僕は君を待つ

春海

僕は君を待つ

 国語辞書より

 ーー春ーー

 四季の一つ。旧暦では一月から三月まで、現在は三月から五月まで、天文学的には春分から夏至までをいう。また、「春のめざめ」というように、思春期。青年期。青春などと言われーー。


 

 まただ。また頭が痛い。声が聞こえる。脳裏に蘇るいろんな声。その声同士が重なり合いズシン、ズシンーと頭に響いてくる。

 夢か……。


 重い身体を起こす。

 部屋に置かれたまだガムテープで封をしていない段ボールから学生服と卒業証書が見える。邪魔だ。段ボールを蹴り、ドアを開けるとヒヤッと冷たい冷気が僕を包み込んだ。


 一階のリビングに向かう。机には母よりと書かれた紙が置いてあった。


 「画家さんへ、外は寒いから気をつけていってらっしゃい」


 その隣に、一冊のボロボロのスケッチブックが置かれていた。それを手に取る。


 懐かしい匂いがする。

 


 ーー母さん! 僕、将来絵を描く人になりたい!ーー


 ーーじゃあ、画家さんかな? ユウなら絶対なれるよ。だってこんなに綺麗な桜をーー



 寒い。

 暖房を強でつけると、外の室外機が大きく鳴り出すのが聞こえた。頭痛薬を飲みながらテレビをつけると、自分が住んでいる街が映っていた。


「毎年、約千本のソメイヨシノが咲き誇り、全国から多くの人たちが足を運ぶ、関東屈指の桜の名所、埼玉県××市。しかし、今年は謎の異常現象によりーー」


 昼のワイドショーでは、今話題の『桜が咲かない街』が取りあげられていた。


「もう3月下旬なのに、この市だけまだ冬なんて、どう考えてもおかしいでしょ」


「気象に詳しい研究者方も頭を抱えてるいるらしいですよ〜」


「実は、何か大きな災害の前触れなんじゃないかって噂もあるらしいよ?」


「えー! こわーーい」


 テレビに引っ張りだこの大物司会者と主婦層に人気のママタレントが、あーでもない、こーでもないと物議をかわしている。

 あー、うるさい。頭に響いてくる。

 後悔しながらテレビを消すと、リビングのソファーに座る。外は曇り。


 いつまでたっても春一番は吹かない。


 テレビに映っていた家の近くにある桜は、なんだか泣いているように。時が止まったかのように寂しくて。毎年、スケッチブックに描いてる桜とはまるで別のものに見えた。


 

 でも、それももうどうでもいい。

 4月になったら僕はもうここにはいないのだから。


 

 まるで外に出て欲しいかのように用意されていたダウンジャケットとマフラーを纏い、僕は桜が咲かない名所に来ていた。

 ワイドショーにまで取りあげられる場所をこの目で見たかった?いや、違う。ただ最後に。描きたかった。毎年この日にスケッチするのだと決めているのだから。それにーー。



 なぜだろう。『桜が咲かない街』で話題のスポットなのに、人が全くいなかった。本来ならば今日、3月25日からは「××市桜まつり」が開催され、毎年何千人の観光客が桜並木を見にやってくるはずだった。

 やはり桜は咲いてこそ人を魅了するものなのか。寒い中わざわざ足を運ぶなんて。自分が馬鹿馬鹿しく思えてきた。さっさと描いて帰ろう。そう思い、鉛筆を握った。

 


 その時だった。グッーー。



 後ろからおもいっきりマフラーを引っ張られた。


「うっ、ぐるしいっっ……!!」


「ねぇ、画家さん! 何描いてるの?」


 慌てて後ろを振り向くと、白のダッフルコートを着た、お人形のように目がくりくりで、風になびく長い黒髪が綺麗な、自分と歳が同じくらいの少女がそこに立っていた。

 同じクラスにいたら間違いなくクラスで一番モテるだろう。いや、学校一か…。ってか、そうじゃなくてっ!


「なんだよ、いきなりっ! なんなんだよ!!」


 一瞬の出来事だったが、見ず知らずの、赤の他人に突然マフラーを引っ張られたうえ、質問されたのだ。驚かないはずがない。でも、彼女は前のめりでまた聞いた。


「だから、何描いてるの? もしかして桜の木?」


 急に彼女がスケッチブックを覗こうとしてきたので、僕は慌てて閉じた。


「……そうですけど?」


 そうぶっきらぼうに答えると、彼女の目がキラキラ輝いた。ように見えた。


「私、この桜たち大好きなの! でも、今年は花を咲かせられないでしょ? ……こんな天気じゃ」


 彼女は空を見上げ、曇り空に手をかざした。そして、一瞬だけど悲しそうな顔をした。変な子だなぁ…。無視をしようと心に決めたその時。彼女の口から想像もつかない言葉がでてきた。



「明日、東京に引っ越すんでしょ?」


「え?」



 耳を疑った。

 今会ったばかりのこの子が何故そのことを知っているのか。彼女は両手を合わせると。


「この桜たちのこと本当に大好きだったよね」


 会ってから一番の笑顔を僕に見せる。

 綺麗なのに愛嬌があって、無邪気で…それが逆に僕を遠ざけた。どんどん自分の心の中に入ってきそうで……。


「……いや、別に。ってか、なんで僕のこと……」


「うそー。毎年毎年、この場所で絵を描いてたじゃない。そう! 小さい頃から!! どんどん上手くなるんだもん。ね? 未来の画家さん!」


 未来の画家。

 ふざけないでいてほしい。母さんもこの子も。

 画家になる前に『人間として認められなかった自分』に……。あ、声が。


 ーーお前になんの取り柄があるんだよっ! 画家になりたい? お前なんかがなれるわけねーだろ。こんな絵、全部ゴミだーー


 ーーほら、言ってみろ。僕は何にも出来ない出来損ないの人間以下ですーってさ!ーー

 

 放課後の美術室は、紙が破かれる音と荒々しい音だけが響いていた。

 ズシンーー。

 思わず手で頭を抱えて目を閉じ頭痛に耐える。頭を固いハンマーで殴られているかのような痛み。いや、身体も殴られたっけ。それよりも。なによりも痛かったのはーー。


「あんな人たちに認められなくていいんだよ」


 え?

 ふいに聞こえた声の先に視線を送ると……。彼女は真っ直ぐこっちを見ていた。静けさが二人を包み込む。最初に口を開いたのは、やはり彼女だった。


「それよりも前に進むことが大事なんじゃないの? 新しい場所に行くんだしさ、過去は過去であって」


「そんな、簡単なことじゃないんですよ」


「簡単じゃないかもしれないけど、行動する事で何か変わるかもしれないよ?」


「行動したくても出来ないことだってある。変わりたくても変われないことだってある」


「でも、あなたはーー」


「あんたに何がわかるんだよっっ!!」


 彼女の言葉が終わる前に、叫んでいた。


「全部分かってるつもりか? そうだよ明日東京に引っ越すんだよ! 全部嫌になって逃げるんだよ! でも、本当の心の声は何一つ分かっていない……!」


 拳に力が入る。


「分からないだろ。いじめられたことがない奴に。人間以下の扱いをされた人の気持ちがっ! 東京に行くからいい? ははっ、そうかもしれないな。場所が変われば気持ちも変わるだろうって? ……全然違う。気持ちはあの時のままずっと止まってる。ただ、ただ寒いんだよ。心も……。身体も……」


 そうだ。頭痛もあの時からだ。

 あいつらの声がずっと頭の中で鳴り響いている。


 中学三年生に上がる始業式の日。

 その日からいじめは始まった。

 その日、早々に自己紹介の時間になり、僕は名前と一緒に将来の夢も加えた。先生は僕の絵画コンクールの受賞歴などをみんなの前で説明し褒め称えた。すると、休み時間に絵を見せて欲しいと言われた。嬉しい気持ちと、初めて見せる緊張感。高鳴る鼓動。いつも絵を描いているノートを見せようとした。

 その時だった。


「知ってる? 前クラスが一緒だったやつから聞いたんだけどさ。こいつ、絵以外何にも出来ないらしいぜ!未来の画家さんは、まずちゃんと人間ですかー?」


 

 新しいクラスになり期待に胸膨らませていたというのに、5月にはもう学校には行けなくなっていた。そして、卒業証書は校長先生から直接受け取ることが出来なかった。


「違う場所でも怖いんだよ……。またあんな日がくるんじゃないかって。高校なんて行きたくない。入学式なんて一生来なければいいのに……」


 北風が頬を撫でる。


 痛い。寒い。


 何故自分はさっき会ったばかりのこの子にベラベラと言いたくもないようなことを話しているのか。

 

 いや、きっとこぼれてしまったんだ。

 怖くて、辛くて、苦しくて。

 誰かに伝えたくてもその一歩を踏み出す事ができなくて。やがて諦めて。踏み出す事も忘れて。全てを閉ざした。でも心のコップには抱えきれない想いが溜まっていて、一粒、二粒と滴が落ちてきた……。

 言葉として溢れ出したんだ。溢れ出した水はコップを砕き、辺りを水浸しにした。

 

 花が咲いてない桜が惨めに見えた。まるで自分を見ているかのようで。


 なんで彼女が自分のことを知っているのかなんて、どうでもよくなっていた。

 ずっと彼女が笑顔なのだって……。

 どうでもいい。もうーー。全てがーー。



「ずっと待ってたよ。ここで」



 笑顔のままの彼女が口にした言葉は意外な言葉。

 髪が風になびいていた。毛先がピンクの、黒からピンクに染まっていく綺麗な髪に目を奪われた。


「ありがとう。来てくれて。頭痛がひどくて、寒くて、外に出るのも怖くて難しかったはずなのに。それなのにここには来てくれた……!」



 そうだ、外に出たのはいつぶりだ?



 玄関から外に出る時、寒さよりも足が重たかったことが辛かった。そして、息が荒くなっていたことも。

 


 たしか、約一年は部屋に引きこもってて……。



 テレビを見たのも久しぶりだった。よく知ってるワイドショーのセットは変わっていたし、コメンテーターもいつもの人たちではなくなっていた。桜が咲かないことは携帯のネットニュースで知ってたけど……。


 最初に会った時、足震えてたのバレてたかな。


 母さん、本当にここに来たって知ったら驚くだろうな。

 シングルマザーとして僕を育ててくれている母さんは5歳の誕生日に僕にこのスケッチブックをプレゼントしてくれた。「絵だけは自分を裏切らない」ってよく母さんに言ってたっけ。

 ははっ、泣いて驚くだろうな。


「来るってことはさ、この桜たちに会いたかったんだよね? 絵を描きたかったんだよね? その理由が原動力になって前に歩けた。もう時は止まってなんかいない。ちゃんと動かせることが出来たじゃない!」


 描きたかった……? 


 そう。10年間毎年この「さくらスケッチブック」に桜並木を描いた。「××市桜まつり」の初日に。

 この日が本当に楽しみだったんだ。そして、毎年僕は必ず思うんだ。夢に近づいてるって。


 今年はどんな桜が見れるだろう。


 どんな色、どんな景色が待っているんだろう。


 訪れる人たちはどんな笑顔で桜を見ているんだろう。


 そして、どんな桜を僕は描く事ができるだろうーー。


 ふいに強い風が吹く。冷たい風に思わず身体を縮ませる。


 まだ風は寒い。


「ねぇ」


 彼女が両手を大きく広げた。


「私、あなたの『本当の本当の声』知ってるよ!!」


 ピンク色の光が彼女の周りで輝いている。


「ちゃんと見ててね……」


 彼女が大きく手を広げた。


「面白い事が起きるよ!」


 何故だろう、涙が溢れてきた。



 画家になりたい。


 そういえば5歳……。

 初めてこの桜並木を描いた時、母さんが褒めてくれたんだっけ。いや、毎年その場にいた人たちが綺麗だねって絵を……。

 自分のことも認めてくれている気がして。

 この街を離れる。最後にこの桜だけは、花は咲いてなくてもこの日に描きたかったんだ。


「あのさ! さっき別にって言ったけど……!! 本当は……!!」



 ーーこの桜たちのことほんと大好きだったよねーー


 ーー……いや、別にーー



 僕はジャケットの裾で涙を拭いながら叫んだ。



「大好きなんだっっ!!」



 その瞬間、彼女も泣いていた。



「嬉しいっ!もう君は前に歩き出せる。時は動くーー」


 そして、頬笑みながら僕にこう言うんだ。

 あれ?風が暖かい。




「私の名前は『春風』ーー春を運ぶーー」




 一瞬の出来事だった。

 暖かい風が僕の全身を包み込んだ。なんて、優しくて気持ちがいいんだろう。心が温かくて、気力が漲ってくるようだった。まるで春風が「大丈夫だよ。絶対に夢は叶うよ」と背中を押してくれているようで……。


 気がつくと、桜の木にピンク色の花が。

 千本もある桜の木全てが満開に蕾から花を咲かせていた。

 


 瞬く間に冬から春に変わっていた。

 


 あの時の光景は今でも覚えている。日本で一番。いや、世界で一番綺麗な景色。僕の大好きな桜たちだ。


「ねぇ! これってもしかして君……」


 とっさに聞こうとする。でも、さっきまで隣にいた彼女はもうどこにもいなかった。


 僕は鉛筆を握ると黙々と描いた。桜並木。

 そして、笑顔が可愛い春風をーー。




 3月25日。

 今年の「××市桜まつり」も地域の人たちが総動員で盛大に盛り上げていた。それに応えようとしているかのように、桜は満開にたくさんの人を魅了し、咲き誇っていた。役千本のソメイヨシノが1キロのわたって桜のトンネルを作り、見事な絶景を生み出していた。

 でもあの日から彼女の姿は一度も見ていないーー。


 あれから僕は東京で個展を開けるほどの画家になった。

 日本、海外いろんな場所に行っては景色ばかり描いていた。そう。一歩踏み出せば世界はこんなにも広くて綺麗だった。春だけじゃない。夏も秋も……。そして、冬だって。

 

 絵を描こうとしたその時だった。

 ふと目をやると、中学生ぐらい男の子が人目を気にしながら、スケッチブックを握りしめていた。


 次は僕の番だ。春風が僕にしてくれたように。

 そっと僕は後ろから彼の肩に手を置いていたーー。



 彼女の名前を出しても誰も信じてはくれなかった。

 でも、毎年春を……。

 夢を運びにここに来てくれている。そう僕は信じている。




 あの日、君は僕を待っていたと言ってくれた。


 でも違うんだ。


 本当に待っていたのはーー。

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