絶え絶えながらも息をする

明松 夏

タバコ

高校に入って新しくできた友達と談笑する俺たちの前を、また彼女が通った。ふわふわ揺れる高めのポニーテールと、遅れてやってくるの匂い。


「わ、遠田さんだ」

「すげぇよな~。中間テスト全科目一位だったんだろ? どんだけ勉強したらああなれるんだ」

「どうやったってお前はもう手遅れ」

「はあ? やんのか、松下」


おりゃっ! とサルも顔負けの暴れ具合で松下に掴みかかる岡井は放っておき、流れるように歩いていく彼女をぼうっと見送る。

今日もまた一段と強めの匂いだったな。二人は気づいてないみたいだけど。


遠田さんのあの匂いに気がついたのは、五月の席替えで隣同士になったときだった。「よろしくね」と声を掛け合った際にふわっと鼻に入ってきたのが、女子がよくつける香水のキツい匂いではなく、タバコの匂いであったことに俺は心底驚いた。

なぜこんな香りを漂わせているのだろう。まさか、表向きは優等生でも、裏ではガラの悪いヤンキーたちと絡んでいる結構な遊び人なのだろうか。それとも、ただ単に親が吸う人で、遠田さんにまで異臭が染み付いているだけだろうか。


――気になる、知りたい。


目の前でニコニコと人当たりの良さそうな笑みを浮かべる遠田さんのことが、どうしようもなく気になり始めたのがその頃だった。


どう考えたって気になり方が人とは違うことくらい、俺にだってわかっている。普通はもっとこう、優しいと感じて好きになったり、笑顔が素敵だと思って好きになったりするものだと、俺でさえ理解していた。実際、今まで好きな人ができたきっかけはそれだったわけだし。


それでも今は。


「……何か用? 佐々井くん」

「あっ、いや、何でも……ない」


香水でもない、柔軟剤の香りでもない、ただタバコの匂いを放つ彼女のことを想うのが、まるでそれのようにやめられなくなっていた。



朝起きると母親も父親もいない。それはもう何年も前から続いていることだ。

俺が物心つく頃から二人とも共働きで、良く面倒を見てもらっていたのは近所のおばあさん。その人は母と仲がよく、出張の際なんかはおばあさん家に預けられ、何日か過ごすこともざらにあった。そうなれば俺がおばあさんに懐くことは当然で、それを面白くないと感じている母がいたのも知っていた。

我が子がよその人に取られるとでも思ったのだろうか。小学五年生の夏に彼女が亡くなった時、ホッとしたような顔を浮かべた自分自身の母親に、恐怖心を抱いたのを今でも覚えている。


昔の嫌な思い出がドバッと流れ込んできた。ここにいたらダメだ。半ば逃げるように家から出て、いつもの三十分前に登校する。

外の新鮮な空気を吸えば、体全体が整い、さすがにこの時間には誰もいないだろうと謎の優越感に浸る余裕も出てきた。元通りに戻った証拠だ。俺は胸をなでおろしながら、教室のドアの戸に手をかける。


「あれ、今日は早いんだね。おはよう」

「あ……お、はよう」


教室の窓際の席に、今日の英語の予習をしているのか、教科書を広げて何かを書き込んでいる様子の遠田さんが座っていた。どうやら俺は一番乗りではなかったらしい。ガックリ肩を落としつつも、遠田さんならむしろ嬉しいと少しカタコトで挨拶を返し、緊張気味に彼女の隣へ腰を下ろす。


(あ、今日もだ)

 

半開きになった窓に誘い込まれた風によって、より一層タバコの匂いが鼻孔をくすぐる。

スッと息を吸い込んでハッとした。俺の気のせいだろうか。昨日よりも一昨日よりも、香りが強くなってきている。

俺はちらりと手を動かす彼女を見るが、特に変わったところはない。


それよりも俺が不安に感じているのは、このまま香りが強くなっていけば、いずれ周りも気づき始めることだ。遠田さんからタバコの匂いがする、と。

女子的に、そう思われるのは嫌じゃないのかなと心配するのは建前で、俺だけが気づいていた匂いなのだから、誰も気づかないでくれと願っている部分が本音。他の女子とは違う、特殊な香りを持つ彼女が周りに認知され始めるのが嫌だった。


ギュッと手のひらを強く握っていたからか、爪の跡がくっきりと残ってしまった。それを何となしに眺めていると、ふと遠田さんの方から声がかかる。


「佐々井くんってさ」

「うん」

「匂いに敏感でしょ」

「……へ」


突然触れられた俺の嗅覚についての話。なんともあんぽんたんな返事をした俺に構わず、遠田さんはその調子で続ける。


「私からいつもタバコの匂いするなあって思ってたでしょ。さっきも」


バレていた。真顔とも笑顔ともとれない微妙な顔つきで、こちらをじっと見つめてくる遠田さんに、体がびくりと震える。

半分は純粋な恋心が理由ではあるが、もう半分は彼女のことをもっとよく知りたいというやましさが含まれた理由であったため、顔を直視できない。

サーッと顔を青ざめさせながら、視線も左側へゆっくり逸らす。嫌われただろうか、気持ち悪いと思われただろうか。

真実を知るのが怖くて、俺はつい「そんなことないよ」と嘘をついてしまった。


「嘘だー。だって顔に書いてあるもん」

「うっ」


秒で見抜かれたけれど。

やがて遠田さんは予習に走らせていた手を止め、俺と真正面から向かい合う。

好きな人から急に見つめられたら、ドギマギして話せなくなるのでやめてほしい。


「ね、理由は聞かないの? 何でタバコの匂いなんかつけてるのかって」

「えっ……聞いてもいいの?」

「いいよー。気づいた佐々井くん限定ね」


限定という言葉に、どくん、と心臓が高鳴る。わざとやっているのか、これは。俺の気持ちを知っていて、わざとそんな、弄ぶようなこと――いや、彼女がそんなことするわけ無いか。この間約二秒である。

そんな脳内で繰り広げられるコントを取っ払い、ニコニコと笑う遠田さんと意を決して目を合わせる。


「じゃ、じゃあ、聞かせて。その理由」


ここ最近ずっと気になっていた真相が、今やっと解明される。気分はまるで遺跡探求者。奥深くに眠る財宝の如く、遠田さんの匂いの原因が、ようやく発掘されるのだ。


しかし、そんな軽い気持ちで聞こうとしたこと、俺は数十年先もずっとずっと後悔し続けることになる。


「お父さんが死んでから、ずっとこうなんだぁ、お母さん。毎日仕事から帰ってきたら、お酒三缶くらい飲み干して、酔っ払いながらタバコいっぱい吸って。私が死んじゃうよって心配しても、睨んで怒鳴って終わり。でも朝になったら、いつものお母さんに戻ってるの。ケロッとして、何もなかったみたいにおはようって言って」

「え……っと、それは……」


笑っちゃうよねぇ、と笑顔でごまかす遠田さんに、俺は何も言えなかった。気の利いた一言さえ、一ミリも喉から出なかった。俺が興味津々に聞きたいと言った時、彼女はどう思っただろう。一体どんな気持ちで俺に話してくれたのだろう。

聞いてはいけなかったと汗がでるほど後悔するには、もう手遅れだった。


ガタンっと立ち上がる音で、ようやく俺は無能なやつなのだと気がついた。そっと目を向けると、彼女は窓に手のひらを重ね、どこか遠くの山をじっと見つめている。


「息がしづらいね、この町は。毎日人のこと気にしてばっかりで。早く大学に行ってたくさんお金稼いで、独り立ちしたい」


それは遠田さんなりに描いている青写真であった。瞳はもうどこを見ているかわからないくらい虚ろで、このまま放っておいたら本当にどこか遠くへ行ってしまう気がして……、気づけばその手を取っていた。


「え、佐々井く」

「俺も、遠田さんと一緒に行く。……ほら、知らない土地に一人じゃ心細いだろうし……あと、さっきみたいに嫌なこととか俺に吐けるし」

「……何も言えなかったのに?」

「うっ」


最もな意見に少しだけ怯むが、それでも掴んだこの手は離すまいと握る力を強める。


「俺は……遠田さんと一緒にいたい」


これが今の俺が言える精一杯だった。本音だった。励ましたり、応援の言葉をかけたりするのは難しかったけれど、一緒にいるくらいは俺にだってできる。そう訴えるかのように、驚く彼女の目とまっすぐ合わせた。

しかし、言ってしまってからハッと気づく。これ、傍から見ればプロポーズともとれるのではないだろうか。


「いや待っ、ちがっ……!」

「そんなこと言ってくれたの、佐々井くんが初めてだよ」


必死に訂正しようとする俺の言葉を遮り、遠田さんはポツリと言葉をこぼす。この匂い嫌って近づかない人が多かったから。

自嘲気味に笑う彼女に、俺は反射的に言葉を繋ぐ。


「その匂い、俺は結構好き」


苦味のあるその煙の匂いが、俺は昔から好きだった。母と父の両方が吸っていたからというのもあるかもしれない。生魚や生ゴミとは違う、特別感のあるタバコの匂いは何だか落ち着くのだ。


その俺の言葉に、彼女は泣きそうな顔で笑う。いや、実際泣いていたのかもしれない。朝、まだ明かりの灯っていない暗がりの教室の中、小さくありがとうと微かに聞こえた。


彼女の瞳は、しっかりと前を向き始めていた。

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