第70話 久須美厩舎の取材
11月30日(水)、朝の調教を終えた久須美厩舎には多くの取材陣が訪れていた。
笠松競馬所属のアグリキャップの中央GⅠジャパンカップ制覇という中京地区にとっての偉業を取材し、夕方の情報番組などで特集しようと地元TV局の東海TVや中京TV、名古屋TVなどの取材陣が訪れていたのだ。
アグリキャップがジャパンカップに勝った直後から久須美厩舎には取材申し込みの電話が殺到していたが、久須美調教師は笠松に戻ってから取材日を今日ということに調整して折り返し連絡していた。
調教助手の毛受、厩務員の川洲も本来であればジャパンカップ後の休暇の予定だったが、取材が入ることを久須美調教師が二人伝えると、休暇中にも関わらず取材の時間には厩舎に二人ともやって来ていた。
「何やお前ら、調子ええな」
久須美調教師が揶揄うように二人に言うと、二人は誤魔化すように笑う。
久須見調教師も二人を茶化しつつもわざわざ二人に連絡をしたのは、理由がある。
普段はあまり世間に認められることのない、どちらかと言えば如何わしいギャンブルに関係する職業というマイナスイメージを世間からは持たれている地方競馬を支える仕事に、やっと陽の目が当たる晴れの機会。そこには苦労をかけた二人を招かない訳にはいかないという心情からだった。
取材陣に普段の仕事の内容などを聞かれて訥々と答える二人。だが言葉は熱を帯びている。
自分が関わってきたアグリキャップが多くの人の注目を浴び、その世話をする自分たちの仕事に関心を持ってもらえるということが二人は嬉しいのだろう。
久須美調教師は二人の受け答えを聞きながら、もう一日、どこかで二人に休みをやらないといかんな、と思った。
二人とともにTVカメラに映る馬房の中のアグリキャップは、普段とは違った久須美厩舎のざわついた雰囲気に動じることはなくいつも通り平然としており、時折川洲にじゃれつくような仕草を見せ、飼葉をねだっている。
キャップのこの図太さよ。
これくらいの馬でないと、観客の大声援に動じず中央GⅠを取ることなんで出来んのやろうな。
久須美調教師は、こうしてアグリキャップに感心しつつも、アグリキャップをここで預かれるのは後どれくらいの期間なのだろうか、と頭の片隅で思い、一抹の寂しさを感じた。
「おう、前田くん、調子どうや、デスクから金一封貰ったか」
TVの取材が終わり地元TV局のスタッフが去った後、中日スポーツの前田記者が久須美厩舎に立ち寄った。
前田記者は厩舎に姿を現すタイミングが良い。いつも久須美調教師がある程度手の空いたところを見計らって現れる。
つい久須美調教師も声を掛けたくなってしまう。
「久須見
「そうか。まあ金一封出した方が安くついたんちゃうかってデスクに思わせるくらい浴びる程飲んだったらええわ。
ほんで今日はどないしたん?
今週来週の名古屋開催には今んとこウチの厩舎から馬出す予定は無いけどな」
「いや、アグリキャップが気になって」
「ああ、獣医の先生に見てもらって故障はしとらんのは確認できたわ。馬主の阿栗さんにも報告はしとる。だが次戦についちゃ白紙や。とりあえずと言っちゃ何だが、曳き運動程度で疲労抜くことに専念しとるよ」
「そうですか……久須美
「おう、何や? 面白い話なん?」
「僕らにとっては面白い話ですが、久須美調教師たちアグリキャップ陣営にとってはどうでしょうか……」
「何や、勿体ぶるなあ」
「……東京中日スポーツの記者が知り合いのJRAの職員から聞いたみたいでJRAが正式に発表してる訳じゃないんですが。
中央競馬の有馬記念、出走投票で出走馬が選ばれるんですが、投票用紙にアグリキャップの名前を書いて投票する人が随分いるそうなんです。
中央競馬の競馬場や場外馬券売り場のウインズに置いてある有馬記念投票用紙や備え付けはがきに出走させたい馬を10頭記入して投票するんですが、投票者の住所氏名も書かないと無効になるんです。
無効もそこそこあるそうなんですけど、きちんと住所氏名を記入した投票用紙でアグリキャップの馬名を書いてある票、なんとこの3日間という短い期間でもう数万票近いらしいですよ」
「ホンマか、それ。凄いな。初耳や」
ジャパンカップの1戦だけでアグリキャップを日本全国の競馬ファンがそこまで高く評価してくれていることに、久須美調教師はただただ感嘆した。
「それがホンマなら……光栄なことや。有難いな」
「ええ、競馬ファンの物凄い熱量だと思います。
一応投票用紙と一緒に配られているファン投票ガイドには、中央のオープン馬で出走可能な馬に番号が振られた一覧が掲載されていて、故障などで出走が難しい馬は除外されています。基本的にはその中から選ぶようになっているんですが……一覧に名前の無い馬の投票も可、とは書いてあるんです。
ただ、JRAはこのレースを公営馬に門戸は開いていません。だからアグリキャップの名前を書いた競馬ファンの熱量を込めた投票はアグリキャップの分だけは無効になっています……久須美調教師、これについてはどう思われますか」
「どうって……有難い話やが、人様の
「確かに、そうですね。ただ、もし万が一ファンの熱量がJRAを動かして、アグリキャップが有馬記念の出走馬に選ばれたとしたら、阿栗さんは出走を決意してくれると思いますか」
「そら、わからん。阿栗さん次第や……っちゅうか無理やろ、そんなの。ただでさえ地方にか細い門戸しか開けとらんJRAが、年末の権威あるグランプリレースに地方馬を出走させる訳ないわ。自分らの権威に関わる話やで?」
「……しかし、これだけ多くのファンの声を無視していいものでしょうか。
ファンあっての競馬だと私は思うんです」
「そらそう、確かにそうや。ファンあっての競馬や。馬券の売り上げが無かったら、ワシらみんなおマンマの食い上げんなる。そりゃワシもようわかっとる。
ただな、前田くん、ワシから何か言質取りたいって思っとるんやったら、それは困る。
当事者として何か言ったことが報道されようもんなら、今後キャップが笠松で走るにしろ中央移籍するにしろ、絶対にどっかしらに禍根が残ることんなってまう」
「……済みません、記者として久須美調教師の言質を取ろうとした訳じゃないんです。
単なる一競馬ファンとしての気持ちです」
「……なら、ええよ。まあその件に関しては有難い以外に言える事はないわ」
「わかりました。ただ、私自身はアグリキャップに有馬記念の舞台に立って走ってもらいたいと思っています。
久須見調教師や阿栗さんに迷惑が掛からない程度にこの件は記事やコラムに書きたいと思っていますが、よろしいでしょうか」
「……絶対に、ワシんとこや阿栗さんの名前や、こうして話しとる言葉なんかは記事にして出さんでくれ」
わかりました、と言って前田記者は久須美厩舎を立ち去った。
夕方近くになって、久須美厩舎に1本の電話が入る。
厩舎に残っていたスタッフが電話を取って、久須美調教師を呼ぶ。
「
「事務局長て? 地方競馬組合のか?」
「はい、そうです」
「わかった、替わるわ」
久須美調教師が電話を替わる。
「もしもし、久須美です」
「久須美さん、岐阜県地方競馬組合の事務局長の西沢です。この度の快挙、おめでとうございます」
「はあ、ありがとうございます」
「いやー、私は休みだったもので日曜日は自宅で観戦しとったんですが、アグリキャップ、強かったですな! あの米国馬に食らいつき、ハナ差交わしたと発表された時は、思わず自宅の居間で飛び上がってしまい、妻や娘に呆れられてしまいました」
岐阜県地方競馬組合とは、笠松競馬を実質的に運営する岐阜県、岐南町、笠松町が出資する一部事務組合である。
そこの事務局長とは、実質的に笠松競馬を運営する組織の長である。
久須見は笠松帰着後次の日、28日の月曜日にレースの合間を縫って笠松競馬敷地内にある岐阜県地方競馬組合事務所に赴いて、西沢事務局長にも報告は済ませていた。
今、西沢事務局長が電話で言っていることは、月曜日にも久須美調教師は事務局長自身から直接聞いていた。
今更、同じ祝福繰り返すつもりなんか? と久須美調教師が訝しく思ったところ西沢事務局長は言葉を続ける。
「それでですね、県の方にも笠松所属のアグリキャップのジャパンカップ制覇を私の方から報告しましたところ、是非久須美調教師と馬主の阿栗さんに知事を表敬訪問してもらって、ジャパンカップ優勝の報告をして欲しいということなんです」
「へ? いや、そうせなならんもんなんですか」
「いや、当然強制ではないんです。ただ、競馬も広い意味でスポーツに分類されるものですから、顕著な成績を収めたということで知事が是非お会いしたいとのことでして。
阿栗さんの方にも私から連絡いたしまして、急ではありますが明後日12月2日の午後2時、県庁の知事室までお越しいただけるとお返事をいただきました。久須美さんも阿栗さんと一緒に是非お願いしたいのですが」
西沢事務局長がそこまでお膳立てしてくれているのなら、久須美調教師に否やは無い。
「わかりました。明後日の午後2時でいいんですな」
「はい、その時間前に県庁の総合受付で知事に表敬訪問に来たと伝えて頂ければ係の者が案内してくれますので。
あ、恰好は一応背広を着て革靴で来てもらった方がいいですな」
「わかりました」
「急で申し訳ありませんが、よろしくお願いします」
そう言って西沢事務局長の電話は切れた。
「まーた、肩肘張る恰好して偉い人んとこ行かにゃならんのか」
久須見調教師はついそう言ってぼやく。
「ええやないですか
厩舎スタッフがそう言って久須美調教師の前に茶の入った湯呑を置く。
「アホ! 背広に着られるのが嫌なんや」
久須美調教師が湯呑に口を付けながらそう答えると厩舎スタッフは久須美調教師の
久須美調教師は湯呑の茶を半分程飲んで口を湿らすと、阿栗孝市の会社に電話を掛けた。
阿栗の会社の受付嬢に名乗り、社長の阿栗孝市さんをお願いしますと伝えると、すぐに阿栗が出る。
「はい、阿栗です」
「阿栗さん、久須美です」
「おう久須美さん、どないした? キャップの体調、悪くなったんか?」
「いや、キャップは元気ですよ。先日お伝えした通り獣医の先生に診てもらっても脚元は何ともないですし、今日もTVの取材がようけ来とったんですが、キャップは平然といつも通りにしとりました。
阿栗さん、県知事んとこ表敬訪問行く話、聞いとります?」
「おう、今日の昼くらいに地方競馬組合の事務局長さんから電話あって、聞いとる。明後日の午後2時やろ」
「そうですそうです。どうしましょ、県庁で落ち合いますか」
「そうやな、午後1時半過ぎくらいに県庁の受付前で落ち合おうか」
「なら、そうしますか。ところで阿栗さん、中央の馬主資格の通知、もう来てますか」
「いや、まだ来とらん。まさか落ちたっちゅうことは無いとは思うんやけどな」
「そうですか……通知来たら真っ先教えて下さい。まだレース後でキャップもクールダウンの段階なんでええっちゃええんですが、次戦が中央んなるにしても、次に受けてくれる調教師さんと打ち合わせんことには、どんな状態でキャップを送り出したらええかわかりませんでな」
「わかった。通知が来たらすぐ久須美さんとこ連絡するわ」
「それと、スポーツ新聞の記者からちょっと小耳に挟んだんですが、どうも中央年末の有馬記念のファン投票、キャップの名前書いた投票が結構な数、JRAに寄せられとるそうですよ」
「ホンマに?」
「ええ、噂ですけど数万票寄せられとるそうですわ」
「そりゃ、有難いこっちゃな。ただ、出れるもんなん?」
「いや、現状やと無理でしょう。中央の所属馬に限定されとりますから。ただ、中央の馬主資格の登録を最短で行って中央の預託厩舎も最速で決めれば、もしかしたら可能性あるんかも知れません。ワシもちょっと調べてみようとは思いますが……
そんで阿栗さんにちょっとお願いしときたいことがあるんですが」
「何やの? 久須美さん」
「阿栗さんとこも新聞やら雑誌やらの取材の申し込み来とると思うんですが、取材で有馬記念出走のこと聞かれても、何か方針めいた話はせんといて欲しいんです。
多分メディアに利用されるだけで、方々から煙たく思われるだけんなりますから」
「……わかったわ、受け答えは慎重にしとくわ」
「ええ、よろしくお願いします。では2日の午後1時半、県庁でお会いしましょう。もしキャップに何かあったら、すぐ連絡しますが」
「おう、キャップに何もないこと祈っとくわ」
阿栗との電話を切った後、久須美調教師は溜め息を付いた。
とりあえず東海ダービーからこっち、ジャパンカップを大目標にしてきたが、それを最良の結果で達成した後のことまでは考えていなかった。
久須美調教師にとっても初めての挑戦であり、ひとつでも上の順位に来てほしい、その一心で無我夢中で目の前のことだけに取り組んで来ただけなのだ。
優勝するなど現実的に考えていた訳ではない。
ましてやその後のことなど。
いかんな、馬主さんに次の指針をしっかり示さんといかんのに。
……そろそろキャップは、ワシの手に余る大きな存在になってまった気がする。
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