やどかりの夢

灰崎千尋

 昨夜のお前は、赤い炎の中にいた。

 知らない部屋が燃えていた。お前が火をつけたのだか、火事に巻き込まれたのだか、俺にはわからない。わからないまま、俺はお前の名を叫ぶ。手を伸ばす。お前は顔の半分だけ振り返って、垂れた黒髪の隙間から僅かに微笑んだ。それをかき消すように天井が、壁が、崩れ落ちてきてお前は見えなくなる。

 そこで目が覚めた。

 ここ最近で一番寝汗がひどいのは、夢のなかの熱のせいか。よろよろと台所へ行って水を二杯、三杯と飲む。指先が焦げつくような痛みが残っているような気がした。焼かれたこともないくせに。


 その前のお前は、首を吊っていた。

 そこはやはり知らない部屋で、俺が見たときにはもう、お前は宙ぶらりんになっていた。踏み台にされたダイニングテーブルの椅子がうらめしそうに転がっていた。ボサボサの髪が揺れるのがススキみたいだと思った。目玉と舌が飛び出ていても、それは確かにお前だった。降ろしてやろうと縄を切ると、何故だか首がすぽんと抜けた。

 そこで目が覚めた。


 あり得なかったのは、海の夢だ。

 真っ暗闇の中、波の音だけが絶え間なく聞こえる波打ち際。お前の隣には俺がいた。お前は俺の手をとって、水の中へ進んでいく。その時の俺は、それでも良いと思った。だから足首が、膝が、腰が沈んでしまっても、お前の手を離さなかった。水はぬるく纏わりつくようだった。重りもないのに、俺たちの体は少しも浮かばなかった。互いに重りになっているのか、と俺は納得する。頭の先まですっかり海に浸かって、口や鼻から水が入ってくると藻掻かずにはいられなかった。俺は思わず、手を離してしまった。するとお前は、人形みたいに表情を無くして、そのまま海の底へ一人きりで沈んでいった。お前はずっと静かだった。俺だけが藻掻いていた。俺は水面へ上がることもできず、底へ追いかけていくこともできず、ゴボゴボと泡を撒き散らしながら意識が無くなっていく。

 そこで目が覚めた。


 どうしてあり得ないかと言えば、俺はお前と心中する理由なんて無いし、お前の死体は間違いなく陸で見つかったからだ。






 お前が死んだという話は、母親からの電話で知った。


『高校の同級生だった安達くん、変死体で見つかったらしいわよ』


 芸能人の不貞をわざわざ電話で俺に話すときと同じような声音で、母親はそう言った。それを聞きながら俺は、しばらく何も言えずにいたのを覚えている。スマホを持つ手に力が入らなくなって、耳に当てるのに必死だった。


『うちにもまたマスコミとか来ちゃうのかしら。でもあんた、別に安達くんと仲良くなかったわよねぇ。あんたの口から名前聞いたこと無いもの』


 その言葉が耳に入って来てようやく、俺は「うん、あんま知らない」とだけ返したのだった。


 本当のことだ。

 俺はお前のことを知らない。高校のとき確かに同じクラスにはいたが、それだけだった。たぶん、他の同級生もだいたい同じだと思う。当時の俺はお前と個人的に喋ったことは無かったし、お前が誰かと親しげに喋っているのを見たことも無かった。平凡なりに平和な男子校生活で、俺の知る限りうちの学年にはいじめも無かったはずだ。お前はそういう奴なんだろうと、群れるのが苦手なタイプなんだろうと、その程度の認識だった。


 だけどお前は、そんな俺のところに来た。

 偶然が重なったのだとは思う。

 俺が仕事から帰ってくると、アパートの前の、何も咲いていない花壇の縁にお前が座っていた。最初は全くお前と気づかなかった。スマホの画面が俯いた顔を照らしていたが、垂れた髪がそれを隠していた。誰かを待っているのか、とぼんやり通り過ぎようとした俺と、ふと顔を上げたお前の目が合った。お前は目を丸くして、ほんの一瞬顔を曇らせた後、ニコニコと愛想の良い笑顔で近づいてきたのだった。


「ねぇ、笹井くん、じゃない? だよね?」


 そのやたら人懐こい笑顔に見覚えは無かった。

 俺はあからさまに不審者を見る目付きだったと思うが、構わずお前は続けた。


「笹井くん、覚えてないかな。僕、同じクラスだった安達」


 そう言って小首を傾げた拍子に、髪がさらさらとその顔に沿って流れる。確かにその、肩ほどまで伸びた重い黒髪だけは、記憶の中のお前と同じだった。


「お前……本当に安達か? こんなところで何してんの」


 混乱しながら尋ねると、お前はパン、と両手を合わせてその頭を下げた。


「会ったばっかりで本当に悪いんだけど、お願い、ちょっとだけ泊めてくれない?」




 そう言われて、はいそうですかと泊めてやるほど本来の俺はお人好しではない。だが俺はそのまま、お前を家にあげた。ゴミ屋敷一歩手前ぐらいの、粗末な我が家に。


「いやー助かったよ。今日住んでたところ追い出されちゃったところでさ」


 大して部屋を見回すこともせず、お前は言った。


「それで、なんでうちの前に?」

「今日までいたのが、このアパートの五階の人の家だったから」


 けろりとした顔でお前は言ってのけた。


「彼女と同棲でもしてたの?」

「ううん、えーと、あれだよ、僕、“おねえさん”のヒモだったんだよね」

「……ヒモ」


 元同級生。つまり今年、二十八になろうかという年齢のお前は、俺と違ってほとんど老けもせず、髪も肌もつやつやとしている。そして高校の頃には一つも見せなかった親しげな笑顔で俺の目の前に座っていた。

「なぁ、お前そんなんだったっけ」と、尋ねるにはまだ早い気がした。


「なんで追い出されたか聞いても?」

「なんでなんだろう。一年くらいだから、長く続いた方なんだけどなぁ。『私もう耐えられない』って言われちゃった」

「それ、大事なところなんじゃないの」

「あはは、だよね。でも詳しく聞く前に僕の荷物まとめられて締め出されちゃってさ」


 心当たりが有るんだか無いんだか、お前に悪びれた様子はなかった。俺がじっと見つめても、お前は目を逸らさない。高校時代、お前と目を合わせたことがあったろうか。それでもよく見れば、その黒目がちな目や、男にしてはやけに赤い唇は、確かにお前だった。一応確認してみた担任の名前や、文化祭の出し物なんかも一致した。


「一年もここにいて、よく俺と顔を合わさずにいられたな」

「あーそれはたぶん、おねえさんが夜勤メインで、それに合わせて生活してたからかな」

「だから俺の家にいてもその“おねえさん”とやらには会わずに済むって?」

「はは、話が早いね」


 お前は少し身を乗り出して、俺の手を取った。


「ねぇ、一晩泊めてくれるって話だけど、もうちょっといたら駄目? お金は無いけど、家事得意だよ。掃除とか料理とかするからさ」

「……俺には男を飼う趣味は無いんだけど」

「そこをなんとかさぁ」


 まるで昔からの友だちのような距離感で。しかし俺の手を握るお前の手がしっとりと汗ばんできて、それがやっとお前の人間らしいところに思えたから。

 お試しで一週間。お前と俺の生活が始まることになった。




「何か心配なことがあったら契約書とかにして」とも言われたが、そんなことを考えるのは仕事だけで十分だった。

 お前との生活は、恐ろしく心地が良かった。荒れ果てていた家は順調に片付けられ、部屋の中を新鮮な空気が通り、帰宅すれば「おかえり」と温かい食事があった。新婚生活をしたならこんな感じだろうかと想像してしまうくらいだった。それまでは家なんて帰って寝るだけで、諸々が許せば職場近くのホテル暮らしをしたいくらいだったのに、自分の単純さに笑ってしまう。

 お前はよく笑った。余計なことは聞かず、話さず、高くはないが柔らかな声で笑った。時には擦り寄ってきてじゃれついた。俺の頭を撫でもした。それが不思議と、一つも不快ではなかった。来客用の布団なんて無い我が家で、最初は座布団に安物のブランケットを掛けただけで寝ていたのが、シングルベッドに二人並ぶようになるまで、そう時間はかからなかった。

 きっとこれまでの“おねえさん”がたにもそうやってきたのだろう。三日目くらいだったか、気恥ずかしさもあって「そこまでしてくれなくて良い」と、お前に伝えた。

 するとお前は、迷子の子供のような顔になった。それは同級生だった頃にはよく見たはずの表情だった。


「ごめん、僕、これしかわからないんだ」


 ぼそりという声にも懐かしさがあった。それなのに俺は、お前にこんな顔をさせた自分が腹立たしくさえあって、お前の頭をぐしゃぐしゃと撫でてみた。それでお前がいつもみたいに笑うのにほっとして、とっくに絆されている自分に気づくのだった。


 水曜の夜にお前を拾って、土日の休みには二人で買い物などして、これまでもこうしていて、これからもそれが続くような感覚に呑まれそうになる。それをどうにか踏みとどまらせていたのは、これまでにたった一度、耳に入ってきたお前の噂だった。


 一週間。社会人の一週間はあっという間だ。

 次の水曜の夜、お前の作ったカレーを食べていると「お試し、どうだった?」と尋ねられた。

 お前の方から切り出されるとは思っていなかったが、俺は正直に答える。


「びっくりするほど快適だったよ、ありがとう」

「良かったー。じゃあもうちょっとここにいてもいい?」

「その前にさ、聞きたいことがあるんだ」

「ん、なに?」 

「お前、母親殺したって本当?」


 エアコンの風の音が、俺とお前の頭の上に鳴っていた。俺が唾を飲むのと、お前が溜め息をつくのと、ほとんど同時だったと思う。


「なんだ、やっぱり知ってたんだ」


 お前の声はいつも通りに柔らかい。


「くだらない身の上話、聞いてくれる?」


 俺が何か答える前に、お前はそのまま言葉を続けた。


 お前が言うには、お前は物心ついた頃から母親と二人暮らしで、「誰にでも媚びを売るなんて卑しい子」「他の人に笑いかけては駄目、家の中でだけ」と言われて育ち、その言葉にずっと従っていたのだという。友達をつくれば折檻され無理やり交流を絶たれるので、家の外では内向的な性格を装うようになった。働く母親の代わりに家事をやり、恋人のように慰める、それが当たり前だったのだと。

 しかしそれは普通じゃないのだと気づいてはいて、二十になった時、遂にお前は家を出ようとした。それを咎めて包丁を持ち出した母親と揉み合いになった挙句、逆に母親を刺してしまった。


「それからこうやって、色んな人の家に居候させてもらって、逃げ回ってるってわけ」

「八年も?」

「八年も」

「……自首とかは」

「考えたことはあるよ。あるけどさ、せっかく二十年ぶりに解放されたわけじゃない。色んな人と仲良くなりたいなーとか思って」


「でもうまくいかないね」と、お前は眉を下げた。


「追われる身なんだから、誰とでもってわけにいかないし。長続きしてもしなくても、なんだか面倒なことになるし」


 お前は、先週の夜と同じようににっこりと微笑んだ。


「僕がこうして笑うと、みんな僕のお願いを聞いてくれる。だから僕、逃げ場所に困ったことは無いんだよ。僕は家に置いてもらう代わりに、やってほしそうなことをやってあげる。恋人にも、ペットにも、兄弟にもなってあげる。最初はすごく喜んでくれるんだけど、段々『自分以外の人に笑いかけないで、ずっとここにいて』って母さんみたいなことを言い出すか、『あなたといると虚しい』って泣かれるか、どっちかになっちゃう」


 ふぅ、と吐いた息と一緒に、お前の表情が無くなる。俺はぞっとして思わず拳を握りしめた。


「難しいね。僕、他のやり方を知らないからさ。今度こそ刺されて死ぬかもしれないし、また誰かを刺してしまうかもしれない」


 ふふふ、と、お前は声だけで笑った。こんな時ぐらい、笑わなければいいのに。


「ここにいればいい」


 俺は言ったが、お前は首を横に振る。


「駄目だよ。だって笹井くん、知ってるんでしょう。 僕が殺したって」

「それはでも、事故だろ。」

「どうかな。あの時僕は、もう殺すしかないって確かに思ったよ」


 食べかけのカレーが、ごはんもルゥもカピカピに乾いていた。お前はテーブルに頬杖をついて、その皿に目を落としていた。


「ねぇ、なんで知ってるのに、僕をここに置いてくれたの」


 その声はか細く、すがりつくように聞こえた。


 お前が母親を殺したんじゃないかという噂を、俺に伝えてきたのはやはり俺の母親だった。大学入学と同時に家を出た俺に、母親はしょっちゅう電話をかけてきた。どうでもいい話ばかりなのに、取らないでいると着信履歴が連なってひどいことになるので、とりあえずは電話をとるようにしていた。

 成人式の為に帰省して、また自宅に帰って来てから間もなくだったはずだ。成人式で再会した同級生の中に、お前の姿は無かった。


『ねぇちょっと大変なの。高校の同級生に安達くんっていたでしょう。そのお母さんが亡くなったんですって。しかもどうやら、安達くんが刺したらしいのよ。いま行方がわからなくて警察が探してるらしいわ』


 母親の声はやけに興奮していて、その無神経さにつくづく呆れると同時に、自分の中に母親と同じような、下世話な好奇心が湧くのも感じていた。

 俺はお前のことを、本当に何も知らなかった。「そんなことをするタイプに見えませんでした」とも言えないくらいに知らない。それを思い知らされて、今更お前に興味を持った。

 八年後、そんな気持ちも忘れた頃に、お前が現れた。

 俺はちょうど、自分自身に嫌気が差していたところだった。目標も趣味も無く、自宅と職場を往復するだけで歳ばかり重ねていく。何も生み出さない。何も起こらない。


「いつ終わったっていいから、お前のことを知りたかったんだ。それで殺されるんなら、それでも良いって」


「なにそれ」と、お前は苦笑した。


「笹井くんってそんな感じだったっけ」

「お前が、それ言うか」

「うーん、ごもっとも」


 食べ残してしまったカレーの皿を二つ、お前が流しに持っていく。その小さな背を、俺はただ見つめていた。


「やっぱり、僕はここを出ていくよ」

「どうして」

「知ってて匿うのは罪になるから。笹井くんをそういう巻き込み方したくない」

「別にそんなの」

「良くない。今まで“おねえさん”たちにも言ったこと無かったんだから」


 水道からのシャワー音が、会話をぶつ切りにする。洗い流していく。匂いも消えていく。

 キュッと蛇口を閉めてから「ねぇ」とお前は振り返った。


「僕、ご期待には添えた?」


 その黒い瞳は、顔色をうかがう子供のように揺れて見えた。


「……全然、足りない」


 俺が顔を逸らしながらそう言うと、「そっか」というお前の声がすぐそばに落ちた。「ごめんね」と続ける膝立ちのお前に、俺の頭は抱きしめられていた。お前の首すじから、俺と同じ石鹸の匂いがした。




 翌朝目が覚めると、お前はもういなかった。

 書き置き一つ残さずに。しかしキッチンの鍋には、昨日のカレーがたっぷりと作り置いてあった。


 それから三年ほど経った頃、お前の死体が見つかったと知らされた。

 どこかの山の中で白骨化していて、死因は特定できなかったらしい。事件としては、それでおしまいだ。


 その日の夜、お前を殺す夢を見た。

 俺の家のようで俺の家ではないドアに手をかけて、お前は出ていこうとしていた。俺は淀みない動きでキッチンの包丁を手にとって、お前の背からずぶりと刺した。思ったよりも手応えは無く、しかし生温かい血がたっぷりと俺の手を濡らした。

 その温度がやけに気持ち良くて、俺は口の端を上げながら更に深く刃を押し込む。

 そこで目が覚めた。




 それ以来、繰り返しお前の夢を見る。

 お前の死ぬ夢を。

 たった一週間、同じ屋根の下で暮らしただけのお前を。大した言葉も交わしていないお前を。きっと友達ですらなかったお前を。夢の中で、お前の死に様を探している。


 俺はもう何年も、カレーが食べられないままだ。

 

 

 


 

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