『緋色の空に消えていった』

小田舵木

『緋色の空に消えていった』

 火照る体と体。その2つがコンクリートブロックで出来た簡素な部室の中にあった。

 眼の前には俺の先輩が居て。長身に割と女性的な顔つきをした彼は物憂ものうげな顔をしている。

 俺はといえば、今までに体がおののき。まだ股間には熱さが残っていて。

「こんな事したって意味は無い。生物は基本きほん異性に対して欲情するようになっているんだからさ」彼は短い前髪を手ででつけながら言う。

「受け入れたのはアンタだ」と俺は不機嫌にそう言って。

「君がしつこかったからね。断るのも面倒になっただけだよ」彼は視線を斜めに落としながら言う。

「…アンタ彼女るだろうに」そう、彼の顔立ちからすればモテるのは当然の話で。

「ま、そういうのも居るけどさ」彼は何もなさそうにそういって。

「バレたら揉めるのは必至だよな」なかば脅すように俺は言う。

「バレないようにするのが甲斐性ってもんだ」彼は行為の始末を始める。別に本格的なことをした訳ではない。お互いにあっただけだ。ティッシュを始末して、適当に消臭すれば事は済む。手軽でよろしい。

 

                   ◆

 

 俺と先輩は弱小陸上部の部員で。夏休みの今は朝から昼間で部活だ。

 お互いに専門は長距離。1500m。陸上競技の中でことマゾスティックな競技だ。

 日々の鍛錬はひたすら走り込む事だけ。そんなある種、修行のような事をしている俺らは基本的に変人だと思う。短距離やジャンプ競技のような華やかさなどありはしない。

 先輩は弱小部のこんな競技には似つかわしくない優美さがあった。

 スラリとした長身に涼しい女性的な顔つき。本来なら花形部活でレギュラーを張ってるような人間で。

 外周なんかをこなしてる時の彼は美しい。さもキツくもないという顔で淡々と走っていく。顔には薄っすらと汗をかき、脚はしゃかしゃか動いて。

 俺なんかは走ることで必至だ。走っていると体が火照る。そして肺が熱くなっていく。すると、今の時期は暑いはずの外気が急に冷えたように感じて。肺との気温差で呼吸が苦しくなって、脚には乳酸が溜まって、顔は歪んじまう。

「…ぜぇ」と言葉にならない音を喉から絞り出せば。隣の彼は答える。

「走り込みが足りん」そのペースで喋れるのはこの部ではアンタだけだ。ったく。

 

                  ◆

 

 俺と先輩…しょうちゃんは幼馴染で。翔ちゃんの方が2つ年上。

 ガキの頃は歳の違いもあって、そこまで一緒に遊ぶこともなかったのだが。

 中学に入学して、陸上部に入部した時に再会…と言うか出会い直して。

 

「陸上部にようこそ。これで廃部はまぬがれるかな?」なんていうのがファーストコンタクト。

「どうも。マジで人気無い部活っすね」なんて、跳ねっ返りの強い俺は言って。

「レギュラー争いなく、一年から大会に出れる良部活なのにねえ」なんて彼は苦笑いしながら言って。

「華がないんすよ、陸上なんぞ」と俺は言ってみる。

「かもね。人体の基本動作だけで出来たスポーツだからかなあ」

「かも知れないけど、それだけじゃないでしょう」

「競技によっちゃキツいってのもあるかな」

「…先輩の専門って何ですか?」嫌な予感がしたのだ。

「1500。長距離。うん。一番マゾい競技だよね」

「で?俺は先輩に師事したほうが良さげですか?」多分そうなるだろうな、と思いつつ。

「その方が指導が楽だねえ、顧問の先生、他の部活と掛け持ちだからさ。あまり指導に来んのよ」

「…よろしくお願いします」こうして、俺のひたすら走る日々は始まり。

 

 

                 ◆

 

 俺が先輩を意識してしまうようになったきっかけ。

 それは俺が酸欠を起こしてしまった時だ。初めて走り込みをした日。あの日にいきなり先輩のペースに合わせたのがまずかった。

 走りながら頭が重くなるのを感じた。酸素がうまく吸い込めなくて。脚はどんどん動かなくなって、ついには歩みをやめてしまう。

「…ぜぇ」と立ち止まり、ため息をついても呼吸が落ち着かなくて。道端に崩れ落ちて。

 だんだんと視界がボヤけてきて。そのまま体が横に倒れちまう。

「おーい、光輝こうき?」と先輩の呑気のんきな声が前から聞こえてくるのだが。返事をしようにも声が出ない。

「…っはあ」と二酸化炭素を吐き出しはすれども。体が楽になる気配はなくて

 ああ。このまま死ぬんじゃないか?そう思ってしまうくらいに意識が朦朧もうろうとし。

「げ。酸欠起こしてやんの…部室行って救急箱…酸素缶…いや、コイツ放置するのもな」

「…」俺はその逡巡しゅんじゅんを聞いてるような聞いてないような心地で。

「あー。面倒い、人工呼吸してみっか」彼はそうつぶやき。彼の唇が俺の唇に触れるのを感じた。消えゆく景色の中。…頼むから大人を呼んでくれないかな、そう思いつつも、激しく鼓動する心臓が近くにあり。

 

 俺は―その時にのだと思う。

 あの事件の後、保健室に運ばれた俺は。妙な気分と共に目覚めた。

「お。生き返ったか」とベットの脇には先輩がおり。

「…どうも」と俺は体を起こして。

「済まんな、対処たいしょ間違えた」と彼は恥ずかしそうに言う。

「気にしてないですよ」恐らくアレの事を言ってるんだろうな、と思いながら俺は返事をし。

「ま、今後は無理せずにな。顧問にこってり絞られたわ」

「ういっす」

「返事はハイ、な?」

 

                    ◆

  

 俺と先輩が部活をするのはこの夏が最後だ。秋口には受験勉強に専念するから彼は居なくなってしまう。それと同時に陸上部も消えるだろう。俺は先輩の居ない部活を続けるだけのバイタリティがない。

 だから。二人でをするのも夏でお終いで。今までよく露見しなかったよな、と思う。顧問が不在がちなのが功を奏したか。

 先輩と離れることが嫌じゃない訳では無いが。これもまた運命だと思って受け入れる他ないような気がして。

「何時までもはしてられんって事か」と俺は校庭の隅に座り、水色の空を眺めて。

 男に生まれてきたことを初めて呪う。なぜ、女ではなかったか?

 しかし、この毛深くて大きな俺が女に生まれる姿もなかなか想像出来なくて。

「さぼってんじゃねーぞ?」とそこに先輩が現れる。その顔にはほのかな笑みが添えられていて。

「アンタのペースに付き合ってたら、また酸欠起こしますよ」

「それを言うない」

「はは」なんてこんな会話も何時までも出来はしない。学校で上級生と関わるのは手間がかかる。

 

 空には飛行機雲が伸びていって。それは何処かに向かっていく。俺はそれを羨ましく思う。俺の感情には行き場なんてないのだ。いくらLGBT全盛の今であろうが、ヘテロセクシャルに絡んでいくのはご法度はっとだ。自分にホモセクシャルの傾向があろうが、それは個人での事であり、それを他人にまで強制する事は出来ない…いやまあ、行為を迫ったっちゃ迫ったが。

 

「先輩は夏休みは彼女と?」なんて聞きたくもないことを聞いて。

「ん?ああ。夏祭りとかプールとか、行くけど?」彼は答えにくそうにそう言って。

「そいつは羨ましい」なんて言わなきゃ良い台詞が口をついて。

「なんだあ?一緒に行くかあ?」なんて茶化すように言う彼が憎たらしい。

「邪魔しちゃ悪いですよ」なんて言う俺は。

「ま、そんな事しなくても俺達は毎日部活で一緒だしなあ」

「っすね。さて、か?」

「またかよ」と彼は言い、俺達は二人であの小さな世界に籠もりにいく。

 

                      ◆

 

 最後の大会の日はあっさり訪れる。

 まだ秋口までは時間があるが、これが最後といえば最後で。

 陸上競技場の客席に陣取る俺。先輩の競技が今始まろうとしていて。

 トラックに入った先輩は神妙な面持ちで。

 ああ。遠くに彼が行ってしまう…そう感じたのは気のせいか。円形のトラックを走るんだから、いずれは帰ってくるのは分かって居るが。

 スタートブロックにつく彼。そして、スターターピストルが撃ち鳴らされる。


  一斉に走り出す競技者。最初のスパートが肝心なのだ。勝負の半分を握ってると言っても良い。先輩は集団の中程に陣取っている。温存でもするつもりなのか。

 スパートを終えた先輩はいつもの優雅さで走り出す。そこには余裕があり。

 相変わらずなんだな、と俺は思う。練習の時と一緒。自分の世界が彼にはあって。その中で充足じゅうそくしている。周りなどノイズでしかないのだ。

 そして。ラストスパート。優雅さを保っていた先輩は急にスピードを早め、集団から抜け出して行く。

 その抜け出していく様に俺は妙に心動かされる。ああ、この人は俺を置いていくんだな、と。全く関係のない景色の中に俺達の関係のメタファーはあった。


 結果。3位に着けた彼は本戦へと進んでいった。

 

                      ◆


 大会は終わった。先輩は本戦で10位。俺は予選落ち。

 帰り道の緋色ひいろの空が俺達を優しく包む。

「うまく行かんかったなあ、ま。3年やり遂げたから良いけど」先輩はあっけらかんとしたもので。

「俺は大した結果も出さず引退しますけどね」なんて俺は言って。

「続けてくれりゃ良いのに」なんて惜しそうに言う彼。

「アンタが居ないんじゃ無理です。俺にはそんな器量はない」

「そ?まあ良いけど」

「良いんですか?」

「まあね。強制してまで一人でやらせられん。今年だって特例で続けさせてもらったようなモンだしな」

「ま、最後にお役に立てて何より」

「その分、見たけどな」

「確かに」

 

「なあ、あの話なんだが」と彼は切り出す。

「あれですか」と俺はドギマギしながら受けて。

「あれはやっぱり、一時の気の迷いというか、青春の過ちと言うか…無かった事にしようや」

「そう、言うと思ってましたよ」想定通りの答え。運命を告げる言葉。

「嫌に素直じゃないか?」

「ヘテロセクシャルに強制なんて出来はしない」

「そうかい。んまあ、楽しかったよ?」

「そういう形容をしますか」

「後輩なんて初めてだったからな、付き合い方がよく分からんかったけど」

「不肖の後輩で申し訳ない。嫌なことまでさせてしまって」なんて懺悔したって。俺が迫った事実はぬぐえない。

「受け入れちまった俺が悪い…っと。お前とはこの駅でお別れだったな」

「すね。それじゃ、また学校で」

「部活の時にな」

 

 こうして。俺と先輩の関係は終わった。

 空を見上げれば緋色。それは古来から『思ひの色』と呼ばれた色で。

 俺のこの先輩への想いは、空に溶けて消えていき、二度と戻って来ない。

 そこに添えられたるは蝉の声。想いを遂げんと泣き叫ぶ彼らを羨ましく思った。

 

                      ◆

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『緋色の空に消えていった』 小田舵木 @odakajiki

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