通い妻と同棲彼女
後日、話した内容がまとめられた書類が送られてきた。
それもまた立派なものだった。なんともまあ仕事ができる人だ。
そして迎えた今日。引っ越しというほど大層なものではないが、彼女が我が家へ越してくる。
我が家で暮らしてもらうことにした主な理由はリスク管理のため。
2人は一応カップルYouTuberとして活動するのだ。
万が一、視聴者に彼が我が家と彼女の家を行き来しているところを見られたら。
万が一、跡をつけられでもしたら。
2人とも活動どころではなくなってしまうし、何より彼女が築き上げたものが水の泡になってしまう。
そして、あともう1つ。
目の届く範囲に2人を置いておくことで得られる安心感があるのも事実だ。
2人の活動を承認したとはいえ、不安がすべて解消できたわけではない。
彼女の仕事に対する姿勢や、私に説明していたときの言動などを見て、本当に彼はただのビジネスパートナーであると信じられた。
そこに邪な気持ちはない、と信じたいのかもしれない。
念には念をというやつだ。不安材料は少ないに越したことはない。
ピンポーン
どうやら無事に辿り着いたようだ。
「こんにちは。今日からお世話になります」
「こんにちは。どうぞあがってください」
挨拶もそこそこにお茶を用意していると、彼女が少し落ち着かない様子で話しかけてきた。
「先日送付した書面に不備はありませんでしたか?」
「はい。問題ありませんでした」
「それなら話していたカレンダーアプリの共有設定を済ませてしまいましょうか。あと祐二さんのお給料を振り込む口座を教えてください」
2人の撮影スケジュールは不定期なので、カレンダーアプリで随時更新してもらうようにした。
早速共有されたカレンダーを確認すると、丁寧に動画の投稿日まで登録されていた。
そんなやり取りをしていると彼が起きてきた。
「ごめん、寝坊した。朝ごはん用意できなかった」
パジャマの裾を踏みながらこちらへ歩いてくると、いつも通り自分のコップを取り出し、お茶を1杯。
「2人とも何か食べた?」
彼は今日もいつも通りである。私たちは顔を見合わせて苦笑した。
緋南さん、ようこそ我が家へ。
今日から私たちの新しい生活が始まる。
新生活は思っていたよりも落ち着いたものだった。
私たち夫婦は変わらず2人きりで食事を摂っているし、眠る前にリビングで談笑する時間も確保できている。
変わった点といえば、帰宅前に必ずカレンダーアプリを起動して、2人の撮影の有無を確認すること。
そして撮影があれば、忍者顔負けの足取りで家に入ること。
今日もそうだ。今頃は撮影をしているはず。
自分の家のはずなのに、やはり少なからず気は遣っているんだな。
なんだか通い妻みたいだ、と苦笑した。
この生活を始めてしばらく経った頃、緋南さんが撮影が終わるとすぐ帰宅して、そのあと自宅で編集作業をしていると聞いた。
そこで彼女に提案した。
「来て撮影、帰って編集って大変でしょう。うちで編集できるならしていったら?」
「それも承知でお願いしたので、甘えさせてもらうわけには…」
「私も持ち帰りの仕事がある時期があるから思うの。移動だけで体力は持っていかれるし、精神的にも休まらなかったりするじゃない?」
「そうですね…」
押し問答の末、やっと彼女が折れてくれた。
「すみません、そう言っていただけるなら甘えさせていただきます」
そう言ったあと彼女は一息ついて、続けた。
「本当は少し大変だったんです」
申し訳なさそうに笑う彼女と目が合って、私は安心した。
こうして、彼女が我が家に滞在する時間が増えた。
同じ働く女性として、というと少し古いかもしれないが、できるだけいい環境で、できるだけ疲労を溜めずにがんばってほしい。
ある程度、私の生活リズムも彼女の生活リズムも確立できてきた頃、私の仕事が繫忙期に突入した。
2人とも顔を合わせることが減り、彼との時間もろくに取れなくなってしまった。
栄養ドリンクが手放せない。
最後に布団でしっかり眠れたのはいつだったろうか。
化粧乗りも悪く、顎に吹き出物までできている。
マスクをすれば隠れる場所なのが不幸中の幸いだ。
ああ、しんどい。
口には出さないものの、限界を超えて疲れ切っているのが分かる。
軽く伸びをするだけで身体のあちこちがバキバキと悲鳴を上げている。
そういえば、2人の仕事は上手くいっているのだろうか。
2人がどんな様子なのかも、どんな風に過ごしているのかも何も知らない。
忙しくしていることは分かる。
前よりも予定の量も、決まる速さも増加しているからだ。
ということはつまり、2人きりでいる時間も増えているということ。
撮影外でもゲームの話で盛り上がっているのだろうか。
彼の作るごはんを2人で食べているのだろうか。
編集作業で疲れて眠ってしまった彼女に、そっと毛布をかけてあげたりしているのだろうか。
私がしてもらっていたこと、私が受け取っていた彼の優しさは彼女に注がれているんじゃないか。
心配そうに私を見つめる目も、私の話をうんうんと聞いてくれるときのあの優しい目も、全て彼女に向けているの?
もしかしたら、私の知らないところで今以上に仲が深まって、異性として意識し始めて関係が進んでいるかもしれない。
もしかしたら、もう既に2人はそういう関係で私は邪魔な存在なのかもしれない。
そうなったら私はきっと耐えられない。
やりがいのある仕事があって、自分のペースを崩さないでいられる生活があって。
ほっとひと息つける我が家があって、そして何より見守っていてくれる彼がいて。
それら全てがあるから私は私でいられるのに。
どれも欠けてはならない私の大事なもの。
もし失ってしまったら…考え始めたら止まらなくなって、いつもなら考えもしないところまで考えが及んでいる。
ものすごく険しい顔をしていたのだろう。
上司が、大丈夫か、と尋ねてきた。
仕事を持ち帰る旨を伝えて会社を後にした。
しかし、どうも家に帰りづらい。
自宅近くのカフェに立ち寄って仕事をすることにしたのだが、もちろん仕事が進むわけもなく、パソコンこそ開いているものの、ただ外を眺めてコーヒーを何度も注文した。
店員さんには不思議そうな顔をされているし、そろそろ居心地が悪くなってきた。
諦めて帰ろう。
帰路も私の思考はとどまるところを知らなかった。
帰りたくないなあ。
あそこは私の、私たちの家なのに。
着いた。着いてしまった。
今の私の心は、楽し気な話し声や笑い声を聞くだけで傷を負ってしまいそうなくらい脆い。
深く二度、深呼吸をする。
いつもより心なしか重たい扉をそーっと開け家に入った。
リビングへつながる扉を開けると彼がいた。
「おかえり」
「ただいま。今日は撮影だって言ってなかった?」
「うん、その予定だったんだけど、沙英香の仕事今大変だろう。延期にしてもらったからのんびり過ごして。夕飯何にするかなあ」
彼はさも当たり前のような口ぶりで話した。
そうだ、彼はこういう人だった。
余裕がなくて彼に八つ当たりしてしまったときも、仕事に悩んでいた頃に1人で静かに泣いていたときも、彼は優しく寄り添って受け止めてくれたじゃないか。
私が彼を理解したり、しようと努力したりするのと同じように、彼もまた私を見ていてくれているんだ。
何を私は不安になっていたんだろう。
「…沙英香?」
胸につっかえていた何かがすっと消え去って、呼吸がしやすくなったのを感じる。
うれしくてたまらない。
思わず彼の背中に抱き着いた。
「ありがとう、祐二。ちゃんと私のことを見ていてくれて」
彼は私の腕をぎゅっと握りしめてくれた。
温かい。私はここにいていいんだ。
離れた私に向き合って彼は言った。
「不安にさせて、いつも言葉足らずでごめん」
そして照れくさそうに頭をかきながら続けた。
「これからも沙英香と一緒にいたいって思ってる」
彼の目が、真っ直ぐ私に向いている。
「俺だって沙英香のことが大事で、愛してるんだよ」
この日は久しぶりに彼が作ってくれたごはんを2人で食べた。
そしてリビングで他愛もない話をして、ゆっくり眠った。
後日、我が家にやって来た彼女に謝罪された。
「気がつかなくてごめんなさい」
目を丸くしていると、彼女は申し訳なさそうな顔をして続けた。
「祐二さんから言われたんです。沙英香さんの仕事が大変だから撮影を延期してほしいって。気がつかずに甘えっぱなしになってしまってごめんなさい!」
勢い良く頭を下げる彼女。
そうか、やっぱり2人はひたむきに仕事をがんばっているだけで、そこに一切私が不安になることはなかったんだ。
私が1人で空回りしていただけだったんだな。
申し訳ない気持ちになった。
「私の方こそごめんなさい」
2人してごめんなさいと言い合っていると、後ろから「はあ…」とため息が聞こえてきた。
「2人とも謝ってばっかだね」
「「だって」」
彼女と顔を見合わせる。
なんだかおかしくって思わず声を出して笑ってしまった。
キッチンへと向かう彼を横目に提案した。
「ねえ緋南さん。うちでごはん食べて行かない?」
「…はい!」
彼女は少し戸惑った表情を見せたが、すぐに笑顔で返事をしてくれた。
今日の夕食はなんだろう。楽しみだ。
こうして、私たちの新しい生活は続いていく。
おしまい
通い妻と同棲彼女 ◯◯ちゃん @mamimumemo88
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