約束
馬人
第1話
楓ちゃんが死んだのは、半年は前の出来事である。首吊りだったと聞いた。あの小さな部屋のどこで首を吊るんだろうと気になって調べたら、入り口のドアにリボンで首をひっかけてなくなったのだという。なるほど、首を吊るというのは、要は気道や頸動脈が縛られればいいのだから、大げさな高さは必要ないのだろう。しかし、苦しかったのではないだろうかと再度検索をかけようとして、パソコンを閉じる。あの子にそこまでしてもいいほど親密な関係では、私はない。彼女が死んだということに涙一つ流せないのだから、本当にそんな資格はないのだ、きっと。あの子がどう死のうが知ったことじゃないと開き直って笑っている方が性に似合っている。そうやって笑った。
空を見上げれば、星がまぶしいほど散っている。私は今、山にいる。楓ちゃんが住んでいた薄暗い集合住宅の後ろにそびえる、私たちが暮らしている、暮らしていた町の端を示す山の中だ。馬鹿だなあと自分でも思う。それでも、ここに来たいと言う衝動にあらがうのは、何か違う気がした。
後ろを振り返る。真夜中の山は本当に真っ暗で、視界には何も映らない。時々足が滑って転がる。まあ、でも、そんなことはどうでもいいのだ。私の身体なんて、きっとどうでも。
「だよねえ、楓ちゃん……」
そう呼び掛けても、森からは何も聞こえない。
あたりまえだ。
ここには何もいないのだから。
「センセは、山がどうして青いのか知っている?」
私が楓ちゃんに会ったのは、古い集合住宅の、ボロボロの畳の上だった。彼女の部屋だというそこには、専用の勉強机はなく、近所のホームセンターで買ったような低い四つ足の机が置かれていて、彼女はその前にちょこんと正座をしていた。上記の台詞は初対面の私に投げかけられた言葉である。当然の如く私は面食らった。
それはもちろん彼女の言う突拍子もない言葉に驚いたというのが一つ。もう一つは、山はそもそも青ではないだろう。という事だった。おそらく元の質問の主語は海ではないだろうか。ただ……、なんとなく答えるのも気が引けて、私は視界に映る背後の街を囲む山々に目を向ける。梅雨の癖に快晴な空の下、今が好機だとばかりに生命力を爆発させている木々に山は緑一色に染め上げられ、他の色はその中に隠れて何も見えない。ふと、この景色のことを青と言っているのだろうか、と思った。だとすればそれは植物が生えているからで、科学的に言えばクロロフィルの緑が山を色づかせている。だがそれは目の前の女の子の求めている答えではないと思って、こう答えた。
「山が、生きているから、なんて、どう?」
詩的な答えで、たいしておしゃれでもないこの答えに、しかし楓ちゃんは大層満足したらしく、緩いカーブを描いていた口元がさらに深く歪められた。
「素敵ね、センセ」
合格。という声が聞こえたような気がした。その後すぐ、私は楓ちゃんの母親から正式に家庭教師になるように頼まれた。月、木、金。午後5時から7時までの二時間の授業。断る理由もなく、私は二つ返事で承諾した。楓ちゃんの母親は、かっちりとスーツを着こなした30代くらいの若いお母さんで、いつも家にはいなかった。私が帰るくらいに帰って来て、ご飯を食べるとすぐに寝てしまうという。面談らしい面談もなく、結局この件で私と話したのは、この時とクビになった時だけ。
「変でしょう? あの子」
ごちそうになったお皿を隣で洗う私に、お母さんは言った。
「周りから浮いちゃっているみたいでさ。テストは満点ばっかり解いてくるから、中学受験させてあげた方がいいかもなって。でも、塾に通わせる余裕もないし」
先生がいて助かっちゃったと言われて、私はあわててそれを否定した。中学受験を本気で狙うのなら、私では役者不足だ。楓ちゃんはすでに11歳。もしここから受験しようとするとほかの子よりも頑張らないといけなくなる。
私の、自己嫌悪から口にした謙遜みたいな言い訳に、お母さんはそっかあ、とため息をついた。首になるか……、と不安そうに見つめる私を振り向いて、言う。
「ま、先生にお願いするよ」
私はほっと胸をなでおろした。
楓ちゃんは全く手のかからない子だった。家から帰って来たらすぐに取り掛かっているらしく、私が来る時間にはすでにそれは終わっている。一応、お母さんとも確認していたが先生が無理だというなら中学受験は別に求めていない。先の勉強を教えてもらえるならありがたいが、基本的には学校の勉強についていけているのであれば構わない。という話だった。そうなると私としては基礎教材を買って補足的にワークをやらせることしかできない。時給は千円だが、週六時間だと考えれば月収はかなりの金額になる。正直申し訳なさの方が強かったが、お母さんは
「学生さんがあんまり気を使わなくてもいいよ」
と、そう言って笑うだけだった。
ワークでの学習も、楓ちゃんはそつなくこなした。漢字の書き取り、算数の計算、理科の補足……。小学生のうちから学習塾や家庭教師を頼る親は、中学受験か、苦手科目か、何かしら勉強に対する目標を持っている人も多い。……。周りが通わせているから、という人もいるにはいるが、私には、あのかっこいいキャリアウーマンのお母さんがそんな理由で自分を雇ったとは思わなかった。
「楓ちゃんは、私立に行きたいと思ってるの?」
「ん-?」
必然的に、彼女とは話すことが増えた。解説でも、質問でもない、ただの会話。私が初めて彼女と会った時にされた時と同じように。試しに持ってきた中学受験用の問題も持っているワークを持ってきた日、私は楓ちゃんにそう尋ねた。お母さんはああいっていたが、私はこの時まで、一度も彼女の口からそれを聞いたことがなかった。
「……? 私立って、なに?」
「え……」
私がその当時から通っている大学がある県は、都会から電車で1時間くらいの半都会みたいなところで、主要な駅のそばには大手の学習塾ののぼりも何本も立っていた。私立への進学は普通に考えの中にあることで、当然、彼女もその話は知っているはずだと私は思っていた。いつもさかしい彼女は、目の前で小首をかしげている。まるでその話題なんて知らなかったように。
「……。皆とは、別の中学に行くんだよ。テストを受けて、頭のいい子だけを集めたところ」
「ふうん」
私は少し考えて、そう答えた。言わない方がよかったのかもしれないけれど、お母さんは一応選択肢としてはそれを持っているようだったし、お母さんが聞いていないなら、私から教えるのもいいなんて、思って。
「そこはさ、私みたいな子がいっぱいいるの?」
「受かったらね。入れなかった子は、普通の北中にいくの」
「じゃあ、いいや」
踏み込みすぎたかな、とバクバクしていた心臓をなんとかなだめようとして会話を続けていたので、彼女がそう言って会話を切り上げたのにほっとした。
「私みたいな子しかいないなら、つまらないもんね」
彼女はそう言ってワークを解き続けた。回答には、正解のものが並び続けている。
優しいんだな、と思った。
山の中腹。そこだけ木々がなくなっている草原にどっと寝転がる。視界には、空の星だけが瞬いていて、他には何にもない。耳に聞こえてくる虫の音も、随分と前に通り過ぎてしまった町の音も、ここでは聞こえない。
『死に最も近い場所なんだよ』
楓ちゃんがそう言って笑ったのを私はまだ覚えている。
視線を横に向ける。
そこには何もいない。木々の影と、その隙間の漆黒の闇だけが、無表情に私を見つめている。
彼女はここでは絶対に上しか見なかった。なにかから眼をそむけるように。
美しい星々だけ、目に焼き付けているように。
やたらめったら授業を詰め込むのが、教職課程というもので、だから私たちが学校を出るのはいつも遅くなってしまう。同じ金を払って別のことをしている以上しょうがない事なのだろうけれど、友達ができないのだけが憂鬱だった。今帰らないと明日のご飯がないな、なんて考えながら、家路を歩く。
私の大学はいわゆる県に一つはある駅弁大学というやつで、それなりに大きい市に無駄に広いキャンパスを構えている。でも駅前の繁華街に立てることはできないから、周りは駅にほど近い住宅街に囲まれている。
「あれ」
その道すがら、道の暗がりから声をかけられて、私はその闇の方を向いた。夏の熱に焼かれた黒い肌と、らんらんと光る眼を携えて、楓ちゃんがそこにいた。安っぽいTシャツに膝にかからないくらいの半ズボン。小学生高学年の子にしては少しばかりおしゃれ度が足りないんじゃないかな、なんて思ってしまういつものスタイルで。
「センセじゃん」
こんばんは。と言って彼女は頭を下げた。私もこんばんは、と返して、そっと時間を確認する。今の時間は午後7時。子供はもう家に帰る時間のはずだ。
「お母さん、家いないから」
そう口にしようとしたのを、楓ちゃんの言葉が封じる。……、いや、別にそれは言い訳にはならないと思うのだけれど。
そうしたものかと固まっていると、ペタペタと音を立てて楓ちゃんは私の方に歩いてくる。その足音に違和感を覚えて視線を下げた。ぎょっと、息が詰まる。部屋の中で会う時にはいつも同じような白い靴下に覆われていた足には何もついておらず、その足元は当然のように泥と血で汚れてしまっている。どうしたのか、そう言葉にする前に、彼女は私の腕をとった。
「センセも、行く?」
どこに? と聞く前に楓ちゃんは楽し気に歩き出していて、その手を引く強さに、私は逆らうことができなかった。
『あの子、変な子でしょ?』
そう言ったお母さんの顔が、脳裏にかすめるように浮かんだ。
ずんずんと、楓ちゃんは歩き続ける。
「足、大丈夫?」
大学を通り過ぎるように進んでいく彼女にそう問いかけると、彼女は黙って首を横に振った。いつものように楽しげに笑いかけてくる彼女ではないのに、その背中は随分楽し気だ。破傷風が、なんて考えてしまう大人の脳みそは、その背中にはあまりに不釣り合いで、私は黙ってその後ろを歩いた。
なんで、こんな時間まで外にいるの? なんで両足が裸足なの? ランドセルはどうしたの?
なんで、そんなに硝子みたいにきれいなの?
聞きたいことはいくつもあったけれど、なんとなく、それは口にしない方がいいのだろうなと感じていた。
黙々と、彼女は歩く。夜の街は彼女に冷たい。まばらな街灯、チリチリとなる自転車のベル。無遠慮な大人たちの視線。でも、そんなものなんて、何でもないように、楓ちゃんは歩いていて。
その道が、いつもと同じように彼女の家に向かっているものだから、私は一緒に居てあげるくらいはしてあげようなんて考えていて、でもそれが市営住宅に向かう途中で脇道にそれ、どうやら山に向かって進んでいるらしいと気が付いた時に、私はさすがにその腕を引いた。
「なに?」
くるりと擬音を纏わせるようにして、彼女は振り向く。
「どこ行くの?」
「いいとこだよ」
ひとりになれるところ。
山に向かうにつれてだんだんと小さくなってしまった街灯の下、Tシャツとスカートに裸足の少女は囁く。がさがさと木が揺れる音だけが、二人の間を流れた。私はそっと腰を下ろして、彼女に背中に乗るように言う。
「えー?」
何でもないように小首をかしげた彼女に、私はそのようなおみ足では連れてゆくことができませんぞ、姫、と声をかけた。楓ちゃんは連れて行くのは私の方なのに。と笑って、でも逆らうでもなく私の背中にしがみついてきた。
「せーんせ」
背中に顔を押し当てて、彼女は言う。
「ありがとうね」
どういたしまして。と、私は笑った。
彼女の言う通りに、山道を進んだ。森の中、あまり整備されてない遊歩道を上に上に。あまりに暗くて危ないから、楓ちゃんに携帯のライトで足元を照らしてもらいながら。そうして、私たちはこの場所について、一緒に星を見た。
それが、ちょうど半年前の話。
その夜、楓ちゃんは首を括った。
視界の先で星は輝いているけれど、それは動きもせず、じっとこちらを見返すように空で瞬いている。確かにここは星がきれいだ。きれいすぎて怖いくらい。
この空が、彼女には同じように見えていたのかどうか。
お線香をあげに行った通夜の席、お母さんはお仕事、おしまいね。と言った。棺桶の大きさに比例するかのように小さな葬儀で、来たのは、私とお母さんだけ。こんな部外者が参列するのは申し訳なくて、いいんですか? と、香典を渡しながらお母さんに聞いたら、お母さんは、いいの。とだけ言った。
娘が死んだのに、お母さんは何か、悲しいというよりも諦めに似たような顔をしていて、お母さんを責めたいわけではないのに、それがどうしようもなく悲しかった。子供が死んだのに、二人しか参列していないお通夜は静かで、祖母が亡くなった時に食べたものよりもさらにまずい助六寿司だけが待合室に置かれている。
「……。あの子、変な子だったから」
式までの待ち時間、言い訳のように彼女はつぶやいた。
「私も、どう接したらいいのか分からなくて。きっと、あの子は賢すぎたのね。先を行き過ぎたというか……。初めから、何でも分かっていたような子だったから」
視線は、どこともなく注がれていて、判然としていない。
「でも……」
私は、つぶやくように言う事しかできなかった。
「私にとっては、ただの生徒でしたよ」
優秀な。
「そうね」
お母さんは、返事なのか分からない声で、つぶやくように言った。
「何も、死ぬのまで早くなくてもよかったのにねえ」
声が震えているのは、気のせいだと思うことにした。
翌日の葬儀には顔を出させてもらって、焼き場まで……、と誘うお母さんに丁寧に断りを入れて私は家に帰った。鞄にはお母さんが頑として受け取らなかった。私もお母さんが是非にと渡してきた月謝を受け取らなかったのだからお相子だ。と思うことにした。帰りに揺られたバスも電車も、あっけないほど静かで、揺られて、いつもの通りだった。
そんなことしか考えられなかった、自分が嫌いだ。
「ここ?」
「うん」
「うわ……、すごいね、ここ」
「すごい? ここ」
「すごいよ。ほら、星」
「星?」
「上見て、上」
「…………。ほんとだあ」
「いつもはどうしてるの? ここで」
「え?」
「あれ、よく来るんじゃないの」
「うん、来るよ」
「来て何してんの」
「なんだろ」
「えー……」
「センセは」
「ん?」
「センセは、何したい?」
「ここで?」
「ここで」
「えーあーうーん……。そうだなあ」
「うわ」
「こうやって上見てたいかなあ……。静かだし」
「……………………。そっ、か」
「楓ちゃんは違うの?」
「ううん。そんなことない」
「楽しい?」
「たのしい」
「じゃあよかった」
「…………。くらいね」
「そうだねぇ」
「静かだね」
「だねえ」
「一人ぼっちみたい」
「私がいるのに?」
「センセがいるのに」
「ふーん」
「私さ、センセ」
「うん?」
「ここ、死に一番近い場所なんだって、思うの」
「、どうして?」
「静かで、暗いから」
「それだけ?」
「……。うん。それだけ」
「そっか」
「うん」
「死に一番近い場所、かあ」
「センセは、どう思う?」
「もうちょっと、冷たいイメージかな」
「ああ」
「暑すぎるでしょ」
「そうね」
「ああ、でも、そうしたら」
「冬には、死に一番近い場所になるんだね、ここ」
「センセは、そう思うんだよね」
「だねえ。だから冬に来ちゃいけないよ」
「センセは?」
「私? あーでもオリオン座とか見るのは楽しそうかも」
「センセは、来たい?」
「だね、うん。来たいな、また」
「……。約束、してくれる?」
「いいよ、うん」
「約束」
約束 馬人 @nastent
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