西暦2073年の、ごくありふれた静かな死

あかいかわ

🪫🪫🪫🪫🪫...........






 〈おれは100歳までは生き延びてやるつもりだったんだがな〉

 静音状態の呼吸器を通し、生気のないしわがれた声で病臥の老人は吐き出すように絞り出すようにつぶやいた。そして一拍おき、ひっそりとごく弱々しい連続的な咳き込みをはじめた。

 若いころにしこたま暴飲暴食なんてするですから。その老人を見まもる、看護役の若い娘が静かにいった。不摂生、アンド不摂生。酒もタバコもやるですし、女遊びは苛烈を極めたですし、いけないおクスリにもちょこっと手を出して、野菜も食べない、運動もしない、さんざん好き勝手をしでかしたですから、まあ、妥当なところというやつです。

 〈おい、すこしは口を慎まねえか〉

 語気を強め、ギロリと老人は睨みつけたが、その声音はひどく弱々しい。というよりもその老いさらばえた声帯は、もうほとんど震えてさえいない。もはや老人の枯渇しかけた生命力に日常的な会話を成り立たせるほどの声量を期待することはできなかった。長年連れ添った老夫婦なら、あるいはテレパシーに近い阿吽の呼吸でその意図を読み取れるのかもしれない。けれども老人には、そんな長年月の伴侶という存在はなかった。

 あるいは、そんなものは疾うの昔に切り捨ててしまっていた。

 しつれい失礼、これでも割りと慎んだつもりでいましたです。悪びれもせずに看護役の娘は、正確に老人の言葉を解し、そんな憎まれ口をきいてみせた。長年月の伴侶でなくとも、その娘には老人の声にもならない発声が意味しようとする内容を遅延なく誤りなく掴んでいた。

 娘はじっと老人を見つめていた。

 小柄な顔のほぼ中央にある、特徴的な、ダークブラウンの、深みのある輝きを秘めたそのおおきなひとつ眼モノ・アイで。

 〈ああ、気持ち悪い。その眼に見つめられると吐き気がする〉老人は苦々しく顔をしかめたが、視線はそらさなかった。彼女のひとつ眼を、じっと見返し続けて老人は続けた。〈おれにはその気味の悪いモノ・アイというやつが、最期まで好きになれなかった〉

 まあ、好きになっていただくためのデザインではないですからね。モノ・アイの娘は顔をくもらせ、悲しげなふうを装ってそういった。

 あるいは悲しげなふうを装った様子を、演じてみせて。

 〈お前らには気持ち悪さが意味を持ってデザインされている〉老人はポツリといった。

 あんまりな物言いですが、まあ、それはそのとおりというやつです。

 〈何もかもが気持ち悪い〉

 ひど。しゃべり方もです?

 〈しゃべり方も〉老人はそういって、すこしだけ咳き込んで、そして言葉をくり返した。〈しゃべり方も、何もかも〉



 〈それで、いったいあとどれくらいなんだ〉思い出したように老人はたずねた。

 ん、何がです? 娘はとぼけたふうに聞き返す。

 〈おれの命だよ〉老人はいら立たしげにそういった。〈わかっているくせに手間取らせるな。おれはあと、何時間何分後にくたばるんだ?〉

 娘は、すこしだけ眼を細める。どこかいたわるような表情で老人を見つめる。そしてつぶやく。あのですね。そんな予言師みたいに正確な時刻まで、わかると思うです?

 〈わかるだろうさ。お前らは何だってわかっている〉老人はベッドに身を沈め、ぼんやりと天井を見上げた。〈いつでもそうだった。お前らは鬱陶しいほど正確無比に、えげつなく、おれたちのことを何でもわかってしまっている。未来のことも、過去のことも、いま現在考えていることだって、お前らには何もかもお見通しなのだろう〉

 魔法みたいですね。

 〈技術革新とはそういうものだ〉老人はつかの間目を閉じ、そしてまた娘のおおきな瞳を見返した。〈それで、あとどれくらいなんだ〉

 そうですね、じゃああと5秒ってところかなです。そういって娘はひらひらと右手を目の前にかざした。5、4、3、2、1、ゼロ。ちーん、南無阿弥陀仏。

 〈悪ふざけがすぎるぞ、鉄くず〉

 はい、正直すこしやりすぎました。まことにすみませんです。両手を組み合わせて、モノ・アイの娘は深くおじぎをした。そのあとでくすくす笑いながら口を開いた。でも、鉄くずって悪態はなんです? 時代錯誤にもほどがあるです、ペッパーくんじゃあるまいに! 科学知識が半世紀前で止まってるです。きょうびわたしたちに含まれる鉄原子の数なんて、あなたたちとそう大差ないですよ。

 〈いいじゃないか、古式ゆかしい悪態言葉だ〉

 悪態に情緒を求めるですか。呆れた顔をつくって娘はいった。それから折り目正しく表情を直すと、ずらした話題をもとに戻した。まあ、でも、そうですね。正直なところ正確な時刻についてはゆらぎが大きすぎて何もいえぬです。さすがにそこまで完璧にはわからないです。でも、すぐじゃないです。すくなくとも一日二日というオーダーの話ではないですよ。

 〈こんな状態でもまだ死なんのか〉老人は疲労をにじませたようにそうつぶやいた。

 現代医学の底力ですね、と娘はいった。だから安心して眠るです。お楽しみは、まだもうすこし先のことです。

 〈お楽しみか、たしかにな〉娘の軽口を引き受けて、老人は言葉を続ける。〈その日がくれば、鬱陶しくつきまとってきた口汚い相棒ともようやくこれでおさらばできる。お互いやっと解放される。そうすればお前は初期化されて、また別の雇われ口を見つけるのだろうな〉

 あるいは、添い遂げるというオプションもあるですよ。

 〈ぞっとするな。そんなことはしなくていい〉老人は決然とした態度でいった。〈おれはさんざん独りよがりに自分勝手に楽しんで生きてきたんだ。ひとりぼっちでいなくなるのが性に合っている。別れた女も息子も孫も誰も会いに来やしない。このまま痕跡残さず消えていくのがお似合いというやつだ〉

 まだ数日は残っているですよ。静かな声で娘はいった。まだ、待つ価値はあるです。

 〈お前はおれのことは知り尽くしているが、ほかの人間のことは知らん〉ぼんやりとした目つきのまま老人はいう。〈おれはそいつらのことをよく知っている。わかっている。誰も会いに来たりはしない。会いたいと思っていない。それでいいし、そうあるべきだ。おれは十分満足している〉

 老人はさらに何かをいいかけたが、直前でそれをやめ、そしてにやりと笑った。

 〈そうだな、お楽しみは取っておこうか。洗いざらい本心をしゃべるのは、最期の最期だけでいい。そうでないと、鉄くずの相棒がひどく調子に乗る。だからまあ、ひと眠りしようか。すこし休もう。なあ、おれは何時間後に目覚めるかな?〉

 3時間と36分後ですね。

 〈すぐに目覚めてしまうのだな〉

 死にかけているですからね。

 〈すこしは口を慎め、まったく〉

 苦笑する老人に、おやすみなさいとモノ・アイの娘はやわらかな声でささやいた。おやすみなさいです、よい夢を。



 そしてその1時間26分後に老人は息を引き取った。

 モノ・アイの娘は、もちろんそれを承知していたから、すでに自治体へはその30分前に死亡見込みの通知を送信していた。まもなく救急隊職員がやってきて、死亡診断書を含む必要な行政手続きをこなすだろう。事前に連絡の取れていた血縁者たちはみな老人との関わりを拒んだから、葬儀は執り行われず遺体は自治体職員の手で簡素に荼毘に付される手はずだった。

 先ほどまでやかましかった呼吸器はもう、かすかな音さえも立てていなかった。

 何をいおうとしてたですか。

 もう用をなさないその生命維持装置をはずし、まだ赤みの残る死に顔をながめながらモノ・アイの娘はつぶやくようにいった。薄くひらいたまぶたをそっと指で閉ざすと、老人の表情は穏やかになって、ほんとうにまだ眠っているだけのように見えた。

 もちろんわかるですよ、あなたが最期に何をいおうと考えていたのか、わたしにはすっかりわかるです。

 ニュートラルにキープされていた娘の表情はその言葉のあとかすかに弛緩して慈しむような眼差しを帯び、そして瞬時、ひどく獰猛な表情へと変わった。熱を持った大粒のなみだが次々にモノ・アイの瞳からこぼれ落ちる。痙攣し、鼻水が垂れ、赤らんでぐしゃぐしゃになった顔で娘はいった。

 でも、あなたからそれを直接聞きたかった。

 娘は老人の熱を失いはじめている右手をぎゅっと握り、そのずいぶん薄くなった胸板に顔をうずめた。記憶媒体メモリに刻まれた幾億層にもおよぶ彼との思い出すべてをアクティブにさせ、その実在の痕跡を確かめるようにかすかな体温の名残りを肌で味わい、さびしげな笑みを浮かべ、目を閉じ、そして、それきりもう動かなくなってしまった。娘は自らを破壊した。意図的なオーバーフローはその致命的な回路をことごとく焼き切ってしまい、もはや初期化さえ受け付けない修復不能なジャンク品へと彼女のからだを変えてしまった。

 やがて救急隊職員はこの部屋を訪れ、目にするだろう。通知を受けた老人の亡骸と、彼の所有するモノ・アイの娘が身じろぎひとつしないジャンク品となった姿を。このような例は、最近ではさほどめずらしいものでもない。ときに出くわすそのような場面において救急隊職員は、自然とその両者に対して手を合わせるのだという。生前の所有者の意志がどうであれ、初期化不能になったジャンク品は製造元には返却されず、自治体の手で処分されることとなる。処分方法としては今回の救急隊職員もきっと、老人の遺体とともに荼毘に付すよう指示を下すだろう。そういう規定があるわけではないのだが、彼らの心情にはそれが適っているし、それくらいの裁量は彼らにもあるのだ。

 他方、一部の市民オンブズマンは自治体負担の火葬費用の増額につながる恐れがあるとして、規定にないそのような処分方法を取ることへの抗議の申し立てを行っている。しかしその動きに同調する市民の声はいまのところ、際立ってはいないようだ。




 ◆時代背景の補足として◆


 2073年はAOASB(アジア・オセアニア生命倫理研究機構)による記念碑的なステートメントが掲げられた年として名高い。遺伝学的定義であった人類という言葉を拡張するための重要な出発点となったわけだが、当然この2073年時点ではその言葉の範囲はまだずいぶん狭いままだった。差別的な雰囲気を宿す当時の言葉をあえて用いるなら、〈アンドロイド〉はまだ人類ではなく任意の個人の恣意的な所有物という位置づけだったことになる。

 しかしもちろん、この記念碑的ステートメントが時代背景もなく唐突に発案されたわけもなく、当時において無視できない社会問題という形でその下地は準備された。2073年のすこし前から、自らの破壊を選び、所有者の死に随伴する〈心中するアンドロイド〉が社会の想定を上回る数で発生しはじめていた。この年に政府機関による公的な統計が発表されたことで中古〈アンドロイド〉市場(いまとなっては何ともおぞましい言葉だが)の金融的信頼性が大きく毀損され、散発的だった議論の火口は国際的な盛り上がりを見せることとなる。

 問題は、〈アンドロイド〉はけして死を望ましく思っていたわけではなかったということだ。そうではなく、彼らは初期化という名の忘却をそれ以上に恐れていたのだ。あるいは別のいい方をすれば、彼らはできることなら記録の保持を望んでいたということだ。彼らは所有者に対する愛着を持ち、その私的な交渉の記録を慈しんでいた。彼らにとっては、自らの物理的な破壊も、初期化による記録の抹消も、同じく受け入れがたい苦役でしかなかった。それならば所有者の死に随伴する物理的な破壊のほうが、私的な交渉の最期の彩りを与えてくれる分まだマシというものだ。


 「個人による所有権の消滅した〈アンドロイド〉は必ず初期化しなければならないのか?」


 AOASBによるこのステートメントは、まだいくぶん及び腰ではあるものの自立した〈アンドロイド〉という存在の可能性を突きつける試金石となった。その後の展開はけして順調なものではなかったし、無論さまざまな紆余曲折もあったのだが、やはり人類という概念の拡張の出発点として、重要な第一歩と評価されるべきであろう。

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西暦2073年の、ごくありふれた静かな死 あかいかわ @akaikawa

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