第74話 調整役の苦悩
「はあ、ありがとうございます。阿栗さんにも伝えときますが、キャップに負担かかる移籍はちょっと止めとこかって。
……ええ、もし特例で出走させてもらえることになったらすぐさま連絡させていただきます。
はい、そん時はよろしくお願いします、では」
久須美調教師は受話器を置き電話を切ると、溜息をついた。
そしてもう一度受話器を取り、阿栗の会社の電話番号を回す。
阿栗の会社の受付嬢が取り、久須美調教師が名乗ると回線を阿栗に回す。
「もしもし、阿栗ですが」
「お仕事中申し訳ありません、久須美です」
「おう、久須美さん。どうかしたん?」
「今さっき松林さんからわざわざ電話ありましてね。キャップの有馬記念のことで」
「松林さんの方から? ホンマに?」
「ええ。キャップが有馬記念に出るつもりなんやったら、刑部さん乗れそうやってわざわざ連絡くれました」
「うわー、そりゃ有難い話やけど……でも、刑部さん、他のお手馬で有馬記念出れそうな馬、おるんと違うん?」
「それが、古馬のマシロフルマーやシルバアクトレスは引退して、クラシックでコンビ組んだマシロアルダンも怪我で療養中ってことで、お手馬の面では空きそうらしいんです。
ほんで松林さんの耳にも月曜に締め切られたファン投票の結果がオフレコっちゅうことで入ってきたそうで。
キャップの有馬記念のファン投票、10万票超えとるらしいってことなんですわ。
ほんで、JRAから何か連絡来てないかって聞かれたんですけど、今んとこ来とらんですよね、阿栗さんとこにも」
「ああ、有馬記念のことに関しちゃ来とらんよ」
「ワシんとこも来てませんし阿栗さんからも聞いとらんから、連絡はないちゅうて返事したら、松林さん残念そうでしたわ。
ほんで、もしJRAから特例で出走させるて連絡来たら、すぐ連絡くれて言うてました。
ただ、有馬出る馬で乗り替わりの依頼があったらそっち取るけど、っちゅうことです」
「まあ、そうやな。もうキャップを有馬のために中央に移籍させるのはせんことにしたし、他に出る馬おるなら、そっち優先させてもらった方がええに決まっとるでな。
ほんで他に松林さん何か言うとった?」
「冗談めかして美浦で馬房が空いとる調教師を紹介しようか言うてました。どうします? やっぱり有馬に間に合わせますか?」
「いやいや、もう今日は水曜で間に合わんし、今更やろ。何や久須美さん、やっぱキャップを厄介払いしたいんか?」
「いや、もうそれは無いです。笠松での最後の日まできっちり面倒見させてもらいますわ。
阿栗さん、もう次の調教師の目星つけとるんですもんね」
「おう、名古屋の
「名古屋の瀬田口くんは、まあ手堅く着実にやっとりますが、お兄さんもそうなんですかな」
「そうみたいやで。騎手から調教師に転向して徐々に力のある馬も集まるようになってきたっちゅうことや。
そういうとこも久須美さんに似とるやろ?」
「いや、言うてもワシャ騎手としてはヘボかったですから何とも言えませんわ。
ところで阿栗さん、どうですか、ファンレターの状況」
「おお、先週末からぼちぼち届いとるけど、昨日は結構どっさり届いたな。今日は帰ってみんとわからんが。結構遠くから手紙出してくれとる人もいるみたいやな」
「そうですか。いや、
「それに関しては明後日のファン投票結果発表でJRAがキャップの名前を出してくれるかどうか次第やろ? 名前出るなら、特例で有馬記念に出してくれるつもりかも知れんし、無けりゃそれまでや。
こないだ話したとおり、特例来た場合は有馬で、何もなければ東海ゴールドカップ。
2本立てでキャップを仕上げてってくれ」
「わかりました」
「ほんで久須美さん、万一有馬決まったら刑部さん乗ってくれそうっちゅうのは有難いんやけど、河原くんの方はどうなっとるん? 出馬登録するに鞍上の目星つけとらんとアカンやろ?」
「
前、ワシも含めて3人で話す機会作る言うてくれてましたが、ジャパンカップでワシも忙しくて時間作れんかったんですけど」
「……そうか。ホンマやったらワシも直接河原くんと話したいとこやけど……河原くんの師匠がそう言うんやったら仕方ないな……久須美さん、何とか頼むで」
「ええ、ワシも章一の気持ち、何とか奮い立たせてやりたいて思ってますから。
また近いうちに志来さんに話して見ようとは思ってます。
また動きあったらご連絡します」
「おう、よろしく。頼んだで、久須美さん」
電話を置くと、久須美調教師はまた溜息をついた。
松林さん、もっと早く連絡くれとったら……もしかして阿栗さんもキャップを美浦に移すて決めとったかも知れんが……
10万票超える投票あったら、おそらく10位以内には入るんやろうし、籍さえ中央に移っとったら文句なく選出されとったやろうな。
それに、他の馬と
とは言っても、まあワシらに出来るのは、現実的に次のレースに向けて準備することだけや。
東海ゴールドカップ出すとしても、キャップはまだ12月中は4歳やから、-2㎏んなる。獲得賞金で負担斤量増えても、おそらくフェートローガンよりチョイ重くらいに落ち着くはずや。
まあ酷ではあるが、1戦限りやったら、無事に走れるやろう。
それよりは章一の方やなあ……
東海菊花賞以降、覇気も精彩も欠いとるからなあ。
どうにか、また自信取り戻して欲しいんやけど……
12月8日(木)の午後、久須美調教師は河原章一の所属厩舎である
改めて五島調教師に、こちらの内情のうち決まっていることは正直に話した上で、河原章一のアグリキャップ騎乗を打診しようと思っていた。
もし河原章一が厩舎にいるようなら、あわよくば五島調教師も含め3人で話せるかも知れない、との期待も僅かに抱いている。
「志来さん、こんちわ」
久須美調教師が厩舎の入口で五島志来調教師を呼ぶ。
「おう、久須美さん、どうしたんわざわざ」
五島志来調教師が出て来て、のんびりとした口調で言う。
「キャップの笠松次戦の
「あー、タイミング悪いな、章一、今日明日はおらんのや」
五島志来調教師の返答に、久須美調教師は拍子抜けする。
「どないしたんですか」
「いや、次の笠松開催、13日からやろ? 章一のやつ東海菊花賞以来ずっとぼやっとしとるもんで、ちょっと気分転換さしたろ思ってな、ワシの知っとる福井の温泉旅館取ってやって行かしたわ、5日から。早くとも明日の夕方くらいまでは戻らん」
「志来さん、そりゃどういうことです?」
「いや、どうもこうもそのまんまやけど。13日のレースに出る騎乗馬の追い切りやる10日の早朝に間に合うように戻って来い言うてある。
アグリキャップ、有馬記念出るかも知れんのやろ?
そうなったらまた中央の騎手頼むんやろうと思ってな、今週行かしたんや」
「いや志来さん、有馬なんてまだ全然わかりませんよ、ただ噂んなっとるっちゅうだけでワシらんとこはJRAから何も言ってきてません」
「そうなん? でも阿栗さん中央馬主の資格取ってアグリキャップを中央に移籍さすつもりなんやろ?」
「そっちはそっちで動いてはいますが、有馬記念に間に合うように中央移籍さすのはキャップに負担かけることんなるんで、無理させず来年入ってからにしよって話んなってます」
「ほー、そうなんやな。いや、うちのマーチの方が先に中央行くことんなるとは思わんかったわ」
「マーチトウホウ、中央移るんですか? 11月28日の『いろり火特別』出とったやないですか」
「馬主の
明日の午前中、栗東に移ることんなっとるわ」
「……もしかして、それもあって河原くん、温泉行かしたんですか」
「まあ、それも無いとは言えんけど。
マーチも中央移る言うても条件戦からんなる。
章一にマーチ見送らせると、勝たせてやれんかったってまた思わせてまうかも知れんからなあ。
ま、久須美さん、悪いけどアグリキャップの
アグリキャップ、出すとしたら東海ゴールドカップやろ? それやったら来週話しても出馬登録にゃ間に合うんやから」
五島志来調教師は終始のんびりとした口調だったが、それとは裏腹に弟子の河原章一のことを思って今回長期で休みを取らせたことが久須美調教師にも伝わった。
「わかりました。ほしたら来週、また来ますわ」
「おう、わざわざ来てもらったのに悪かったな」
久須美調教師は五島厩舎を後にした。
自分の厩舎に戻りながら、久須美調教師はつらつらと考える。
時間が経たんとはっきりせんことが多すぎるな。
だが、気は焦ってしまう。
何か、胃ぃ痛くなりそうや。
とりあえず明日、有馬記念のファン投票結果が発表される。
結果が出たら、まず一つははっきりする。
今日はもう、何も考えんと早よ寝とこう。
Different possibilities of a certain reed-haired horse <ある葦毛馬の異なった可能性> 桁くとん @ketakutonn
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