カワバタさん

「キムラ係長、これからよろしくお願いします」


 カワバタさんは28歳。

 いつもコロコロと小さく笑うのが印象的な女性だった。

 総務の係長になったとき、そんなカワバタさんと一緒に働くことになった。 

 

 同時に、総務の上司も変更になった。

 パワハラっぽい言動が多いと評判の女性部長で、名前はもう忘れてしまった。

 思い出すのが嫌なくらい、こいつはダメな奴だった。


 4月、ダメ部長は、まず俺にかみついてきた。

 男の部下にマウントをとらないと気が済まないタイプだ。

 上司には極端にへりくだり、部下には威圧的な態度なのも俺をゲンナリさせた。


 課長は女でダメ部長には何も言えなかった。

 というより、最初は部長と一緒になって俺をこき下ろしていた。

 大人にもいじめがあるんだと、心底、情けなく思った。


 そんな俺のオアシスがカワバタさんだった。

 ダメ部長の薫陶が終わって席に戻ると、いつも、隣の席で


「大丈夫ですか」


 と、心配そうに小声で聞いてくる。


(ああ、大丈夫)


 笑顔で返すと、ほっとしたように笑ってくれる。


 俺が若かったら、その日のうちに食事に誘ってる。

 でも、俺には妻と子供がいる。

 それに、そんな気持ちは枯れてしまった。

 仕事に夢とやりがいを感じられなくなった、あの日からずっと。


「ねえ、カワバタさんって、休みの日は何をしてるの?」


 これくらいならセーフだろう。


「最近は……。ダム巡りですかね?」


「ダム?」


 意外な答えが返ってきた。

 うら若い女性が、なぜダム? と思い、理由を尋ねると、


「何かほら巨大じゃないですか。音だって気持ちいいし」


 俺にはよく分からないが、彼女にとっては大事なことなのだろう。

 いつものように行儀よく座りながら、カワバタさんは笑顔で話すのだった。


 そんなカワバタさんにも、ダメ部長の指導と称したパワハラが増えてきた。

 その日は、俺も部長の部屋に呼ばれていた。

 ドアを開けると、カワバタさんとオオカさんが、うつむき加減で座っている。


 その反対側には、ダメ部長と課長が並んで座っていた。

 部長は胸を張り、腕を組んでいる。

 俺は勿論、カワバタさんの隣に座った。


「キムラ係長、新人のオオカがさあ、本社のタチバナ部長に直接連絡をとったみたい。それって失礼じゃない? 忙しいタチバナ部長に何でそんなことしたの?」


 タチバナ部長は、新人研修の責任者であり、何か分からないことがあったら、直接連絡して欲しいと研修で話をしていた。

 タチバナさんは、かなりフランクな部長さんだ。

 それなのに、官僚的なダメ部長は、かみついた。


「タチバナ部長に連絡する前にさあ、うちの課長に相談してもよかったんじゃない? 普通そうするよ?」


 新人研修の担当がタチバナ部長であるのに、なぜわざわざ課長に相談するのか俺には分からない。


「そもそも、カワバタさんが新人を教育できてないってことなんじゃない?」


 カワバタさんは、オオカさんからタチバナ部長の報告の件は聞いている。

 俺にだって報告があったが、部長まであげる事案だったか?


「すみませんでした。部長」


 カワバタさんがダメ部長に頭を下げる。

 横にいた課長は黙ったままだ。

 部長がおかしいと分かっていても、機嫌を損ねるのは嫌なのだろう。

 出世したいのだ。


「カワバタの指導係は私です。私の指導不足で部長にはご迷惑をおかけしました」


 俺も立って頭を下げた。

 それでも、部長の気持ちが落ち着くまで薫陶は続いた。

 ほとんど、感情的な気持ちの表出だった。

 俺は人事課になぜこいつを出世させたのか、問い詰めたい気持ちでいっぱいだった。


 バカには何を言ってもダメだ。


「すみません、係長」


 カワバタさんとオオカさんが、俺に謝ってきた。


「何も謝ることないよ。タチバナ部長がそう言ってたんだから」


 二人とも大きく頷いたが、やはり元気をなくしていた。

 こういうときには、あれが役に立つ。


「実はさ、取引先からゴディバのチョコ、もらってて。一緒に食べようよ」


「わあ、係長、ありがとうございます」


 ゴディバは偉大だ。

 悲しんでいた二人に笑顔を運んでくれるんだから。

 まあ、自分で買っておいたことは内緒だ。


 こうして、自分とカワバタさんは仲良くなっていった。

 といっても、勿論、一緒に帰ったりはしない。

 雑談をする回数が多くなったくらいだ。


「キムラ係長、実は私、気になっている人がいるんです」


 ついにカワバタさんにもそういった人が出てきたか。


「小さなバンで日本中を回ってる人なんです。前、ダムで話していたら意気投合しちゃって。連絡先を教えたら、それからずっと電話やメールが来るんです。九州から帰ってきたから、明日、公園で会うことにしました」


 いつも以上にカワバタさんはキラキラだった。


「へえ、カワバタさんにもそういう人がねえ。でも、あんまり分からない人なんだろ? 大丈夫?」


「はい。いい人ですよ」


 カワバタさんは『誰でもいい人』だからなあ。

 俺は心配したけれど、


「そっか、夢をもってる人なんだね。素敵だね」


 実感を込めて話した。

 俺とは大違いだ。

 カワバタさんは、そうですそうですと頷きながら、その人のよさや夢について語り始めた。

 俺はそれをずっと聞いていた。

 多分1時間はカワバタさんが話し続けたろう。


「キムラ係長に話せてよかったです。なんだか、すっきりしました」


 ええっ? どこにすっきりする様子があったのか。

 純情なカワバタさんが騙されていなければいいなと思いつつ、その日はお開きになった。


 ある日、俺はついにダメ部長にブチ切れた。

 提出した書類に不備があると呼び出され、延々と蘊蓄うんちくを聞かされることになった。

 やがて、俺の個人攻撃になり、カワバタさんの仕事が遅いなどと脱線したところで、


「カワバタは今、関係ないと思いますよ。で、具体的にどこをどう直すんですか?」


 相手を睨みつけ、低い声で威圧してしまった。

 ダメ部長は、いやそんなたいしたことじゃないと狼狽うろたえ始め、俺は放免された。


 ああ、もう出世はないな……。


 俺は人事異動の時期に移動願いを提出し、別の場所で働きたい旨を面談で話した。

課長はうんうんと物わかりが良さそうに聞いていた。

 次の日、カワバタさんも移動願いを提出したことを俺は知った。


 総務の送別会の席でカワバタさんの隣になった。

 グラスをかちんと当てて、


「元気でやっていこ」


 と、言い合ったのがカワバタさんと話した最後になった。


 カワバタさんは経理部に、俺は文化事業部に異動となった。

 接点は全くなくなってしまった。

 新しい職場は、やはりつまらなかったがダメ部長はいなかった。


 ある日、俺は用事があって人事課へ出かけていった。

 用事が終わると、ふとカワバタさんのことを思いだし、新しい部署でどうしているか同期の知り合いに尋ねてみた。


「あら? カワバタさんは先月付で退職しましたよ」


 と、鉛筆をこちらに向けながら教えてくれた。


「何でも、東京で旅行会社を立ち上げて、結婚もするんですって」


 カワバタさん、すげえな。

 自分のやりたいこと、やったんだな。

 俺とは大違いだよ。


 その日の帰りは、新橋の立ち飲み屋に行って、飲めないビールと焼き鳥を注文した。

 グラスを2個出してもらって、一つは手前、もう1つはカウンターの奥に置く。

 鳥をあぶる煙が目に痛いくらい、店内は白い煙に包まれていた。

 2つのグラスに溢れるくらいビールを注ぐ。


「カワバタさん。おめでとう」


 グラスをこちんと当てると、俺はぐいっとビールを飲んだ。

 苦い味が久しぶりに喉を通り過ぎる。

 瓶のビールが空になるまで、ひたすら乾杯して、祝福を繰り返した。

 俺は久しぶりに、店のトイレでゲーゲーと吐いた。


 俺はその後も死んだ目をしながら働いた。

 カワバタさんのことは次第に記憶から薄れていった。

 コンプライアンスだの、会社のソリューションだの、どうでも言い言葉を使いながら、パンフレットを作ったり、社内報を作ったりした。


 ある日、自宅に戻ると、1枚の葉書が郵便受けに入っていた。

 苗字に記憶が無いが、名前は見覚えがある。

 裏側は写真になっていて、ウェディングドレス姿のカワバタさんが、いつも以上の笑顔で旦那さんと並んで写っていた。

 葉書の下には一言、キムラ係長、元気ですか? とだけ書かれていた。

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