赤いゆりかご

霜月透乃

赤いゆりかご

 口紅が、最初だった。絵本に出てくるお姫様みたいにお城のような家に住んでいるちぃちゃんは、お母さんの言いつけで他の家に入ったことがないと言った。それを聞いた私が、言いつけを破っちゃおうと親がいない私の家にこっそりとちぃちゃんを上げた。

 お姫様を連れ出した、秘密の冒険。二人赤いランドセルを背負ったままお母さんの化粧入れを漁って、真っ赤な口紅を取り出した。この日の少し前、化粧をしてみたいとちぃちゃんが零していたのを私は思い出したのだ。

 私はちぃちゃんの唇にそれを押し当てて、クレヨンのようにぐりぐり塗っていった。ヘタクソで、唇から大きくはみ出したそれを見て、私はテレビに映る女優さんみたいに綺麗な唇じゃないと泣きそうになった。けれど、ちぃちゃんは笑った。

「きぃちゃんがやってくれたならうれしいよ~」

 嬉しい、可愛い、面白い。ちぃちゃんが言葉をかけるたび、ぐちゃぐちゃに赤く染まった唇が、魔法にかかってしまったようにきれいになっていって、どんなおとなの唇よりもきれいなものに見えた。

 本当の冒険みたいだった……違う、私たちにとって、あれは本当に冒険だった。私もお母さんに「勝手に友達を家に上げてはダメ」と言われていた。けれど二人そろって決まりを破って家に上がり、お母さんの大事な化粧品を勝手に使って、お母さんが帰ってくる前に綺麗にした後、家を飛び出して二人で近くの公園まで逃げた。

 口紅が全然落ちない焦り、どこまで逃げればいいのかわからない不安。そのときのすべてが、初めてのものだった。

 胸を大太鼓のようにドンドンと打ち付ける心臓と、それに乗って身体中を流れていく達成感に包まれて、二人一緒に笑った。全部が終わってようやくいろんなものが見えてきて、最初から最後までずっとランドセルを背負ったままだったのに気がついた。

「ランドセル背負えば、どんな冒険だってできるね!」

 先に気づいた私が背中の赤を指差すと、ちぃちゃんがそう言った。その言葉が、私の胸の中でぴかぴかと光った。

 私たちは、どんな冒険にだって行けるんだ。二人で、この赤いランドセルを背負ったら、どこまでも勇気が湧いてくる。

 もう一回、冒険をしようねって、お互いの小指を交わせて約束した。それが私たちの最初で、赤いランドセルの冒険が始まった約束だった。

 その後も、帰り道にランドセルを背負ったまま何度だって冒険へと繰り出た。いつもの通学路から外れて誰もいない隠れ道に二人っきりで帰った。公園の隅っこ、草むらに隠れる場所で二人だけの秘密基地を作った。そのたび、一緒になって背中の赤を揺らした、最高の友達。

 そのはずなのに、私は今日、ちぃちゃんにひどいことをした。

 四時間目の授業が終わって、給食の時間。私は給食当番で、エプロンと三角巾を付け、同じ班の人たちが運んできた給食たちに駆けつける。今日は金曜日で、カレーの日。みんな逐一口には出さないまでも、浮かれ気分が顔の端々に見て取れた。

 マスクを着けて、カレーの入った銀色の重たそうな大鍋の前に立ち、その蓋を開けた、瞬間だった。

 香ばしいカレーの匂いとは裏腹な、嫌な予感が鼻の奥を衝いた。

 私はすぐさま持っていた蓋を横にあった台に置き、場を離れてマスクを外した。その直後。

 ――ぽた、ぽた。

「あっ……」

 それが鼻を通る予感がしてスカートのポケットにティッシュを求めたけれど、もう遅かった。私の鼻からは赤い雫が垂れていて、それがぽたりと地面に垂れ、跳ねた。

「うわー、鼻血出してるー!」

 誰かが、言った。鼻血へのパニックで誰が言ったものなのかはわからなかった。給食の隣で見たくない光景を目にしたクラスメイト達は、その一声でどよめきをどんどん広げていった。

 最近私はよく鼻血を出していた。お母さんが言うには「ちっちゃい頃によく出る子もいる」という話だった。私も時と場所を選ばずに出てきてしまうけれど、だからって、こんなときに出なくたっていいのに。

 給食の時間のいつもとは違うどよめきに、私の焦りはどんどん大きくなった。それに呼応するように、鼻血もとめどなく溢れ出てくる。うまくポケットからティッシュを取り出せずにいると、鋭い声が私を突き刺した。

「きっとエロいこと考えてたんだぜ! ヤラシーんだー!」

 そう言ったのは、クラスで一番声の大きな男の子だった。

「っ! 違うもん!」

 噛みつくように言い返した瞬間、急に動いた代償というように激しく血が噴き出した。それを見た声の主が、獲物を見つけたようにさらに笑みを広げた。

「やっぱりそうだー! 誰かの裸とか考えてたんだ! スケベー!」

 どよめきに伝わっていくように、私を小さく笑う声が広がっていったのがわかった。私はどうすることもできなくて、今度は目から透明な雫が溢れ出てきそうだった。

「大丈夫?」

 みんなが私から距離を取っている中、一人だけ近づいてくる子がいた。

「ちぃちゃん……」

 ちぃちゃんは手に持っているポケットティッシュで、拭くこともできずにいた私の代わりに鼻血を拭ってくれた。

 その、私を奥底から心配している表情を見たときだった。私は心の中で、ちぃちゃんにひどいことをした。

「きぃちゃん?」

 すぐさま罪悪感が渦巻いて私の中から溢れかえった。違和感に気づいたちぃちゃんが私の鼻をきゅっとつまみながら不思議そうに顔をのぞき込んできた。宝石みたいに透き通ったちぃちゃんの瞳に、私の罪が暴かれそうな気がして、怖くなった。

「……っ、ごめん、ちぃちゃん」

「……? あっ……」

 言うや否や、私はまだ血も拭き終わらないうちに何処かへ駆けて行ってしまった。やけに深刻そうな表情を浮かべるちぃちゃんに、大丈夫だよ、と返しそびれた。

 その後、廊下の一番端まで逃げてしまった私を担任の先生が呼び戻しに来てくれた。恐る恐る教室に戻ると、もうすでに給食の配膳は終わっていて、同じ班の子も、ちぃちゃんも、誰もなにも言わなかった。戻ったころには、自然と鼻血も止まっていた。



 それでも、私に気まずさはずっと残った。鼻血を出なくするにはどうすればいいだろう。どうしたら、私がいかがわしいことなんて考えてなかったってわかってもらえるだろう。……どうせ、嘘だ。そう跳ね返されて、言い返せなくなって、終わり。そんなことをずっと考えた五時間目も六時間目も、長い長い時間でしかなかった。せめて今日はもう鼻血が出ないで、と願うことが精いっぱいだった。

 出逢ってから初めて、ちぃちゃんと一緒に帰らなかった日かもしれない。私は帰りの会が終わってすぐ、ちぃちゃんから逃げるようにして教室を出た。校門を抜けると、なにかが途切れてしまったように、ぴたりと走るのをやめた。少し乱れた呼吸を整えると、とぼとぼと、いつもより遅い足取りで通学路を踏んでいく。

 一歩、一歩、ゆるくでこぼこなアスファルトが足を通り過ぎていくたび、目の奥に熱いものが滲んでくるのを感じた。私は人気のない、いつもの通学路とは外れた別の道に行ってから、滲んだそれを自由にした。

 涙が、ぽつ、ぽつ。給食のときに垂れた鼻血なんかとは全く違う、小粒で、透明に光る雫。鼻血よりも誰一人として見せたくないもの。私はそれを拭こうともせず、雫が落ちるのと合わせるみたいに一歩、一歩、ゆっくりと歩いて家を目指した。少し歩くと、この道が前にちぃちゃんと冒険したときに見つけた隠れ道であることに気づいた。ちぃちゃんを思い出して、涙の粒が一回り大きくなった。

 とぼとぼ歩いたから、いつもと違う道なのもあってとても長い道に感じた。学校を出たときより太陽が少し傾いた気がしたとき、今通ってる道がいつもの通学路と合流した。

 太陽のオレンジが眩しくて、目を赤く腫らしたままの顔を上げたとき、私は涙を拭かなかったことを後悔した。

「きぃちゃん?」

 目の前に、ちぃちゃんがいた。

 なんで、どうして。ちぃちゃんに会わないように急いで学校を出て、いつもと違う道まで選んだのに。ゆっくり歩いてきたから、追いつかれちゃったの?

 そんなことより、この顔を見られた。嫌だ、ちぃちゃんにだけは絶対見せたくなかったのに。

 その瞬間、私の中へちぃちゃんにしたひどいことが降り注いできた。その重たさに耐えられなくなって、私は身体の中にある全部の力を出し切るみたいに走った。

「あっ、きぃちゃん! 待って!」

 私をとどめようとしたその言葉をちぎって、ちぃちゃんを振り向かずに家のある方へ逃げた。ぶちっ、と鋭い痛みが胸を通り抜けた。

 私が走る後ろにぴったりつくように足音が聞こえてくる。きっとちぃちゃんだ。とてとてと一生懸命に私を見失わないようにする健気さが痛い。

 気づけばもう自分の家に着いていて、私は家の中へ逃げ込もうとランドセルから伸びている紐を手繰って鍵を引っ張り出した。ちぃちゃんが後ろまで来ている焦りから、鍵穴をうまく狙えない。半ば無理矢理に鍵を滑り込ませてなんとか開け、そのままの勢いで中に入り、ガチャリと内側から鍵を閉めた。

「きぃちゃん! きぃちゃん、開けて!」

 するとすぐに、ドンドンと扉を大きく叩く音とともにちぃちゃんの声が聞こえた。こんなにも近くまで来ていたんだという恐怖心と、ここにいちゃダメだという焦燥感に追い立てられその場から逃げた。

 ドンドンと足を鳴らして階段を上り、二階にある自分の部屋へと駆け込み荒々しく扉を閉めた。すると、世界からすべての音が消えてしまったように、ものすごく静かになった。

「……どうして……どうして、こんなこと……」

 ようやく安全な場所に来られて感じたのは安心感なんかじゃなく、後悔だった。

「なんで……やっちゃったんだろう……!」

 ちぃちゃんから逃げて、避けて、追い出して。鼻血を出してから、どれだけ私はちぃちゃんにひどいことをすれば気が済むんだろう。そのときからずっと止まらない涙は、血も拭えない私にどうやって止めろというんだろう。

 私は部屋の中心に体育座りで蹲って、頭を膝にぴったりくっつけて泣いた。太陽がさっきよりも赤みの増した光で窓から差し込んできて、俯いてても目がくらみそうだった。そんなに強く燃えるなら、今の私を胸の内に残ったひどいこと丸ごと焼いて欲しかった。

 胸の内で考え込んで、後悔して。乱暴な自分に、弱虫な自分を責め立てられて、痛みが広がるたび、自分がどんどん小さくなってしまう気がした。膝を抱える腕だけが、縛る強さをどんどん大きくしていた。

 ふいに、どこかからガラガラと音がした。

「きぃちゃん」

 窓の方からだった。その声が聞こえてハッと顔を上げると、太陽の光に照らされて小さな影になった人がいた。眩しさに細めた目がどんどん光に慣れてくると、その人影もはっきりと見えるようになってきた。やがて、はっきりとその子の顔まで見えたとき、私はめいっぱい目を大きく開いた。

 ちぃちゃんが、そこにいた。部屋の窓に外靴のまま乗っかって、私を見下ろしていた。

「え……ちぃちゃん……!? なんで、どうして……!?」

「だって、全然開けてくれないんだもん。よじ登ってきちゃった。初めてだよ~。家で登ることなんてないし、登ったらお母さんに怒られちゃう」

 少しバツが悪そうにはにかむちぃちゃんは、窓の上で器用に外靴を脱いで、私の部屋へと降り立った。あっけらかんとしたそんな様子に、私の涙は驚いたように目尻に固まった。

「よじ登ったって……どうしてそんな危ないことしたの! ここ二階だよ! 落ちたら死んじゃうかもしれないんだよ!?」

「あはは、そうだね。別に身体動かすの得意なわけじゃないし、無茶だね。何回も落ちたよ」

「えっ……!?」

 全身の血が全部流れ出てしまったように感じた。意識が飛んでしまいそうだった。

「別に生きてるから大丈夫だよー。幽霊じゃないし、ちゃんと本物だよ?」

 私は一目見てわかるくらい驚きに歪んだ顔をしていたのだろうか、察したちぃちゃんが私に安心させるような様子で腕を広げて自分を見せる。

 服も身体も、端々が茶色く擦れていて、地面も壁も屋根も触ったであろう手はどこよりも真っ黒に染まっていた。それを見ても、到底安心できそうにない。

「何回も落ちたけど、不思議と勇気が湧いてくるの。私にはランドセルがあったから」

 それでもちぃちゃんの表情はヒマワリのように満開な笑顔で、そんな様子のまま嬉しそうに背中を見せた。その上には真っ赤で、ところどころほつれたように小さくケガをした様子のランドセルが乗っていた。それは私たちの勇気の証。二人一緒に背負えば、どんな冒険にだって行ける、そう約束したものだった。

「どんな冒険だって行ける、どんなことだってできちゃう……その約束、守ったよ。それにね、一回背中から落ちちゃったとき、このランドセルが庇ってくれたんだ。もしこのランドセルがいなかったら、私そのまま倒れたままだったかも」

 言葉のその先を想像してしまって、身体がひんやり冷たくなっていく気がした。

「でも、そんなの……」

「そんなのって言わないで」

 冷たさに震えながら、喉の奥に引っ掛かってうまく出てこない言葉をどうにか繋いで投げつけたら、ちぃちゃんが受け止めて優しく下ろしてくれた。ちぃちゃんは私にゆっくり近づいてから、目の前で屈んだ。蹲る私に目線を合わせてくれるように。

「きぃちゃんと約束した、大切なものなんだよ? なによりもきぃちゃんを感じられるもの。今日のきぃちゃんがさみしい顔をしてたとき、背負って行かなきゃ! って思ったの。きぃちゃんだって、今もずっと背負ったままだよ?」

「あ……」

 ちぃちゃんの優しい目が背中に向かって、初めてそこに乗る重さに気づいた。家に帰って、自分の部屋に入って、泣いて蹲るまでずっと、私の背中には赤いランドセルがついていた。

「違うの……これは……ただ、下ろすの忘れただけで……」

「ううん。それでもいーの。壁よじ登ってて、あと少しで落っこちちゃいそう……! ってときに、窓からきぃちゃんがランドセル背負ってるのが見えて、諦めちゃダメだって力全部振り絞って登れたんだから!」

 それはただの偶然で、ちぃちゃんを元気づけようとしていたわけじゃない。むしろ今日はずっと傷つけてばかりだった。なのに、ランドセルと私に微笑みかけるちぃちゃんの笑顔は底なしに明るい。

「……今日、どうしたの? ずっと元気ないよ」

「……」

 私はもう一度、逃げ出したくなった。けれどもうどこにも逃げる場所なんてなかった。黙っていると、ちぃちゃんがふんわり包むように私の手を握ってくれた。それにほだされるように、私は自分の中にある罪を吐いた。

「……あのとき、ちぃちゃんの裸、想像しちゃったんだ……」

「えっ……」

 それは、ずっとちぃちゃんを避けていた理由。今日したひどいことの中で、一番ひどいこと。一度解き放つと、止まらずに言葉がずるずると出て行った。

「給食の時間、鼻血出したとき。鼻血が出たのは偶然なんだけど……周りがえっちなこと考えてた、誰かの裸想像してた、って言ったとき……真っ先に、ちぃちゃんの裸を思い浮かべちゃったの」

 口先で強く拒絶しながら、奥底では突きつけられた言葉通りのものを思い浮かべてた。なによりも大切な友達で。……最低だ。

 身体の中にある全部を吐き出したら、今度は空っぽになった場所に恐怖心がどんどん流れ込んできてちぃちゃんを見られなくなった。私は目線の行く場所が見当たらなくて、自分の足元へ落とした。

「ごめんね、急にこんなこと言って。気持ち悪いよね、嫌いになっちゃったよね。だから、だからっ……友達、やめよう……?」

 今日何度目かの涙が込み上げてきた。けれどちぃちゃんには今になってもどうしても見せたくなくて、必死に堪えようとする。それでも止まらないから、私はもう一度顔を膝の間に落とす。

「……ううん、うれしい」

「えっ?」

 私は再び涙を止めた。顔を上げてちぃちゃんの心から嬉しそうな表情に、さっきまでの悲しいものとは違うなにかが胸の中で膨らんで、押し出されるようにまた涙がじんわり滲みだす。

「なんで。うれしいなんて、おかしいよ」

「おかしくなんてないよ~。……あのね、えっちなことを考えちゃうのって、その人のことが好きな証なんだって。好きだから、その人の裸を考えちゃうの」

「えっ……!」

「だから、きぃちゃんが私の裸を思わず考えちゃったのは、私のことを好きでいてくれてるってことでしょ?」

「ち、違うもん……!」

 涙を散らすように、咄嗟に首を横に強く振った。ちぃちゃんの言う「好き」はどこか普通の好きとは違うものな気がする。友達に対して感じちゃいけない、そんなもの。

 けれどちぃちゃんは強く否定するそれを制止するように私の両頬に手を添えた。

「私は、その好きがいい。きぃちゃんが、私の裸を想像してくれる好き。だから……友達、やめてもいいよ。友達だとその好きを受け取れないなら、やめちゃってもいい」

「なに言って――んんっ……!」

 ちゅっ、と、ちぃちゃんの唇と私の唇がくっついた。気づけばちぃちゃんはおでことおでこがくっつきそうなほど近くに来ていて、私と口元を合わせている。唇がとけちゃいそうなほど熱い。あまりの驚きに頭がぐるぐるして、なにが起こっているのかわからない。

 びっくりして感情が揺れた瞬間、嫌な予感が鼻の奥をくすぐった。考える間もなく真っ赤な血が私の鼻から垂れてきた。

 このままじゃ、ちぃちゃんにもついちゃう……! 離れなきゃ……!

 それなのに、一向にちぃちゃんは離れようとしない。

「んんぅ、んー!」

 一心不乱にちぃちゃんから離れようとする。けれどちぃちゃんは私を逃がしてくれない。私より細い腕のどこにそんな力があるのかわからないくらい、ぎっしりと捕まえられて、唇をくっつけたまま。

 やがてゆっくりと私たちが繋がっている唇に赤い雫が滲んで、口の中に鉄の味が染みた。

 おいしくないはずのそれをどうしてかずっと感じていたくなって、熱さにとけるそれが身体の芯まで沁み込んでいく感覚がした。しばらくそれを味わっていると、息苦しさに自然と私たちは離れた。その一瞬にして、口がもの寂しさに襲われる。

「はぁ、はぁ……どうして……?」

 落ち着かない息にいっぱい浮かんだ疑問がまとまらないままその言葉に出てきた。

「キスは、好きな人とするものだから。きぃちゃんが私を好きって思ってくれたなら、私もきぃちゃんを好きって伝えたい。友達じゃなくなっても」

「よく、わからないよ……それに、鼻血出てたよ! どうしてすぐ離れなかったの!」

 未だ尾を引く酸っぱい味に、私は疑問を露わにする。ちぃちゃんは未だ熱っぽい余韻をゆっくり確かめるように目を瞑って黙った後、静かに口を開いた。

「……憶えてる? 私たちが、最初にした冒険」

「え……?」

「きぃちゃんの家に忍び込んで、口紅塗ったの。あの冒険は、私にとって、とっても大好きで、大切なものなの。あの日が、きぃちゃんとずっと離れ離れになりたくないって思った最初の日」

 ちぃちゃんは自分の唇を愛でるように柔らかく指先で撫でて、きらきらと小さく目を輝かせる。

「血の赤が、その日見た口紅の赤と似てるなって思ったの。だから、二人でまた、おそろいの口紅になりたかった」

 また私にくっついてしまいそうなほど近づくと、今度は尊むように私の唇にそっと触れて、緩やかに目を細めた。

「きぃちゃんから出た、私たちだけの口紅。私は、美しくて、愛しいと思う」

 その指から伝わる熱に、私はまたあのとろけそうな感覚を唇に感じる。その感覚にダメになってしまわないように、私は鼻の下にいる赤い雫を手の甲で乱暴に拭った。

「ああっ、そんな手で拭いちゃきたないよ!」

「口に入るよりはずっといいって……」

 気づけばすぐに鼻血は止まっていたようで、私の手にぐりぐりとクレヨンのように広げられた赤色が落ちてくることはなかった。

「涙、止まったね」

「え? あ……」

「悲しいの、全部どっかいった?」

 クレヨンと同じように、知らぬうちに涙も目尻からすんなり消えていた。それに気づいた私の中に、今度は戸惑いが浮かんできた。

「……よくわからない。どっかいったというか、悲しかったはずのものが、嬉しいものになったというか……ねぇ、本当に怒ったりしないの? 友達のまんまでいてくれるの?」

 戸惑いを晴らしてくれるのを期待するように、行き先を惑う心をちぃちゃんに問うた。

「友達じゃないでしょ?」

 帰ってきた答えは私が求めていたものと余りにも違っていて、ぽかんと、固まってしまった。

「えっ、怒ってないんじゃ……え……?」

「あはは、変なの~」

 ぐるぐると頭の中を混乱させる私を、ちぃちゃんは面白そうに眺めて笑う。今の私から見れば、ちぃちゃんの方がよっぽど変だ。私の様子を見てちぃちゃんは嬉しそうなまま首を小さく横に振る。

「友達じゃないよ。でも怒ってもない。だって嬉しいもん。友達じゃなくて、好き同士。言ったでしょ? 裸を想像しちゃう好き。えっちなことを考えちゃう、好き。それがいいの」

「んー……? やっぱり、よくわかんない……」

 私は胸に手を当てて、深く自分の中にあるものを確かめてみる。ドクドクと、いつもより少し心臓が早い気がする。ちぃちゃんの言うその好きに、私は嫌な思いをしてないような気がした。ちぃちゃんの裸を想像した自分が、恥ずかしいとは思うけれど、ひどいと思う自分はさっきより小さくなっていた。

 そしてその好きが、子どもな自分じゃ理解できそうもない、おとなっぽいもののように思えた。最初の冒険のときみたいな、真っ赤な口紅のような、そんなおとな。少し背伸びすれば、私もおとなになれて、この気持ちがもっとわかるようになるのかな。

「……ねぇ、もう一度チューしてよ」

「えっ?」

 小さく驚くちぃちゃんに私は胸に滲む恥ずかしさに捲り立てるように言葉を連ねる。

「だって、もう友達じゃないんでしょ。だったら、何回でもしていいよね。……さっき、びっくりしちゃったから、あんまりちゃんと、できなかった……から……」

 もう一度唇をくっつけあえば、ちぃちゃんみたいにわかるかもしれないから。おとなになれるかもしれないから。

 けれど私の言葉に驚いたままのちぃちゃんを見て、その思いは全部恥ずかしいものに変わった。変なことを言ってしまった、言い出さなきゃよかった。

「うん、いいよ、しよ」

「えっ、いいの!?」

 さっきの表情とは裏腹にすんなりとちぃちゃんが頷くから、今度は私が驚いてしまった。

「当然でしょ? きぃちゃんから言い出したのに、変なの~。それじゃあ、今度はきぃちゃんからしてよ」

「え、私から……?」

「うん。だってもう友達じゃないんでしょ?」

 さっきから、ちぃちゃんの笑顔にずっと思いのままにされている気がする。同い年なのに、ちぃちゃんは私よりよっぽどおとなっぽい。自分でもはっきりわからない私の好きだって、ちぃちゃんはその笑顔で受け止めてくれた。最初に出逢ったときの、他の家に入ったことのないお姫様はもうどこにもいない気がした。

 そんなちぃちゃんを、私は知りたい。好きもおとなも、全部全部。

 私は蹲っていた自分を解放して、ちぃちゃんに近づいた。ちぃちゃんの両頬に手を添えて、真っ直ぐに向かい合う。

「……ずるいよ、ちぃちゃんは。私より先に、全部わかっちゃうんだもん」

「えー? そんなことないよ~。それに、こんなにしちゃったのはきぃちゃんだよ? 冒険に連れてってくれたから、私はいろんなことを知れたし、わかるようになったの。……その好きの意味も」

 そんな言い方をすると、私がちぃちゃんという真っ白なものを汚していくような、そんな悪いことをしているように思えた。けれど、ぜんぜん嫌な気はしなかった。

 私はちぃちゃんより高くなるように膝立ちになって、上からちぃちゃんの顔を覗き込む。期待に輝く瞳が、どんな宝石よりも輝いて見えた。

「いくよ」

 私はゆっくりと、ちぃちゃんの唇に、自分の唇を近づけていく。

 がらっ、と、赤いランドセルが二つ、愛おしく揺れた。

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赤いゆりかご 霜月透乃 @innocentlis

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