私達が恋を始める理由

sayaka

第1話

 まだ暑さの残る九月九日、窓越しの眩しい日差しに照らされながら中埜宇未なかのうみは悩んでいた。

 所属する文芸部の部誌に提出する作品のテーマが決まらない。締切は三日後に迫っている。

 はあ、と大きなため息を吐いてから握っていたペンを手から離してコロコロと転がす。勢いがつきすぎたのか机の端まで行ってしまった。

「できました? うみ先輩」

 その様子に気づいた佐原金柑さはらきんかんが声をかけてくる。部室には二人だけだった。もうとっくに原稿を提出したという優秀な後輩を恨めしく見ながら、宇未は白紙の原稿用紙を裏返した。

「できない。もう帰る」

「帰ってから書くんですか?」

「家じゃ気が散って書けない」

「じゃあここで頑張って書きましょうね」

 笑顔で正論を言われると辛い。宇未は後輩のキラキラした瞳をしばらく眺めてから、こんなことに付き合ってくれるなんて物好きもいるものだと感心していた。

 佐原金柑は宇未の二学年下の一年生で、探偵志望で高校ではミステリー研究部に絶対に入りたいと思っていたけれど存在していないから文芸部に入部しました、と言っていて平凡な面子が揃う中では異彩を放っていた。それでも真面目に部活動には参加していたので、なんだかんだいって文芸部に溶け込んでいるようにも思えていた。

「先輩、じゃあお題出してあげましょうか」

「おだい……」

 出してもらった方が助かるのか、それともますます行き詰まってしまうだけなのか、と考えていると返事を待たずに話し始めていた。

「ちゃんと真面目に考えてくださいね」

 佐原金柑のクラスメイトのAさん、Bさん、Cさんは三人それぞれに悩みを抱えていて、佐原に相談してきた。

 お悩み相談室でも開いているのかと宇未が訝しく思っていると、盛況していますとにっこりされる。それで三人の悩みというのが奇しくも共通していて、とある人物についてのことだった。

 まあ世間は狭いしそういうこともあるのではという感想を持ちながら、宇未は話の続きを促す。

「終わりです」

「はあ?」

「この対象人物を当ててください」

「そんなこと言われても佐原のクラスメイトの交友関係なんか知らないって」

「じゃあ第一のヒントです、Aさんの場合」

 ヒントよりもクラスメイトをAさん呼びしていることの方が若干気になった宇未は、眉間に皺を寄せたまま話を聞いていた。ある朝の登校時間、Aさんは遅刻しそうで焦っていた。全力で走ってももう間に合いそうにない、諦めようとしていたその時、誰かに腕をぐいっと掴まれた。その勢いのまま校門まで猛ダッシュしてギリギリ間に合い、お礼を言おうとしたら相手はさっさと立ち去っているところだった。後ろ姿に艶々とした長い黒髪が美しい女子生徒で、多分上級生だろうとのことで、その人を探して欲しいという相談というか依頼だったらしい。

 話の途中で宇未は既に嫌な予感がしていた。目の前の後輩のニヤニヤと嬉しそうな顔を見ながら、そうしてそういう予感は当たってしまうのだということも理解していた。

「それさあ」

「続いて第二のヒントです、Bさんの場合」

 宇未が言いかけるのを遮って話し始めるので、不満が思いきり顔に表れてしまう。これでは相手の思う壺だ、そう思い直して無表情を装うつもりがなんだか上手くいかない。両頬をさすりながらとりあえず冷静を努めて話を聞く。

 大体こんな話だった。Bさんはその日、些細なことから友達と大喧嘩をしてしまい気が滅入っていた。中庭で木陰に隠れながら泣いていると、頭上からガサガサ物音がする。猫でもいるのだろうかと不審に思って見上げると、木の上にいる人と目が合った。あっと思った時には手遅れで、バランスを崩して木の枝から転げ落ちてくる。受け止めることも出来ずに呆然としていると、高い所から落下した割に怪我ひとつしていない人物にまたもや呆気にとられる。「大丈夫ですか?」心配してそう声をかけても、何も言わずに微笑んで立ち去る姿に見惚れてしまい、いつの間にか涙は止まっていた。代わりにドキドキと高鳴る心臓の音に気づいた時には、もう相手の姿は見えなくなっていた。前回のAさんに続き、その人物を探して欲しいという相談というのか依頼だったらしい。

「ちょっと脚色しすぎでは」

「人の主観なんてそんなものですよ」

「はいはい」

 宇未はもはや半ば投げやりになりながら、どうやって逃げるのかその手段を考えることに頭を捻らせつつ耳ではぼんやりと話を聞いていた。

「最後に第三のヒント、大ヒントですよ!」

「うん」

 もはやヒントどころか回答を言っているのでもいいとすら思う。しかしCさんの話は宇未の想像とは違っていた。ところどころ聞き逃していた箇所もあったが、概要はこうだった。

 Cさんは大変厳格な家庭で育ったらしく、晴れて合格した高校生活にも厳しい条件があった。原則としてアルバイトはしないこと、部活動は禁止、試験成績は学年十番以内をキープすること。門限は十八時で外泊なんてもっての外、交友関係は親が決めた相手以外は認めてもらえなかった。そうして寂しい高校生活の幕開けを覚悟していたものの、これだけはお願いと交渉して何とか許可してもらったスマートフォンのおかげで思ったほどの不便さは感じなかった。そんな心の支えにもしていたスマホを失くしてしまった、だから代わりになるものが欲しいという相談だった。

 これも相談なのか、一介の高校生に相談する内容にしては変わっているなと宇未が思っていると、話し終えた佐原はなんだか元気がないように見えた。

 長々と話して疲れたのだろうか、そう思って口を開く。

「三人の相談内容が共通していてって言っていたけれど、Cさんの話には対象の人物が出てきてなくない?」

「スマホで連絡をとっていた相手ですよ」

「ああそう」

 宇未は自分が聞き逃したのか、佐原が端折ったのか判別がつかなかったので、あっさり受け流す。

「正直言ってAさんBさんの話を聞いていたときは、わたしのことかなって思っていたのだけど。Cさんの見当がつかない。全然違う人?」

「これ以上のヒントはないです」

「ええそんなあ」

 宇未が目で訴えてみてもダメの一点張りだった。それでは先程の断片から推理するしか手段はないのだろうか。そこまで考えてみて、何のためにこんなことをしているのかという気分がもやもやと湧き上がってきた。

「この回答を書いて提出しろってことなの?」

「でもいいですし、過程でも。うみ先輩もこういうもの好きでしょう」

「好きって読む専門であって、わたしはミステリ作家志望でもないのに無茶だよお」

「先輩が困っているからヒント出してあげたのに」

「う、それはそうだけど……」

「忘れてくれてもいいですよ、他に良いアイデアがパッと浮かぶかもしれないし」

「佐原って優しいのかなんだか分からないな」

 ぽつりと呟いた言葉が、ずっとそのまま宇未の頭の中に残っている。


 宇未は結局一文字も書けないまま、佐原の出した問題の回答もはっきりとは思い浮かばないまま、その日は終了となった。下校時刻を告げるチャイムがポーンと鳴り響く。

 薄い夕焼けの差し込む放課後の廊下は静かだ。二人で戸締りをして部室の鍵を職員室に届けてから、下駄箱に向かう。

「午後五時か」

「え?」

「早いよね、日が暮れるの」

「そうですね」

「さっきの話だけど」

 急に思い浮かんだからと前置きして、宇未は口を開いた。

「Cさんの話。スマホを失くしたから他のものを探して欲しいってなんか変じゃない? まずスマホを探すとか、それでも見つからなかったら新しいのを買うとかしないの?」

「うーん、うみ先輩にしては鋭いこと突いてきますね」

 そうはいっても話を聞いてから時間が経っているので、褒められているのか貶されているのか宇未は本気で分からない。

「それが無理だからってことだと思いますけど」

「まあ確かに佐原は探偵になりたいっていうだけで、物探しの専門家でもないしね……」

 それでもなんだかしっくりこない。宇未はまだ唸っていた。

「ちなみにうみ先輩ならどうしますか?」

「どうって」

「代用品」

「ああ、連絡先は知ってるんだよね? じゃあ直接家に行くとか、会って話すとかじゃないの?」

「まあそうですよね」

「あとは手紙とか」

「先輩って古風なこと言いますね」

「古風か? じゃあ家の固定電話とか、ファックスとか電子メールとかの方が現代的なの」

 真剣に考えているのに茶化されて腹が立った宇未はわざわざ堅苦しい言葉を持ち出してみる。

「まあそれはともかく、手紙ってのは良いかもです」

「うん?」

「ありがとうございます、うみ先輩」

 佐原金柑はよく分からないところも多い後輩だけれども、こうして笑っている顔を見るとやっぱり可愛い、宇未は頭の端では別のことを思い浮かべながらもそうぼんやりと考えていた。


 帰宅した宇未は、手を洗うのもそこそこに済ませて自室に引っ込む。鞄からスマホを取り出して佐原金柑へ適当なメッセージを送ってみる。なかなか返信が来ないので、なんだかドキドキしてきた。こんなふうに画面を見つめてじっと待つことはあまりない。

 宇未は、佐原が話していたクラスメイトのCさん、というのが佐原本人なのではないかと思っていた。だとしたら佐原は親の言いつけを聞かずに門限も破って部活動もしていることになる。どういうカラクリを使っているのかが引っかかるが、ひょっとしたら適当に言いくるめているのかもしれない。それに試験の成績が良いのは知っていたけれども、学年で何番目かということまでは把握していない。

 確実なのは、スマホを持っていないということだった。正確に言えば、今日の佐原は部活中にスマホを構っていなかった。初めはそれで暇を持て余して宇未に話しかけてきたのかと思っていた。佐原とは仲が悪い訳でもないけれど、同じ部活の後輩といっても二学年も離れているし、それまでにそんなに話をしたことがない。宇未の名前を覚えていることにびっくりしたくらいだった。

 それでも好意的に解釈すれば、後輩に慕われているのは悪い気はしない。むしろ良い気分だった。単に部誌の提出締切を破るなという見張りの役割を任されていたのだったとしても。そちらの可能性の方が大きいのかも、と思い直しているときだった。チャランと間の抜けた音が響いて、佐原から返信が届いているのに気づく。

『はい』

 とたった一言、それだけだった。宇未は自分が送ったメッセージを改めて読み返す。

『今回のテーマは佐原金柑にしたい、書いてもいい?』

 これに既読がつかないことを期待していたのだろうか、宇未は自分の浅はかな考えにうっすら後悔していた。まあ後輩についての考えをつらつらと述べるのも面白いものかもしれないと思いながら、頭の中で文章を組み立てていく。

 これなら上手くいきそうだった。宇未は早速ノートを開いて、ざっと下書きのつもりでペンを走らせる。調子が出てきた、やった、何とか書けそうと思っていた頃、スマホから再び音が聞こえた。何の変哲もない音が、なんだかファンファーレのように神々しく感じる。

『住所教えてください』

 短くそう書いてある文面を見て、不思議と高揚感が増してくる。

 そうして、返信をしようとしている間にまた短い言葉が届いて、明日彼女と会う約束をした。

 それまでに原稿を書き上げておこう。そして読んでもらうことが出来れば、そう心に決意した宇未は、一心不乱に文章を書いていった。


「先輩って上手ですよね」

 宇未の原稿を読んでいる途中に呟く佐原は、あまり感動のない様子で呟いた。

「そう?」

「そうですよ。部誌のバックナンバーを読んでいても、群を抜いて上手いなって思っていました」

 休日に宇未の家を訪れた佐原にまず書き上げたばかりの原稿を読ませてみたものの、そういえば何をしに来たかったのだろうかと今更ながらに疑問だった。

「私はそれくらいしか思ってなかったんですけど、なんだか気になってしまって」

「はあ」

「うみ先輩は結局答えてくれなかったけれど、昨日出したお題の答えはうみ先輩ですよ。そんなに好意を持たれる人ってどんな人なんだろうって」

「そうなんだ」

 何でもないふうを装って返しながら、宇未は心の中では動揺していた。

「部室の内と外とでは別人ってことですかね」

「はあ?」

「だって部室ではいつも楚々としてるじゃないですか。単に原稿が書けないからかと思ってましたけど」

「そんなつもりはないけど、まあそうかもね」

「知らない後輩に対しては親切ってことかもですね」

「そう言われると……」

 宇未は考え込んでしまう。

「わたし、佐原に対して意地悪だった?」

「うみ先輩が私をテーマにして原稿を書きたいって言ってくれたこと嬉しかったです」

「へ?」

「しかも私に一番に読ませてくれるなんて、私へのラブレターのつもりかなぁなんて舞い上がっちゃってたのに、いつもの先輩の真面目な文章でした」

「いや、一応佐原についての文章にしてるでしょ」

「それはそうなんですが、もっとこう」

 それきり佐原金柑は黙ってしまった。何か間違っていたのだろうか、宇未は焦りながら考える。

「ところでCさんって誰だったの? もう種明かししたんだから教えてよ」

「まだそんなこと言ってるんですか……」

「AさんとBさんはなんとなく心当たりがしないでもないけれど、Cさんは思い浮かばない」

 宇未が言っていることは真実本当だった。そもそもスマホで連絡をとる後輩というのが思い浮かばない。部活動での連絡手段としては使用していないし、それ以外に親しい後輩もいない。佐原金柑にも昨日初めて送ったくらいだった。佐原金柑、珍しい名前だねと連絡先を交換したときに会話したことを思い出す。その前後は思い出せなかった。何がきっかけでそんな流れになったのだろう、記憶を辿りながら宇未は口を開いた。

「佐原ってわたしのことが好きなの」

「なんでそうなるんですか」

「そういうこと言ってたんじゃないの?」

「違います」

「なんだ、そうなのか」

 宇未は自分ががっかりしていることに気づいて内心驚いていた。

「でもその三人も好意っていうだけでしょ? 恋とか」

 ではないよね、と言いかけて止める。そんなことを聞いてどうするのだろう。

「うみ先輩」

「は、はい?」

「私に恋してください」

 真面目な顔で後輩に言われて宇未は固まってしまう。

「急にそんなのしてくれって言われてもできないよ」

「じゃあする努力をして欲しいです」

「佐原は、それを言うために今日会いたいって言ってくれたの?」

「ちょっと違うけど、そうです」

「そうなのか……」

 宇未はなんだか妙に納得してしまう。突然家まで来たいなんて何事かと思っていたけれど、そういう事情があったのだ、きっと。学校で会えば済むことなのに。休み明けでは間に合わないのかもしれない、そう考えて思い当たる。

 原稿を提出する前に、伝えたかった。宇未は、佐原が持ったままの原稿用紙に手をのばして、ちらりとめくる。

「これ、書き直した方がいいかな」

「大丈夫だと思いますけど」

「そう? ……そうかな」

 言いながら、宇未は代替の文章を思い浮かべていた。いっそのこと、本当に佐原金柑への愛を伝える文章にしてもいいのかもしれない。

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