第71話 表敬訪問後の会談
12月1日の朝、調教後に久須美調教師は中日スポーツに目を通していた。
1面は中日ドラゴンズの選手の契約更改。優勝したためか景気の良い数字が躍る。
2面3面も中日ドラゴンズがドラフト1位2位指名した今中と大豊の動向などが載っている。
公営競技面に掲載されている東海公営の名古屋開催の情報を見ようと紙面をめくる久須美調教師だったが、中央競馬の面で手が止まる。
そこに書いてあるコラムの中にアグリキャップの文字を見つけ、目が留まったのだ。
『
中間発表の1位は現役最強馬と誰もが認める天皇賞春秋と宝塚記念を勝ったタマナクロス。2位はクラシックは故障に泣きながらも秋に古馬GⅠマイル
先週のジャパンCを地方公営所属で勝ち取る偉業を成し遂げた笠松競馬の4歳馬アグリキャップ。ジャパンC終了直後からアグリキャップの馬名が記入された投票が数万票にも上っているというのだ。
ご存じの通り有馬記念は地方公営馬の出走は規定されていない。
だがジャパンCで日本の現役最強馬タマナクロスと凱旋門賞馬トミービン、伏兵ウィズザバトラーを破って優勝したアグリキャップには、中央競馬の一年を締めくくる有馬記念に出走する資格が十分にあると数万の競馬ファンは認めたのだ。
有馬記念ファン投票は投票者の住所と氏名の記載が無いものは無効とされているため、決してファンの熱意は冷やかしなどではない。
僅か4日間で数万票の支持を集めたと噂されるアグリキャップ。投票締め切りの12月5日までどこまで投票数が伸びるのか、そしてその結果をJRAがしっかり発表してくれるのか、注目が集まる。
JRAがファンの熱意を汲んでくれることを期待したい。(競馬記者M)』
競馬記者Mは、確実に前田記者だろう。
約束の通り馬主の阿栗の名も久須美調教師の名も書いてはいない。
その点に久須美調教師はホッとした。
まあ、この程度なら単なる一記者の希望的観測をコラムに書いただけとも言える。
まさかJRAがいきなり地方馬の出走を認めるなどということは無いだろう。
「
おそらく中日スポーツを読んだと思われる休み明けで今日から出勤した毛受が久須美調教師に訊ねる。
「ありゃ、前田記者の願望や。いきなりそんな特例、JRAが認める訳ないやろ」
「そりゃそうですけど。ただ、もし阿栗さんの中央馬主登録申請が今日明日か来週アタマくらいに届いたとして、キャップがすぐ中央の厩舎に所属するとしたら、有馬記念に中央の馬として参戦できるんじゃないですかね」
久須美調教師もその可能性を考え、昨日の夕方に阿栗に掛けた電話で調べると伝えてはいた。
ただ、笠松競馬所属調教師の自分とは全く縁のないレースのことでもあり、どうしたものかと思案していた。
おそらく中央競馬も笠松と同じように、他地区からの転入馬については登録しても一定の期間検疫のためレースに出走せず様子を見なければならない筈だが……
それと同時に有馬記念の出走に至るまでの流れも知らないといけない。
「毛受、有馬記念の出走馬って、どんなステップで決まって来るか知っとるか?」
「いや、ちょっと詳しくはわからないですね。とりあえず12月5日までがファン投票受付期間で、ファン投票の結果発表が12月9日だったような気はしますが」
「そうか……毛受、後で手が空いたらウインズ名古屋まで行って、有馬記念のファン投票ガイド、貰って来てくれんか」
「わかりました」
とりあえず、有馬記念の出走ステップだけでも確認しとかんとな、と久須美調教師は思った。
12月2日(金)、阿栗孝市と久須美調教師は共に岐阜県庁に出向いていた。
午後1時半を僅かに過ぎた時間、岐阜県庁の総合受付前で阿栗孝市と久須美征勇調教師は落ち合い、総合受付に来訪目的を告げる。
総合受付の女性職員は電話でどこかに確認を取ると、少々お待ちくださいと言われしばし受付横で待つことになる。
久須美調教師は待っている間に阿栗に有馬記念の出走について話しておこうか、と口に出そうとしたところで意外に早く、おそらく秘書課の女性が迎えに来た。
秘書課の女性に案内され、阿栗と久須美調教師は応接室のようなところに通される。
ここで待つように言われたため阿栗と久須美調教師はしばし待つことにした。
「阿栗さん、中央の馬主資格、来ましたか」
「いや、まだや。今日の昼家に一度戻ってみたが、まだ着いとらん」
「そうですか……実は有馬記念の出走までの流れについてなんですが」
久須美調教師はざっと有馬記念の出走ステップについて阿栗に調べたことを話す。
12月5日(月)ファン投票締め切り
12月9日(金)ファン投票結果発表
12月11日(日)第1回特別出走登録
12月13日(火)推薦馬決定
12月23日(金)第2回特別出走登録
12月25日(日)有馬記念競走当日
となっている。
そしてJRAも地方からの転入馬は入厩前に入厩検疫を受け、15日間の入厩期間を過ごし発走審査を受けないとレースに出走できない、ということを説明する。
「てことは、どうゆうことなん、久須美さん」
「来週中、ギリギリ12月9日までに誰か中央の調教師の厩舎と預託契約して入厩して、12月11日の第1回特別登録で出走の意思表示が出来れば、15日間の入厩期間をクリアしてキャップは中央馬として有馬記念出走できる可能性が出て来るっちゅうことですわ」
久須見調教師がそこまで阿栗に話したところで、阿栗たちの居る応接室の扉がノックされ、50代の男性が入室してくる。
「ああ、西沢事務局長やないですか」
入って来た男性を見て久須美調教師が声を掛ける。
「阿栗さん、初めまして。岐阜県地方競馬組合の事務局長をしております西沢と申します。今日は知事への表敬訪問、私もご一緒させていただきます。よろしくお願いします。
久須見さんもお疲れさまです。
では、時間になりますので私の後に付いてきてください、ご案内します」
西沢事務局長の後に付いて行く阿栗と久須美調教師。
知事室は同フロアでありすぐに着く。
西沢事務局長に柔らかく促され知事室に入室すると、岐阜県知事の
知事室内には知事の秘書らしき男性が2人と、他にカメラを持ち腕章を巻いた記者たちが数人既に入って待っていた。記者は地元の岐阜新聞の他、岐阜新聞とは犬猿の仲と言われる中日新聞の腕章をつけている。
阿栗と久須美調教師は戸惑ったが、西沢事務局長が阿栗たちをリードし、ソファのテーブル越しに挨拶と紹介をしてくれる。
阿栗と久須美調教師は、西沢事務局長の紹介に合わせて挨拶をするだけで良かった。
植松知事に差し出された名刺をもらい握手を交わすと、新聞記者たちがフラッシュを焚き写真を撮る。
その後植松知事に着座を勧められたためソファに座った阿栗と久須美は、植松知事に問われるままにジャパンカップ出走に至る経緯や、アグリキャップの逸話などを話した。
岐阜県知事を3期12年務めた植松知事は73歳。すっかり髪は白くなっているが、激動の時代の県政の舵取りを行っていただけあって言動ははっきりしている。
だが、この表敬訪問中は好々爺然とした柔らかな受け答えをしている。
「そうそう、実はスポーツ分野で県民に誇れるような成績を収めた人物や団体を表彰する制度というのが今まで県に無かったんですな。それでこの度『岐阜県スポーツ栄誉賞』という表彰制度を設けようと思っとるんです」
植松知事が笑顔でそう話す。
これはキャップに第1回目の受賞を考えとるっちゅうことなんか? と阿栗は考えた。
ただ、今後のことを考えるとキャップは笠松競馬から中央競馬に転籍させざるを得ない。
となると、ここで『岐阜県スポーツ栄誉賞』を受けてしまうことはキャップにとって枷になりかねない、と阿栗は思った。
やんわりと辞退した方が無難だ。
「はあ、それはスポーツに取り組む関係者にとって励みになりますな。キャップもまだこの先がありますから、引退した時に受賞できるように調教師の先生方や騎手の皆さんと一緒に励みたいと思います」
阿栗がそう答えると、植松知事は一瞬笑顔が固くなったが、瞬時に表情を戻す。
「阿栗さん、久須美さん、これからも県民の励みになるような活躍を期待しています」
植松知事のその言葉を汐に、西沢事務局長に促され阿栗と久須美調教師は知事室を退室した。
その後、西沢事務局長に再度元いた応接室に案内される。
「すみません阿栗さん、久須美さん、お話したいことがありますので少々お待ちいただいてよろしいですか」
西沢事務局長はそう言うとまた応接室を出ていく。
阿栗と久須美調教師は応接室で二人きりになったため、ソファーに座る。
二人とも緊張が解けた。
「いや、何と言うか光栄なことではあるが、どうも肩肘張ってしまっていかんな」
「確かにそうですわ。普段県庁なんか殆ど来る機会無いですからな。お茶出されても緊張で殆ど口付けられませんでしたわ」
久須美調教師はネクタイを緩めたいと思いつつも、この後西沢事務局長から何事か話があるようなので我慢する。
「しかし阿栗さんも、これからジャパンカップ優勝のパーティ開いたりせなあきませんし、大変ですな」
「ああ、そっちは妻に丸投げしたわ。妻もキャップのお陰で馬主業に理解示してくれるようになったしな。隠れてコソコソやっとった時より気持ち軽いわ。妻も乗り気のようやし」
「それは何よりでしたな」
阿栗と久須美調教師がそんな話をして待っていると、応接室の扉がノックされ、西沢事務局長が扉を開け、二人の人物を中に入れる。
阿栗と久須美調教師も立ち上がる。
「阿栗さん、久須美さん、お待たせして申し訳ありません」
西沢事務局長がそう言って二人の人物を応接室内に通した後で扉を閉める。
そして二人を紹介する。
「こちらが
紹介された副知事と笠松町長が阿栗と久須美調教師に名刺を渡し、挨拶する。
「
「笠松町長の広重です。笠松の名を全国に広めていただき感謝しております」
「お二人は岐阜県地方競馬組合の理事長と副理事長です。私の上司に当たります」
西沢事務局長がそう説明した後、お座りください、と阿栗と久須美調教師に着席を勧め、阿栗と久須美調教師がソファに座ると副知事らも座った。
「阿栗さんに久須美さん、今日はわざわざ知事に表敬訪問していただきありがとうございます。アグリキャップのジャパンカップ制覇は、笠松競馬のイメージアップに繋がる快挙でした」
西沢事務局長がそう述べる。
「どうしても競馬=如何わしいギャンブルという固定観念は拭えておりませんからな。実際は売り上げから県や町に納付された公営競技納付金を道路や病院整備のため発行した地方債の利子原資にさせていただいていますし、畜産の振興にも役立てています。
今回のアグリキャップの快挙は、こうした地方競馬の社会貢献の面を広く県民に訴求する効果が期待できます。これを機に、地方競馬の健全な娯楽としての面もアピールしていく良いきっかけにしていきたいと考えています」と加地原副知事。
「JRAも競馬を従来のギャンブルからレジャーとして楽しんでもらう方向でイメージ戦略を取ろうとしているようですからな。それに乗っかるようですが、休日にのんびり過ごせる場所として、賭けについても馬を応援し、社会貢献するという意味合いで健全に楽しんでもらえるようにしていければいいと思うのです」と広重笠松町長。
「はあ、それは結構なことです。ワシも元々馬主んなったのは、笠松競馬を盛り上げたいっちゅう気持ちから、でしたから」
阿栗がそう返答する。
「笠松競馬の来場者と売上はここ数年横這いです。まあ堅調と言えなくもないんですがね。名古屋競馬の約7割というところなんです。
それを踏まえて阿栗さんにお願いしたいことがあるのですが」
西沢事務局長がいよいよ本題を切り出すようだ、と久須美調教師は感じた。
「アグリキャップを、12月30日の東海ゴールドカップに出走させて頂けませんか」
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