ツイていない私は彼女についていきたい

よなが

本編

 料理を手伝ってもらうと取り決めたのが彼女の指や爪をなるべく素の状態にしておくのに役立っている。その綺麗な指先がいつか私の秘部を優しくなぞったり、焦らすように這ったりを繰り返し、やがてより深い部分へと進んで、この私の内なる温度や湿度を彼女が実感するのを何度も夢見ているのだった。


 そのいつかはきっと来ない。


 淡い希望ではなく邪な欲望と形容するのがぴったりな想い。実現にほど遠い夢想の行き着く先はほとんど常に後悔であり、身勝手に彼女を穢してしまったことを後ろめたく思ってはどうして彼女を好きになってしまったのかと、答えの出ない問いかけを続けている。


 今日も彼女――――阪上梓さかがみあずさは目の前にいる私の気持ちなどおかまいなしに、彼女が好きなものについて話す。とある少女漫画で、私はタイトルにさえ聞き覚えがない。


「主人公の女の子には小学校に入る前からの幼馴染がいたの。その子も女の子で主人公にとって一番の友達。小学校六年間、主人公はその子の隣でずっと過ごしたんだ、まるで双子みたいにね」


 梓は私の三分の一ぐらいの速度で手を動かしている。

 初夏の夜、私たちは餃子を作っていた。二人が立って並んで調理するにはアパートのキッチンは狭い。だから部屋の中央に置かれた低いテーブルに必要なものを揃えて、座っての作業だ。


「中学生になってからも二人は大の仲良し。同じ吹奏楽部に入ったのに、幼馴染のほうばかり上手くなってちやほやされても、それを理由に喧嘩したり疎遠になったりはしなかったんだ。主人公は内気で自己主張の弱い、典型的な地味子ってやつ。一方で、幼馴染はどんどん華やかに、可愛くなっていくの」


 やっと一つを包み終えた梓がその餃子のひだを満足気に撫で、テーブル上の大皿に並べた。大学に入学してから一年足らずは自分一人のためのテーブルだったのが、下の階に住む梓と知り合い、彼女が週に二日か三日ほど上がり込んでくるようになってからは私たちのテーブルだ。彼女との食事が習慣化してから早数カ月が経とうとしていた。


「それで、幼馴染からどんな仕打ちを受けるの?」


 訊くと、彼女は手を止めて「うわぁ」って露骨に引く。いつもは下ろしている前髪をあげ、横もまとめて後ろに一つで束ねているからその表情がよくわかる。やや面長と言えるその整った顔立ちは、私と会う時は大抵、化粧っ気がない。

 今その目はどこか楽しげでもあるから、本気で私の言葉に不快感を抱いてはいない、そう信じたい。


「かなめ、幼馴染と暗い過去があるの?」

「べつにない。まず、幼馴染と呼べる人間がいない」

「へー、親が転勤族ってやつ?」

「いや、そういうんじゃなくて。それなりに子供のいる地域で、小中学校ともにクラスが五つ以上あったから、ずっと同じだった子はいなかった。厳密には何人かいたんだろうけれど……」

「友達じゃなかったわけだ。まぁ、かなめが友達多くないのが今に始まったことじゃないってのは察しているよ。どう足掻いても根暗だもん」


 私より一つ年上、でも浪人しているから学年としては同じで、別の大学に通う梓が容赦なく言ってくる。同じ大学の友達にもこんなふうに暴言を吐いているんだろうか。私相手だけだったらいいのに、なんて思うのを止められない。

 逆に私以外の子に優しくしていたら? 大学入ってからは彼氏いないって言っておいて、実はとっくの昔につくっていたら? そんなことも考えてしまう。


「さすがに怒った?」


 ついうっかり、私も手が止まっていた。それで梓が不安げな声色を私へと向けてきたのだった。


「ひき肉にしてやりたい程度には」


 怒っていないと伝わるトーンで私は返す。彼女の、つるんと露わになっている耳を引っ張りたくなったけれど、餃子を作っている手でそうするわけにはいかない。そうでなくても彼女の身体にそんなふうに気軽に触れられない私なのだ。


「うわ、猟奇的。野菜だらけの餃子パーティーにしておいてよかったぁ」

「みじん切りにしてほしいの?」

「リアルに怖いなぁ、それは」


 今夜のメニューが餃子になったのは、梓のリクエストだ。二人で餃子パーティーを開こうと言い出したのも、肉もにんにくも抜きでヘルシー志向でたくさんつくろうって提案したのも。おおよそすべての材料を買ってきたのは私だけれど。費用は折半、気持ち多めに出してもらってはいる。調理は私が中心になって行うから。


「というか、さっきの話は私自身と重ねて言ったんじゃない。てっきり、そういう展開かなって」


 信じていたはずの親友に裏切られたところに、王子様役の男の子が現れて始まるラブストーリー、みたいな。


「んーと、冒頭部分を丁寧に説明するのが間違っていたかもね。早い話さ、中三のときに主人公は幼馴染に告白するの。ライクじゃなくてラブなんですーって。幼馴染も同じように思ってくれているに違いない、だってキスもしたんだしってね」


 あっさりと。梓にとってはフィクションでしかない筋書き。


「……フラれちゃうんでしょ」

「そうだよー。じゃない物語が始まらないからね」


 女の子同士で付き合って、それから……という物語ではないのだ。わかってはいた。そんなのを好んで読む梓ではない。


「幼馴染からしたらキスもお遊び、友情の印ぐらいだったわけ。で、主人公に対して『変だよ』って、ばっさり。あえなく失恋、心に傷を負った主人公は彼女とは別の高校へと進学するのでした」

「どうせ、女顔のイケメンとなんやかんやあって恋に落ちるんでしょ」


 流れからして。

 逆に、漢の中の漢らしき生徒や先生から言い寄られるのもありそうではある。でもやっぱり、梓の好みからすると違うはずだ。

 

 梓は私の投げやりな言葉に「ま、そんなところ」と手を動かしつつ微笑む。私がちらっとその微笑みを盗み見たことを彼女はたぶん知らない。その口許、小さな唇に触れたい、自分のを重ねたいと私が思っていることは知られてはいけない。


「あっという間に一年が経って二年生。春の終わりにね、主人公はクラスメイトの物静かで少し近寄りがたい雰囲気のイケメン君と街でばったり出くわすの。彼とは一度も話したことない。人柄について知っていることは全然ない。でも、見破っちゃうんだよね。よくできた女装姿の彼を」


 盛り上げようとしているのか、抑揚をつけて彼女は話してくれる。しかし意外ではなかった。いわゆる女装彼氏だとか男の娘だとか、その手のジャンルを梓が好きなのは知っている。

 最初こそ驚き、若干の生理的嫌悪すら抱いた私だったが、梓から何度も聞いているうちに抵抗が和らいだ。言わずもがな、梓自身に私が特別な好意を抱き始めた影響もある。

 前に耳にした「こういうの話せるの、かなめだけ」という台詞を頭でリフレインしては、にやけているのが私だ。


「いかにも女の子っぽく描かれているんでしょ。そこらへんを歩く顔のないモブよりずっと可愛く」

「うん。素材がいいから、似合っちゃうんだよね」

「で、主人公はそのイケメン君の女装姿に惚れちゃうの?」


 また一つ餃子を包んで、皿に並べる。そろそろいいかな。食べきれずに残して日を跨ぐのも気が進まない。


「主人公は彼を原石だって思うの」

「原石?」

「磨けば光るってこと」

「え、プロデュースしていく展開なの?」

「最初はね」


 意味深長な調子で言う梓。

 何かを企む、魅惑的な笑みだった。正直、漫画のあらすじはどうでもよくて、この人が見せる表情を味わいたくて、話の続きを促す。


「徐々に描写されていくんだけどね、主人公は例の幼馴染に拒絶されて以来、自分の恋路に思い悩んでいたわけ。女の子を好きになるのはそんなに変か、将来的に男の子を好きになれるのかな、とか。ザ・思春期ってやつ。そこに飛び込んできた女装男子に希望を見出すの。彼の行く末に、自分の恋の未来があるんじゃにないかってさ」


 希望、未来。私はそれら二文字を心の内で笑い飛ばした。

 わかっているからだ。その物語は、彼女が同性愛者であるのを自認し、受け入れ、そして新たに別の女の子と結ばれる――そんなことはないのだと。


「彼をより女の子らしく、可愛くしていくうちに主人公は彼の内面に触れたくなるの。彼が女装する理由は亡くなった妹のことが大きくて……」


 二人とも手を止めていた。

 彼女をじっと見つめ、相槌を打ちながらも、話は聞き流すことにする。彼女は熱っぽく話す。彼女が好きなことについて、好きなように話しているのだ。そうしているときの彼女が大好きだ。抱きしめたいって思う。それ以上のことも。


 私から言わせれば性的倒錯者でしかない、女装趣味の男性という存在を梓はなぜか愛している。とりわけ美少年。梓は「彼らには不思議な魅力があるの。私の心をくすぐる何かが」と艶めかしく話していた。

 今のところその性癖が二次元の範囲に収まっているのを幸いと捉えるべきなんだろう。もしもある日彼女が恋人として、スカートを履いているけれどその下に逞しい男根をぶら下げた輩を私に紹介したのなら卒倒してしまう自信があるから。

  

 ところで女装趣味の男はレズビアンをどう思うんだろう? 人それぞれだと結論付ければそれまでだが、つまり傾向として。そんなことを考えつつ、梓の唇の動きを追い、声に身を任せた。


「……でね、男の子の姿の彼とデートを一日してみて、主人公はもしかしたらこの人を、ありのままの姿で好きになれるかもって思うの。同時に、それなら彼が女装するのを自分はどうしたらいいんだろうって。新しい葛藤が生まれて、心が揺さぶられちゃう」

「うん」

「ねぇ、かなめ」

「聞いているよ。なに?」


 そこで一旦、梓は口を閉じた。私はどきりとした。

 話をいいかげんに聞いていたのを悟られ、それを責められるのかと身構えた。

 これまで彼女が私に浴びせてきた罵りは、結局のところ戯れで、後を引くことのない、彼女なりの親愛表現だとみなすことができた。

 でも今、目の前でその唇を横に結んだ彼女が漂わせている雰囲気には妙に硬さがあった。緊張感、そう表現するに相応しい空気だ。


「……梓?」


 沈黙に恐れおののいた私は、その愛しい名を呟いていた。


「あ、えっと、大した話じゃないんだけど。ま、アンケートみたいなさ」

「アンケート?」


 先ほどまで、そんな話の流れではなかったのは把握していた。

 もしかして、と私は空想する。ついさっきまで彼女が話していた「少女漫画」の作者は梓自身で、どんなふうなエンディングを迎えるのか悩んでいるのではないかと。そうだとしたら私はこう返す。可愛い女の子とカッコイイ男の子が愛し合う、それがみんなが欲しがるハッピーエンドだよって。それでいいんじゃないのって。


「あのさ」

「うん」

「たとえばね、この人が男だったら付き合うのにって。そんなことを思ったことがかなめにはある? あるいは自分が男だったらこの子と付き合うのになって」


 泳ぎ始めた梓の視線を着地点を追う。

 私ではなくテーブル上の餃子に注がれた。焼き餃子の予定だ。でもまだそれらはむしろ、ひんやりとしていてその香りは閉じ込められている。そのことを充分に確認してから私はまた、梓を眺めることにする。そして「どうだろう」と時間稼ぎの宙ぶらりんとした返事をしてみた。


「私はさ、たまにある」


 梓が密やかな声で告げる。慎重に言葉を選んだみたいだ。

 ようやく私は、梓が今この瞬間に彼女の深い部分を覗かせようとしているのだと思い当たった。漫画の話は前置きなのかもしれない。それでいて無関係とは思えない。性的なすれ違い。もし同性でなく異性であったら。その問いを改めて私自身にしてみる。けれど、うまく答えられなかった。


「我儘なのかな」


 迂闊にも、思ったことがそのまま私の口から出てきて、梓が小首をかしげる。誤魔化すか悩んで、でもやめた。


「ありのままで好きでいること、好きになってもらえること。それって我儘なのかなって。贅沢だとは思う、でも傲慢ではないはず。……梓はどう思う?」


 後半は早口になった。

 自分で留めずに、彼女に委ねたかった。この話をどんなふうに終わらせるかも、なにもかも。理想的には「そんなことよりお腹空いたね」といつもみたいに笑ってくれて、それで私が餃子の敷き詰められた皿をゆっくりと持ち上げ、焼く準備をし始める。そして彼女はスマホを取り出していじる。そんな光景があればよかった。


 梓は目をそっと閉じ、微かに首を横に振った。私はそれが意味するところがわからず戸惑った。肯定ではなく否定、そしてあたかも静かな拒絶に等しい仕草。

 一秒ごとに加速していき、私を巡り続ける惑いがやがて私を置き去りにする。


「餃子、そろそろ焼かないと」


 空っぽな私が虚ろな声でそう言った。

 数十分前、パリッとさせたいと意気込んでいた梓は「手、洗ってくるね」と言い、私より先に立ちあがった。


 黙って餃子が焼き上がるのを二人して見届けると、私たちはいよいよ食べることにする。身体は正直で、焼き餃子の香りに食欲が湧き上がっているのを感じていた。いくら梓のことを想っている私でも、今はこの食事を妨げられたくない。

 梓を見やる。目を輝かせていた。彼女もまた、食欲を満たすことで頭がいっぱいのようで安心した。


「最近さ、気になっている人がいるんだよね」


 梓がそう口にしたのは、既に餃子が残り三つになったときだった。彼女はゆっくりと箸を小皿に置いた。


「全部繋がっている?」


 私はそう訊いてから、残りが奇数であるのをやけに気に入らなくなり、ひょいっと餃子を一つ箸で摘まむと一口で食べた。


「つまり、同性の幼馴染に告白してフラれた女の子と女装男子の恋愛漫画の話、もしも相手と自分が異性だったらという話、そして梓の気になっている人の話が」


 しっかりと噛んで、飲み込んでから私はそうまとめる。

 梓がこくりと肯く。


「そうだね、たしかにそう」

「ということは……」

「バイト先の新人なの」


 一気に肩の力が抜けた。

 わかっていたことだ、私ではないって。そう自分に言い聞かせた。所詮、私は週に二度三度、夕食を共にする仲というだけ。ただの友達。阪上梓というヒロインにとって、私はかろうじて名前の与えられている役でしかないのだ。


「女の子なの?」

「……そう」

「そっか。女の子なんだ」


 話すことに勇気が必要だったんだろう、梓の面持ちには普段にはない硬さがまた現れていた。そのバイトの新人さんはこんな梓の顔を知っているんだろうか。その子を前にすると、常にこんなふうなんだろうか。

 

 私じゃダメなの? 

 その一言が出てこなかった。私にしておきなよと冗談めかして言っていい、まずは軽くでいいから、回りくどくてもいいから梓に伝えないことには始まらない。

 

 気になっているその子は梓に抱かれたいって思うのかな、梓はその子に抱かれたいのかな。私だったら応えてあげられる。私だったら……。


 仄かに熱を帯びる下腹部に目線を落とす。

 なんで生えてないんだ。なんでツイていないんだ。

 どうして私は目の前にいる、好きで好きで好きでたまらない人をものにできない。今すぐに彼女を押し倒して、彼女の奥深くに私の証を刻み込めたのなら。

 

 そう願うのが罪なのなら、叶わぬ想いがすべて悪ならば、この世界で我儘でいられるのって本当に少数なんだ。許しがたい世界に私は目を瞑り、口を閉ざした。

 

 餃子の芳ばしい匂いが否応なしにする。

 息も止めてみる。すぐにつらくなる。


「引いたよね。変だよね、私」


 声が聞こえた。私の態度を勘違いした彼女の声が。

 目を開けば青ざめた表情の彼女がいる。傷ついたのは彼女であって私ではないのかもしれない。二人で傷つき合えたのなら、傷を舐めあうこともできるだろうに。


 私はいつの間にかぐっと握りしめていた箸を彼女と同じように小皿の上に置く。それから私は彼女の真横に移動する。膝上で震える彼女の手、それに包み込むようにして触れた。そして肩を寄せると、囁く。


「梓が女の子を好きになっても、私は傍にいるよ」


 ただそれだけ。私は臆病だった。

 

 梓は私の囁きに「ありがとう」と小さく返す。

 私は片付けを引き受けた。でも彼女が部屋を去ってもなかなか動き出せなかった。皿の上に残った餃子がすっかり冷めてぼそぼそになってしまうまで、私はそれらをぼんやりと眺めていた。夜が更ける頃、私は一つだけ口に放り込んでろくに咀嚼せずに飲み込み、もう一つを握りつぶしたのだった。

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