第2話 2度目の出航

空想時代小説


 数日後、浦賀に行く横沢将監の一行が仙台を旅立った。その中に弥七の姿もあった。白石城下を通る時には、街道脇に奉膳や佐助がおり、静かに見送っていた。

 7日で江戸に着き、しばしの休みとなった。一行は仙台藩下屋敷に入った。水夫たちには3日間の休みが与えられた。弥七は品川宿の女郎屋にいた。お杉という遊女を相手に酒を飲み、いっしょに床に入った。

「お前さん激しいね。これからなんかあるの?」

「うん、一世一代の大勝負がある」

「戦じゃあるまいに、今の時代にそんな大勝負があるのかね。ヤクザの出入りかね」

「いや、ここであるわけじゃない」

「ここじゃないって、どこなのさ」

「船で何か月もかかるところだ」

「異国に行くのかい?」

「ノビスパンというところだ」

「どこにある国かわからんけど、わたしなら行かんね。逃げるか、遊女のヒモにでもなった方がいいね。死ぬかもしれないんだろ」

「まあな」

弥七は、逃げ出した自分を想像していた。抜け忍となれば、見つかるまでだれかが追ってくる。自分もかつては追う立場になったことがある。その時は、仲間が見つけて始末をしたという。一生、恐怖におびえながら隠れて暮らさなければならない。死ぬことよりも、その方がつらい。弥七は、自分が少しでも逃げることを考えたことを恥じた。

「大勝負の前に、わしはお前の腹の上で死にたいわ!」

と言って、弥七はお杉の体に覆いかぶさった。

「あれ! またまた激しいおしだわね」


 浦賀から隠密裏に黒船が出航した。元和2年6月20日(1616年7月30日)のことである。大きな帆船であるが、多くの櫓をこいで進むガレオン船である。イスパニアの船員たちは、「サン・ファン・バウティスタ号(聖ヨハネ号)」と呼んでいた。仙台藩の船員たちは「仙台の黒船」と呼び、幕府の人間は「浦賀の黒船」と呼んでいる。これだけでも、船の中の不統一感があらわだ。

 乗船前にひと悶着があった。船長をだれにするかである。イスパニア人は、航海長のファビーアーノを船長におし、幕府方はノビスパンからの帰路の船長が向井将監だったので、そのままでいいと言いだした。しかし、総員188名の内、仙台藩が130名、幕府方が50名、イスパニアが8名である。数の多さもあるし、元々は仙台藩が造った船である。横沢将監が船長室を使うことになった。しかし、3人の船長がいるようなもので、一触即発の雰囲気に変わりはなかった。イスパニアの人間は操船担当で、櫓をこぐ水夫は仙台藩が100名、幕府が20名、計120名で3交代制であった。と言っても、ひとつの櫓に3人がつく。通常は2人でこいで、1人が休む。嵐の時などは、3人でこいで乗り切るが、風で進める時は1人で櫓をこぐ時もある。

 弥七は、櫓をこぐ役目から甲板の見張り担当になった。目がよかったので遠目がきいたのと、船に乗る前に船の構造をあらかた聞いて知識を得ていたからである。イスパニア語の単語を少し話せるのも役立った。その内に見張り担当のマルケスと仲良くなった。それで星の見方や西からの風の感じ方を教わった。マストの上の見張り台にもマルケスと交代で上がることもできるようになった。

 狭い船の中で、一人になれることは弥七にとって至福の時であった。雨水をためておいて、人目をはばからずに飲むことができるのは、もっとも嬉しい時であった。それにしてもイスパニア人の知識はすばらしいと思った。海に西風が吹いているということは、船に乗るまで知らなかった。夜のうちに星の位置で方角を確かめて東に進んでいることを確かめ、帆の向きが変わっていなければ風の力で進む。風の向きが変われば、帆の向きをななめにし、ジグザグで進む。東からの風や嵐の時は帆をたたみ、水夫たちの櫓の力で進む。時には海流にのることもある。星の角度で船がどこにいるかわかるのである。弥七にとっては、知らないことがたくさんあった。今では、異国へ行く不安よりも期待の方が大きかった。

 もう少しで、ノビスパンに着くところで、一大事が起きた。熱病である。原因不明の発熱が水夫たちに流行った。水夫だけに流行ったので、水夫部屋にあるものが疑われた。はばかり(トイレ)の消毒をしたが、おさまる気配がない。どうやら水おけがあやしいということで、水の利用ができなくなった。体を冷やすのに海水を使うが、一時的には下がっても、少したつと余計熱が上がってくる。

 イスパニアの船員たちは水夫部屋に立ち寄らなくなった。櫓で進むことができなくなり、風の力だけが頼りだった。弥七は、のどの渇きをうるおすことだけを考えていた。雨は少ない。そこで、弥七は忍びの修行中に教わった水取の技を使うことにした。おけ状のものによごれた水をくみ、その中央にからの湯飲みを置く。おけにてぬぐいを巻きつけて、中央に小石を置く。しかけはこれだけである。後は陽の光で水が蒸発するのを待つのである。うまくいけば、手ぬぐいについた水滴が中央に集まり、湯飲みにポタッと落ちてくる。2・3滴たまったところで、手ぬぐいをしぼると一口ほどの水がたまるのである。1日に数回しかできぬが、これだけでも命をつなぐには充分だった。

 水夫部屋には、死人や重病人がひしめいていた。最初のうちは水夫仲間が死体を海に捨てていたが、しまいには片づける人間がいなくなってしまった。流行り病だから近寄らぬ方がいいというのが、イスパニア人や武士たちの考えだった。

 およそ7ケ月の航海で、カリフォルニアのロス・モリネスという港町に這々の体で到着した。元和3年1月20日(1617年2月23日)のことである。全員が隔離された。死亡した者100名。半数以上が亡くなっていた。その後、ノビスパンのアカプルコまで曳航された。弥七はマルケスからイスパニア語を習っていたので、通訳みたいなことも頼まれるようになっていた。ただし、読み書きはできない。

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