田舎は嫌い、カメムシがいるから。
ピクルズジンジャー
◇
うわ、と葵の口から声がこぼれ落ちかけた。
キンモクセイの香りがたちこめ、手入れされた生垣に囲まれた小さな庭が望める、気持ちのよいカフェのテラス席──というよりもリフォームされた古民家の縁側──のテーブルの上を、平らな虫が這っている。黒くて五角形によく似たその虫は、葵がこの世で最も嫌悪する生き物に違いない。
カメムシだ。その姿かたち、鈍重そうな存在感。見間違えようもない。
白木の天板の上を這う視認した途端、踏みつぶした草の青さを一際強めたような悪臭と、子供の時に肌の上を這いまわられた時の感触が一気に蘇る。取り込まれた洗濯物に留まっていることを知らないまま身に着けてしまい、そんな目に遭ったのだ。この日以来、秋冬に天日干しした洗濯物はよく振ってから部屋の中に入れる習慣が葵には身についている。
棒立ちのまま座ろうとしない葵に気づいたのだろう。葵の母が一旦カウンターの中に引っ込んでから小走りで葵のそばに駆け寄る。その手には
「今取るから。どうしても、ホラ、この辺はねえ。緑が多いから」
要領を得ないことをつぶやきつつ、藤かごガムテープをテーブルを這う虫の上にそっと押し付ける。真上から来られてはなすすべもない虫を捕まえると、今度は虫を挟むように粘着面を折りたたんだ。
「知ってる」
母の態度は、カフェを訪ねた客にみせる店員のものではなかった。完全に、実家に立ち寄った娘に対する母親のそれだった。だから葵の態度もつられてしまい、ふくれながら椅子に座る。
昔は茶の間だった空間に設えられたカウンターへ戻ろうとしていた母が、葵の呟きを聞きとがめて振り返る。葵は母の方を見ず、テーブル下の藤かごにバッグを投げ入れる。
田舎が虫だらけなことぐらい、知ってる。嫌ってくらい。
心の中でだけ悪態をついている間に母が再びテーブルに近づき、水の入ったグラスを葵の前に置いた。北欧の家具が映えるようにリフォームされた内装によく似合う、機能美にあふれた小ぶりのグラスだ。身に着けている生成りのブラウスとデニムのボトムも、ナチュラルさと意識の高さを売りにしていることで有名なアパレルチェーンのものだ。ありふれているが、父親や祖父母がまだ生きていた頃、葵の記憶の中にいる母なら、この種のセンスの服は選ばない筈だった。思い切ったグレイのベリーショートも似合っていないこともなく、歳のわりに動作が機敏なせいか服装もあか抜けて見える。少なくとも、丁寧な暮らしを標榜するメディアに「古民家カフェの女性オーナー」として紹介される人物としての及第点は満たしている。
葵が渋々高めに点をつけてやったというのに、カウンターに入った母の態度はいただけない。
「ランチならまだ間に合うけど、それにする? グリーンカレーとエスニック風サラダだけど、あんたパクチー平気だったっけ?」
グリーンカレー? ここで? カフェで? しかも古民家を、よりにもよって私の実家を、リフォームしたこの、しゃらくさいカフェで? いつの時代?
眉間に皺を寄せている葵の動揺に気づいていないのか、それとも単に無視したのか。母は完全に、実家に立ち寄った娘に対する態度で問うてきた。かつては襖仕切られていた二間続きの座敷を潰し、無垢の板張りが輝く北欧風ナチュラルな店内には数組の客がまだいるにもかかわらず。
そういう所だ、という意味を込めて葵は慇懃にふるまった。
「パクチー抜きでお願いします」
「はーい。じゃあそれ食べて待ってて」
母は葵の意図を真面目に汲んだりはしなかった。佐和子さんの娘さん? と小声で訊ねた常連らしいカウンターの中年女性客に、おどけた表情でさっと目配せをしている。所用で実家を訪ねた不肖の娘だとでも伝えたのだろう。客の視線がさっと自分を一撫でするのを無視して、グラスの水を一口飲んだ。案の定ほのかにレモンの味がする。酸味より苦味を強く感じて、葵は顔をしかめた。
母の料理はそれなりに懐かしくはある。身内だからこそ厳しくも甘くもなる批評眼をぬきにしても、家庭料理の担い手としての不足はなかった。しかし母はエスニック料理が一般化する前に家庭に入った世代に属する。葵にとってもそれは外食かコンビニかレトルトの総菜としておなじみのメニューである。葵の知ってる母の手料理レパートリーにグリーンカレーは存在しない。
ということはつまり、母は葵が多忙を言い訳に盆暮れにも絶対に帰省しなかった間にグリーンカレーに親み、そしてレシピを習得したのだ。
そこから導き出された解を睨むかのように、葵は庭のキンモクセイをただ見つめる。母にグリーンカレーの味とレシピを教えた人物、それは
「ああそうだ。
カウンターにいる母から投げ込まれた一言は、細やかに波立つ葵の胸の内を容赦なく大きく揺らした。
そういう所だって言ってるのに! と叫びたいのをこらえてレモンの味がする冷水をあおおり、葵は母を睨んだ。ほどなくして母が愛想よく運んできたグリーンカレーとサラダのワンプレートランチを口に運びながら、すっかり様変わりした実家の中を改めて観察する。
初めてこの家を訪れた時に織子が感激した上座敷の床の間はそのままだが、かつて並べられていた人形や木彫りの民芸品は姿を消している。大きくて古くて怖かった仏壇は白いモダンな建具で隠されている。下座敷の片隅にあった古いカラオケセットなんか影も形もない。それでも所どころに葵がすごしていたころの実家の名残は消えずに残されている。まだ新鮮な白木の香りに、土壁や古い木材の匂いが混ざっているのがどうしようもなく懐かしい。頭では所詮ありふれた古民家カフェであり、もうとっくに自分の家ではなくなった場所だと分かっているのに。とはいえリフォームの陣頭指揮をとったであろう織子のことを考えると、どうしてもむしゃくしゃする。おそらく織子は相当張り切ったはずなのだ、緑豊かな場所で念願のお店を開くという夢を叶える現場にあたって。
感情に突き動かされながら、葵はグリーンカレーを口に運ぶ。腹が立つことになかなか本格的な味がする。すくなくとも学生時代に食べた無国籍カフェのものよりは美味しい。織子の料理の腕は同棲時代から落ちていないようなのが嬉しいやら憎たらしいやらで、やっぱり胸がざわつく。
葵が複雑な気持でスプーンと口を動かしている間に、先に来ていた客たちは会計を済ませる。ごちそうさま、また来ます、といった声に母は愛想よく応じながらレジを打って常連客らを見送った。「古民家カフェの女性オーナー」をそつなくこなしている様子を様々な思いをこめて見つめていると、母は照れたような笑顔をうかべつつ葵のテーブルに近づいた。
「がっつかないで、もっと味わって食べなさいよ、織ちゃんのレシピなんだから」
「残念だけどそんな暇ないの。今日はこっちの方に用事があったから来れただけ」
嘘はついていない。外食チェーンのエリアマネージャーは暇ではないのだ。だが、正面の席についた母はもの言いたそうに葵の顔を見つめる。あんたは本当に素直じゃないね、と言いたげな表情が眉間のあたりに浮かんでいる。そういう所、本当に全然変わらない、という苛立ちを押さえるために箸でパクチーの抜かれたサラダをつまむ。
「──で、大事な話って何?」
最短で切り込んだあと、ばりばりとサラダのレタスを咀嚼した。ナンプラーの風味がするドレッシングの味わいが悔しいが悪く無い。
「そう、それなんだけどね」
母も深刻そうな表情を浮かべ、葵をまっすぐに見つめた。知らない間に母はメイクの腕をあげていたようだが、間近でみると記憶の中の母より皺が増えている。当たり前だが、母は老いている。その事実を前にして、葵も箸を置き、聴く態勢を整えた。
大学進学と同時に家を出て二十年近くが経とうとしている。母も当然、その分年齢を重ねている。葵が中年と呼ばれる世代に属しているからには、母も高齢者と言われるグループに属しているのだ。その母から、いつになく真面目な様子で「どうしても話しておきたいことがある」という旨のメッセージを寄こされたから、昔のことは一旦水に流し、こうして時間をやりくりして来てやったのだ。葵は目にその思いを込める。おどけたりふざけたり、ごまかしたり、葵の気難しさをあげつらったりせずに真剣な話のみをせよ、と目で訴える。
葵の意志を汲んだように、母は小さく頷くと、真面目な表情のままで切り出した。
「あんた、この家を継ぐよね?」
「──は?」
眉間に皺がぎゅっと寄るのを、葵は感じないわけにはいかなかった。
「いや、継がないけど?」
「なんでよ? あんた本気でこっちに帰ってこないわけじゃないっていうの?」
あー……、と呻いて頭を抱えそうになる。とっくの昔──父がまだ生きていた社会人三年目の頃──に終わらせた筈の話を何故蒸し返したのは、母の意図を掴みかねたのだ。
「なんでまたその話……? 帰らないから。今はたまたまこっちにいるけど、そのうちまた別の所に行くから」
「はー、転勤だのなんだのあちこち飛ばされて。あんたのやってるお仕事って本当ワケわかんないわね」
そりゃあ分からないでしょうね。パートナーにおんぶにだっこで専業主婦から古民家カフェのオーナーになったお母さんには、と言いたいのを葵はぐっと飲み込んだ。
「何? 職業差別がしたくて呼んだわけ?」
機嫌の悪さが声に出たが、母はとんと意に介さない。
「そんな仕事、いつまでもやってられないでしょ? それに定年まで勤めたとして、あんたその後どうすんの? ひとりで寂しくあっちで過ごすっていうの?」
「あのさあ、お母さんには想像もつかないのかもしれないけれど、私にも人脈とか計画があるの。年取ったら孤独になるって、勝手に決めつけないでくれる?」
「へー! てことはあんた今、彼女がいるんだ? それともまさか彼氏? どんな子? 今度連れてきなさい」
「つれて来られるわけないでしょう!」
我慢の限界がきて葵はついに叫んだ。大げさなくらい目を丸くしている母に向けて、葵は感情のままに叫ぶ。
「どこの世界に、母親と昔の女が暮らしてる実家に現パートナーを連れてくるヤツがいるっていうの!?」
「なんだ。意外とみみっちいこと気にしてるのねぇ。あんたはもっとスケールの大きい子だと思ってたのに」
昔はあんだけあたしにも父さんにも啖呵切ってみせた子だったのに、やだやだ、角がとれちゃって。ぶつくさ呟きながら、母は大げさな仕草でため息をついてみせた。ホームドラマに登場するガサツな高年女性めいたその態度が、葵の逆鱗周辺を無遠慮に撫でる。織子が自分よりこの母、世間知らずで慣れた人間相手には口さがないおばさんを選んだという古傷に纏わる傷が焼けこげそうに痛む。
テーブルをひっくり返したくなる衝動をこらえつつ、葵は無理やり笑顔を浮かべた。見るもの全てに反抗していた不機嫌な娘も、社会に揉まれてある程度感情を切り替えられるようになったのである。
「で、なんで私を急に呼びつけたの? まさか、もう済んだ話を蒸し返すつもりだったとか?」
「済んだ話って何? 勝手に終わった話にしないでちょうだい」
母はまた大げさにむくれてみせる。口元が引きつりそうになるのを気にしながら、葵は念を押した。
「お母さんの言う大事な話ってつまり、この家の相続についてなのね? 一応訊くけど、病気だとか介護だとか、そういう話じゃないのね?」
「あら! あんたひょっとして、あたしの体の心配してくれてたのっ? 大丈夫よぉ、この前の検査もどこも引っかからなくて褒められたくらいなんだから。やっぱり幸せな生活って体にいいのねえ」
母は目じりを拭う小芝居まで加えながら、一気にまくしたてる。反抗的だった娘に心配されていたという事実に対する照れがお道化たそぶりに滲んでいたが、メッセージを受け取ってなるべく早く駆け付けた格好になる葵としてはたまったものではなかった。自分の貴重な時間を捨ててしまった悔いと、葬式以外では地元に帰るまいという固い決意を翻してしまった口惜しさ、どさくさにまぎれて母が口にした惚気へのムカつき、それら感情の渦は流石にもう手に負えない。
バッグを掴んでさっさと立ち去りたくなったが、テーブルに両肘をつき、下を向く額を支えて葵は訊ねた。
「この家を継ぐのは織子でしょう? どう考えたって」
なにからなにまですっかり織子のセンスに整えられた実家は、もう自分のものではない。この家の佇まいを愛した織子と、唐突に訪ねて娘の恋人だったという女を戸惑いつつ受け入れた母、二人が作り上げたものなのだから。皆まで言うのは癪だ、分かれ! という願いを込めた葵の言葉を、母はやっぱり軽々しく扱う。
「織ちゃんのためにはそうしたいんだけど、ほら、女同士で結婚できるまでまだ時間がかかりそうじゃない? となると、あたしの死んだ後が不安でねえ」
「お母さんが生きてる間に結婚できないとか、まだ決まったわけじゃないじゃない? それに、養子縁組とか、遺言書に書いておくおくとか、方法は何かあるでしょ? とにかく、私は別にこの家もうちの土地も要らないから、全部織子に遺すようにしてよ。なんなら今、一筆書こうか?」
葵はようよう絞りだした低い声で母に伝えた。うつむいたままテーブルの白い天板を見つめると、古傷がじくじく痛んでくる。自分よりも、自分の地元であるこの田舎とこの家と、よりにもよってこんな母を選んだ織子への恨み言が噴き出しそうになる。そして織子が将来的には街を捨てて、緑豊かで食べ物がおいしい土地でカフェを開くという夢に対して何より真摯だったことを知っていたのに、気づかないふりをして暮らしていた過去の自分の不甲斐なさも蘇る。
盆の帰省に連れて帰った際、絵にかいたような田園風景と木造の古民家の集落に歓声をあげ、庭の畑で母が育てたスイカやトウモロコシに歓声をあげていた在りし日の織子は、顔を輝かせて葵に言ったのだ。
「あたしも将来、こういう所で暮らしたい。空気と水が奇麗な所で美味しいものを作って、そして葵と二人でずっと過ごすの」
えーやだ、こんな所ちっともよくないよ。つうか、ここから出ていくために死ぬ気で勉強していた私の努力はどうなるの? 等、あの時の葵は憎まれ口を叩き、その時の会話を冗談で終わらせた。都会で育った織子の目には、夏の田園風景が眩しく映っているだけだ、本当の田舎の実態を知れば絶対嫌気がさすはずだ。二人一緒に暮らしていた頃はずっと、葵は織子の夢を軽んじていて一度も本気にしなかった。自分が社会に揉まれている間、織子は勉強して知識を身につけ、葵の地元を度々訪れ、父が他界して独り暮らしになり無駄に広い家を持て余した母と交流を深め、リフォームしてカフェを開く計画をたてていた時でさえ、見ないふりをしていた。
「葵には何も相談しなかったの、悪いと思ってるけど」
本当に申し訳なく思ってるのか? と疑いたくなるようなきっぱりした態度で織子は、自分と一緒に田舎でカフェをやってほしいと頭を下げたのだ。
あの当時の葵は仕事に忙殺されていた。心も体も限界だった。本当のことを言うと、織子の提案に乗るのも少しはアリだと思っていた。大嫌いでも地元の空気には慣れている。あそこで少しすごせばきっと体も心も楽になる。そして何より、織子が私とずっと一緒にいたいと言ってくれている。あの時、はい、と織子を受け入れるのは今思い出してもなんら難しい作業ではなかったのだ。なのにあの時、無言で数分考えた後にこう答えていた。
「田舎は嫌い、カメムシがいるから」
今思い出しても、プロポーズの返事としては最悪なセリフだった。その点は葵も反省している。
しかし、最悪なセリフでその後の人生を共に過ごそうという提案を断られた織子の方も、よりにもよって恋人だった女の母親と関係を持って今に至るのだから、受けたダメージの方は絶対大きい。女にフラれた女は星の数くらいいる筈だけど、母親──それも田舎のありふれたおばちゃん──に好きな女を取られた惨めな女なんて、この世にそうそういてたまるか。
俯いている間に、母が椅子から立った気配がした。とっとっ、とカウンターまで歩いて戻ってくる。カチャカチャと食器が触れ合うような音が聞こえるあたりから、何か持って運んできたのだと見当をつける。
母が運んできたのは二つのグラスと、冷えたお茶の入ったポットだった。葵と自分の前にグラスを置くと、母は黙って茶を注ぐ。古傷の痛みに苛まれている自分に愛想がつきかけた頃合いで葵は顔をあげ、無言で母の淹れたお茶を飲んだ。すっきりとしたハーブティーだ。織子好みの味わいだ。鼻の奥がツンとしてしまう。
「……本当、マジでムカつく……」
「やあねえ、未だにそんな風になるくらいなんだったら、やっぱりあんたは織ちゃんと一緒になった方がいいのよ」
母はぷいと目を背け、芝居がかった蓮っ葉な口調で言ってのけた。
「あたしねえ、織ちゃんとこうなってから思うのよ。あたしが父さんと出会ってこの家に入ったのは、最終的にあんたと織ちゃんをこの家で暮らすお膳立てをするためだったんじゃないかって」
「──はいぃ?」
物憂い雰囲気で曖昧な言葉を口にされ、葵の感傷は一気に吹き飛ぶ。ついでに涙も引っ込む。
「ホラ、歳とったからあたしも、なんでこの世に生まれたのかーとか、自分の生涯の仕事はなんだったのかーって思うわけよ。でさ、あんたと違ってあたしは、夢なんてものもなかったし、仕事らしい仕事なんてしてないじゃない? 父さんや畑の世話ばっかでさ。今は楽しくやってるけど、織ちゃんの人生に便乗してるようなもんだし」
自覚あったんだ、と冷たいハーブティーを口にしながら葵は小さく驚いた。庭を見つめたまま、母はつぶやく。
「だからさあ、あたしこの世に生まれた意味なんてものを考えた時に、気づいたのよ。ああ、あんたと織ちゃんをこの家に暮らさせるためだって。元々ヨソから嫁に来たあたし一人生き残ったのも、そういうワケだって。家があたしをそういう役割に選んだったって、ピンと来たのよ」
言っているうちにテンションが上がってきたのか、母はむくれた葵の方を向き、徐々にテンションを上げつつ口走る。ついていけないのは葵の方である。母が何かしらの天啓を受けたらしいことは辛うじてわかるが、目のきらめき具合に不安をかきたてられるばかりだ。それでもなんとか要点をまとめる。
「つまり、お母さんはこう言いたいんだ? 織子と私が将来一緒に暮らす為に、自分はこの家に活かされているとか、そういうスピったことをさぁ」
スピるって何? きょとんとした母が疑問を口にしていたが、葵は無視した。徐々に腹がたってきたからだ。
「だから急に、私に家を継げとか、そんなことを言いだしたんだ?」
「んー、まあ、縮めるとそうなるかな? やっぱあたしは元々嫁で、この家の人間じゃないしねー」
あははー、と軽く笑う母を前に葵は徐々に怒りのボルテージをあげてゆく。どうやら母が本気でそう信じているらしいことへの怒りが、古傷をじりじり焙って燃え立たせる。
なんだそれ? 何言ってるんだこの女は? 私から織子を奪っておいて、自分から死んだら返すとかぬかしてるのか? ナメてるのか? どういん心境でこんなこと口走ってるんだ?
まるでこの家が、田舎にまだまだいくらでもあるこの古い家が、意志でも持ってるかのように。自分がその意志を伝えるだけの存在みたいなことを軽々と。
ミントとカモミールの味がすることしかわからないハーブティーを一気にあおり、葵はそのまま立ち上がり、母をその場に置いたまま早足で玄関に向かう。
今度会う時はきっとしみじみと余韻深いものになるだろう、というかつての予感を自分から台無しにしながら、葵はかつての恋人の名を呼んだ。
「織子ぉぉぉー!」
呼ぶというより吠えていた。そこでようやく、日よけの帽子とスウェットとジャージのズボンというかつての母を思わせるどんくさいコーディネートで作業をしていた中年の女、織子は振り返る。細いが華奢ではない体躯はそのままだったが、農作業中ではどんな後ろ姿もずんぐりして見える。
意志と同じくらい強かった眼差しはそのままに、目を多きく開いている。昔の女が目の前に突然現れた驚きに理解が付いてこないらしく、口を小さく閉会させた。葵、と名前を呼んだらしい。
久しぶり、元気そうだね、といった前置きを抜きにして葵は怒鳴った。
「お母さん寂しがらせてんじゃねえよ! 私のこと捨てておいてっ」
「はあ、うん」
葵に倒置法で怒鳴られて、織子も理解が及ばなかったらしい。ゆっくり立ち上がってから首をかしげて、化粧気のない顔に愛想笑いをうかべた。
「ごめん、私、葵が何を言おうとしてるのか分からない」
「だからあっ、あんた私よりお母さんを選んだからには、大事にしてよって言ってんの! 死んだら私に家を継がせて、もう一回あんたと暮らせばいいとか、そんな寂しい事言わせんなって言ってんのっ!」
頭の中をもうちょっと整理してから話せ、と普段なら指摘する側の自分が、沸き立つ感情のまま思いをぶちまけているみっともなさを葵は徐々に自覚する。落ち着きを取り戻しつつも、一度ぶちまけてしまったものはどうしようもない。ヤケになって最後まで言い切った。
「お母さんとこの家を選んだのは織子なんだから、織子がどっちも最後まで責任持ってよって、私はこっちに戻ってくる予定は一つもないから!」
化粧気のない織子の表情に笑みが浮かぶ。苦笑いと呼ばれる類のものだけど、普段の暮らしの幸せぶりがうかがえるものだった。毒気がぬかれてゆく葵の前で、織子は記憶と変わらない柔らかい声で訊ねた。
「ひょっとして、佐和子さんが変なこと言ったりした?」
「言ったよ。自分は私と織子を一緒にするために生まれたんじゃないかって気がするとか、だいぶ宗教じみたことを言ってたよ」
怒った反動の決まり悪さから、悪態をつくのと同じ口ぶりで葵は言った。
「本当にさあ、勘弁してよ……。あんなこと親から言われる身にもなってよ……」
それほど乱れてもいない髪を撫でつけながら、葵はただ格好をつけるためだけに言葉を口にした。
「この家もお母さんも、あんたが面倒みるんだからね!」
「言われなくても、そのつもりだったけど?」
やんわりと笑みを浮かべて、織る子はぬけぬけとそう言う。
「ていうか、葵ちゃんがもし『家とお母さんを返して!』って言った時どうしよう、どんな風に対応しようって心配してたくらいなんだけど」
そっかあ、もうそういう心配しなくていいんだ~、とまるで人ごとのように喜んで、織子は農作物と向き合った。織子の言葉を頭の中で反芻しながら葵は、感情を高ぶらせた反動でその場にしゃがみこむ。
一人だけ馬鹿を見た心地になりながら、葵はその場で呟いた。
「一応言っとくけど、私はそれなりに元気だからね?」
「うん。さっきの声でよくわかった。つきあってる人とかいる?」
「……たまにデートとかする子なら、いる……」
素直に白状すると織子は、良かったぁ、と付け足した。それがあまりに嬉しそうだったから、葵の胸がかあっと熱くなった。傷口に消毒液を駆けられた時のような、清潔な痛さだった。
気を抜いた瞬間、葵の耳元で不穏な気配がした。ぶうん、と唸る虫の羽音も聞こえてとっさに立ち上がり、数歩の後退る。視界の隅から外へ、重たげに飛んで行く虫の姿をと捕え、思わずその場に硬直する。
カメムシだ、カメムシだった。よりにもよって、こんな時に。
「そういえばさあ」
織子も飛び去る虫に気づいたらしく、それを目で追いながら、世間話のような調子で続けた。
「最近はカメムシ除けのいい薬も、ドラストとかに置いてあるよ? おすすめ教えてあげようか?」
「いや、そこはハーブとかハッカ油で虫よけしなよ。古民家でカフェやってるんだから」
硬直がとけた葵が口惜しさから憎まれ口をたたいても、織子は楽しそうに笑うだけだった。
田舎は嫌い、カメムシがいるから。 ピクルズジンジャー @amenotou
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