問題編④ 認識資源限界点(コグニティヴ・リソース・リミット・ポイント)
「その語源を、ラテン語で『暗い部屋』という意味の言葉から──」
さわらPの問い読みにカットインするのは菅だ。手に持った早押しボタンが解答権を示している。
「カメラ!」
「正解!」
「まあ、俺も分かってたけどね~」
井ノ沢が負け惜しみを言う。高梨が彼らに温かい目を向けながら、今淵に書類を渡す。ここは証拠品を押収している倉庫の広場だ。エウレカの3人の声もよく響いている。
「いつにも増してクイズを楽しそうにやってますね」
「遊んでるだけだろ」
今淵は興味なさそうに一蹴して、手渡された書類に目を落とした。そして、しばらくすると腰に手を当てて中空を見つめた。
「ガイシャは外出の直前の16時半にロボットをスリープ状態にしてる。その時の映像も残されている。外出から戻った17時2分以降にあのロボットは起動されていないわけだ」(※ヒント1:章末をチェックしよう!)
「犯人が起動させたというわけでもないんですね」
今淵は鼻を鳴らして鑑識官たちがこれから行う実験の準備をしているのを眺めた。数人がかりでくだんのロボットが運び出されて、起動の準備が始まっている。
「実験をやる意味がなくなってきたな……。あの助手はまだか?」
高梨は腕時計に目をやった。
「もうすぐ来ると思うんですけどね」
その言葉を裏づけるように、倉庫の入口に案内役の警察官と共に両国の姿が現れた。
「すみません、遅れました」
早速、鑑識官たちの作業に交じって両国が動き出すと、ものの数分で準備が整ったようだった。全員が見守る中、両国がロボットを起動させる。
「あとは自律行動を取ります。こちらのパソコンで指示を送ることもできますが」
さわらPが両国の手元のパソコンを覗き込む。
「ロボットを制御するソフトはこのパソコン以外にもありますか?」
「いえ、まだ研究段階なので、このパソコンにしか入っていません」
彼らの様子を遠巻きに見ていた今淵は呟く。
「あのパソコンはラボの中にあったものだ。だから、ロボットを使ってガイシャを殺したわけじゃない」
自律行動を始めたロボットは自分の進路上に置かれたただの箱を観察するように近づいて、そのロボットアームで箱を掴むと、脇にどかして、元々の進路を進んだ。少し進むと、周囲を窺うようにして、今度は人間の膝の高さほどの小便小僧の置き物に近づいて行った。
「研究効率のために、物体を見つけるとそちらに向かうようにしています」
時にはたどたどしく、時には確信に満ちたように動くロボットをしばらく見守って、今淵は鑑識官たちに指示を出した。彼らは大きな白いビニール製のマットを広げ始める。赤いペンキの缶を運んでくる者もいる。今淵はペンキの勘を受け取ると、広げられて狭い部屋の床ほどの大きさになったマットの上に立つと、徐にペンキの缶の中身をぶちまけた。赤いペンキが一気に広がっていく。そして、小便小僧の置き物をペンキの海の只中に横倒しにした。戸惑う一同の中、今淵は両国に声をかけた。
「ここでそのロボットを動かしてくれ」
唖然とする両国だったが、一同の視線を一身に浴びているのことに気づき、急いでパソコンにコマンドを入力した。すぐにロボットが動き出して、白いマットの上に滑り出た。自律行動に移ると、辺りをフラフラと確認して、ペンキの海の中で横倒しになった小便小僧の置き物に真っ直ぐ向かって行った。ロボットの車輪が赤いペンキの中に突入していく。ロボットは置き物を観察すると、ロボットアームで持ち上げ、とろみのある赤いペンキが下たるそれをどかすと、ペンキの海を突っ切った。その後もマットの上で獲物を探すようにウロウロと動き回る。白いマットの上には赤い轍がいくつも刻まれることになった。
実験の片付けが終わり、両国は署を後にした。
「いいんですか、両国さんを帰して?」
刑事部屋に戻った高梨は開口一番にそう言った。井ノ沢も怪訝そうだ。
「ラボの床に血の轍ができていなかったということは、あのロボットが仙石さんが亡くなった後に動き回っていたという海野さんと両国さんの証言はウソだったということになりますね」
「だからどうなる」
アメリカの警官みたいにドーナツを頬張って、今淵は沈んだ声で応える。
「ロボットが止まっていたからといって、あの2人がラボの中に入ってガイシャを殺したと言えるわけじゃないだろ」
「確かにそうですけど……、じゃあ、何のためにそんなウソを?」
菅が問いかけるが、今淵は答えなかった。彼の前のデスクには、事件に関わる資料が散らかっている。そこに紙皿に乗ったドーナツが鎮座しているのだ。さすがに散らかりすぎていると思ったのか。井ノ沢が苦笑する。
「いつもこんな状況なんですか? 認知資源を奪われますよ」
「なんですか、認知資源って?」
脇から高梨が尋ねると、井ノ沢に代わってさわらPが解説を始めた。
「まわりのものを見て、判断して、解釈するリソースが、物が散乱してることで勝手に使われちゃうってことです」
今淵はうっとおしそうにさわらPを睨みつけた。
「いいんだよ、俺はこれで。自分じゃ意図してなかった情報がパッと目に入って糸口が掴めることだってあるんだぞ」
言い訳じみたことを言う今淵に一同は半信半疑の目を向ける。
「へえ」
井ノ沢が面白そうにデスクの上から資料を1枚引き抜いて、今淵の目の前に掲げた。
「じゃあ、この資料だとどうなります?」
今淵はひったくるように資料を掴むと、じっとそれを見つめた。
「通信指令センターの通報情報だ。こんなもの見ても……」
小言をこぼしかけた今淵の口が止まり、その目がじっと一点に向けられている。
「今淵さん、どうしました?」
高梨が尋ねると、今淵は資料を散らかったデスクの上に置いた。
「あの助手はラボのIP電話から通報してる」(※ヒント2:章末をチェックしよう!)
「それがどうかしたんですか?」
鈍い部下に向かって食べかけのドーナツを投げつけると、今淵は口角泡を飛ばす。
「バカか、よく考えろ。あの助手はガイシャを見つけてガイシャの姉にスマホでメッセージを送った。それなのに、そのスマホではなく、現場にあったIP電話で警察を呼んだ。なんでスマホで警察を呼ばなかった?」
高梨は茫然として答えられないようだった。隣の井ノ沢が床からドーナツを拾って、さわらPと菅の方を見た。
「映画などでは、アメリカの警察官がドーナツ店からタダでドーナツを貰っていますが、実際にそのサービスを行っていたアメリカのドーナツチェーン……」
井ノ沢の問いを遮るようにして今淵はパッと立ち上がる。そして、エウレカの面々を一瞥した。
「お前ら、遊んでないで行くぞ」
「どこに行くんですか?」
井ノ沢が尋ねると、今淵は振り返らずに答えた。
「〝現場百遍〟って言葉知らねえのか?」
ラボの裏手から高梨が汗だくになって戻って来た。
「やっぱり、ないですって……!」
高梨を迎えるエウレカの3人は、彼を労うようにペットボトルの水を手渡した。
「本当にどこにもないですか、侵入口?」
井ノ沢が感情のない問いを投げかけるが、高梨は口に含んだ水を吐き出さんばかりに応じる。
「もう4回も確認しましたよ! 窓は嵌め殺し、入口はひとつだけ、通気口は目の細かい網が張られています! 人どころか、ナイフ1本通る隙もありませんよ!」
「すいません、今淵さんから厳しくチェックしろと言われてるんで……」
高梨に同情を寄せるように菅が笑顔で取り繕う。
「今どこにいるんですかか、あの鬼は?!」
高梨が怒号を発するその脇を、エウレカの面々の視線が素通りしていく。嫌な予感を察知した高梨が振り返ると、意地の悪い笑みを浮かべた今淵が立っていた。
「誰が鬼だって?」
「おっ、おおお、お兄さんって言いたかったんですよ、僕は!」
「お前は慌てすぎだ……」
刑事らしからぬ狼狽具合には、さすがの今淵も顔を引きつらせてしまった。菅が好奇心に満ちた目を向ける。
「どこに行ってたんですか、今淵さん?」
「徒歩数分圏内にある、ここと同じ構造のオフィスを探してた。見つかった2軒はどちらもコンクリート敷きの前庭がある。片方のオフィスは今も営業中だ。だが、もう片方は人の気配がない。入り口には防犯カメラが設置されていたぞ。今、所有者を特定して、必要なら捜査令状を取る」(※ヒント3:章末をチェックしよう!)
菅が目を見開く。
「それって、つまり……」
「ああ、衆人環視の密室の謎は解決だ」
「ちょ、ちょっと待って下さい……! 僕が必死にここの侵入口を探してたのはなんだったんですか?!」
「ええい、近寄るな!」
汗だくでにじり寄る高梨を今淵が革靴の裏で蹴り飛ばした。井ノ沢は眉間に皺を寄せていた。
「でも、そんなこと、ひとりの力じゃ絶対に……」
「これは入念に計画された殺人だったんだよ」
今淵の瞳が冷たく光った。
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ヒント1:
16時半以降、ラボのロボットは起動していない。京子と両国は揃って虚偽の証言をしたことになる。ロボットはケーブルから電源の供給を受けており、防犯カメラはLANケーブルで映像をクラウドサーバーに送信していた。どちらのケーブルも京子によって引き抜かれた。ロボットが起動していなかったことは確認済みのことだから、京子はロボットを止めるために何本ものケーブルを引き抜いたわけではないということだ。
ヒント2:
IP電話とは、インターネット回線を利用した固定電話のことだ。通常の電話は電話回線がなければ使うことはできないが、IP電話はVoIPゲートウェイとインターネット回線があれば使うことができる。IP電話機の中にはVoIPゲートウェイ機能を内蔵したものもある。ちなみに、IP電話から緊急通報を受けた通信指令センターには、電話の契約者住所が通知される仕組みになっている。
ヒント3:
この密室トリックは、現場となったラボと外観も内部も同じ建物があれば実現できる。
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