第72話 混迷
「アグリキャップを、12月30日の東海ゴールドカップに出走させて頂けませんか」
岐阜県地方競馬組合の西沢事務局長が、静かに言う。
「事務局長、それは岐阜県地方競馬組合の要請ってことですか」
久須見調教師が間髪入れずに聞き返す。
「久須見さん、要請ではありませんよ、言い方がそう聞こえたなら申し訳ありません」
西沢事務局長が柔らかい口調でそう返答し、続ける。
「あくまでもお願いです。所有されている競走馬をどのレースに走らせるか、それは多額のお金を費やして馬を購入し、月々の預託料を払っている馬主さんに決定権がありますから」
「しかし、岐阜県競馬組合の重鎮三方がこうして揃って、しかも県庁内で頼まれる状況だと、こちらにとっては圧を感じてしまいます」
久須見調教師は阿栗に替わりそう伝える。
「それに関しては申し訳ありません。本来でしたらこちらが阿栗さんのお宅までお願いに上がるべきでした」
加地原副知事がそう言って頭を下げた。
広重笠松町長と西沢事務局長も一緒に頭を下げる。
「知事への表敬訪問でお二人が来庁される機に、というのは少々虫の良い機会の作り方であったことはお詫びいたします」
「いやいや副知事、久須美さんも副知事に頭を下げさせようとして言った訳やないですから、どうぞ頭をお上げください」
阿栗が慌てたように言う。
阿栗のその声に副知事らが頭を上げ、広重笠松町長が話し出す。
「我々も来週のどこかで阿栗さん宅に伺ってお話させていただこうと思っとったんです。今日の来庁時に、その日程を詰めさせていただこうかと考えておりました。
ただですね、世間の風向きが、何やら騒がしくなっておるようでしてね、急遽こうしてお願いさせていただこうかというようにさせていただきました」
昨日の中日スポーツの、前田記者のコラムをこのお三方も読んどったんか。
久須美調教師はそうピンと来た。
「中日スポーツの競馬コラムのことですな? あれなら単なる競馬記者の願望に過ぎんと思いますが」
「いや、久須美さん、コラムもそうなんですが、TVの方なんですよ」
西沢事務局長が変わらず静かな口調で言う。
「は? TV? 取材ではジャパンカップのことや普段のキャップの様子のこと、厩務員や調教の仕事などの話しかしとりませんよ」
「地元TV局の特集番組じゃありません……阿栗さん久須見さん、大物司会者の
「知っとりますよ」
「土曜夜7時の『クイズステークス』の司会を始め、いくつも番組持ってますな」
「ええ、今のTVで大樫巨水を見ない日はありません。大樫巨水は競馬好きで評論家活動もしていることで有名です。その巨水が、深夜番組内の自分のコーナーで『アグリキャップを出せないのであれば、有馬記念は真のグランプリレースではない』と発言したようなんですよ。ご存じなかったですか」
「いや、それは初耳ですわ」
久須美調教師は、飲みに出た夜以外は次の日の朝の調教に備えて早く床に着くため深夜番組は見ていない。
「ワシも聞いとらんですな」
阿栗も同様だった。
「水曜日の深夜番組でしたからね。まあ競馬だけでなく麻雀やストリップ劇場など『男の娯楽』を扱ういかがわしい番組ですが、若い男性には支持されとるようなんです。曲がりなりにも全国ネットの番組ですから、その影響は大きいのではないかと懸念されましてね、それで急遽今日、この機会でお二人にお願いしておくべきかと思ったのですよ」
西沢事務局長が静かに言う。
「……キャップの知名度が上がり、笠松競馬の売上に貢献しそうだから是非とも東海ゴールドカップに出したいっちゅうことですな」
「いや、久須美さん、確かにそういった面は否定しませんが……」
「いや、そうでしょう。厩舎設備やらレース体系など、現場で馬に携わっとる人間から言わせてもらえば改善して欲しいところは幾つも有るのに、そうしたところには手を付けずに儲かりそうな時だけレースに出してくれ、とは……随分虫がいい頼みやとワシャ思いますがね!」
久須見調教師はつい、日頃の不満も含めて反論する。
「そもそも円城寺厩舎から笠松競馬場までは幾らなんでも離れすぎですわ。途中で一般道渡らななりませんし、これまで何度も一般道に放馬してまう事故あったでしょうに。薬師寺への厩舎集約、要望出しても全然進まないやないですか」
「おい久須美さん、そんなケンカ腰んならんでくれや」
阿栗が久須美調教師を止める。
「しかし阿栗さん……」
「ええて。副知事も町長も、キャップを東海ゴールドカップに出さんと締め上げたるぞ、っちゅうこと言っとる訳やない。あくまで決定するのはワシちゅうことで出してくれて頼んどるだけのことや。
そうでしょう、加地原副知事」
阿栗の問いかけに加地原副知事が頷く。
「ええ。まったく強制ではありませんし、断られたからと言って阿栗さんや久須美さんに何か不利益が生じることを我々がすることもありません。
ただ、笠松競馬にとっては知名度増や観客増に繋げる千載一遇の機会であることは確かです。それでお願い申し上げているということです」
「なら、極端な話、ワシが明日にでも中央競馬の調教師と預託契約して、キャップを中央馬として登録する手続きを進めたとしても、その邪魔はせん、ということでよろしいんですな?」
「ええ、阿栗さんがそうした行動を取ったとしても、私たちは咎めるものではありませんし、笠松競馬の登録馬抹消手続きをわざと遅らせて中央への転籍を進めさせないなどの妨害行為を行ったりもしません。
そうですね、西沢事務局長」
「はい、転籍に必要な手続きなどあるようでしたら、通常どおりに進めさせていただきます」
「なら、東海ゴールドカップ出走も、次戦の選択の一つとして考えておきますわ。
正直、斤量の問題が無ければワシとしては笠松の皆さんにキャップが走る姿をご披露して、それから中央に移したいと思っておったんです」
「……」
「笠松でも定量制のレース、増やしてもらえると馬主としては有難いところです」
「西沢事務局長、どうなんですか」
「……東海ゴールドカップの競走条件を定量制に変更するということでしょうか」
「阿栗さん、そういうことですか」
「ええ、そうなればキャップも無理なく出走に踏み切れます」
「……それは、アグリキャップやフェートローガンにのみ有利に働く変更ということになってしまいます。流石にそんな恣意的な変更は行えません。
現状、フェートローガンが出走するレースは、他の陣営は勝ち目が薄いと見て回避する傾向にあります。ハンデ戦ですらそんな状況です。定量制にしたら他の馬が出走せず、3,4頭の小頭数でのレースになりかねませんし、レース自体が成立せん、っちゅうことすらあり得ます。
レースが成立したとしても、馬券の妙味が無くなり売れ行きも落ちるでしょう。下手したら払い戻し金とトントンで賞金に回す資金すら回収できないという事態すらあり得ます。
力の劣る馬でも勝つチャンスがある、観客にそう思っていただけないと馬券が売れません。
かえって自分達の首を絞める結果になってしまいます。
阿栗さんも久須美さんも、それはご理解いただけるでしょう?」
阿栗も久須美も、西沢事務局長が言う内容については、笠松競馬の懐事情に係わることで痛いほどにわかる。
人が多く来て売上が上がったとしても的中が多く払い戻しで赤字となるのは避けたいだろう。
「すみませんな、事務局長。ワシも決して笠松競馬を苦しめようと思って言った訳じゃありません。単なる
東海ゴールドカップ出走については、他の選択とも合わせて前向きに検討させていただきます」
阿栗はそう言って、この場を締めた。
岐阜県庁舎を阿栗と久須美調教師が出たのは午後3時半近くだった。
ちょっと茶でも飲まんか、と阿栗が久須美調教師に声を掛け、二人は喫茶店に入る。
「……いやあ、地方競馬組合のトップから直々に出走頼まれるとは思いもよらんかったな」
「そうですな……まあ、断っても特に何かされる訳でもないっちゅう言質は取れた訳ですから、中央の有馬記念出すのは諦めんでいいのは有難いですな」
「なあ、久須美さん、えらく有馬記念押すけど、どうかしたんか?」
「いや、特に押しとる訳では無いですよ。ワシャただキャップの可能性を潰したくない、ただそれだけですわ」
阿栗は久須美調教師の様子をじっと見る。
久須美調教師は締めていたネクタイを緩め、ふうっと溜息をついている。
「何か、ジャパンカップからこっち、久須美さんにも色々と気苦労かけとるな」
「いや、大したこたないですよ。阿栗さんこそこれから大変ですよ、きっと。
大樫巨水の発言に煽られた単細胞が、阿栗さんとこ直談判に来るかも知れませんし」
「いやいや、それは流石に無いやろ。でも、変な雑誌記者とかには纏わりつかれるかも知れんから、久須美さんの言う通りに言動には注意するようにしとくわ」
「そうですな、ホンマに……」
久須見調教師は窓の外の景色を眺めながら、ボーっと返事をした。
久須美調教師のその様子を見ながら、阿栗も溜息混じりに問いかける。
「なあ、久須美さん、これからどうしたもんかな……何か直談判に来る奴は流石におらんけど、ジャパンカップ見た熱心なファンからファンレター何通も届いとってな。
嬉しいことなんやが、何やタマナクロスが有馬記念を最後に引退するらしいから、有馬に出てどっちが強いか白黒はっきり決着つけて欲しい、なんて内容だったりするんや。
気持ちはわからんでもないんやけどな、何か返事書こうにもなあ……」
阿栗が問いかけても、久須美調教師は変わらず窓の外を眺めている。
「久須見さん、何ボーっとしとんのや」
阿栗がやや語気を強めると、久須美調教師はゆっくりと阿栗に向き直る。
「すんませんな、阿栗さん。何かこう考えることが多くなると、かえってボーっとしてまうもんなんですな。
申し訳ありません、今日はちょっと考え纏めれませんわ」
ウエイトレスが注文したコーヒーを運んできて、二人の前に並べる。
久須美調教師は自分のコーヒーに砂糖壺から何杯も砂糖を注ぎ、かき回しながら言う。
「とりあえず、東海ゴールドカップの出走登録の締め切りにはまだ時間あります。そっちの出る出ないはまだええでしょう。
有馬記念も、中央馬として参戦するのであれば急いで動かなあきませんが、JRAが特例認めてくれるなら急がんでも成り行き見とくしかありませんし。
今日のところはちょっと考えさせてもらっていいですか」
久須美調教師は、傍から見ても甘ったるく胸の焼ける味が想像できるコーヒーをグビリと飲んで平然とそう言った。
「わかったわ、久須美さん。ワシもちょっと考えてみるわ」
阿栗は何か久須美調教師に
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