きっと空の下
Nさんは俺の上司だった。
どんくさい俺をいつも庇ってくれた。
明るくて、みんなを盛り上げる素敵な人だった。
「いいんだよ、カトウ。カトウ、がんばってるじゃん」
そう言って、落ち込んでいる俺を車の助手席に乗せてくれた。
そして、コンビニに行き、缶コーヒーを1つ手渡してくれるのだ。
「コーヒー、嫌いだったっけ?」
いつまでたっても、俺のコーヒー嫌いを覚えてくれなかった。
§
今日も今日とて、俺の顧客は何も買ってくれない。
営業職なんて、まともな人間がやることじゃない。
仕事はいつも辞めたかった。
近くの公園のベンチが、昼の俺の指定席だった。
コンビニから『お~いお茶』と『コロッケ弁当』を買い、もそもそと昼食を済ませる。
同じ課のメンバーとは顔を合わせたくなかった。
辞表はいつもスーツのポケットに入れていた。
それで、少しは開き直って仕事をすることができた。
一度スーツををクリーニングに出したとき、辞表を入れた封筒が返ってきたことがある。
「まけないでくださいね」
という鉛筆の文字を、歪んだ視界の中で、ずっと眺めていた。
辞表をぎゅうっと握りしめ、ぽいっとゴミ箱に放り投げた。
§
けれども、運命って奴はどうしてこうなんだろう。
Nさんは相変わらず優しかったが、少しずつ首をかしげる行動が多くなった。
出先で、明らかに仕事の相手じゃない人と電話することが多くなった。
共通語で話すNさんは、いつもの明るいNさんじゃなかった。
ペコペコと見えない相手にひたすら謝っていた。
「もうちょっと待ってくださいよ」
それがいつものフレーズになっていた。
その頃、俺は営業2課の飲み会担当として、みんなから会費を集めていた。
あるときNさんが、
「その会計係、大変だろ。俺がやろうか?」
と言ってきた。
俺はきな臭い感じがして断った。
Nさんは、ただ「そうか」と言って、それ以上、話してはこなかった。
俺は何となく、嫌なことが起こりそうな気がした。
§
次の月、Nさんは俺から金を借りた。
「カトウ。五千円貸してくれないか? 今、煙草代がなくてさ」
俺は、すぐに財布から五千円を出した。
同時にあまりNさんに関わらないようにしよう、と思った。
思えば五千円は手切れ金だったような気がする。
「悪いな……」
そういうNさんは、いつもの明るいNさんではなかった。
俺は何か間違ってるんじゃないだろうか。
帰りの電車の座席で、ふと、そんなことを考えた。
でも、俺は少しずつNさんとの距離を取り始めていた。
§
3ヶ月後のこと、Nさんはいきなり借りていたお金を俺に返してきた。
「カトウには五千円だったよな」
他にも借りている人がいたのだろう。
それでも、五千円が返ってきたことは嬉しかった。
「あ、それとさ」
Nさんは、胸の万年筆を私に渡してきた。
「お前、よく勝手に使ってたからな。やるよ」
久しぶりのNさんの笑顔だった。
Nさんのデスクは、俺の目の前にあった。
片付けの出来ない俺は、電話対応の時、Nさんの万年筆でメモする癖があった。
「いいんすか? Nさん。これ、大事にしてたっしょ?」
俺が尋ねると、ただ、手を振って向こうに行ってしまった。
その晩、Nさんは帰らぬ人になっていた。
次の朝、部長からNさんが自殺したと伝えられた。
型どおりの黙祷をした後は、いつもと何も変わらなかった。
ただ、Nさんの机の上に白い花が添えられていた。
俺は、ただただ吐き気がした。
それがNさんの死に対するものなのか、あまりにも普通に業務を続ける同僚に対するものなのか、よく分からなかった。
俺はその日、午後から休みをもらった。
いつもはあれだけ嫌みを言う部長が、何も言わなかった。
Nさんの一番の部下だった俺に、気を遣ったのだろう。
俺はいつもの公園にきて、空を見上げた。
Nさんが亡くなったというのに、今日も空は青かった。
Nさんは、その向こうに行ってしまったのだ。
俺は手元に2つ、缶コーヒーを置いていた。
飲めないくせにエメラルドマウンテン。
Nさんが、俺にいつも買ってくれた缶コーヒー。
「Nさん、俺、わかんないッスよ。……馬鹿だから」
何で俺はNさんの話をもっと聞かなかったのだろう。
何でNさんから離れてしまったのだろう。
Nさんの白い社用車の助手席は、最近、空いていることが多かった。
何で、「乗せてってくれないっすか」って言わなかったんだろう。
何で、「俺に出来ることないっすか」って言わなかったんだろう。
俺は缶を思い切り握りしめ、そのまま思い切り地面に叩きつけた。
缶は、どぼっという音を立てて地面にぶつかり、茶色の液体が放射状に飛び散った。
安っぽいコーヒーの匂いが辺りに広がる。
缶の口からは、中身が細い筋となって地面に流れていく。
驚いた何人かの通行人は目を逸らして、俺から離れていった。
俺は恩人を大事なときに突き放した。
俺はやっぱり馬鹿なんだとつくづく思う。
心の慟哭は、しばらく俺の中から去ることはなかった。
§
やがて、俺はNさんの年齢を超えてしまった。
相変わらず仕事はできなかったし、出世もしなかった。
でも、生きてる。
それはNさんのおかげだと、今でもそう思ってる。
青空が輝いているとき、俺は公園のベンチでNさんに話しかける。
Nさん、俺、今日も生きたっすよ。
辛いこと、山ほどあるんすけど、そっちに行ったらNさん、俺を叱るンすよね。
そっち、どうですか、Nさん。
ビルの合間の空の下、ぶつぶつと一人事をいう癖は直らなかった。
でも、それがあるから俺は生きていける。
「カトウ先輩。缶コーヒー、これでいいですか?」
後輩が俺にボスを差し出す。
馬鹿! これじゃねえよ、エメラルドマウンテンだって言ったろ。
そう喉元まででかかったけれども、俺はその言葉を飲み込んだ。
「ああ、これだ。ありがとな」
目の前に昔の俺が立っていた。
頼りなさそうなこいつに、仕事を教えるのが俺の仕事ッスよ。
Nさん。
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