次戦の行方

第67話 ジャパンカップ当日の笠松




 11月27日(日)、ジャパンカップ当日も笠松競馬は開催されていた。


 27,28日の2日間だけの開催である。

 27日は平日開催の多い笠松にあって日曜開催のため、入場者は多かった。


 安東克己は27日、第3レースと最終11レースに騎乗があった。

 河原章一は、この日の騎乗馬が多く第5,6,10、11レースの騎乗である。


 ジャパンカップの発走は15時20分だった。

 河原章一はジャパンカップ発走の前、15時発走予定の笠松第10レース、アラブ馬4歳重賞の岐阜銀賞騎乗のため既にパドックに行っている。


 安東克己は勝負服に着替え第11レースの前検量を早々に済ませた後、他の騎手たちもたむろしている騎手控室で東海TVのジャパンカップ中継を見た。


 アグリキャップに日本の騎手の第一人者の刑部行雄が騎乗する。

 果たしてどんな騎乗をするのか、安東は興味津々だった。


「克己、お前やったらアグリキャップ、どう乗る?」


 隣で見ている兄の安東あんどう満彰みつあきが、騎乗していた第9レースでこびりついた顔の砂をタオルで拭き落としながら安東克己に話しかける。


「東京競馬場、最後の直線500mって長いから、前半はひたすら足を溜めに溜めて、直線でキャップの末脚に賭けるなあ。

 キャップの末脚は、中央のGⅠ馬にも負けんはずや」


 安東克己がそう答える。

 GⅢオールカマーで、完全に先行有利の流れの中、後ろで耐えて最後にスズエレパードを差し切ったアグリキャップの末脚。

 騎乗していた時の感覚を安東克己はよく覚えていた。


「でも、皆そう思って後方待機でもポジション争い激しくなるんやないか? 何かトミービンとか、凱旋門賞もの凄い末脚で制したらしいで」


「まあ、あんまり内で包まれると仕掛け処で動けんくなるかも知れんが、刑部さんがそれをどう捌くかが見所やなあ」


 安東克己が兄の満彰と話しながらTVを注視していると、同じようにタオルで頭を拭きながらやってきたデビュー2年目の新人騎手、18歳の東山ひがしやま公典きみのりが物怖じせず安東たちに話しかける。


「克己さん、やっぱり中央の競馬場って笠松や名古屋とは乗り方違いますか?」


「そうやな、直線長いとこ多くて差しや追い込みで勝負んなるから、スタート後のポジション争いは笠松なんかと比べて、そこまででもないかな」


「笠松や名古屋だと、最初のコーナーにどれだけ前の位置で入れるか、みたいなとこありますもんね」


「おう。なんやお前も中央で乗ってみたいんか」


「憧れ、ありますね。だって華やかですし凄い観客数じゃないですか」


「公典はまず、笠松の重賞に乗せてもらえるようにならんとな」


 安東満彰が、東山公典を揶揄からかうように言う。

 安東克己もおどけた口調で重ねる。


「そうやな。ワシらみたいんなったらいかんで。重賞の岐阜銀賞に乗り馬無いから、こうやってここで駄弁っとるんやから」


 言われた東山公典は口を尖らせ、控えめに言葉を返す。


「いやいや、お二人はサラ系で引っ張り凧だからでしょう。僕はアラブだろうと何だろうと調教師せんせいに乗せてもらえるように努力しないといけないのは確かですけど」


「アラブ、今年うちの厩舎はあんまり大物来んかったからなあ」


「まあ年々アラブは頭数減っとるし。中央もアラブのレース、重賞だけでなく一般戦も軒並み廃止しとるから。今後のアラブ、笠松もどうなることやら」


 そう言って安東克己と満彰はTVにまた目をやる。


 画面ではアグリキャップのゲート入りが映し出されている。

 ゲートに入る直前にアグリキャップがいつもの武者震いをするのを見て安東克己はいつもと変わらんな、調子良さそうや、と感じた。


 ゲートが開くと刑部行雄を乗せたアグリキャップは絶好のスタートを切る。


 安東克己はそのスタートに目を見張った。

 これまで自分が乗った時のアグリキャップのスタートに比べるまでもなく速い。

 勝負所でのアグリキャップの脚に絶対の自信を持っていたため、ゲートの出は確実にそろりと出すように乗っていた安東克己は、刑部のスタートに舌を巻く。


 刑部行雄はスタートの出を生かしてアグリキャップを前目に付け、更に内に入って行く。

 柴端雅人騎乗のジュディズハイツがやや遅れ気味のスタートを切りながら強引にハナを取りに上がっていくのとは対照的に、アグリキャップに負担を掛けずに前目に付ける。


 青い貸勝負服の刑部行雄の騎乗フォームはブレていない。

 走る馬の上下動が刑部には伝わっていないかのごとく、アグリキャップの背と平行になった刑部の背中は手前を替えた時に動く程度で殆ど揺れていない。


「うわ、この騎手、凄いですね」


「何や、刑部さん知らんのか、公典。日本で一番の騎手やぞ」


「違いますって、16番の馬の騎手ですよ、アメリカの」


 東山公典が言う16番は、6番トミービンの外側を走っているが、確かにその騎手の騎乗フォームは刑部行雄以上に揺れない。

 その騎手は頭と腰という人体の最も重い部分が平行になっており、その二つを繋ぐ背中は頭を下から支える首に向かって下がっている。

 その背には板が入っているかのように見える程、ピンと真っ直ぐでまったく動かない。

 なおかつ全体の姿勢が低い。

 刑部の乗り方が鐙に掛けた足、腰、頭を頂点とした正逆三角形だとしたら、その騎手は正逆三角形を上から押し潰したような、足の頂点角度が90度の二等辺三角形を描いている。

 まるで馬の背に動かない軽いプラスチックの人形が載っているかのようで、一目見ただけでも馬への負担の掛かり具合の少なさが見て取れた。


 何やこいつは!

 16番、事前の展望解説でも殆ど注目されていなかったアメリカ馬の騎手。

 ホンマにこんな風に馬に乗ることが可能なんか?

 これは相当に足腰と体幹が強くないと出来ん芸当や。

 特に馬の振動を全部受け止めなならんヒザのクッション、どうなっとるんや?

 日本人とは体の作りが違っとるんやないか……


 そんな安東克己の驚愕の間にもレースは進んでいく。


 向こう正面に入り、アグリキャップは5,6番手。

 外の動きが激しくなっている。

 馬群は圧縮され、先頭から最後方までの距離が徐々に詰まり、最後尾にいたはずのタマナクロスも動き出している。


 刑部さん、キャップに無理はさせとらんが、あそこまで前の馬に付けるのはおっそろしく集中しとらんと出来ん芸当や。

 だが、包まれるようだと勝負所で抜け出すの、手間取るぞ。

 どうするんや?


 そうこうしているうちに馬群は第3コーナー、第4コーナーを回り、いよいよ最後の直線へと向く。


 刑部はアグリキャップを外へは持ち出さず、最内でスズエレパードの後ろにつけており、横にはジュディズハイツがいて抜け出せていない。


 ああ、もう外の馬は仕掛けとるのもおる。

 だが、思ったより伸びんな……坂か!

 刑部さん、はよ進路作らんと脚使えんぞ……

 上手い! ジュディズハイツが遅れて出来た隙間、割って出た!

 そこから、追わんと! 

 そう、そう。

 うわ、外から内に斜めに吹っ飛んで来よった、何やこの馬……16番や!

 馬場の外側、タマナクロスも追っとる! さすが中央最強馬、これもえらい末脚や!

 刑部さん、もう遅れたら届かんど……

 うわ、キャップ外にヨレた……いや、16番に寄せたんか?

 16番の騎手、追う時はワシらと変わらん、必死で鞭振るっとる。

 刑部さん、追い負けんな、伸びろキャップ、伸びてくれ……


 安東克己は無言で息を呑みTVを見つめた。


 刑部の駆るアグリキャップは16番のウィズザバトラーに寄せた分、僅かに遅れていたが、ジリジリと、にじり寄るようにウィズザバトラーとの差を詰めている。

 その2頭からやや離れた馬場の中央では、南見活実の鞭の連打を受けてタマナクロスも『白い稲妻』と称される末脚を伸ばしている。


 安東の隣の東山公典が「行け、もうちょい、ああーっ」と声を出していたが、安東克己の耳には入らない。


 内の2頭と、離れた外の1頭。

 3頭の馬がゴール板をよぎった。


 ――わずかに内2頭が有利か、外タマナクロスは3着か!

 ――ほぼ同時にゴール! 1着は写真判定です!


 3頭がゴールした瞬間、騎手控室は静まり返る。

 東山公典も、他の騎手たちも言葉を飲んだ。


 やがてTVを見ていた他の騎手たちから「勝ってるよな」「負けたとしても快挙だろ」「中央最強馬より先着してんだから凄いって」などの声が聞こえてくる。


 安東克己たちは、息を呑んだまま写真判定の結果を待った。


 ――着順出ました。第9回ジャパンカップ優勝は、アグリキャップです!

 ――アメリカのウィズザバトラーをハナ差で交わして、アグリキャップがここ府中で日本馬3頭目となるジャパンカップ制覇、そして地方公営競馬所属の馬として史上初の中央GⅠ制覇という快挙を達成しました!


 結果をフジTVアナウンサー大釜おおかま勝彦かつひこアナウンサーが伝えると同時に、騎手控室にいた騎手たちはオオーッと言う大歓声を上げる。


 その中で安東克己は一人、大きく息を吐いた。


 思わず歓声をあげた安東満彰が、ふと我に返り安東克己に声をかける。


「克己、もしかしたらお前が今あそこにれたかも知れんのやぞ? 良かったんか、キャップ降りたん」


 兄弟ならではのデリカシーの無さ。安東満彰以外に安東克己にそう訊ねられる人物はその場にはいなかった。


「満彰兄、そりゃワシも出来れば乗り続けたかったよ。でもあん時ゃローガンの方がキャップより強いと思ったから選んだんや。それにゃ悔いは無い。ワシャ正しかった。

 今日だって、刑部さんやなかったら、きっと勝ててない。ワシャ刑部さん程上手く乗れんかったし我慢できんと思う」


「ほうか。悔い残しとらんのやったら、ええわ。

 さーって公典、ワシらは11レース準備万端の克己と違って次の勝負服に着替えないかんし重りも合わせないかんから、行くか」


「満彰さん、それだけですか? もっとこう、凄い事になってるんですからもうちょっと喜んだりとか」


「おお、ならお前は喜んどけ。ほんで次のレースでミスれ」


「わかりましたよ、克己さん、一旦失礼します」


 安東満彰と東山公典はロッカールームに立ち去った。


 残された安東克己は、レース後の中継を見ながら複雑な心境であった。


 自分が乗って負けたことのないアグリキャップが、中央の国際GⅠジャパンカップを勝った。

 それ自体は嬉しく、興奮もしている。誇らしくもある。

 だが反面、自分が乗れなかったことが悔しい。


 兄の安東満彰の問いには乗り替わったことに悔いは無いと答えた。

 その判断は間違っていないというのも本心だ。

 4歳になったアグリキャップを敵に回して勝ったのは、今日の結果で自分が選んで乗ったフェートローガンだけとなったのだから。


 刑部行雄は、アグリキャップに先行策を取らせた。

 メイチ目一杯のスタートを決め、前のポジションを取り、最後の直線で抜け出し、差す。

 皇帝ヨソリノルドルフの背で培った技術が詰まっていた。

 今日の刑部行雄の騎乗でなかったら、アグリキャップのこの結果は導き出されなかっただろう、と安東克己は刑部行雄の騎乗に舌を巻く。

 だが、もし自分が鞍上だったら。

 やはり、アグリキャップ最大のストロングポイント、末脚勝負に賭けただろう。

 結果は、勝てなかったかも知れない。

 だが、馬に殆ど負担を掛けないあのアメリカの16番の騎手の馬や、中央最強馬タマナクロスを相手に回して、ヒリつく緊張感を肌で感じながらアグリキャップの背に乗って直線勝負を仕掛けてみたかった――その思いは拭い切れずに心にこびりつく。


 勝てんかも知れん、だが、今よりも、もっと馬乗りの熱さや奥深さを感じることができた気ぃする。

 あんな勝負を、ワシも経験してみたかった!


 それは安東克己の渇望であった。



 騎手控室の扉が開き、ドタドタと音がする。

 それは第10レース、岐阜銀賞に騎乗していた者たちが引き上げてきた音だった。

 安東克己はまだジャパンカップ中継を映しているTVの前から動かず、首だけ回して入って来た騎手たちを見る。

 騎手たちの集団のうち、泥ハネの少ないピンクの勝負服の坂口茂正が、満面の笑みを浮かべている。


 勝ったのは坂口か。

 河原は、相変わらず覇気が無いんか。


 白の勝負服を茶色に汚した河原章一は、一団の最後から遅れて俯き加減で騎手控室に入って来た。


 安東克己がぼんやりその様子を眺めていると、河原章一はそんな安東に気づいたのか、ジャパンカップの中継が映っているTV画面とその前に陣取る安東克己に下目使いにチラリと視線を向けた。

 だが、それも一瞬で、そのまままた俯き加減で足を止めずにロッカールームに入って行く。


 一度は自分が乗った馬の中央大レースの結果すら気にならんのか。情けない。


 安東克己はそんな河原章一に、苦々しい思いを抱いた。






 安東克己が第11レースのためパドック行きのマイクロバスに乗車していると、普段は入らない不意のタイミングで笠松競馬場の場内アナウンスが入る。


 ――本日も笠松競馬にご来場いただき、誠にありがとうございます。

 ――ご来場の皆様に、お知らせいたします。

 ――先程、東京都府中市にあります東京競馬場にて開催されました日本中央競馬会開催の国際招待レース、GⅠジャパンカップ。

 ――当笠松競馬場、久須美厩舎所属の4歳馬、アグリキャップ号が地方公営馬の代表として出走いたしました。

 ――日本中央競馬会所属の刑部行雄騎手が騎乗いたしましたアグリキャップ号は、15時20分発走のGⅠジャパンカップ競走に於きまして、走破タイム2分25秒5で、米国のウィズザバトラーを抑え1着で入線致しました。


 そのアナウンスが結果を伝えると同時に、笠松競馬場のスタンドからはワーッという大歓声と拍手が沸き起こる。

 メインレースの岐阜銀賞が終り、残すところ最終レース1レースのみとなった笠松の観客は、すでに帰路に着いた客も多く、スタンドに残った客はまばらだったが、その全ての観客が叫んでいた。


 ――繰り返します、東京競馬場で本日15時20分発走の国際招待レース、GⅠジャパンカップに於きまして当笠松競馬場、久須美厩舎所属の4歳馬アグリキャップ号が1着入線致しました。

 ――ひとえに、本日ご来場いただいている皆様を始め、これまで笠松競馬にご来場いただき熱心に支えて下さった皆様のお陰であると、笠松競馬に係わる職員一同感謝申し上げます。

 ――それでは引き続き、最終第11レース『合掌特別 B1B2クラス』をお楽しみいただきますようお願い申し上げます。


 アナウンスが終了しても、スタンドの歓声は止まなかった。


「こりゃ、最終レース、馬券売れるやろな」


 安東克己の隣に座った安東満彰が、そう呟く。


「何か観客にこれだけ注目されると、やる気出ますね」


 東山公典が興奮気味に言う。


 安東克己はそれに返答はせず、マイクロバスの後方に座った河原章一にチラッと目をやる。


 河原章一は、アナウンスや観客の歓声が無きがごとく俯いたまま、手に持った鞭を弄んでいるばかりだった。






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