第2話
それからわたしは、小さな小鳥を見るたびに心の中でそっと、あおと呼んだ。その瞬間に自然と笑みが溢れているのに気がついたのは随分経ってからだった。
いつからか、あおを探すことがわたしのささやかな趣味となった。老人ホームの中で読める雑誌や新聞は限られているけれど、ちゃんと気をつけて見れば、あおは見つけられた。他にもテレビ画面の片隅、菓子のパッケージの裏。青ではなく黒で描かれていることも多かった。あおが本当は何なのか、あおの隣に書かれた英語の意味は相変わらず全く分からなかったけれど、あおはわたしにむけて描かれているような気がしていた。
うまく馴染めない老人ホームでの毎日。夫に先立たれた空虚さ。人生の不安に厚く覆われて、長い間思い出すことのなかった家族やあおのこと。幸せが詰まっていた過去の時間。今は気軽に話せる友達もいない。そんなわたしのことを、こうしてあおは見守ってくれているのだと感じた。
わたしはあお達がいれば、もう少しだけ人生をやっていけそうに思えた。特に楽しみも無かった日常に色が付いたのを、わたしははっきりと感じ取った。
あお探しを始めて一年が経とうとしていた頃だった。最初に違和感を感じたのは、これもまたわたしがあおを最初に見つけた、談話室の雑誌だった。
わたしがいつものようにあおの描かれているはずの広告を見ると、そこには黒い小さなばつ印が描かれていた。私は驚いて、しばし固まってしまった。小鳥が、あおが、消えてしまったのだ。わたしは雑誌から目を離し待合室の壁に目をやって深呼吸をした。想像以上に衝撃を受けている自分がいたのだ。
それから、それまであおのいたはずの小さな隙間には同じように全て真っ黒のばつ印が描かれるようになった。
あおの居場所はばつ印になった。ばつ印がどういう意味なのか分からなかったが、それは確実に私の心に影を落とした。
青い小鳥探しなんて馬鹿なことはやめるべきだと言われている気がした。わたしは何か悪いことをしたのだろうか。せめて、小鳥が他の生き物に置き換わるならわたしも少し救われたと思う。
どうしてあおを、わたしのあおを、私の小鳥探しを否定するのだろう。私は悲しかった。
わたしの元からもう一度あおが奪われた。わたしの小さな幸せが飛び立っていってしまったのだ。
わたしはこのばつ印に強大な怒りを覚えた。小鳥の代わりに日に日に増えるばつ印に、わたしは行き場のない憤怒を抑えられなくなっていた。その気持ちはスタッフに配膳の仕方に注意したり、他の利用者に話し声がうるさいと怒鳴ったりすることに向けられた。
引っ込み思案のわたしは、これまでの八十五年の人生で人に怒鳴ることなんて一度もなかったのだ。自分の行為は信じられなかったけれど、ばつ印への怒りが勝手に私を自暴自棄に作り替えてしまった。私は自分を止められなかった。それだけ、あのあおはわたしにとって大切な存在だったのだ。
それらの怒りは日中は私を激しく苛立たせるのに、食事を終えて個室に戻った瞬間に激しい後悔へと変わる。わたしは布団にくるまって、枕に顔を埋めて声を上げて泣いた。わたしは哀れで孤独だった。あおに会いたかった。夫に会いたかった。
ばつ印ではなく、あおがあふれていたあの頃に戻して欲しかった。
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