最終話 変わらないもの
「やばい、遅刻だっ!」
森の中の、朽ちた小さな小屋の脇を、長い黒髪を一束に束ねた少女、イルザが駆け抜けていく。
その瞳も髪の色のように黒く、どことなく気高さを感じさせるが、実際の彼女はこうして遅刻に焦り、全速力で走るような性格だった。
イルザの、皺だらけで裾の出たブラウスと、紺を基調としたスカートの制服は、今いるような深い森の中で着用するべきものには見えない。
普通であればせめて、この黒森からさらに白森を抜けた街でようやく、見かけてもおかしくないようなものだ。
イルザがその小屋の脇の道を抜けた先には、いくつもの白亜の大きな建物が、不思議と、樹々の根や枝、苔に呑まれるように調和しながら立ち並んでいた。
建物たちの中心の、最も背の高い大樹の周りには広場があり、イルザのほかにも数人の、同じような制服を着た生徒が行き交っていた。ただ、全力で走っているのはイルザくらいのものだった。
「くっ……飛行の講義がもっと早くに受けられたら、こんなことには……!」
広場の中心の大樹に同化するようにして建った大きな建物に、イルザは駆け込んだ。
大きな扉は開いており、階段と幾つかの扉を通り過ぎたところで、イルザは急ブレーキをかけてその廊下を少し滑った。
そして上がった息を殺しながら、高鳴る自分の心臓の音よりも静かにそっと扉を開いて、入室した。
大きな黒板から扇状に広がる、高低の段差のついた講義室では、既に魔法陣の基礎講義が始まっていた。
広い講義室にも関わらず、その席のほとんどは埋まっていた。
イルザは講義室の左側、後方の窓際に座っていた青髪の友人を目ざとく見つけ出し、その隣に忍び寄り、尻で軽く友人を押しのけながら座った。
「セーフぅ……」
机の上に上体を伸ばすようにして、イルザはようやく一息ついた。
「アウトでしょ、イルザちゃん。私ちゃんと起こしてから寮を出たのに。二度寝したんでしょう」
声を潜めながら、呆れたようにイルザの友人は言った。
「ち、違うよラズリ。起きてはいたの。すぐそこまで来てたんだけどね? そう! おしゃべりなリュアネさんに捕まってただけなんだよ」
ラズリと呼ばれた少女は、深い青の真っ直ぐな髪で、すっきりとしたボブヘアの髪型だった。
目立たない金縁の眼鏡をかけており、その奥は気だるげな目つきをしていて、真面目そうな印象に反するように爪だけは黒くネイルしていた。
「ドリアードの? 嘘ばっかり。リュアネさんは見えないくらい高いところで、学園と森全体を守ってくれているんでしょう?」
「そ、そうだけど、たまに下に遊びに来るって噂だよ?」
「噂ってことは、やっぱり会ったことないんじゃない」
「あっ……図ったな、ラズリぃ……」
大きな講義室ということもあり、二人の小さな話し声に気づく者はいない。イルザがこっそりと入ってきたことを知ってか知らずか、教壇に立つ講師も、特に注意などはしなかった。
講師はイルザ達よりは年上だがまだ若く見え、室内だというのに白い帽子を脱いではいなかった。その帽子の下には、柔らかそうな金髪が揺れているのが、遠いイルザ達の席からもかすかに見える。
「私が学んだ頃に比べて、魔法陣の理論はとても進んでいます。魔法陣は……単純な文様で、魔力の強弱を気にせず! 誰でも簡単に! 描けるように進化してきました。マリー・ラピス方式と呼ばれる現在の基礎紋様は、およそ百年前に体系化され……」
よく通る声はそれでもどこか優しく、イルザを除けば生徒たちは熱心にその講義に耳を傾けていた。
「真面目だねぇ、ラズリは。持つべきものは友達だね」
「誰もノート見せるなんて言ってませんけど」
「またそんなこと言ってぇ~。え、本気?」
「自分でちゃんと講義受けなさい。アリシア先生の講義、こんなに面白くて人気なのに。それに、なんだかお姫様みたいに綺麗で、慈しみ深くて……あぁ、私もいつか先生みたいに、いえ、アリシアお姉さまのように!」
「お、お~い? ラズリ? 帰ってきて~?」
指を組んで祈るように手を合わせ、夢見心地な瞳で意識がどこかへ飛んで行ってしまったラズリの顔の前で、イルザは手のひらをひらひらと振った。
「アリシア先生もいいけど、私はやっぱり校長先生だなぁ。帝国に迫害されている魔法使いを保護してまわってる、最強の魔女。私だってあの人に助けてもらったから、今生きてここにいるんだ」
「そっか……私は自分で黒森に来た組だけど、イルザはそうだったね。校長先生……”純白の魔女神”、”すべての魔女のお姉さま”、か。助けられた人たちがそんなあだ名をつけるのも無理ないよね。でも、不老不死って本当かな? それってつまりもう、おばあちゃ……」
「そこ!!!!」
今まで穏やかだった講師が、突然大声を発した。
講師は今まで黒板に文字を浮かべていた杖を、明らかにラズリとイルザの方へ向けていた。
普段は見せない姿に、イルザ達だけではない、全ての生徒が驚き、硬直した。
「はっ……私ったらまた……えー、こほん。そこ、私語は慎みましょうね~」
しんと静まり返った室内で、講師自身、驚いたように我に返ったあと、にこやかな笑顔を取り繕ってラズリ達にそう注意した。
明らかに手遅れだったが、その笑顔は有無を言わせない迫力と、大衆を納得させるだけの説得力を不思議と持っていて、生徒たちは意外にも、講師の振る舞いを不快には思っていないようだった。
「ひゃ、ひゃい! すびばせんっ!」
憧れの人に注意されて緊張し切ったラズリは、立ち上がって大声で謝罪した。
友人の取り乱した反応にぎょっとしたイルザも、肩をすくめて、座ったまま講師の方を見て、軽く頷いた。
「え、えー、失礼しました。私ったらいくつになってもまったく……ごめんなさい、反省します。感情を荒げていては、先生失格ですね。ほら、黒森の樹々はしなやかにして、雨風に負けずとこしえを生きる、と言います。えへへ」
講師は頬を染めてひとしきりもじもじした後、また元の凛とした声で講義を再開した。
「ひゃぁ~、びっくりした。アリシア先生があんなに怒るとこ、初めて見たよ」
こりもせず、イルザは先ほどよりもさらに小声でラズリに耳うちした。
「私としたことが。アリシア先生だって、校長先生を尊敬しているに決まってるのよ。イルザみたいに助けられた子が、この学園都市には沢山いるんだから、アリシア先生だってもちろん、そうかもしれないよね……」
「それはどうかな~? 噂だと、アリシア先生はなんでも、校長先生と恋仲なんだとか!」
「なんですって! そんなわけないわ、そんな歳の差」
ラズリがそう声を出した瞬間、講義室全体を、窓から差し込む強い光がカッと照らし、一瞬すべてを白く染めた。
そして全員の鼓膜を破かんとするほどの轟音が響き、全生徒の全身を振動が左から右へ駆け抜けていった。
今度こそ本当に、全ての思考を停止するほど驚いた生徒たちは、口をあんぐりあけて固まるしかなかった。
「わー、晴天の霹靂! びっくりですね。気を取り直して、続きの講義を始めますね~」
ただ一人、アリシア大先生だけが、その雷に全く動じていなかった。
そして満面の笑みで棒読みのように驚いたと言い、二度目の中断から講義を再開した。
「……私、これからアリシア先生の講義、真面目に聞くよ、ラズリ。遅刻も絶対しない」
「……ああ、そんなところも好き、アリシアお姉さま……」
ほとんど放心状態だというのに、ラズリは枯れた声で辛うじてそう呟いた。
未熟とはいえ、生徒たちも魔法使いのはしくれだ。
晴天で、雷が高い樹々を避けて、講義室の真横の広場の地面に不自然に落ちたのを、魔法のせいだと思わない者は……この黒森学園都市にはいないのだった。
その上空。
結界の中の最高高度に今しがた到着した魔女が一人、落雷が焦がした地面を目にしていた。
そして誰にも聞かれていないのをいいことに、本心を吐露した。
「あれ、もしかして私、また気づかないうちに、あの子の機嫌を損ねることをしちゃったのかな? うぅ……こんなことなら、やっぱり小屋にひきこもっていればよかった……!」
この学園都市の主である、校長先生の泣きそうなその情けない声は、立派な学園の建物たちの上空で、誰にも聞かれることなく空気に溶けていったのだった。
白魔女と愛弟子ののんびり百合生活 八塚みりん @rinmi-yatsuka
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます