば、まぎれもなく真実そのものであり、そんな蛇足をつける余地もないのである。急に顔に熱が生まれる。
「いえ、だからこないだ瓜生君が神社に来たのは、噂通り本当に寝所にしているのかと、勘違いもいいところをしてしまいそうだったよ」
取り繕うにしては、滑稽というよりも茶目っ気のある言い訳だった。
「それでね、瓜生君。ここまで話が進むとは思ってなくて、進んでしまったから勢いで言うんだけど」
どこかそれまでの快活さを横に置いて、未果の言いはどこか歯切れが悪くなっていた。由亀にしてみれば、何を言われるのかを待つしかない。今度はどんな情報が提示されるかと。
「これは質問とかではなく、お願いになってしまうのだけれども。私の赤い糸って誰かにつながってるか、分かる?」
「それお願いって言うか、質問になってるよ」
言われて、自分の言葉を反芻して、未果の頬が再び血色を濃くした。由亀の顔は実に柔和で笑みを堪えている。
「誰か、好きな人がいるの?」
「いや、そういう訳じゃないんだ。今好きな人はいないんだけどね」
カップを持ったり、飲まずに置いたり、髪先を指で遊んだり、手で顔を仰いだり、落ち着きがなくなっていた。
「男子とこういう話するの、初めてだから何か……」
頬だけでなく耳たぶも立派な血色に早変わり。
「実はさ。こないだ神社に行ったのも、そういうことなんだよね。ほら、周りが結構付き合い始めたり、彼氏ができたりしてるからさ、焦ってるわけじゃないんだけど、いや少しは焦ってるんだけど、私にも好きな人できないかなあと、お願いをしにね、参ったんですよ。私にもご縁がありますように、恋ができますようにって」
由亀はクラスでもこれほど早口な未果は見たことがなかったテーブルの上や下に出したりひっこめたりする手も恐らく無意識に恥ずかしさを誤魔化すために行っているのだろう。
「確かに、うちのクラスでは三分の一強が彼氏、彼女いるからね」
「え! 三分の一!」
未果、大声とともにテーブルに手をついて起立。ただでさえ客の少ないレトロな喫茶店の衆目が一斉に集まる。
「ちょ、燦空さん」
恥ずかしそうに辺りを気にしながら、未果を着席させる。こんな未果もクラスでは見たことない。その未果は指折り数えて、
「私が知っているの、一〇分の一」
情報の確認をしていた。
「職業柄、いろいろとその筋の情報が集まるもので。あ、誰がどうとかは言えないよ。秘密厳守なので」
無論そうだろう。医者でなくても守秘義務のあるジャンルは存在する。それに、自分が恋をしたがっているなどと、思い切って言ってみたものの、由亀が他言でもしたと思うと、悶絶に襲われそうになる。
「私のことも秘密にしてください、ぜひ」
誰がどうとかをぜひ聞きたいが、そこはぐっと我慢するしかない。女子達の井戸端情報網を駆使して、由亀が言った数値に近づけようかとも思う。
「燦空さん」
改まった感で、名を呼ばれた。由亀の顔を見た。無性に騒いでいた鼓動が次第に静まっていった。
「燦空さんの赤い糸はまだ出ていない。誰かにつながっているのかも分からない。けれど、赤い糸が出てくるような予感はする。カツやタテが接近したのもあいつらの独善的な理由ばかりではないと思う。赤い糸が出たら、俺が守る。燦空さんもあいつらには気をつけて」
「うん」
由亀に赤い糸があると言われただけで、未果は雑誌の星占いで絶妙なことが書かれてあったよりも、心が弾んだ。
「ところで、瓜生君自身の赤い糸は? 好きな人に結んだりしないの? ん?……もしかして、さっき言った三分の一に瓜生君も含まれているとか」
「残念ながら、郷のようなリア充ではないね。それと、自分の赤い糸は見えないよ」
「見えないってことは」
「そう、出てないさ。この力が生まれてから誰かを好きになってないから、出るのかどうかも未知なんだけどね」
「あの二人は引き出すこととかはできるんじゃないの? カツさんが『叶えてやろうか』って言ってて、私の赤い糸がまだ出て無いけどその気配があるのなら、そういうことができるから言ったんでしょ?」
「できる。引き出すというより発芽させるってのにイメージ近いかも。でも、それをあいつにされるの、想像してごらん」
「……遠慮しようか」
テンシやアクマは手にする武器で赤い糸を結んだり切ったりすると、由亀は言っていた。ならば、あのカツとかいうテンシが、ショットガンを使うのだろうが、どうやって赤い糸を結ぶのか、物騒以外に空想すら描けなかった。
とはいうものの、それがむしろさざ波が、徐々に強くなる風にあおられ、やがて大波になるように、静まっていた未果の興味がそそられていくのだった。
しかし、これは言えない。なぜならば、彼らは未果本人も標的にしている。未果の赤い糸を結ぶか、切るかするために、己の業務を全うしようと躊躇わないだろう。そして、由亀はそれを説明したのは、注意喚起を促すためでもあるはずだ。だとするならば、ここで興味によって、彼らの実行方法を気にすることは季節外れに火に入る虫になってしまい、由亀がさすがにそれを許容するはずはないと判断するのは容易だった。
未果にとっては十分すぎる内容だった。だから、これ以上の詮索は、堪えなければならなかった。
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