酸性の羽音

羽川明

酸性の羽音

 目が覚めて、スマホの電源を入れる。今日も僕ての通知はなかった。


 パジャマから外向きの服に着替えてショルダーバッグを背負い、母さんが昼寝している部屋の前を横切る。


「出かけるの?」


 案の定、鋭く尖った甲高い声をぶつけられる。

 反動で僕は目眩めまいを覚えながら、無視をして寝癖をなおすために洗面所へ。


「出かけるの!?」


 母さんの声が一気に大きくなって、ドスンと重りで殴られたようにぐらつく。


「他にないでしょ」


 弱々しく答えて、水で濡らして寝癖をなおす。


「無視しないでよ」


 母さんの鬱陶うっとうしい追撃に、


『答えたって、興味ないじゃんか』


 そう言ってやりたかった。

 けど、そんなことをしたら母さんはいよいよわめき散らして暴れ出し、僕が謝るまで手がつけられなくなる。


 できるわけがなかった。



 僕の好きなものや、今日あったこと、何を話しても母さんは生返事しかしなくて、僕はこの二十二年間で無意味なんだと悟った。

 一度髪の毛を刈ってほとんど丸刈りみたいにしたことがある。そのときでさえ、母さんは僕が自分から言うまで気がつかなかった。


 そのくせ出かけようとするたびに声をかけてきたり、僕がリビングで本を読んでいたりすると話しかけてくる。

 答えたところで会話はそこで終わるのに、だ。


 多分母さんは母親をしてるんだと思う。本当は僕に興味なんかないけど、罪悪感か何かで、表面上僕を気にかけているつもりになって、一人で満足してるんだ。


 びついているせいで漕ぐたびに金属音がするボロい自転車にまたがり、僕は家を出た。



「……塾の模試どうだった?」


「やばーい、A大行きかも」


「マジ!? Fランじゃーんっ」


 外出早々赤信号に引っかかって待っていると、女子高生の他愛もない会話が飛び込んでくる。


 A大とは僕の通う大学のことだ。受験期には猛勉強したし、A大はすべり止めではなく第一志望だった。


 それでも、A大は地元じゃFランク、つまり最低ランクの大学と認識されている。あからまさに顔をしかめるのも気が引けたので、僕は曖昧に笑った。

 女子高生二人はそんな僕なんか見向きもせずに駄弁だべり続けていた。


 目的地は川だ。

 自転車で風を切る感覚が好きな僕は、川沿いの舗装された一本道を疾走するのが近頃の日課になっていた。

 もやもやした気持ちもその場所でなら晴らすことができる。向かう道のりで、僕はずっと日頃の悩みに思考を巡らせる。


 僕に興味がない母さんのこと、ほとんど家にいない父さんのこと、そして、満たされないこの気持ち。


 いわゆる欲求不満というやつなのかもしれない。ともかく、僕はここ三年間近く物足りない感覚に悩まされていた。

 ゲームをしても映画を観ても、なんとなく違う。こんなことがしたいんじゃない。そんな気分に支配されて、楽しめない。


 友達と話をすると一時的に解消されるので、きっと僕は寂しいんだろう。



 川に着いた。

 舗装されている道の幅が狭いので、大人二人がすれ違うので精一杯だけど、幸いここはほとんど人気がない。

 おかげで今日も余計な気を配らなくてすみそうだ。


 川沿いの道を自転車で漕ぎ出して、僕は思考を再開する。

 友達といれば満たされるなら、ネットやなんかで一日中話していればいい。


 最初はそう思ってたけど、実際は疲れるだけだった。

 最近では自分の発言はもちろん、相手の反応を見て一喜一憂するようになってしまって、話すのに疲れてしまった。


 リアルで顔を突き合わせて喋るのならこんなことにはならないんだけど、大学四年生の現在、授業はない。

 大学で会える友達は皆無だ。遊びに誘い合うほど仲も良くない。そして大学以前の友達とはほとんど交友関係が絶たれてしまっている。


 ネットにも毎日のように話す友達はいるし、彼らと実際に会って遊んでいた時期もあったけど、僕が彼らのサークルを抜けたことで壁ができてしまった。


 じゃあ抜けるなよって話だけど、彼らは生粋きっすいの運動部で、僕はずっと帰宅部だった。

 バレーのサークルで僕のような運動音痴が許されるのはメンバーが足りない最初のうちだけだ。

 一チームの人数を超えて新しいメンバーが入ると知り、居場所がなくなる前に僕はサークルを抜けた。


 おかげで気まずいことにはなっていないので、彼らとは今でもSNSで話すけど、当然彼らにしかわからない話題があって、そのたびに僕は見えない壁に塞がれる。


 息苦しい。


 現実もネットも、ストレスなくいられる場所が僕にはない。

 あるとすれば今だ。


 人気のない、川沿いの道を疾走するのに配慮なんていらない。開けているから飛び出してきた人影にぶつかることもない。


 寂しくとも紛らわすことはできるし、嫌われることにおびえながら会話するよりはるかにいい。


「もうこんな時間か」


 腕時計を見ると四時半だった。

 うちでは六時に夕飯を食べる決まりなので、帰る時間も考えると引き返さなくちゃいけない。川沿いから住宅街につながる道まで戻るのはあっという間だった。怒られたくないという焦りのせいからだろうか。


 時計を見るとまだ少し余裕がある。遅れてはいけないという後ろめたさのようなものを感じながら、僕は川辺におりた。


「なんだ?」


 正体はすぐにわかった。たくさんの羽虫が群れをなして飛び回って、蚊柱を作っていた。

 小さすぎるからか羽音こそしないものの、ほこりサイズの虫たちが絶え間なく飛び交っているのを見るのはあまりいい気分じゃなかった。


 水の流れを見るのが結構好きなので、できればもっと近づきたかったけど、羽虫の多さに断念せざるを得なかった。


「昨日まではいなかったはすだけどな」


 今日はついてない。

 家に帰って、夕飯を食べて風呂に入ると、僕は早々にベッドに潜ってネットを漁り始めた。主に動画投稿サイトの面白動画や配信の切り抜きを見ている。


 大勢でコラボしたりして騒いでいるのを見ても自分と比べて寂しいなんて思わなかったし、気を配らなくていいので気楽だった。


 ふと思い立って、スマホの上端から下に向けて指をスライドさせ、SNSの通知欄を更新する。

 やはり僕宛ての通知はなく、僕が自発的に送ったメッセージにいいねがついているくらいだった。

 口下手なせいか、こうしてときどき新しい人に自分から絡みにいってもいいね一つで済まされるので、正直うんざりしていた。


「ん?」


 夜がふけて来たので電気を消して見ていたら、スマホの画面にゴマつぶみたいなものがくっついた。

 よく見るとそれは羽虫だった。


 ふっと短く息を吹きかけると、羽虫はすぐにいなくなった。小さかったので羽音で眠れなくなることもないだろうけど、一応蚊やハエを殺すスプレーを部屋で使った。


 夏場になるとたまに羽音で眠れなくなるときがあるので、事前に買っておいたのだ。


 ワンプッシュで死んでしまうのだから、命は儚いという言葉にも少しは共感できる。人の命を指して使われることが多いけど、それに関しては理解できない。


 居場所のない僕が何度か死後に希望を見出したことは言うまでもないけど、いつだって僕にはできなかった。

 首吊りも飛び降りも身投げも、怖くなってしまったからだ。


 このまま生きていることの方が怖いに決まってるのに、そういうときだけ生存本能が働くらしい。


 だから人の命が儚いとは思わない。むしろ人の命とはしぶとくて、鬱陶しいくらいしつこいものだと思う。


 でなければ僕はとっくにこの世にいない。


 実は大学四年生をするのは二回目になる。いろいろあって唯一の内定が取り消しになってしまって、卒業すると履歴書に穴が空いてしまうので留年することになった。友達も人脈も無ければ、就職先も学歴もない。


 端的に言って僕に未来はない。


 いつか死のうと思ったまま、ついに二回目のFラン大学四年生を迎えようとしている春。


 一度考え出すと辛さや痛みが渦巻いて止まらなくなるので、僕は長時間の動画配信をつけっぱなしにしていないと寝れなくなった。健康だと言ったが、精神面では僕はとうに壊れている。


 けれど、この日から僕の生活は変わり始めることになる。


 翌日も翌々日も、春休みで予定のない僕の一日に変化はなかった。だけど一つだけ、ささいな違いが生まれた。


「今日も来たのか」


 誰にも聞こえないような小声で、僕は誰もいない部屋の中つぶやく。

 相手は中空を舞う一匹の羽虫だ。


 この前から一日一匹のペースで家の中に現れるようになった。家族に聞いても見かけないというし、どうも僕の前にだけ出現するようだ。


 スマホのゲームのデイリーミッションみたいに、羽虫は必ず現れる。

 羽音もしないし、サイズもゴマつぶくらいなのに、僕が見落としたことは今のところない。見つけるとすぐにどこかへ行ってしまうので、とくに不快感はなかった。


 川へ行けば羽虫の群れでできた蚊柱が見られるかと思ったけど、あの日以来羽虫は一匹もいない。そのことが余計に僕をとりこにさせる。


 あの日見た羽虫の大群は、僕を非日常へ誘おうとしてくれていたのかもしれない。冗談でネットの名前を羽虫にしてみたところ、なかなかに評判が良かった。


 前の名前よりインパクトがあったし、一日一匹家に羽虫が現れる話を合わせてすると、それなりに盛り上がった。


 印象の薄い普通の人から変人にキャラ変することにも成功したので、多少空気の読めない発言をしてもとがめられることも無くなり、今までより気を配る必要もなくなった。


 それでも、僕は満たされなかった。


 変人というレッテルによって杞憂することは減ったものの、みんな僕を見せ物かなにかのように扱っているので距離感は遠いままだ。

 芸人と観客の関係と例えれば聞こえはいいけど、実際には単に壁を作られているだけだ。


 そう、壁だ。またしてもこの見えない壁が、僕に立ち塞がる。


 母さんが甲高い声をぶつけてくるときには機能しないくせに、僕が関わりたいと願う相手とは必ず壁が生まれる。その壁は弾力があって、殴っても殴っても壊れない。そして壊そうとするたびに怖くなる。


 嫌われるんじゃないか、鬱陶しいんじゃないか、しつこいと思われてないか。そういう心配が杞憂でなくなったときには、もう遅い。


 普通の人はその壁を徐々に溶かしていくのだという。

 壊すんじゃなく、じわじわと薄くしていって、ゆっくりと壁を失くすのだ。

 けど、僕にはそれができない。


 だから僕は、結局誰に対しても踏み込めないままでいた。

 そんなある日、バレーサークルの三人のうちとくに仲良くしていた一人と連絡がつかなくなった。SNSも更新されていない。


 嫌な予感がした。


 残る二人に相談すると、二人も連絡が取れなくなったと言っているわりにあまり心配していない様子だった。そうしてすぐに違う話題になってしまって、それ以上掘り返せない空気になった。


 違和感は確信に変わる。


 僕が嫌いになったのか、僕に興味を失ったのか、僕を構うのに疲れたのか、単に飽きたのか。

 理由はどうあれ、そういうことだろう。

 これまでも別の相手と同じようなことが何度かあった。いい加減慣れた。


 そう言い聞かせながら僕は傷ついていた。


 その傷は日に日に深くなっていって、残る二人とも連絡を取らなくなった。関わりの深かった三人なだけに、他の友人で紛らわしたり、上書きするようなことはできなかった。

 動画を見ていてもふとよぎってしまって、そのたびに辛くなった。


 動画投稿サイトの配信を流しながらでも憂鬱な思考が止まらなくなって、眠れなくなり、いよいよだと思った。


 いよいよ、本当に死を選ぶべきときだ。


 見納めにといつもの川へ行くと水辺に羽虫がわいていた。蚊柱なんて騒ぎじゃない。大きな玉のように群れをなして、そこらじゅうで飛び回っている。


 僕はその光景に目を奪われた。


 蚊柱の中の羽虫は、そのほとんどがオスなのだという。その中に数匹のメスが飛び込んで交尾をするのだ。絶え間なく飛び交っているのは、限られたメスを血眼になって探しているからかもしれない。


 けれどその様子は美しくて、壮大で、嫌悪感はまるでない。

 靴が濡れるのも構わずに、僕は川の中へ足を踏み入れていく。


 今なら、羽虫の羽音が聞こえてくる気がした。

 僕との間にへだてられた壁を溶かす、酸性の羽音が。


 ポケットに入れたスマホが鳴る。画面だけ見て確認すると、連絡が取れなくなっていたアイツからだった。


 今ならまだ間に合うだろうか? 一瞬、思い直しかけて、首を横に振る。

 待っているのはやりとりの一つ一つに杞憂ばかりして怯えるだけの、惨めな毎日だ。


 そんなものはもういらない。


 呼吸をするたび、喉から肺の中へたくさんの羽虫が入っていくのがわかった。僕の中でも変わらず元気に飛び交っているようだ。


 反対に、僕は息ができなくなってきた。

 

 蚊柱の大群に生身の人間が飛び込むと肺がつまって死んでしまうことがあるらしい。見たことがないくらいの数の羽虫たちが、なぜだか僕に押し寄せてくる。


 遊んでくれる友達も、気が許せる家族もいない、学歴も何もない空っぽな僕の”空白”を、羽虫たちが満たしていく。


 僕はうつろな目を開き、誰にも届かない声でつぶやく。



 ──やっとだ。やっと、僕は

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