第八十二話 ただいま おかえり

 少女の小指が、少年の小指と絡み合う。


”あ、えへへっ”

「うふふ♪ あったかい」

 世界の境界を挟んで、くろりんちゃんとヒカル君が笑顔を交わす。ああ、そうだ。とうとう触れ合えることが出来たんだな、想い想われるふたりが。


「ヒカル君、出て来られないのか?」

”あ、はい……ダメみたいです。指から先が入らな、って、うわ!?”

 聞いてみたら、答えた先から彼の右手が手首まで出て来る。おお! 出て来られるのか?


「私が……引っ張ったら出て来た、みたい?」

 小指を絡めたままくろりんちゃんがこっちを向いて不思議そうに話す。理屈はよく分からないが、それなら!


「「「じゃあ、引っ張り出して!」」」

 私を含め、その場の全員が一斉にハモる。さぁ、彼を、このホイホイから助け出せっ!


「んんーーーっ!」

 小指を絡めたまま、もう一つの手で彼の手首を包み込んで、綱引きのようにヒカル君の体を引っ張り出しにかかる。一気にとはいかないが、前腕部、ヒジ、二の腕と、彼の体が、じわじわとこちらの世界に引っ張り込まれて来る。

 なんとなくノリでひっ付いている彼を、ゆっくりと引きはがしているみたいだ……とことん『ホイホイ』だなぁ。


「「引ーっ張れっ! 引ーっ張れっ! 引ーっ張れっ!」」

「「おーえすっ! おーえすっ! おーえすっ!」」


 ヤンヤの歓声と合唱の中、ついに右肩までがホイホイを抜けてくる、そのホイホイの境目はまるで水銀の泉のように波紋を広げながら、少しづつ彼をこっちに吐き出し続ける。


”……あ!”

 それまで前傾姿勢でこちらに帰ろうとしていたヒカル君が、思い出したように発してホイホイの世界を振り向く。

”みなさん、ありがとう、ございましたっ!”

 後ろに居並ぶ医師たちに半身で頭を下げる。そう、熊に襲われたヒカル君が生きていられたのは、ひとえにホイホイの中の医師たちのお陰。そんな彼らとも別れの時が来ているのだ。


”さっさと行きなさい、君の世界へ!”

”私たちの治療を無駄にしちゃ駄目よ”

 先頭に立つ医師がまず言って、周囲の医師や看護師が笑顔で手を振る。うん、さすがヒカル君が生み出したホイホイ世界の中の人たちだ。その態度から欲望や邪な気配は微塵も無く、心から彼の帰還を願っているのが分かる。


”ありがとう”

「ございましたぁっ!」


 彼が振り向いたまま、もう一度そう叫んだ時、ついに彼の頭がこちら側に引き抜かれ、今まで放送で聞こえていた彼の肉声が、目の前の彼の口から響き渡る。


 胸が、腰が境界を超える。彼が右足を曲げ、ホイホイの下枠に足を掛ける。ヒザが現れ、半身が完全にこちら側に移動する。


ぅっ!」

 と、その時、ヒカル君が顔を伏せて苦悶の表情でそう嘆く。彼の負傷した左肩がホイホイとの境界にかかったのだ、まだそのケガが痛むのか?

「ヒカ君、痛いの……?」

「ん……ううん、大丈夫」


 明らかに痛そうな顔をしながらも、くろりんちゃんに笑顔を向けるヒカル君。額に脂汗が浮いている、いいのか、このまま、引っ張り出しても……。


「大丈夫、皆さんもそう言ってます」

 そう言ってホイホイの中を目で示す。向こうでは医師たちが全員ヒカル君の背中を押し、ケガしている左肩や左脚を補助してホイホイをくぐらせようとしている。


「分かった。じゃあ」

 くろりんちゃんはそう言って、がばっ、とヒカル君に抱き着いた。首の後ろに手を回し、ほっぺとほっぺを潰れんばかりにくっつけて、体を寄せて密着させる。

「ちょ、クロちゃん、当たってるって」

 あー、潰れてるのはほっぺだけじゃない。コートの下の彼女の胸も、病院着一枚のヒカル君の裾を抜けて彼の胸にぴったりと、まるでおモチのようにくっついている。


「これで痛みもまぎれるでしょ……ヒカ君のえっち」

「……耐える事柄がふたつに増えたんだけど-」

 そのやりとりに、ぷっ、あははははっ、と周囲に笑いが漏れる。うん、なんか大丈夫そうだ。


「じゃ、引くよ」

「うん、お願い」

 くろりんちゃんの言葉に応えるヒカル君。やっぱりヒカル君の方はどう頑張ってもこっちに進めないみたいで、引っ張るくろりんちゃんの力だけが頼りのようだ。


 ぐぐっ、と体を反らせて、抱き着いたヒカル君を窓から少しづつ、少しづつ引っ張り出して来るくろりんちゃん。


「頑張れぇ、もうちょい!」

「あと左脚だけぇ、ひっぱれー」

「頑張れーくろりんちゃーんっ!」

「さぁさぁさぁ、いよいよ出てきます、ぬるぅ~~~っと出てきますよぉっ!」

 ワシワシさんの実況中継も交えて、みんながその瞬間を待つ。


 そう、私も、誰もヒカル君の帰還に手を貸そうとはしなかった。だって、彼を引っ張り出す役目はもう、彼女以外にはあり得ないんだから。


 ヒザが抜け、左足首が境界にかかる。あと少し、あと少しだ!


 抜けそうでなかなか抜けないヒカル君を、反り返りながら引っ張り続けるくろりんちゃん。なんかもう彼をフロントスープレックスしているような体制になってるなぁ。これこのまま抜けたら……


 ぽんっ!

 どどどどっ!


 ほらやっぱり。抜けた瞬間にヒカル君がくろりんちゃんを押し倒すような体制になっちゃってるよ。


「いやったぁーーっ!」

「ホイホイ脱出ー、世界初ーーっ!」

「おっしゃあぁーっ!!」

「でたでたー」


 地面に折り重なったままの少年少女を、周囲の大勢が歓喜と拍手で迎え入れる。


 ついに、ついにこの『にんげんホイホイ』から、囚われた人を救い出す事が出来たんだ!


「いっ、痛い痛い痛いって、クロちゃんてば!」

 彼女の上になったまま抱きしめられているヒカル君が、痛そうに体をよじってそうもがく。でもくろりんちゃんは下から彼を抱きしめたまま、両足でも彼の足をカニばさみして放そうとしない。


「おー、初めて見た。下からのだいしゅきホールド」

「馬鹿、茶化すんじゃないよ!」

「白瀬君……男なら耐えろ」


 いや、ケガ人なんだし、ここは労わろうよ。などと思ったが……


「えぐ、えぐっ。ヒガ君、ヒガくぅん、よがった、よがったぁ~~~」

  涙をぼろぼろこぼしながら、鼻水と嗚咽にまみれて「うぇぇぇ~ん」と泣き笑いしている彼女の顔を見ると、もう少しこのままにしといてあげようと思い直す。


 しばし放置しておいたが、やがて泣き止んだくろりんちゃんがヒカル君をを解放すると、彼はよろよろと立ち上がって、彼女の手を引いて立たせる。

 くろりんちゃんはまだしゃくりあげていたが、それを見て取った彼は彼女をぐいっ、と抱きしめる。と言っても彼女の方が頭一つ背が高いので、彼女を胸に埋めるような絵面にはならずに、逆に彼の頭が彼女の肩口に埋まる形になる。


「クロちゃん、ただいま」

「おかえり、ヒカ君」


 それでも二人は、とても幸せそうだった。



 しばし抱き合った後、ヒカル君は半歩引いて半身になると、私の正面に向き合って言葉を発する。


「湊さん、みなさん、どうも御心配をおかけしました……ただいまっ!」

「「おっかえりーーーっ!!!」」


 あーやっと私の番が来た、とばかりに二人に駆け寄り、彼の頭をわしゃわしゃと撫でる。それを合図に周囲の面々が一斉にヒカル君にたかって、彼をもみくちゃにいじくり回す、もちろんケガには配慮しつつ。


「よく帰って来たよ!」

「それでこそ黒帯だ」

「こんの野郎、心配させやがってぇ!」

「ひゃひゃひゃ、若いってええのう」

「うむ、見事である」


 大熊夫妻が、ルイや天藤が、伊集院さんはじめ走り屋の爺さん達が、そして白雲さんが戻って来た彼を、それぞれの言葉と態度で祝福する。


「やーれやれ、今日の主役の座を奪われちゃったねぇ」

 松波さんがそう言ってヒカル君とがっちり握手を交わす。まぁ彼には気の毒かもしれないが、それも仕方ないだろう。


「はい、これ。」

 杏美さんがくろりんちゃんに手渡したのはブーケトス用の花束だ。周囲の女衆もそれを見てキャーキャーヒューヒューとはやし立てる。いいの? という顔の彼女に周囲の面々が「当然!」と親指を立ててウィンクする。

 いやキミタチ、彼女が小学生だって事忘れてない?


「ホイホイから帰還した世界初の人間になった感想を、是非どうぞ」

 ワシワシさんがヒカル君にマイクを向ける。ええー? という顔をして一歩下がる彼だが、やがて意を決してマイクを握ると、やや上を向いて、まるで空に向けて宣言するように語り出す。


 この放送を遠くで聞いている世界中の人たちに、そして地球に届けるように。


「この『にんげんホイホイ』を作った、おそらくは地球さん。聞こえますか?」

 あるはずのない返事を待つような間を開けてから、言葉を続ける。

「僕は、この世界が、母なる地球が大好きです。生き物を生み出し、生きていける環境を生み出してくれた母なる星が」


「命を頂いて、体を貰って、知恵を授かって、想いを感じられて……そして『にんげん』という優れた生き物にして頂いて、この豊かな時代に生まれて」


 言葉を紡ぐ白瀬ヒカル。そう、思えば私たちはなんて幸運なんだろう。生命体として存在できただけでも、この広大な宇宙でどれほど稀有な事か。それが人類と言う奇跡の知的生命体に生まれ落ち、食料や衛生に困らない二十一世紀に存在出来て、さらに世界有数の豊かで安全な国、この日本に今いる事、一体どれほどに幸せな事か。


「だから、僕はこの星が大好きです。そして……それは僕以外のホイホイに囚われた人たちも、きっと同じだと思うんです」


 ああ、そうだね。ホイホイの誘惑に負け、あっちの世界が何でも望み通りになる退だと知った時、人はどれほどこちらに戻りたがるだろう。


 人の心などちっぽけなものだ、この雄大過ぎる世界に、地球に比べたら。


「だから、世界中のみんなにも、どうかチャンスを与えて欲しいんです」


 その宣言を聞いて、私も、みんなも、感動に打ち震えた。今しがたこの世界に帰還した彼が、もう他人の心配を……未だ愛する人と引き離された私達の願いを、訴えかけてくれているんだ。


「みんなも、きっとこの世界を愛してくれます。世界中の人たちが、自分の好きな人が帰って来るのをきっと待っています」


 智美つまよ、里香むすめよ。そうだぞ、私は待っているんだよ。


「きっと人間は、この世界を、母なる地球マザー・ブルーを、もっと好きになります! だから……僕たちの大事な仲間を、どうか返してください!!」


 歌い上げるように、ヒカル君がそう宣言した時だった。彼の後ろにある彼のホイホイが瞬間、まばゆい光を放って周囲を照らしたかと思うと……そのまましぼんで行って、やがて線香花火の核くらいに小さな光の玉になって、そして。


 ヒカル君の体の中に、消えて行った。


 世界人類全員に与えられた『にんげんホイホイ』が、人間の欲望を実現する偽りの世界が、はじめてその人のに、還って行った。




 この場にいる彼らは知らない。その訴えと同時に、世界中の砂嵐の小ウィンドウが拡大され、その中の映像が鮮明に映し出されたのを。


 中に囚われている人が、再び元の世界を、映像を通して見ることを許されたことを。


 地球が、白瀬ヒカルの訴えに応えて、世界中の人々にもう一度だけ、チャンスを与えた事を。

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