第69話 阿栗孝市の憂慮




 ジャパンカップ口取り式のあと、久須美調教師がポケベルを確認すると久須美厩舎からの電話が数件入っていた。


 メディアの取材を終えて出張馬房に戻った久須美調教師が久須美厩舎に連絡を入れると、ずっと話し中でなかなか繋がらなかった。

 ようやく繋がり留守を守る厩舎スタッフに何かあったかを確認すると、厩舎スタッフは悲鳴を上げるように「馬主さんや関係者からの祝福の電話と、地元メディアからの取材依頼が止まらず対応でてんてこ舞いになっている」とのことだった。

 預託馬への影響を考えて明日まで留守電に切り替えて着信音が鳴らないようにし、留守電応対のメッセージに調教師不在のため後日連絡するように入れておけ、と久須美調教師は指示して電話を切った。

 競馬に疎いメディアは真夜中でも電話してくる可能性がある。


 まったく、えらいことを成し遂げてしまったもんや。


 久須美調教師は改めて実感した。





 阿栗孝市は、ジャパンカップの口取り式の後、取材陣に囲まれた。

 自分でも何を喋ったのか覚えていない。

 喜びについては、とても言葉では言い表せない。

 とにかくアグリキャップと久須美調教師、騎手の刑部行雄、生産者の稲穂牧場に対する感謝を述べていた気がする。


 その夜のスポーツニュースはホテルの部屋で眠たがる妻を尻目に、阿栗は各局をはしごして視聴した。

 馬主の自分のインタビューなどはほぼ映っておらず、騎手の刑部行雄の「とにかく馬の良いところを全て出せてホッとしています」というはにかんだような笑顔を見るだけでも喜びは尽きなかった。

 その後、稲穂牧場の従業員の布津野顕元とホテルのロビーで少し話をし、互いにアグリキャップの勝利を喜んだのだが、何故布津野と2人だったのかは覚えていない。

 どことなくミステリアスな布津野顕元と一度じっくり話してみたかったので、たまたまロビーで出会った布津野と話したのだろう。楽しい時間だった。


 明くる朝、阿栗はホテルのロビーで片っ端から新聞を読んだ。

 スポーツ紙はプロ野球がオフで、ドラフト会議も24日の木曜日だったため、1面を飾ったのはアグリキャップの地方馬初のジャパンカップ制覇だった。

 阿栗のコメントも短く載っていた。


『信じられないほど嬉しい。地方競馬を盛り上げようと馬主になったが、こんな凄いことを成し遂げてくれる馬に出会えて光栄。騎手、調教師、生産者に感謝しかない』


 まあ、そうなんやけど、抽出したらこんなもんか。


「あなたのコメント、悪くないじゃないですか」


 前に座った阿栗の妻が一般紙に目を通しながら揶揄うように言う。


「喜びはどうしても言葉にすると上手く伝わらんもんやな。ホンマはワシの嬉しさ、こんなもんやないんやけど」


「そういうものでしょう。でも周囲に対しての感謝をしっかり口に出しているところは、貴方らしくなくて良いですよ」


「おまえ、ワシのことどう思ってるんや」


「ふふふ。いつまでも頑固で意地っ張りで、言葉少なで……内の思いやりだとか優しさとかをもっと直に言葉に出してくれればいいのに、って思ってますよ」


「……おまえにはかなわんな」


 コーヒーを飲みながら阿栗と妻が新聞を読みつつそう話していると、抑えめだが元気な声がかかる。


「阿栗さん、奥さん、おはようございますっ」


 阿栗が新聞から顔を上げると、富士田彩と榊原直子の二人である。

 阿栗たちの姿を見かけたのか挨拶にやってきた二人は荷物を持っており、チェックアウトを済ませた様子だった。


「おう、おはよう、富士田さんに榊原さん。何やもう名古屋へ戻るんか?」


「はいっ、一応午後の講義には出ようと思ってるのでっ」


「阿栗さん、昨日はお食事もご一緒させていただいた上にお部屋まで取って頂いてありがとうございました。それに、昨日は差し出がましいお願いもしてしまって……申し訳ありませんでした」


「ああ、別に気にせんでもええて。富士田さんの気持ちもわかるでね。ただ、まだ何とも言えんっちゅうのは解って欲しい」


「はい、承知しています……では、これで失礼致します」


「有難うございましたっ、失礼します」


「おう、くれぐれも道中気ぃつけてな」


「彩さん、またチャリティーにも顔をお出しくださいね」


 富士田彩と榊原直子は阿栗夫妻に挨拶をして立ち去った。


「……ああいう若い女の子と話す機会って、なかなか無いから昨夜は楽しかったわ。二人ともいい子だったわね、あなた」


「まあな。富士田さんにあんないいお孫さんがいたのは知らんかったわ」


「彩さんが昨日言ってたこと、あなたどうするの」


「それはまだ決められんて。まだ久須美さんとも話しとらんし」


「中央馬主資格もまだわからんし、ですか」


「そうや。まだキャップの次の舞台を決められる状態やない」


 昨夜の会食時に富士田彩は「アグリキャップをもう1戦だけ、笠松のレースに出して下さい」と阿栗に頼んだ。

 富士田彩は、自身の祖父の馬であるトミトシシェンロンにアグリキャップとの再戦機会を作りたいと考えているようだった。


「シェンロンも、笠松代表として水沢での地方4歳の頂点を決める戦いに挑んできました。3着でしたけど、春に比べて力は付けていると思うんです。

 アグリキャップの笠松ラストラン、東海ゴールドカップにしていただけませんか。

 ジャパンカップを勝ったアグリキャップを今更笠松で走らせる意味なんて、阿栗さんにとっては無いかもしれません。

 でも、笠松に残された馬と馬主にとっては、自分の馬が中央GⅠを勝った馬とどれだけの勝負ができるのか、中央との距離を計る貴重な機会になるんです。

 その機会を私のお爺さまたちに下さい」


 富士田彩はワインを呷り酔ったでそう言った。

 だが、おそらくそこまで酔っていた訳では無く、酔ったふりだろうと阿栗は見ていた。


「まだ中央にあの子アグリキャップを移せると決まった訳ではないんでしょう? なら彩さんのお願いを聞いてあげたっていいんじゃありませんか」


「……ワシも、最後にキャップの走る姿を笠松の皆様にお見せしときたいっちゅう気持ちはある」


「なら……」


「ただ、こればっかりはワシの希望通りに行くかっちゅうと、わからん。

 昨日はキャップの脚、何とも無さそうやって久須美さん言うとったけど、笠松戻って見たら故障が見つかるっちゅうこともあり得る。当たり前やけどキャップも生き物やからな。

 それに……あと笠松で出せるレースと言えば確かに富士田さん言うとったように東海ゴールドカップんなる。

 でも、東海ゴールドカップ出すとなると、キャップの背負う斤量はえらいことになるハズや」


「斤量って?」


 妻に聞き返され、阿栗は虚を突かれた気分になる。

 そうか、そう言えば妻には負担重量のことは伝えてなかったか。

 一緒に東海菊花賞とジャパンカップを観戦したから、何となく妻も知っているものだと思っていた。


「斤量っちゅうのは、馬に乗る騎手の重さのことや。

 一緒の距離を走るとして、重い物持って走るのと軽い物持って走るのと、どっちが速いと思う?」


「そりゃあ軽い物持って走る方が速いでしょう」


「そうや。だからレースによって馬に乗る騎手の重さが決められとるんや。

 昨日のジャパンカップの場合やと、定量制っちゅうて馬の年齢によって騎手の重さが決まっとる。

 成長がピークを迎える5歳以上の馬は57kg、キャップのように成長し切っとらん4歳馬だと2㎏引かれて55kgなんや。昨日は出とらんかったが一般的に男馬に比べて非力とされとる牝馬も-2㎏んなる。

 で、東海ゴールドカップ……に限らず東海公営の古馬の重賞の多くはハンディキャップ制や。

 強い馬は重い斤量で、そうでもない馬は軽い斤量で騎手が乗るようになっとる」


「その強い弱いって、どう決まってるの? レースの成績?」


「ああ、具体的にはそれまでの獲得賞金額で決まる。

 キャップは昨日のジャパンカップで9千5百万を積んでまった。正確に覚えとらんけど1億7千~8千万くらい行っとる。

 おそらく、東海菊花賞でキャップを負かしたフェートローガンより獲得賞金額は多くなっとるはずや。多分斤量は60kgを超えてくると思う。

 そうなると、芝より脚の負担が少ないダートでも、相当キャップは疲れてまうし、故障してまうかも知れん。

 キャップの今後を考えると、どうしても決めきれんわ」


「……そうなのね。勝てば勝つほど東海公営では勝つのが難しくなるし、怪我もしやすくなっちゃうのね」


「……そうや」


 阿栗は、故障した馬が重篤で治る見込みがないと診断された場合、その場で安楽死させられることを妻に言おうか迷い、口にするのを止めた。

 阿栗自身も所有馬が予後不良の診断をされ、安楽死処分された経験をしている。

 愛馬を救う手立てがなく見送る辛さを妻が知るのはまだ早いだろうと思ったのだ。


「……だからキャップを中央へ移籍させるんは、キャップのためでもある。中央なら定量制の重賞レースもけっこうあるからな」


 阿栗はこの話をそう締め括ろうとしたが、妻はまだ聞きたいことがあるのか話を続ける。


「でもあなた、騎手の人って凄いわね」


「確かにな、結構なスピードで走る馬の上に腰も下ろさんとつま先だけで体重支えて、あんな低い恰好で何分も上に乗っとるんやからな」


「ええ。それに、1日に何レースも乗ってレースで乗る馬ごとに体重変えなきゃいけないんでしょう? 次のレースの馬に重い体重で乗らないといけない時は、レースとレースの間に沢山食べたり水飲んだりするのかしら? 減らすのは馬に乗るのは大変そうだから減りそうだけど……でも水っ腹であんな頭を低くした姿勢を取ると、お腹の中のものが出て来そう。それを我慢するの大変よね?」


 阿栗は妻にまたしても虚を突かれる。

 そして、笑い出しそうになるのを堪える。


 そうか、騎手は体重を一定に保って、レース毎にくらやプロテクターに重りを入れて負担斤量になるように調節することを妻は知らんのやな。

 騎手が1日のうちで飲み食いしてレース毎に体重を変えるもんやと思っとるんや。


 今後のことで少し重い気分になりかけた阿栗だったが、妻の天然ぶりに癒される。


「そうや、騎手の人はホンマに大変なんやで」


 阿栗は笑いそうになる表情を引き締めながら妻に返答した。








 


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