#神隠し系カフェ

要冷蔵

第1話


6月28日 投稿


湿っぽい緑が頭上で輝いていた。

曇天だか晴天だかハッキリしない林道を車で走っていた。

左手に見える人工的な石垣で保護された森林は、都会の喧騒をそのまま木に置き換えたようで、私には酷くうるさいように感じた。

右手に通り過ぎていく対向車はまばらで、狸のように素早く間抜けにすれ違う。

歩く人も自転車に乗る人もいない。開けた窓からは遊びに誘うように軽やかな音で鳴く鳥の声が舞い込む。人がいないことを暗喩する囀りが寂しく感じるのは私だけだろうか。

かれこれ1時間は似た風景を運転席から見ている。

少し飽きた午後4時半だった。

ふと左手に石垣の切れ目が見えた。奥に続く階段も見える。

靄で隠された切れ目の奥が私には魅力的に映った。

どうせ明日も休みの身だ、束の間の探検家になって小噺の土産でも持ち帰るか。

暇つぶしに石垣の奥へと足を進めることに決め、瞬きする間で私はカーブの先の空き地に車を停めた。


空き地から少し歩くとやはり目当ての切れ目はあった。

実際に近くで見ると圧倒される大きさの石垣の隙間、苔むした階段が森の奥まで続いている。これは良い話題になると私は確信し、階段を1歩ずつ上がり始めた。

森の中は木の匂いでいっぱいだった。木の葉が水を揺蕩うようにゆっくり揺れて、優しい音を重ねる。目の前はかなり急な坂に敷かれた階段だけだったが、不思議と疲れる感覚はしなかった。後ろを振り返ってしまえば私は日和って階段を下るだろうと思って、登ってきた道は見れなかった。

100段目から数えるのをやめたが、500段は超えないぐらいを上っていた時、両脇の木が白く変化してきた。これは白樺だろうか、この地域での植生の勉強不足かもしれないが白樺が自然に生える地域ではないはずだ。誰かが植えたのだろうか?

荘厳さを増す森に幼少に戻ったような瑞々しい気持ちでいっぱいだ。

その後も季節や植生をひっくり返すような植物が森を彩っていた。

桜や椿、百日紅、ハナミズキ、白木蓮、銀杏、楓。水溜まりには蓮が浮かんでいた。

落ちた椿の花を避けた足元に桜のタイル、百日紅の滑らかな木の幹の隣には細い枝に無数の花が踊るハナミズキ。

白木蓮の純白な花を汚すことを許さない紅葉の風景。

神に描かれたばかりのような鮮やかな風景の数々に頭も心も気づけば絡め取られていた。

違和感を超える美しさが 興味が私のブレーキを麻痺させて、ひたすらに足を動かすエネルギーに変わる。

体感で1500段を数えた先に、終点はあった。


小さな喫茶店だった。

少しノスタルジーを感じさせる昭和っぽいシルエットをアイボリーの塗料で塗ったような建物を竹林が取り囲み、小さく喫茶とだけ書かれた看板が立てられている。

「え?」

予想外の建物に小さく声が出た。もっと壮大な神殿を想像していたのに盛大な肩透かしを食らった。

長い階段で心拍数は上がったのに、気分は下がる一方だ。

帰ろうとしたところに、人が建物から出てきて声をかけられた。

「お冷1杯だけでも良いので休憩して行きませんか?」

低めの声の主…店主は常人では無かった。

決して悪い意味ではないことはわかってほしい。が、他に浮かぶ言葉がないのだ。

私のような平々凡々には出せないオーラというか、艶めきというか。

圧迫感すら感じるほどに、森の守り人が似合う容姿をしていた。

あえて深く言及はしないが、髪の毛を織れば上等な反物ができそうなほど綺麗な髪をしていたことは言わずにいられない。

そして私は少々の下心を持って喫茶店に入ってしまった。


喫茶店の中は来た道と店主には不釣り合いと感じるほどに質素だった。灰色の漆喰の塗壁に黒い木の梁が何本も立っている。

床はいわゆる土間のようで、漢文の掛軸が一本カウンターの上に下がっている。カウンターと椅子も梁と同じ木材で質素ではあるが統一感があって和風でモダンな雰囲気だった。窓から見える竹林は手入れされていて見ていて心地よかった。

「ご注文は何になされますか?」

内装に気を取られてメニューを全然決めていなかったが、席に置いてあった冊子をさっと見てサラダサンドとホットコーヒーを頼んだ。

メニューの冊子も渋く、深緑の表紙を開くと薄い紙に筆の文字で洋風のメニューが書かれていてシュールだった。

この店はメニューを除いて、和風で彩度を低くまとめているんだなと今になって納得した。

頼んだものを待っている間、カウンター越しに店主の手元を見る時間が 忘れていた楽しい時間を思い出させるようで物思いに耽っていた。

子供の頃に見ていた母親の姿、作り終わった料理の匂いが家中に広まって温かい空気を奏でる時間が宝物だった。帰ってきた父親が酔っていて呆れながらお土産を食べて、寝る準備をした時間をまだ覚えてる。高校の入学試験の前日寝れないと嘆く私に、ぬるいミルクセーキを作ってくれた母、不安を全部吐露するまで話を聞いてくれた父。一人で暮らしていくと決めて両親に何も言わず家を出た夜。でも何をして良いのかわからなくてとりあえずアメリカに行ってみたけど、言葉がわからなすぎて一人で笑ってしまった初日のホテル。

1年間暮らして日常で困ることがなくなって、しばらくして日本に帰ってきてまたもや何をして良いかわからなくてレンタカーで山を走っていた今日。日本での家も職もない、貯金を崩して過ごすばかり。

「お客さんここにくるなんて物好きですね、なんで来られたんですか?」

思考がぐるぐる絡まるのを邪魔するように店主が話しかけてきた。正直ありがたかった。

でも何と話せば良いのかわからなくて「ノリ…ですね。」と答えた。

もう少しマシな答えがあったと思うが私には思いつかない。

ほら、話が途切れてしまった。何か言わなければと思うが語彙の引き出しから「ギ…ギゴゴゴゴ」と不穏な音がするもんで口から何も出てこない。

対して店主は何も気にしないようにドリップコーヒーを真剣に淹れている。私も習うようにコーヒーの粉に湯を注ぐのを眺めている。少しずつ落ちるコーヒーがこの場に流れ始めたゆったりとした空気を表すようで、話題を探そうとあたふたしていた自分が恥ずかしくなる。

温めたカップに淹れたてのコーヒーが注がれていく。無駄のない動きで差し出されれば「いただきます」と呟いて口をつける。

含んだ瞬間、苦味の中にフルーティな香りがして一流のバリスタが淹れた味がする。勢いで来た喫茶店だったが思いも寄らないクオリティーの高さに思わず笑みが漏れる。

「どうですか?楽しんで頂けていますか」

眉が少し下がった店主の問いかけに「もちろん、とても美味しいです。」と答えると店主は少し笑って「もう少しでサラダサンドの方もできますので少々お待ちください。」と言った。

サンドイッチをワックスペーパーに包むのも慣れているのか素早い手付きで、ペーパーごとサンドを半分にして皿に盛り付けられる。「どうぞ。」明るい声で出される料理は彩りが綺麗で、行儀を忘れてすぐに齧り付きたくなった。

が、きちんと手を合わせて「改めましていただきます。」と店主に言えば自信ありげな笑みで「どうぞどうぞ」の声。

ペーパーを少しめくって角から食めば口に楽しい食感とヘルシーな旨みが広がる。

「このサンドは香ばしい全粒粉のパンにレタス、レッドオニオンとキャロットのラペ、チキンとローズマリーのロースト、アボカドとマスタードのペーストが入ってるこだわりのサラダサンドで自分もいちばんのお気に入りなんです!」と解説をしてくれた。そのおかげでより味わって食べられている気がする。

全粒粉パンはもっちりした食感で香ばしく、水がしっかり切られたシャッキリ食感のレタス。風味の良いラペに旨みを重ねるハーブとチキン。アボカドがまろやかに マスタードがキリリと全体をまとめ上げる。絶品だ。

「今までで一番美味しい」と意図もせず溢れる言葉に店主が目を見開く。

「本当ですか?!自分でも自信あったんですけど実際言われると一層嬉しいです。」

良かったぁ なんて言う店主を見ると悪い人ではないんだろうなと感じて、来た甲斐があった。

「このお店は自分だけで切り盛りしていて、自分の舌が正しいのかわからなくなっちゃう時があるんですよね。だからお客さんに美味しいって言ってもらえてほんとに助かります。」店主が少し憂うような、でもその憂いすら楽しむような笑みを浮かべる。その気持ちに私は心当たりがあった。生きていれば誰にだってあるものなのだろうか。

一種の開き直りにも等しい、不安と快楽は人生を大きく変える。

心当たりのある一幕を脳裏に映し、また過去に囚われる。


その時さっき思い出した懐かしい気持ちを反芻するように店主に語っていた。

まるで川が穏やかに流れるように、スッと言葉が溢れてきた。

「私もそういう時ありました、このままでいいのかなとかすごく思う一方でその状況と悩みを楽しむ気持ち。すごくわかります」私が話し出すと店主も共感を示して、ふたりぼっちの店内で静かに 熱く語った。

永遠に口に運ばれない湯気も味も落ちたコーヒーと水分がパンに馴染み始めたサラダサンドの存在は視界に入っていなかった。


どうやら店主は難儀な生い立ちをしているようだった。

マイペースでふわりと言葉を優しく語る彼からは少なくとも想像できないほどに。

世間でも認められる優秀な一家の生まれにして、家族も見放し 嫌がる劣等で騙されやすく流されやすくて、世間より自分の正義の世界を優先させる自分をずっと自分が1番見放した。でも自分と同じくらい人の目しか気にしない家族や世間も嫌いで、何もする気が起きない時に厄介払いとしてこの建物とある仕事を押し付けられたらしい。

与えられた仕事は喫茶とは別のものらしいがその仕事を少しでもやりやすく、自分のものにするために喫茶店の営業もしているらしい。

本業の予測は私にはできないがダブルワークできる能力は誰にだってあることでは無いし、自分の個性を出せているところも劣等とは程遠い行動力だと思う。

優れた店主の彼がなぜそこまで自分自身を下げてしまうのか、私が考えるに保身のためだと思う。

何かうまくいかないことがあっても自己評価が低ければ低いほどハードルも低いからギャップが少ない。

そうして傷の数だけ自己評価を下げて失敗に構える。

他人の評価から大きく乖離した自己評価は毒のように自分を蝕む札になって癒えない傷が癒える時まで本音を押さえつける。

どれだけ優れていても自身のレッテルのせいで自分を出せない。

「それが嫌なところなんだよね」

店主は乾き切った心を割るように言葉を落とす。

静寂に身を任せる竹林の音がサラサラと聞こえた。

都会なら聞こえる喧騒はここにはない。唯一の主人は彼だから。

この誰もいない土地で喫茶をするのに自分を蹴落とすことは要らないだろう。

「比べる存在すらいないここで、あなたの価値を落としているのは誰ですか?」

私は一番痛ましい言葉を吐いたのかもしれない。少なくとも初対面の相手に言ってはいけないと思うがこの空間は許してくれそうな予感がした。

「自分だ」

翳った声で自分を刺す彼は、コーヒーと共に冷え切っていた。

しかし顔を見上げてみれば水出しコーヒーさながらのすっきりとした表情の温かな笑みで思わず目を奪われた。


ぬるくなったコーヒーは淹れ直し、水分を吸ったパンのサラダサンドはトーストしてホットサンドにしてもらった。

店主と笑いながら、コーヒーカップ片手に乾杯なんかしちゃって。

サンドイッチは違う味わいになっても最初の一口と変わらない美味しさで 場を盛り上げるための着火剤となり、脳から溢れる語彙の炎は高く燃え盛る。

どのぐらい時計の針が動いたのか、ここで気にするのは何よりも無粋だ。

彼と共に話す空間は境地の一つだと感じさせるほど出来上がったカウンター越しの世界。

会えずに切り離された盟友とやっと会えた程に魂の芯の芯を刺激する互いの言葉。

どんな映画、小説、人伝の世間話を吸収しても代えられないと心から思う。

互いに愚痴や好きな時間、影響を受けた人、次に食べたい物、美味しいコーヒーの淹れ方などそれはもう枯れない泉のようにずっと語っていた。

笑う時も、涙が出そうになる時も同じタイミングで。

同じ世界にこんな存在がいるなんて思っていなかった。

少しセンチメンタルになって、涙が目の奥を熱くする。

私が今までずっと迷っていたことも彼となら解決できるかもしれない。

「ねぇ私はこれから何をしたらいい?」

彼にならいいアドバイスをもらえると思って尋ねた。

すると彼は困った顔で言った。

「…になります。」



まもなく私はそっと喫茶店を出た。

そして欠け落ちるように階段を降りる。

辺りは綺麗な憧憬ではなく一面ただの森の。道も獣道だった。

やはり彼の喫茶店は私の幻想なのだろう。

蒸し暑い悩みを吹き消すための。

彼と会った時間は素敵なものだった。でも二度と出会えない。

彼は私と同じ次元に生きてないのだから。

最後に言った言葉もきっと幻想。

どんどん森を進む、息が遠のく。

時計の針は動き出し、靴もどこかに脱ぎ捨ててしまった。

揺蕩うように揺れる木の枝が、自分の行手を隠すように思える。

でも燕と同じ速さで森を駆け抜ける私を止める物はなかった。

ただ早くこの森から抜けるのを信じて、逃げるように走った。

もう動機なんてどうでも良かったのかもしれない。

本能が指し示す道を猪突猛進に行く。

直感的にこの森にはいられないと警報が鳴っているから。

足元がおぼつかないぐらい酸欠になってくる。

肺や脳が苦しくて白くなる。靄がかった視界を舐めるように見て、走る。

木の根も砂利もぬかるんだ土も私の邪魔をしてくる。

同じ呼びかけをしてくる本能と理性のことを信じて獣になる。

彼の声が体と精神の至る所に蛇のように巻きつく幻覚すら見える。

先を目指す目を、必死に振る手を、邪魔になる前髪を、ヒューヒューと喘鳴をあげる喉仏を。彼は巻きつき締め上げてくる。

そんなことは起こり得ないはずなのに、不気味にもしっかりと見える。

彼の眉の下がったいかにも優しそうな笑顔が見えて少し胸が痛い。

それでも森の終わりはもうすぐだ。

風に乗って車の音がしてきた。


体感ではあとすこしで森を抜けられると少しの安心感すら覚えていた時、目の前には川があった。沢と言っても良いくらい小さな川だった。水辺には赤い花が何本も咲いている。

見覚えがある花の気がするがなんだったか白い頭では思いつかずに渡ることに専念した。

もしかしたら、それは気の利いた神からのギフトだったのかもしれない。

がそんなこと知る由もなく、これを渡らなければ私は森から帰れない と自分を鼓舞して足首あたりまでを濡らしながら無我夢中で渡った。妙に生ぬるい水だと思ったが気に止める余裕などなかった。

白っぽい魚にも目をくれずにジャバジャバ音を立てて駆け抜ける。

できる限り大きな音を立てた。

孤独な戦いでも寂しくならないホワイトノイズが欲しかったから。

自身の置かれた状況を誤魔化すように目の前を水飛沫でいっぱいにする。

紅葉色の宝石が舞うようで変に美しかった。

こんなことをやっていると小学校の頃に川で遊んだことを思い出す。

小魚を獲って、逃して、また獲っての繰り返しを日が暮れそうになるまでやっていた。

でもこの川はそれとは違う、魚と戯れる余裕など1刻もない。

何かの分かれ目を暗示する川だ。

ほら、もう対岸についた。地に足が久しぶりについた気がした。

時刻は夕暮れ。

川遊びはやめてお家に帰る時間だ。

私も早く車に戻らねば。


川を渡った先は、あの切れ目のあった道路だった。

車が事故を起こしていること以外はさっきと何も変わらない。

でも私は足がくすんでしょうがなかった。

その車は「わ」のナンバー、黒いワゴン。

私の乗ってきた車だったからだ。

どうやら足首の感覚がなくなってきたようだ。

振り返れば最初から切れ目なんてなかった。

でも一つ彼に聞きたい。

切れ目を見ていたから事故を起こしたのか?事故を起こしたから切れ目が見えたのか?

教えてくれ、彼…神よ。

あれ?サイレンの音と彼の最後の言葉しか聞こえない。




「お会計は、六文銭になります。」

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