第73話 断念
阿栗孝市は12月3日(土)の午後、佐梁功と自宅で話していた。
阿栗の妻はアグリキャップのジャパンカップ祝勝パーティの打ち合わせで岐阜市内のホテルに出かけており、阿栗と佐梁はサシで話している。
佐梁功は11月中に所有していた全ての馬を手放し、先週、11月30日に名古屋地方裁判所で自身の会社の脱税容疑の控訴を取り下げていた。
阿栗も久須美厩舎に佐梁が預託していた馬トーヤオーを引き受け、12月1日から馬主となっている。
「トーヤオーはどうですか、阿栗さん」
「とりあえず次戦は12月14日、重賞のウインター争覇やな。まあ賞金咥えてきてくれりゃあ万々歳や」
「あの馬は、自分の
ところで阿栗さん、今日私を呼んだのは、アグリキャップの中央移籍に関係しているのでしょう?」
佐梁は最近のアグリキャップを巡る世論も知っていたため、急遽阿栗が自分に相談したいことがあるという相談の内容も当然のように察していた。
「JRAの馬主資格の審査は通ったんですか、阿栗さん」
「ああ、昨日の夕方帰宅したら、これが届いとった」
阿栗は表に「阿栗孝市様」と記された角型2号のJRAのロゴの入った封筒をテーブルの上に置き、見せる。
「正式な馬主登録証を受け取るには、そこに入っとる馬主資格登録証の登録届出をせなならんけど、その届出用紙、馬を預託する予定の調教師名を書かなならんのだわ。
やけど、ワシはハッキリ言って中央の調教師、誰にしたらええのかサッパリわからん。
だで、佐梁さんに教えてもらおうかと思ってな」
佐梁は阿栗の申し出に対し、腕組みをしてしばし考えこみ、そして口を開く。
「阿栗さん、中央の調教師を紹介して欲しいというのは、アグリキャップを中央に転籍させて有馬記念に出すために間に合わせたいから、ということなんでしょうか」
「それも含めて、ちゅうとこかな」
「……でしたら、お力になることは出来ません」
「……そりゃ何でなんや、佐梁さん」
「……阿栗さんらしくもない。アグリキャップに負担が掛かるから、ですよ。
ジャパンカップのための東京遠征と転厩じゃ訳が違います。
調教師も変わる、担当厩務員も変わる。もう既にアグリキャップがどんな性格の馬か理解し把握し接している久須美さんや川洲くんの手から離れるんです。
新しい調教師や厩務員は久須美厩舎から情報を引き継ぐとは言え、情報と実際に馬に触れて世話をするのは別です。
まったく違った環境に置かれるアグリキャップが、今の調子を維持できるとは限りませんよ」
「そうは言うが、キャップは環境の変化に頓着せんし、馬運車での輸送も苦にせんて久須美さんからは聞いとる」
「阿栗さん、これまでは遠征に見知った顔の厩務員、川洲くんが常に付き添っていたからこそアグリキャップも安心出来ていた部分が大きいんじゃないですか。
まあ、それは置いておくとしても、有馬記念に勝ち負けを度外視してただ出走させればいいだけなら厩舎を紹介することは出来ます。
ですが、今回、アグリキャップを有馬記念で見たいという世間の声は、『強いアグリキャップを見たい』という意味だと私は思うのですが、どうですか」
確かに、アグリキャップがジャパンカップを制した『強い馬』だからこそ、有馬記念でもう一度見たいと世間の競馬ファンは思っているのだろう、と阿栗も思う。
「阿栗さんからアグリキャップを買い取りたいとずっと執着していた私だからわかります。
世間は国内最強馬タマナクロスともう一度走って真に決着をつけるアグリキャップが見たいんです。
あるいは、同じ国内4歳馬の代表、マイル
ただ、この短期間の急な転厩では、それらの馬と勝負になる状態には持って行けないはずです」
「いや、久須美さんからは入厩して15日間はレースには出れんが調教は出来て、ギリギリ有馬記念の12月25日に間に合わせるのは可能やって聞いとるで」
「久須見さんが? 本当ですか?」
「おう。来週中、12月9日までに中央の調教師と預託契約できればギリ行ける言うとった」
阿栗の言葉を聞いた佐梁は、阿栗宅の応接間に掛ったカレンダーに目をやり日数を数える。
「……久須美さんの言うことは、間違っているとは言いませんが、机上の空論です。
それに久須美さんの言うとおりにしようとするなら、やはり私はお力にはなれません」
「何でや、佐梁さん、中央の付き合いのある調教師、紹介してくれって言っとるだけやで? そんな難しいことか?」
佐梁は、溜息をついて言った。
「私が付き合いのある中央の調教師は、全員
確かに9日に入厩すれば24日には所定の入厩期間が明けて25日の有馬記念に期日的には間に合います。ですが前日輸送で挑むことになります。
有馬記念は千葉県船橋市にある中山競馬場開催ですから、栗東からだと府中の東京競馬場より遠い。道路状況にもよりますが下手したら10時間近くかかるでしょう。流石にアグリキャップがタフだといっても相当厳しい。
それを避けるなら
ですから『アグリキャップを有馬記念で勝ち負けできる状態で』中央に転厩させることについて、私はお力になれないのですよ」
「……そういうことか」
「……そうなんです。おそらく私だけでなく、
阿栗は佐梁の説明に、自分がアグリキャップの中央転厩を甘く考えていたことを実感せざるを得ない。
そして、知らず知らずのうちに世間の動きに自分が煽られていたことにようやく気付いた。
「JRAの主催する、新人馬主のためのトレセン見学会で美浦トレセンを選んで美浦で馬房に空きのある調教師を紹介してもらうのが最も自然な流れだと思いますが、JRAから送って来た封筒に、トレセン見学会の案内、入ってませんでしたか」
「入っとったが、12月9日には間に合わんよ……
佐梁さん、有難うな。ワシ、ちょっと中央転厩を甘く見とったようや……
チャチャっと済ませば何とかなる程度に思っとった」
「そうですか。わかって頂いて何よりです。
どうしても阿栗さんが有馬記念に中央馬としてアグリキャップに出すことに拘るようでしたら、明日にでも美浦に行って馬房に空きのある調教師をご自分で見つければ何とかなるでしょう。
既に中央GⅠ、それもチャンピオンディスタンス2400mを制した実績のある馬ですから、手を挙げる調教師はいくらでもいるでしょう。
ただ、阿栗さんがそうした行動を取るようでしたら、私は阿栗さんに失望していたと思います」
「失望て」
「阿栗さんはアグリキャップを頑なに手放しませんでしたが、それはアグリキャップが強い馬だからでしたか?
そうじゃないはずです。
アグリキャップだけでなく、所有した馬は絶対に手放さないという阿栗さんの信念は、阿栗さんが馬を家族のように思っているからなのだと私は感じました。
だから阿栗さんは、久須美さんなどご自身が信頼している調教師に馬を預けているんじゃないですか?
それを、有馬記念に出すためだけに人となりもわからない一見の調教師に預けようとするのは……馬を家族のように思う阿栗さんらしくない行動ですよ。
ですから失望すると申し上げました。
ですが、それを思い留まられたのであれば何よりです」
「佐梁さん、あんたにそんなことを言われるとはなあ……ホンマにあんた変わったんやな」
「……そうですね、私自身でも不思議です。
おそらく、私がアグリキャップを手に入れていたら、その強さに有頂天になり、アグリキャップの走りがどれだけの利益を生むのか、そればかりに気持ちが行っていただろうという気がします。
今は本当に客観的に自分を見れています。
阿栗さんがアグリキャップを所有して中央に挑戦されるのであれば、アグリキャップに無理をさせないように、一戦一戦力を出し切れるように走らせてやって欲しい、そう思っています」
「ホンマは元々あんたも馬を大事にする男やったのが、ようやく
わかったわ、佐梁さん。
今回中央の馬としてキャップを有馬記念に出すのは断念するわ。
浮かれとったワシの目を覚まさせてくれて有難う、佐梁さん。
ただ、来年キャップが戦う舞台は中央にしてやりたい。
だから、今のあんたが信頼できるて思うとる中央の調教師、紹介してくれんか。
キャップに無理な負担がないようにゆっくり進めるならええやろ?」
「わかりました、そういうことでしたら……」
阿栗は、佐梁が話すJRAに転厩する際の通常の段取りについて熱心に聞き入った。
午後5時頃、阿栗は久須美厩舎を訪れていた。
「阿栗さん、どないされたんですか」
久須美調教師は事前に連絡のない、阿栗の突然の来訪に驚く。
「いやなに、ちょっとキャップの様子、見してもらおうかと思ってな」
阿栗が手に持ったニンジンを弄びながらそう言うと、久須美調教師は阿栗をアグリキャップの馬房の前まで案内する。
アグリキャップの馬房では、厩務員の川洲が、アグリキャップの飼葉桶の水を替えていた。
「おう、川洲くん、キャップにニンジンやってもええかな」
「あ、オーナー、いいですよ。飼葉食べたばかりですけど、キャップなら喜んで食べると思いますよ」
「ありがとな、川洲くん。いつもようやってくれて」
「いやいや、仕事ですから」
そう言って川洲はバケツを持ってその場を離れた。おそらく阿栗と久須美調教師がこの後何事かアグリキャップについて話すことを立ち聞きしてしまっては悪いと気にしてくれたのだ。
阿栗は手に持ったニンジンをアグリキャップに差し出す。
アグリキャップは阿栗の手のニンジンを軽く噛んで阿栗から取り上げると、一気に丸ごと口に入れてコリコリと小気味いい音を立ててニンジンを嚙み砕いた。
納得いくまでコリコリ噛みしめゴクリとニンジンを飲み下すと、アグリキャップは「もっとないのか」とでも言うように阿栗に向かって顔を突き出す。
「済まんな、キャップ。今日は1本しか持って来とらんのや。また今度、メーカーやエース、トーヤオーにも持って来るから、そん時キャップにもやるでな」
そう言って手を開いてアグリキャップに見せると、アグリキャップは阿栗の掌をペロン、ペロンと舐め出した。
「久須美さん、キャップを有馬記念出走のために急いで中央に移すんは、止めることにしたわ」
阿栗はアグリキャップに掌を舐められながらそう久須美調教師に伝えた。
「……そうですか」
久須美調教師は考えて、短く答えた。
「今日、佐梁と話したら、キャップに相当無理させることんなるのがわかったわ。ワシ、ちょっと焦っとったんやな。
キャップがあれだけの走りをジャパンカップで披露できたの、刑部さんの力ももちろんやけど、久須美さん筆頭に川洲くんや毛受くんがキャップに細心の注意を払って万全な状態に仕上げてくれたお陰やっちゅうこと、失念しとったとしか言いようがないわ」
「いや、阿栗さん、それは違います。ワシもジャパンカップ後の狂騒に流されとったんですわ。
キャップの存在が大きくなりすぎて、正直ワシの手に余るって気持ちが膨らんどったんです。
地方競馬組合のお三方に噛みついたのも、早よ次の、ワシより立派な調教師に委ねたいって気があったせいです。そのワシの我儘で、無茶なスケジュールですが行けん事はないって、阿栗さんに言うてしもうたことは否定できません」
久須美調教師はそう言って、タオルを阿栗に差し出した。
「おお、悪いな」
阿栗は久須美調教師からタオルを受け取り、アグリキャップの唾液がべっとり付いた自分の手を拭いた。
「キャップの奴、ワシの手についたニンジンの匂い、全部舐め取るっちゅう勢いで舐めとったからな」
阿栗は手を拭き終わると、アグリキャップの頭を優しく撫で「まったく、食い意地の張った小僧みたいやな、お前は」と声を掛ける。
アグリキャップは阿栗の顔をペロンと一舐めすると、飽きたのか馬房の奥に引っ込んだ。
「ホンマに、こっちが言うてること、わかっとるみたいやな」
「小僧呼ばわりが気に入らんかったんですかな」
「かも知れんな」
阿栗は舐められた顔もタオルで拭く。
その顔は笑顔だ。
そのまま阿栗は笑顔を崩さず久須美調教師にタオルを返した。
「まあ、こんだけ人間臭いキャップを、他の人間にすぐにわかってもらうっちゅうのは、無茶やろな。
久須美さん、中央にキャップを移すんは、来年アタマや。
ワシも至らん馬主やけど、今年中は久須美さん、よろしく頼む」
そう言って阿栗は久須美調教師に手を差し伸べた。
笑顔の阿栗を見て久須美調教師も表情を緩め、右手に持ったタオルを左手に持ち替えて阿栗の手を取り握手する。
握手をした二人は、すぐに手を離した。
そして、どちらからともなく声をあげ笑い出した。
「阿栗さん、とりあえず手ぇ洗いましょうか」
「そうやな、タオルもキャップのツバでベトベトや」
※1 1988年当時、中京地区の馬主で美浦に所有馬を預けている馬主は殆どいません。中京地区の馬主が美浦の調教師にも所有馬を預けるようになってくるのは1990年代に入ってちらほら、増えだしたのは2000年代からです。
今とは違って、中央競馬の中にも距離と情報の隔絶という東西の見えない壁があったのです。
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