第八十六話 解放に向かう世界 ③椿山 湊が望んだ世界
徳島県徳島市、ある小さな一軒家の前に車を止め、降りる。
見なれているけど懐かしい光景、季節は真逆でも、変わらない空気。
「ああ、帰って来た、懐かしい我が家に」
思わず言葉が漏れる。私、
あの日。世界が変わった日、社会が呼吸を忘れた日に、生き残った人を求めて旅立った、はじまりの場所。
カギを開け、ノブを回してドアを開ける。開いたその先も、少し埃っぽくなっているだけで、いつもの我が家。
「……ただいま」
返事はない。分かっている、私の家族もまた、『にんげんホイホイ』に食われていたんだから。
さぁ、
私とヒカル君、くろりんちゃんが玄関に上がり、廊下を進んで食卓に向かう。あそこに二人のホイホイを置いてきたはずだ、部屋の目の前に立ち、
パン、パン、パンッ!
まばゆい光と炸裂音が、小さな家に響き渡った!
「「おかえりなさーい!!」」
思考が一気に吹っ飛んだ。いきなり別世界に踏み込んだかのような、明るく暖かく、喜びに満ちた光景だったんだから。
妻が、娘が、会社の社長が、職人仲間が、部屋狭しとひしめいていて、私をクラッカーと拍手で出迎えてくれたのだ。
「え、あ、ええ、ちょっと……これ、どういう?」
信じられない。これってホイホイに見えている光景じゃないよな、思わず自分の後ろにある私のホイホイを確認する。確かにホイホイはそこに在る、じゃあ、この光景は……私の願望を遥かに超える、目の前の現実は。
「あなた、おかえりなさい」
「お父さん、旅行ご苦労様」
智美と里香が私の前に立ち、花束を私に差し出す。訳が分からないまま、それを受け取ると……
ばふっ
その花束が潰れるのもお構いなしに、妻が私に抱き着いてきた。
「あなた、あなた……ごめんなさい。私は、あなただけを置いて、自分の世界に」
ぎゅっ、と私に抱き着いて、そう言葉を絞る妻。ああ、こいつが泣いているなんて何年振りだろう、懐かしさに心がじんわりと暖かくなる。
妻は涙に溢れた顔を上げ、それでも嬉しそうに、誇らしそうに言葉を続ける。
「みなさんから聞きました。あなたがどれだけ遠くまで旅をして、世界中の人たちを助けるために頑張って……そしてそれが、私と里香を助ける為、だって……」
「皆さん?」
その言葉に顔を上げ、部屋にひしめいている面々を見る。と、向こうの部屋に続く襖の向こうに、地元の人じゃない顔見知りの姿が見えた。
「天藤君にハートちゃん……これは、君達の仕込みか!」
神奈川で派手にケンカした悪ガキのうちの二人、
「あなたがどれだけ頑張ったか、無線やラジオを通してみなさんから聞いたわ。でも、私は、私は……っ、あなたを捨てて……」
「猫まみれの生活をしたかったんだろう。私がアレルギーなせいで飼えなくて悪かったね、なんとか飼う方法を考えるとしようか」
「え……」
妻の表情は「それだけ?」と言っているようだった。そう、ホイホイに入った妻が猫だらけに飽きて、美青年に囲まれて逆ハーレム生活をしていたのも私は見ていた。
ただ、そんな理想の世界でも、妻は私を運転手として片隅に置いていてくれた、まぁ美男子たちに比べて冷めた目で見られてはいたんだけど。
「他に、なにかあるのか? 不満とか」
それらを見なかった事にしてシラを切る。まぁ私もホイホイの中に金髪美女のハーレムが見えてたんだし、それ以前の日常でもそんな画像をオカズにしてたんだからお互い様というものだ。
「……ううん、何も無い、何も無いわ」
それだけ言って私の胸に顔をうずめ、しばし慟哭する。ひとつ、小さな声で(ごめんなさい)とだけ囁いていた。
「で、お父さん。その二人がヒカル君とくろりんちゃん?」
娘の里香が私達を見かねたのか、話題を反らしにかかってくる。応えてふたりも娘に挨拶する。
「はい、白瀬ヒカルです。湊さんには大変お世話になりました」
「夏柳くろりんです、湊さんは命の恩人です」
「あ、どうも。椿山里香です」
そう返した後、里香は私とくろりんちゃんを交互に見た後、彼女の元にすすす、と寄ってジト目でささやいた。
「ね、お父さんにヘンな事されなかった?」
ごんっ!
妻を抱きしめたまま、後ろの娘にゲンコツを落としておく。
「痛ったぁ~……でも、懐かしいな、えへへ」
頭を押さえながらも笑顔を見せる里香。そんな光景を見てヒカル君たちもぷっ、と吹き出している。湊さん一家らしいや、と。
ああ、帰って来たんだな。本当の意味での、我が家に。
天藤から話を聞くに、あの結婚式の後、なにか私に対して礼をしたいという彼の言葉に応えて、大熊師範や棟方議員、東京のじーさん達がグルになってサプライズを仕込もうと計画、私がヒカル君とくろりんちゃんの身内の救出を優先し、四国を後回しにするのをこれ幸いと、一足先に妻と娘、そして仕事仲間を復活させて待ち構えていたというわけだ。
「全く、私がかっこよく家族を助け出す感動のシーンが無くなっちゃったじゃないか」
両手の平を上に向け「やれやれ」のポーズを取る私に反応して、天藤が「あ、すっ、スンマセン!」と勢いよく頭を下げる。
いやまぁ冗談だよ。というか横浜の一件から埼玉で再会した時、彼が私に対してどこか申し訳なさと尊敬を抱いていた気がしていたが、それが彼をここまで突き動かしていたのなら、感謝こそすれ責める筋合いではない。
「……ありがとう、な」
「は、はい!」
ぐっ、と拳を握って目を潤ませる天藤の肩を、ハートちゃんが「良かったね」と言わんばかりにぽんぽんと叩く。ああ、二人もかつての自分を本当に恥じているんだな。良かったよ。
「んじゃ、お邪魔虫は退散するとしますか」
そう言って社長以下、職人や天藤たちがぞろぞろと家から出て行く。
「お、おいちょっと、もう帰るのか?」
「湊さんの願いを叶えたかっただけですから。ふたりと家族とを紹介するのが夢だったんでしょ?」
あ、と言葉が詰まる。そうだ、私がホイホイでずっと見続けていた世界。くろりんちゃんとヒカル君を妻と娘に紹介し、仲良くなって食事でもするシーン。ふたりと旅をしながら、もうずっとそんなシーンを夢見て来たんだ。
そして、そんなシーンが、もう目の前すぐの所にあった。
テーブルには料理がすでに並べられ、イスもちゃんと二人分増えている。なんだよ、私の出る幕が本当に無いじゃあないか……
「湊、さん……」
「あなた」
「お父、さん?」
私は立ったまま泣いていた。情けないと思いながらも、瞼から流れる熱いものを止められなかった。
旅をしながらずっと、心の片隅に根付いていた黒い心配。もう二度と智美や里香とは出会えない、あの朝が今生の別れになるかもしれないとの恐怖。
それを振り切るかのようにずっと『ホイホイに囚われた人を救い出す』と言い続けて来た。方法もわからず根拠もない、なかば虚勢ともいえる意固地さで。
黒部で、飛騨で、白雲氏に絶望の事実を突きつけられた。もう妻も娘も帰っては来られない、やはりあれが今生の別れになってしまったんだ、と。
その二人が今、私も前にいる。
ともに旅をした二人が、家族を救ってくれた少年と少女が、今ここにいる。
そして彼らと今、食卓を囲んで、たわいもない話が出来る……出来るんだ!
「あ、あああ、うわあぁぁぁぁぁーっ」
私は子供のように泣き崩れた。感情が、涙が、歓喜が、声が、体から堰を切ったように溢れ出すのを、止めることが出来なかった。
その時、私の背中に浮いていた『にんげんホイホイ』が、音もなくその姿を薄めて……
そして、完全に消失した。
もう必要も無かった。私の心からの願いは、いま、この場にあるのだから。
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