第68話 稲穂牧場の喜び




 11月27日の夕方から夜にかけて、北海道三石郡三石町(現日高郡新ひだか町)の稲穂牧場は、アグリキャップのジャパンカップ優勝の祝福の電話がひっきりなしに続いた。

 多くは三石町近隣の、中小の牧場からの祝いが大半であった。


 牧場長の稲穂富士夫は電話の応対に追われ、富士夫の妻のシズ子は、電話ではまどろっこしいとばかりに稲穂牧場に直接祝い酒を持って訪れる近隣牧場の来客の対応に追われた。

 電話や来訪し祝福してくれる牧場の多くはGⅠ馬を出したことのない牧場が殆どで、半分やっかみつつも、同じく零細~中小規模の稲穂牧場からGⅠを勝つ馬が出たことで、うちの牧場でもいつかは、と言う希望をもらったという祝福が多かった。

 中には本桐牧場のように大正時代に創業しGⅠ馬を何頭か出している牧場からも祝福の電話があり、富士夫は恐縮した。


「お父さんお母さん、ハツラツのおかげデ嬉しい悲鳴でスネ」


 馬たちを放牧から馬房に戻し、母屋の事務所に顔を出したたセラフィーナ=ヒュッティネンが富士夫たちの様子を見て嬉しそうに言う。


「セラちゃん、馬房の方はもういいの?」


 シズ子がセラフィーナを見てホッとしたように言う。


「エエ、ワクイさんとモリさんに夜飼い付けはお願いシマシタ。マダ来て1か月とちょっとデスケド頑張って仕事覚えてクレてるからダイジョウブですヨ」


 そう言ってセラフィーナは近隣の牧場関係者が持って来た祝い酒などの祝いの品々を持ちあげる。


「お母さん、これ台所に運んでおきマスネ」


「セラちゃん、無理しないでいいわよ、私がやっておくから」


「お母さん、元気にナッタとは言ってモ、腰でも痛めたら大変デスヨ。ニホンのことわざであるじゃナイですか、『立ってるものは親でも使え』ッテ。

 私、元気ですからダイジョウブです。あと、夕食のジュンビも手伝いマスヨ。

 来客対応で忙しかッタでショ?」


 そう言ってセラフィーナは奥の台所まで贈答品を持って行く。


 電話対応を終えた富士夫が、残った祝い品を持つ。


「裕司が帰って来たら、方々に返礼品持って挨拶に回ってもらうように言わんといかんな。皆さん、我が事のように喜んで下さってる。有難いことだ」


「そうですね、本当に。裕司がこの牧場を継ぐって言ってくれた時に先行きが心配で反対したけれど、まさかこんな凄いことになるなんて……裕司には謝らないといけないわね」


「……それを言うなら、ワシだって同じだ。お前が倒れてから弱気になって牧場を畳もうと思い詰めていた。それを裕司が引き留めてくれた。あの時スマイルワラビーを一番信用していたのは裕司だ。裕司がいなかったらハツラツも生まれていなかった。

 ……だからお前、裕司が帰ってきたら、謝るんじゃなく感謝の気持ちを伝えてやろうじゃないか」


「……ええ、そうですね……そうしてあげましょう」


「裕司と布津野くんが戻る明日、本格的に祝おう。……でも、今日だって従業員たちと祝杯だ。湿っぽいのは従業員に、特にセラちゃんに心配されるぞ」


 富士夫とシズ子がそう言葉を交わしていると、台所からセラの声がかかった。


「お母さん、出してある鶏肉はドウしましょうカ」


 セラの声にシズ子が反応する。


「ザンギにするから、セラちゃん切っておいてくれる? 切ったら作っておいた漬けダレに漬けてね」


 シズ子はそう言いつつ富士夫を置いて先に台所に行く。


 まったく、家事はシズ子にとって生き甲斐だな。

 シズ子がここまで回復したのも、奇跡みたいなものだ。

 俺にとっての奇跡は、シズ子の回復だけでも十分だ。

 アグリキャップのジャパンカップは……全て裕司の手柄だ。


「帰って来たら、たまには裕司に浴びる程飲ませてやるか」


 富士夫はそう独り言ちてから、台所に贈答品を運んだ。


 台所ではシズ子とセラフィーナが実の親子のようにお喋りしながら料理を作っている。


 富士夫は木箱に入ったリンゴを木箱ごと持ち上げ、シズ子に声をかける。


「このリンゴ、もらってくぞ」


「あら、どうするんです、そんなに」


「ハツラツを産んでくれたワラビーにも、ご褒美をやろうと思ってな」


「お父さん、だったラ私も行きまスヨ」


 セラフィーナはそう言うと富士夫から木箱を受け取り、玄関に向かう。

 シズ子も手を洗い玄関に行く。


「なんだ、お前も行くのか」


「当たり前じゃないですか、ワラビーに感謝してるのは貴方だけじゃありませんよ。ほら、行きましょう」


 シズ子に促され富士夫も玄関に行き長靴を履く。


 わしが言い出したのに全く。

 皆、嬉しいんだな。


 昨夜降った初雪が朝は2㎝程積もっていたが、日中晴れたためほとんどが溶け、母屋から馬房までの道はぐちゃぐちゃになっている。


 その道を先に出たセラフィーナが一輪車に乗せたリンゴの木箱を馬房まで運んでいる。


 富士夫とシズ子が馬房まで行くと、10月中旬に新しく入った従業員の涌井忠と森茂雄が各馬房の水桶に水を入れている傍らで、セラフィーナが果物ナイフでリンゴを4つに割って芯を取っていた。


 セラフィーナは芯を取ったリンゴをまず富士夫に、次にシズ子に差し出した。


「ハイ、お父さんカラ、一番にワラビーにご褒美、あげて下サイ。次はお母さんデスヨ」


 富士夫とシズ子がそのリンゴを受け取ると、涌井忠と森茂雄は軍手をはめた手で馬たちを驚かせない程度の控えめながら熱のこもった拍手をする。


 富士夫はその拍手の中、スマイルワラビーに近づきリンゴを差し出した。


 スマイルワラビーは、富士夫の掌の上に乗ったリンゴにかぶりつき、甘さを堪能するようにシャリシャリと咀嚼する。


「ワラビー、お前はうちの守り神だ。本当に有難うな」


 富士夫はそう言いながらリンゴを咀嚼するスマイルワラビーの頭を愛おしそうに撫でた。




 次の日の夜、稲穂裕司と布津野顕元が戻った稲穂牧場では、就業員一同が揃ってささやかながら祝勝会を開いた。


 稲穂富士夫。

 妻のシズ子。

 稲穂裕司。

 布津野顕元。

 セラフィーナ=ヒュッティネン。

 涌井忠。

 森茂雄。


 7人である。


 シズ子以外の全員のコップにビールが注がれる。

 シズ子はウーロン茶であった。


「じゃあ、乾杯の音頭を裕司、お前が取れ」


「いや、俺じゃなくて親父が取るってもんだろう」

 

 富士夫の勧めを裕司が断るが、富士夫は重ねて言う。


「裕司、もうこの稲穂牧場を実質的に回してるのはお前だ。それにアグリキャップが生まれたのは、お前のおかげだ。あの時牧場を畳んでいたら、今日という日はなかった。ありがとう、裕司」


「そうだよ、裕司。苦労しかない牧場を継ぐって言い出した時は散々反対したけど、結果お前が継いでくれて、頑張ってくれたから今日、こうやって皆で喜べるんだよ。

 私も父さんも、本当にお前に感謝してるの。ありがとう、裕司」


「親父、おふくろ……」


「専務、専務がやってきたことを社長も副社長もずっと見てくれてたんですよ。そのお二人がこう言って下さるんですから、お願いします」


 布津野顕元がそう口添えすると、セラフィーナも「裕司さん、もウ裕司さんハ立派にコノ牧場の大黒柱デスヨ。自信もッテクレていいんデス」と肯定する。


「専務、愛知からフラッと流れてきたワシとシゲちゃん雇ってくれたのも、専務やないですか」


「そうですよ、馬に触ったこともない俺とワクさんに丁寧に仕事教えてくれているのも専務なんですから」


 涌井忠と森茂雄もそう言って口々に勧める。


「なあ、裕司、皆もこう言ってくれてるんだ。自信を持って乾杯の発声、やってくれないか」


 富士夫は優しい口調で裕司に伝える。


 裕司にも、皆の気持ちが沁みた。

 何より、父と母が自分をしっかり認めてくれて、言葉にしてくれたことが嬉しかった。


「ありがとう、親父、おふくろ……

 なら、僭越ながら乾杯の音頭を取らせていただきます。

 えーっ、稲穂牧場生まれとしての初の中央GⅠを制覇したハツラツ。

 ハツラツが生まれてくれたことで、この牧場を続けられています。ハツラツが生まれた時、右の前脚が曲がっていて自分では立てませんでした。それを見て俺は、絶望で目の前が真っ暗になりました。

 でも、親父は、そんな俺を叱咤し励ましてくれて……今日に至るまで、曲がった足を親父が削蹄で矯正してくれました。

 そして布津野くんとセラさんは、ハツラツが生まれてからずっと、気弱になりそうな俺を支えて一緒に世話をしてくれました。本当に有難う。

 ワクさんと森くんは、東海公営で走っていたハツラツを見て、この牧場に足を運んだのがきっかけで今、うちの牧場で働いてくれています。馬に触ったことがなかったそうだけど、やる気は見せてくれて、仕事も敷き藁を変えたり重労働なのに音を上げずに頑張ってくれています。

 そしておふくろは、一時期医者にも見放されていたのに回復してくれて、ここにいる私も含めた皆の生活を支えてくれました。俺やみんなが体を壊さずに仕事ができるのもおぶくろのお陰です、ありがとう。

 馬主の阿栗さんや久須美調教師、乗って下さった刑部騎手らのお力添えもあった上でのことですが、大仕事を成し遂げただけでなく、こうして縁を繋いでくれたハツラツに、皆で乾杯しましょう。

 乾杯‼」


「乾杯‼」


 裕司の発声に、全員がコップをカチンと合わせてグイッと飲み干し、やがて全員が拍手をする。


 富士夫は拍手をしながら、裕司はこれで一人前だ、と思うとじんわりと視界が滲んんだ。

 誰にも悟られないようにそっと人差し指で目頭を拭く。

 ふと見ると、妻のシズ子も富士夫と同じ気持ちだったのだろうか。

 隣のセラフィーナにハンカチを出され、受け取ると涙を拭っていた。




 その日の深夜。


 布津野顕元は、従業員寮代わりとなっている納屋の二階からそっと外に出て、月を見上げた。

 満月から1/4ほど欠けた月は、明るい。

 布津野はボケットからタバコを取り出すと、口に咥えて火を点けた。


「ケン、明日も早いのニ、寝なくていいんデスカ」


 いつの間にかセラフィーナが布津野の横にやってきて、小声で声をかける。


「アルコールで気分が悪いナラ、解毒魔法掛けましょうカ?」


「いや、せっかく皆と祝った勝利の美酒なんだから、解毒するなんて勿体ないよ」


 そう言ってタバコの煙をフフっと笑いながらゆっくりと吐き出す。


「セラは飲んだって解毒魔法で解毒出来るんだから、アパートに戻ったって良かったんじゃないか」


 布津野顕元とセラフィーナは三石町内にアパートを借りていて、普段はそこから稲穂牧場に通っている。無論部屋は別々だ。

 今晩は祝勝会でアルコールを飲んだため車の運転はさせられないと、従業員寮に泊まるように富士夫らに強く勧められたのだった。


「そんナ、お父さんお母さん裕司さんタチの好意を無碍にできマセン」


「……そうだよな、確かに。今回初めて稲葉……じゃなくて稲穂牧場でお世話になってるけど、皆いい人たちだ」


「ええ、本当に。ワタシ、ズッとここで暮らしてもいいッテ思ってマスヨ……」


「それもアリかな……セラにとっては」


「ケンはそうジャないんですカ? 私の居タ世界みたいナところが良いんでスカ」


「いや、もう生きるか死ぬかは懲り懲り。十分だよ、それはセラと一緒さ」


「そうですネ、もういいデスネ。……私もアノ世界には戻りたくナイです」


 二人は納屋の壁に背をもたれて言葉を交わす。


「ケンは……今回はどうするんですか」


 セラフィーナの問いに、布津野は無言でタバコをゆったりと吹かす。


「……前と変わらないよ、アグリキャップの可能性を見たい、それだけさ」


「ハツラツは前回も十分凄かったデスヨ」


「……そうだね。ただ、前回はおぐ……いや、阿栗さんから2歳の時に俺達が買い取ってクラシックを走らせたから……ちょっと介入が過ぎたよ」


「それで今回はこうして陰カラ支えるようにしたんですカ」


「そう。なるべく『力』も派手に使わないようにしてね。この世界の中で、この世界の人たちの中でのアグリキャップの可能性を知りたいんだ。

 ……もう既に人々に影響を及ぼしてしまってはいるけれど」


「モリさん、ワクイさんでスネ」


「まさかあの2人が稲穂牧場に来るとは思わなかったけどね」


「ケンはあの2人の記憶を『切り飛ばす』ことはしてなかったんですね。ぼんやりとケンの姿を2人とも覚えてました。

 でも、私の魔法でケンのことは忘れてもらいましたケド」


「うん、有難う、セラ。助かったよ。

 2人の『邪心』を切ったけど、あの夜の出来事を『切り飛ばして』忘れられてしまうと、自分達のやろうとした事の重さがわからないと思ってさ」


「今回、東京デ阿栗さんにはケンと私のこと、話シたんですカ」


「うん、佐梁から聞いて俺がアグリキャップを救ったってことがピンと来てたみたいだったから、一応は。

 ただ、セラから借りたマナの石を使って、疑いの部分は忘れてもらったけど。美山育成牧場にセラがいる時にマナの石を借りてれば、佐梁の記憶の俺の姿の部分だけ消すことが出来て阿栗さんに伝わらずに済んだんだけどね。

 駄目だな、案外異世界帰りとか言っても万能じゃない」


「それはソウでスヨ。魔王とか聖女とか英雄とかでも完全な万能ナンカじゃアリマセン。万能ナラ、私タチはココにいまセンよ」


「そうだね。森くんと涌井さんだって、まさかここ稲穂牧場に来るなんて思わなかった。

 セラが俺の面影の記憶だけ消してくれたおかげで普通に先輩として接することが出来たよ、助かった。

 でも、好都合かな。残り半年で二人にある程度牧場仕事に慣れてもらったら、俺も心置きなく次の動きをすることが出来るよ」


「ケンはやっぱり稲穂牧場からハ去るンですネ」


「セラは残ってくれてもいいよ」


「イエ……お母さんノ病気モ良クなりマシタシ……それニあんまり私ガ長く残ってイると裕司さんノお嫁さんニなル人が来タ時に気にスルかも知れナイじゃないですカ……確か来年ノ夏頃ニ稲穂牧場を訪レルんでしョウ?」


「確か史実だとそうだったよ」


「ナラ、私も……ケンに着いて行きマすヨ」


「セラ、せっかく家族みたいに思える人たちに巡り遇えたんだ。無理に俺の……単なる趣味に付き合わなくていいんだ」


「今更ソンナのハ水臭いですよ、ケン。もう私たちハ一蓮托生ミタイナものでショウ」


「……確かにそうだけど、でも」


「いいんデス、私ガ決めたコトなんですカラ」


 布津野は手に持っているうちにすっかり短くなったタバコを、最後に名残惜しそうに吸うと、吸い殻をポケットから出した携帯灰皿に捻じ込み消した。


「わかったよ、セラ。まあここを立ち去るのは半年後だから。

 母馬たちの体調も見なくちゃいけないし、仔馬も怪我無く育てなきゃ。

 明日も早いから、もう寝よう」


 セラにそう言って、布津野はまた納屋の2階への階段を音を立てないように上り出す。


「バカ……」


 セラは小さく呟くと、間を開けて布津野の後に付いて階段を上がった。





 明くる日、稲穂裕司は東京で買い込んで来た品々を持って各牧場へお礼巡りをしていた。

 三石農協の本所に立ち寄った際、顔見知りの職員から稲穂裕司は驚愕の噂話を聞く。


 それは、このわずか数日の間で、有馬記念の出走投票にアグリキャップの馬名が記された無効票が数万にも上っている、というものだった。






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