最後の光

中村ハル

最後の光

「最後の一つ、もらっちゃうね」

 奥に声をかけて、僕は皿に一つきり残されていた果実を口に含んだ。歯を立てると、柔らかな実に内包された繊維がちぎれていく微かな罪悪感と、あふれ出る瑞々しい甘い香りと汁に恍惚とする。はしたなくずるりと音を立てて零れる果汁を啜り、指先に残った芳しいべとつきを舐めとる。

 遅れてやってきたから、もう何も残っていないと思ったのに。予想外の嬉しい収穫に満足して、皿をキッチンに運ぶ。

「ごめんね、もうなんにも残ってなかったでしょ」

 アメリアが眉を下げて困ったように笑う。

「いや、なんだかわからないけど、果物があったよ。プラム? すごく美味しかった。誰が持ってきたの」

「プラム? いいえ、果物なんて、今晩は出なかったけど」

 皿を受け取りながら小首を傾げたアメリアの肩から、細い金髪がさらりと滑り落ちる。昨年までは豪奢に大きなカールを作っていたけど、今は洗いざらしのさらさらで、僕はこっちの方が好きだ。

「だって、これに」

「キャロットケーキよ、乗っていたのは。ユーイチのおばあちゃんが焼いてくれたって」

「よく材料が残っていたね」

「砂糖なんて貴重だものね」

 力無く笑った視線が、ガラス瓶が並んだ棚を彷徨う。貼られたラベルには、調味料やスパイスの名前が几帳面な文字で記されているけれど、底にこびりつくほど少なくなった塩以外は、空っぽだ。

「缶入りのスープを持ってきたよ」

「それはナユタが持っていて。もうすぐ、行かなきゃならないでしょ。今日最後の便に乗らないと」

「アメリアは?」

「私のリュックには、他のものが入ってる。向こうに着いたら分けてよ」

 なんてことないように、そう笑う。

 みんなはすでに、家を出ているみたいだった。

「もしかして、待っててくれた?」

「そうだけど、そうじゃない。家を綺麗にしていきたくて。だって、帰ってくるかもしれないでしょう」

「だよね」

 僕も当たり前のようにそう応える。心のどこかでは、見納めだと思っていても。

 僕が物心ついた時には、町はまだ、明るく賑やかで豊かだった。だけど、学校に上がる頃には、少しずつ、町が古くなっていき、お年寄りが減って、大人の男がいなくなった。残ったのは女性と子供と動物で、静かなような寂しいような、くすんだ時間が長く続いた。

 食べ物は配給制に切り替わり、それもほぼなくなって、乾いた砂地でどうにか野菜や穀類を作って凌いできた。でも、それももう限界だ。

 いつの間にか外部との連絡はできなくなり、時々砂嵐のように荒れ狂うノイズの奥から、難しい話が聞こえてくるのを、大人たちが息を詰めて聞き取っては、嘆いたり喜んだりしていた。

 アメリアは頭が良くて、僕よりも少し大人だから、多分、昨日の放送の内容がわかったのだと思う。近隣の住民を呼び集めて、最後の晩餐を開くのだと言って、僕を招待してくれた。食べ物は持ち寄りで、遠くに行く準備をして。それがアメリアが僕たちに教えてくれたこと。

 どこか安全な場所に行くのだ。

 僕はできる限り声をかけられる家を回って、アメリアの伝言を伝えた。

 一番遠くの家に行くと、おばあちゃんが僕に缶詰を持たせてくれた。おばあちゃんは、年寄りはずっとここにいるからいいのだと、同じくらい年老いた犬の頭を撫でながら、春の陽だまりのように笑った。

 だから、遅れてしまったのだ。

 本当は、美味しいものを食べたかったけど、きっと向こうに着いたら、お腹いっぱい食べられるだろう。

 だから、いいのだ。

 それに、さっき食べた甘い果実。アメリアは知らないと言っていたけど、僕がいないことに気づいた誰かが、持っていた実を分けてくれたに違いない。あんなに美味しい果物は、いつぶりだろう。

 まだ唇には、べたべたとした甘い残り香がまとわりついている。

「なによ、にやにやしちゃって」

 アメリアが嬉しそうに噴き出した。

 僕も、嬉しくなって笑った。


 アメリアを手伝って、全ての窓のカーテンを閉めて、僕らは小さな家を出た。

 あたりはすでに人もまばらで、慌てて通り過ぎていった気配だけが、空気の中にいがいがと残っている。千切れた紙の端っこや、落ちた小さな靴の片方、倒れたゴミ箱は悲しいくらい空っぽで、僕を寂しくさせた。

 アメリアが時計を見て、足早になる。

「急いで」

 持っていくものなどほとんどなかったから、荷物は小さい。

 缶入りのスープと、靴下とニット帽と、いつの間にかいなくなっていたパパの笛。ママは逃げた犬を探しに行ったまま帰ってこなかった。この笛を持っていけばよかったのに。僕は時々、これを吹いて、ママと犬を呼ぶのだ。あとは破れた本と、古いコート。これが僕のすべて。

 少し小走りで角を曲がると、駅前の広場には、たくさんの人が集まっていた。

「ナユタ」

 長い長い列の中から、ユーイチが安心したように僕を呼んで、手を振った。

「向こうに着いたら」

 大きな声の後で、周りを見回して口をつぐむと、何かを食べる仕草をしてみせたから、もしかしたらキャロットケーキの残りを持ってきてくれたのかもしれない。期待を込めて大きく手を振り返す。

「さあ、並ぶわよ」

 アメリアはきょろきょろと辺りを見回している。

 列が長すぎて、最後尾がどこだかわからない。蛇腹に折り返し、ぐるりと路地を回ってあちらから出てくる。途切れた場所を見つけて駆けよれば、人を通すための通路になっているだけで、ここではないと邪険に追い払われた。

 そうこうしているうちに、気がついたら、アメリアがいない。

 泣きそうになって、ぐるぐると回る。

 あたりの人は誰も彼も必死な顔で、列からはみ出さないように地べたに足を踏ん張っている。

 僕は突然不安になった。これだけの人が一度に乗れる乗り物が、まだ存在するのだろうか。もし何度かに分けて運ぶのだとして、最後の人が乗り込むのは、一体いつになるのだろう。今日、明日、それとももっとずっと先? そうだとしたら、その間、食べるものはどうするのか。寝ている間に置いていかれたりはしないだろうか。

 血走った目で僕を追っ払う大人を、どうして責められるだろう。

 長い列をたどって広場を行ったり来たりするうちに、空は星をばらまいて美しく輝き、誰も彼もが無口になった。今はしんと、ただ俯いて立っていて、どこかに行けるかもしれないという期待がしぼんでいくのがわかる。

 それでも、列は確実に減っているようだった。

 少し進むたびに、前の人を蹴るように列が詰まっていく。焦りで、並んでいる人たちはぎゅっと一つの塊になってしまいそうに見える。

「大丈夫です。乗れますから」

 不意に響いた声に、僕もみんなも、はっと顔を上げた。

 清潔で新しいスーツを着た男の人が、颯爽と広場をよぎってくる。

 声が届いた人たちの顔が、夜空に負けないほどにきらきらと輝き、それからざわめきが戻ってきた。

「お待たせしてすみません。大きな列車が到着します。ゆっくり進んでください」

 てきぱきと列を区切って、男の人は人々を駅舎の中に送り込んでいく。どれほど大きな列車なのか、列がぐんぐんと吸い込まれて、みんなは今にも肩を組んで歌い出しそうに華やいでいる。

「君、並ばないの、後ろはあっちよ」

 列の誰かが、僕に指を向けて道標を与えてくれた。

「ありがとう」

 駆け出した僕に、次々に、指の標識が現れた。

 それをたどって、路地を抜けて角を曲がり、ようやく見えた列の終わり。

 『最後尾』と書かれたボードを、スーツ姿の男の人が掲げて立っていた。

 走り寄って、その後ろに並ぶ。

 列はぐんぐんと進む。遠くに、アメリアの金色の髪が見えた。必死な顔で、辺りを見回している。僕を探しているのだろう。鞄を探って、笛を取り出す。ぴーよ、と小鳥のような音が出るパパの笛だ。でも、アメリアは気づかない。列車に乗ったら、ここにいるよと安心させてあげなくちゃ。

 男の人が振り返り、にっこりと笑った。さっきまで、みんなに声をかけていた人だ。いつの間にここまで移動してきたのだろう。

「君が最後だ」

 ボードを持っていない方の手で、くしゃりと僕の髪を撫でた。

 星の位置が変わるよりも早くに列は流れて、僕は広場に出た。

 駅は大きな口を開けて、列を飲み込み続けている。時々止まることはあっても、それも一瞬だ。

 あっという間に、僕の番が近づく。

 駅の中は薄暗くて、よく見えない。中からみんなの、大きな声がしている。泣いているようにも、笑っているようにも聞こえる。あと数歩で、僕の番だ。僕も、歓喜の歌を歌おう。

 『最後尾』のボードを持った男の人が、くるりと僕を振り向いた。少しかがみ込んで、鼻をひくひくとうごめかす。

「ここまでです」

「え」

「ここが最後尾だから、君は、入れません」

「だって、さっき」

「言ったでしょう、さっき。君が最後の一人だと」

「でも」

「もう、いっぱいなんです」

 男の人の目は笑っているけど、その奥の目玉はガラスみたいに固くて、怖い。

「私が持っているでしょう『最後尾』」

 にったりと、笑う。

 駅の奥から、地鳴りが聞こえる。違う、呻きだ、鳴き声だ、怒号だ。

 アメリアの悲鳴が、聞こえた。

 僕はじりっと後退る。

 この駅に呑まれたら、どうなってしまうのか。

 この町に残されたら、どうなってしまうのか。

 男の人が、僕に、手を振る。

 『最後尾』と書かれたボードが、ぱたりと地べたに落ちる。乾いた路面に、小さな砂埃が舞い上がる。

 嘆きのうねりが列となって駅舎の奥に吸い込まれていく。男の人も、口を開けて、大きな叫び声を上げた。それは汽笛のごとく空気を震わせる。列車が走り出すように、幾つもの悲鳴が、一斉に鳴った。

 立ちすくんだ僕はパパの笛を吹く。力いっぱいに。

 ぴーよ、ぴーよ、ぴーよ。

 それは夜の闇を切り裂き押しやり、東の空に明るい光を呼んできた。

 黄金の光が届くより速く、何か黒い塊が僕のもとに飛んでくる。

 逃げようとした僕を安心させるみたいに、大きな鳴き声が一つ。

 それは老いた犬だった。

 おばあちゃんが連れていた、優しい目の犬。犬は後ろを振り返り、尾っぽをせわしなく振った。

 よろよろと、闇の奥から、おばあちゃんも着いてくる。

「桃の実を食べたでしょう」

 にっこりと薔薇色の頬が笑う。

「あれは、魔除けよ。最後の一つ。みんなの分は、なくってね」

「どうして僕に」

「あの時、村の外れの、年寄りの私を呼びにきてくれた。それだけのこと」

「でも、みんなは」

「いつか帰ってくるかもしれないし、戻ってこないかもしれない。でも、初めからそういう話だったでしょう」

 どこか遠い場所へ。夢にまで見た、遠いどこかへ。

 いなくなったお年寄りも男たちも、駅に呑まれてしまったのだろうか。

 犬を探しに行ったママも。

「私のうちに古い地図がある。出られないわけじゃないのよ」

 おばあちゃんは悪戯っぽく、そう言って笑った。

 なんの助けにもならないけれど、希望だけが、最後に残った。

「とりあえず、家に帰ってスープを飲みましょう」

 僕は、こくんと頷く。でも、あの桃は、お皿にいつ乗ったのだっけ。

 夜の最後のかけらが、朝陽の中に呑み込まれていった。

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最後の光 中村ハル @halnakamura

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