ばつ印と青い小鳥
萌木野めい
第1話
わたしが小学校に上がった頃、父がどこかからセキセイインコの雛をもらってきた。当時は非常に珍しいペットということもあり、医者の父は仕事から帰ってくるなり、居間で意気揚々と私たちに披露した夜は忘れられない。
紙の小箱を開けると、それはいた。まだ羽が生え揃わなくて、まばらな羽毛の隙間に素肌の桃色が透け、それでも必死に生きようと鳴いていた。わたしは手のひらに乗る小さな存在がものすごく嬉しくてとても可愛がった。青いから、あおという名前だった。
わたしも兄さんと姉さんもかあさんも可愛いあおがいっぺんで大好きになり、取り合いになり、そんなにひっきりなしに触ってはあおがかわいそうだからと三人揃って母に怒られたこともあった。
竹籠を開ける度あおは真っ直ぐに飛び立って、わたしの肩に止まる。熱心に世話して名前を教えたから、ちゃんとわたしをちぐさ、ちぐさ、と呼んでくれた。手に載せると、あおの細い足の指でぎゅっと私の指を掴む。手のひらに載せた粟を啄む時の痛痒いような感覚は思い出せば直ぐわたしの手のひらへと帰ってくる。あおの背中に鼻をつけて吸うと日向の匂いがした。
その後程なくして戦地へと赴いた父さんは戦死し、空襲でわたしたちの家は母とあおと共に崩れ落ちて焼けてしまった。空襲の中を命からがらで裸足で兄さんと姉さんと逃げた。だから、家族で過ごしたわたしの幸せな思い出はぜんぶあおと一緒にあった。文字通り幸せの青い小鳥だったのだ。かれこれもう八十年近くも前の話だ。兄さんと姉さんは去年立て続けに看取った。
夫の死後、家の階段で転んで足を悪くしたわたしは、車椅子での生活を余儀なくされ、たった一つの楽しみの庭いじりも出来なくなった。子供や頼れる人のいない私は一人暮らしが難しくなり、自治体のケアワーカーの進めもあり、やむなく老人ホームに入居することになった。
わたしが最初にその「青い小鳥」に気がついたのは一年くらい前だろうか。入居している養護老人ホームの談話室で開いた雑誌の広告の片隅だった。私は老人ホームですでにできたグループの輪に上手く馴染めず、一人で過ごすことが多かった。
私は老人ホームの談話室で、一日の殆どを過ごした。談話室は学校の教室くらいの大きさで、ソファが配置されて自由に読める雑誌や本が用意されている。NHKに固定されたテレビがつきっぱなしになっており、人の出入りもあって適度にざわついている。
自室から近く、スタッフに車椅子を押してもらわなくとも行きやすかったのも大きいが、ここは一人でいても別段気にされない。本を読むのが好きだった私は、一人で時間を潰すのにぴったりだったのだ。
雑誌に描かれていたのは小鳥、と言っても顔はなく、全体が空色の影絵のようなイラストだ。夫の命日近くで少し感傷的になって目が滑ってうまく雑誌が読めない中で、化粧品の広告の片隅のその小鳥がふと目に止まったのだった。わたしは小鳥の足元に指を置いて、まじまじと見た。恐らく以前にもどこかで見たことがあったような気はする。
小鳥の絵の右横には何かの英語が書いてあった。おそらく若い人向けの何かなのだろうけど、それが何なのか聞けそうな人が私には思いつかなかった。
そして、その小鳥を見つけた瞬間にわたしの心内に広がったのは、わたしが本当に楽しかった家族との思い出を乗せた、あおの記憶だった。
私が思い出を噛み締めながら雑誌の小鳥をじっと見つめていると、ふと談話室を通りがかった職員の若い女性が隣で足を止めて入ってきた。最近新しく入った職員の加賀美さんだ。
一昨年学校を出たばかりと言うから、二十代前半だろう。もしわたしに孫がいれば彼女くらいの年齢かもしれない。細い銀色のフレームの眼鏡と黒目がちの瞳、低い位置で一つにまとめた黒髪は、おとなしそうな雰囲気を感じる。
加賀美さんは見た目は大人しそうな割にいつも何かとよく話しかけてくれるのだが、少し間のずれた彼女との会話は正直少し不快で、殆ど続いた試しが無かった。加賀美さんは他の利用者にも頑張って声をかけているが、わたしと同じような感じだ。
加賀美さんは利用者の名前をしょっちゅう間違えて呼びかけている。交流のプログラムやシフトもよく間違えているらしく、よく先輩スタッフに注意を受けているのを見かける。
空回りばかりで全くうまく行っていないが、頑張っているのは感じるのでつい、遠巻きに見守ってしまう。顔を上げると加賀美さんは微笑む。少しかがみ込んでわたしに目線を近づけると、口を開いた。
「森山さん、ツイッターやってるんですね!」
「ついったー?」
全く知らない単語に、私は思わず眉を寄せてしまった。加賀美さんははっと申し訳なさそうな表情になり、「あ、違いましたか? すみません!」と、そそくさと談話室から出て行った。また会話はそこで終わってしまった。
ついったーとはこの小鳥の名前なのだろうか。わたしはこの小鳥が何なのかを彼女に聞きたかったけれど、加賀美さんはちょうど談話室を通りがかった先輩スタッフにまた何か注意されているようだった。顔をさげて、小さくこくこくと頷いている。
わたしは今更加賀美さんの所に聞きに行くのは憚られ、小さくため息をついた。そんなの気にせず声を掛ければ教えてくれるのだろうが、わたしは昔から人の目が気になり引っ込み思案で、人に気軽に話変えるのが苦手だった。だから、あおと喋るのが好きだったのかもしれない。
お見合いで結婚した夫は明るく、近所付き合いは夫の得意分野だった。だから夫が亡くなってから誰と話すのも苦手になってしまった気がする。この老人ホームでも誰かと雑談することはほぼ無い。習字や陶芸などのプログラムも、庭いじりの趣味ほど楽しめなくて、周りとの疎外感を感じ虚しくなり、最近は参加しなくなってしまった。
それを職員たちが遠巻きに心配していることももちろん知っている。放っておいてほしい。わたしは昔からこういう性格なのだ。今更変えるなんてできない。わたしを否定しないで欲しい。
わたしはもう一度雑誌に目を落とした。雑誌の片隅に見つけた、ちいさなあお。本当の名前はついったーなのかもしれないけれど、私にとってはあおだった。わたしは小鳥の羽根を撫でるようにそっと雑誌の上に指先を滑らせた。
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